お坊さんになりたいと願われて得度(とくど)された方々が、僧侶の必携の五鈷(ごご)や洒水器(しゃすいき)等が高価なので驚いておられます。
法主さんの「鳴り五鈷(なりごご)」は大変に高価なものですが、あの法具は信徒さんが寄進されたもので、自ら求められた物ではありません。
お坊さんになっても、衆望が無いと、寄進して下さる人が出て来ないということで、つまりは自分で求めることになります。已む得ぬことです。
実は法主さんの着ておられる法衣は黄色ですね。あれは僧侶の死に装束なのです。住職を譲られて以来、法主さんは何時も死に装束で過ごしておられて、こんな覚悟は皆さんご存知の無いことです。ついでながら、お四国八十八ヶ所巡りの白装束、あれも実は死に装束なのです。何時行き倒れても良いという「覚悟」で着るものです。
最近、霊場巡りがまた流行っていますが、死を賭(と)して、生まれ変わるという覚悟は、大袈裟ですね。傷付きやストレスの癒しでも結構です。
お数珠も、沈香とか星月菩提樹とかいろいろありますが、法主さんの数珠は黒光りしてまるで沈香のようですが、七歳で得度されて以来、塗香(ずこう)が染み込んで、かつ一度も数珠を切られたことがありません。輪袈裟(わげさ)なんて六十年物です。これだけ使い込んであると、爽やかですね。
お数珠は、星月菩提樹、金剛菩提樹、白檀、沈香、伽羅など、五十万円位から上は際限がありません。ダイヤモンドで数珠を誂えてもらわれたお弟子さんは限度が過ぎると破門にされました。
ほどほどの物、せいぜい白檀、沈香くらいにしておかれるのが無難です。因みに、法主さんも信徒さんから寄進された沈香の数珠はお持ちですが、寺の什器(じゅうき)です。
み仏さまに造花を供えるのは違反ではありません。常花は金箔張りの蓮ですし、蓮やら石榴など美しく彩色されたものが観音院にも供えてあります。
日本の華道はみ仏さまに供える様式を基本として今日があります。供花は難しく考えないで、一番上に天蓋(てんがい)、次にみ仏さまの顔、両肩、両手、両膝、そして蓮台となるよう、花弁を置くと申し分ありません。華道の極意です。観音院では供花は「花菩薩さま」を表すように活けるよう指導されていて、かつ自然な投げ入れが基本です。
お灯明も、常夜灯も、お供えも全てがみ仏さまと観じるのが正しいと法主さんは言われます。
金襴の内敷はみ仏さまの裾、一緒に読経して下さる僧侶もみ仏さま、法要に参列された人々の全てがみ仏さまです。
法主さんは観念と言うことを大切にしておられます。
全てのものを菩薩如来と観じられる法主さんにとっては、ご自分もみ仏さまの仲間入りです。このように観じると、相互礼拝(らいはい)、相互供養と言うことが具体的になって来ます。枕経(まくらぎょう)、通夜(つや)、葬儀の際に僧侶の前に安置されたご遺体は、当然、み仏さまです。
何も難しく考えず、例えば、新幹線で隣に座り合わせた人、運転士も車掌さんも、お弁当を売っておられる人も、全てが、み仏さまと観じて生きて行けば、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見の「十善戒」は、最低限の礼儀作法です。
全てのものをみ仏さまと思う時に、人や物などを粗末にすることは、殺生に該当することになります。
ご自分から遠ざかる人はご縁が無いと思うのは皆さんの勝手ですが、本当にご縁が無いような人がこの世におられるとは信じられません。善悪を軽々しく決め付ける、観音院はそのような寺になって欲しくないと法主さんは強烈に望んでおられます。