行基大徳が怨みを見抜いて霊異を示した話

 「日本霊異記」より
行基大徳(ぎょうきだいとく・六六八–七四九)は難波の入江を堀り拡げて船着場をつくり、道俗(どうぞく・僧と在家)をとわず、仏法を説いて教化(きょうけ)につとめていた。

 その日も、河内国の若江の里で大勢の人が集まり、行基大徳は法を説いていた。その聴衆のなかに子どもを連れた一人の女人(にょにん)がいた。
 ところが説教の間じゅう、その子があらんかぎりに大声をはりあげ、泣きむずかって、大徳の説法に熱心に耳を傾けている聴衆みんなの顰蹙(ひんしゅく)をかうこととなった。
 見れば、その子はすでに十歳くらいなのに、しきりにまだ母親の乳や食べ物をねだって、あたりかまわず泣きわめくのをやめようとしなかった。
 そのときである。行基大徳が物静かに女人に声をかけた。
「これよ、そこの嬢(おみな)、あんたが連れているその子を、いますぐここから連れ出して、大和川の淵に捨ててきなさるがよい」
 これを聞いた聴衆は一様におどろいた。
「いくら聞き分けのない憎たらしげな子とはいえ、いつも慈悲深い和尚様が、どんな深い理由があって、そのような乱暴なことをおっしゃるのか」と、ひそひそ囁き合った。
 思ってもみない無情な言辞を大徳からあびせられた女人は、ますますしっかりと子を胸元にかき抱き、それでもそのまま最後まで説法を聞いて帰った。
 そして翌日、またもや女人がその子を連れて説法場に姿を現した。
 眉をひそめて迎える聴衆に応えるように案の定、子どもは昨日にも増して、かまびすしく泣きわめいた。そのやかましさに妨げられて、せっかくの法話も十分に聞き取ることができず、一同の迷惑このうえない。
 そのとき、行基大徳が女人に強い視線をあて、声をはげまして大喝(かつ)した。
「その子を淵に投げ捨ててこよ!」と、昨日の言葉を重ねてくり返した。
 女人は、大徳の真意がいずれにあるのか、よく分からないながらも、子のあまりなやんちゃに我慢がならなかったのか、無我夢中で表へ出ると、言われたとおり淵へ投げ込んだのである。
 すると、子どもは川のなかからぽっかり浮き上がり、水面をバシャバシャたたきながら、目を大きく怒らせて、憎々しげに捨てぜりふを吐いた。
「なんとも無念である。これから先、さらに三年間、気の済むまで汝を責め苛(さいな)んで、とことん絞り尽くしてやろうと思っていたのに・・・・・・」と。
 女人には、それがどういった意味なのか、まったく理解できなかったが、とりあえず大徳の言いつけどおり事を果たしおえたので、ふたたび説法場に引き返した。
 ぼんやりと心ここにあらずといった表情で立ち現れた女人に、「いかがした、首尾よくあの子どもを淵に投げ捨てることができたか?」と大徳が訊ねるのへ、女人はそのときの情況を逐一話した。

 行基大徳は女人の話を目を細めて「ふん、ふん」とうなずきながら聞き取り、そして言った。
「よいか。あんたは先の世において、あの男から物を借りたまま返済せずに死んでしまったため、男があの子どもに姿を変えて、その負債の元本と積み重なった利息の分をも責め取ってやろうと、あんたにとり憑(つ)いた、つまり、あれは、前世(ぜんせ)におけるあんたの貸し主だったのだ」と。
 心すべきはかくのごとく、人から借りた分を返済しないで、どうして勝手に死ぬことができよう。
 後の世にかならずその報いがあるものである。
 出曜経にいわく、
「他人から銭一文だけの値(あたい)の塩を借りて返さないばかりに、次の世において牛に生まれ堕ち、重たい塩袋を背負って毎日追い使われ、貸し主に労働力によって返済しなければならない」というのは、けだしこういう意味のことであろうか。

日本霊異記と行基さん

ご隠居 この佛教談義において、日本霊異記からその都度いろんな物語を抜粋して、取り上げて紹介してきたので、寅さんも、この書物の言わんとしているだいたいの思想はほぼ掴んでいるとおもう。

寅さん 物語の中核をなしているのは、「悪いこと」をしたら、必ずその「報い」があるということですか?

ご隠居 もちろん根底にある思想はそのとおりだが、もうひとつ、日本霊異記は、佛教が我が国に浸透していったその時の「霊異」をさまざまなかたちで描こうという意識がはたらいているのではなかろうか。
 その頃は社会に四苦八苦が満ち、庶民は常に死や病、貧困や不平等、恐怖におののいていた。
 この日本霊異記は、詳しくは、日本国現報善悪霊異記といわれ、平安時代初期のころに成立した日本最古の「佛教説話集」とされ、雄略天皇から嵯峨天皇のころまでの、朝野の異聞をはじめ、因果応報などに関する説話など、ざっと三百五十年間にわたる説話が収録されている。

寅さん 著者は誰でしたっけ?

ご隠居 薬師寺の景戒(きょうかい)という僧だ。ただし正確にいうと、景戒さんは著者ではなくて撰述者、つまり方々から伝説口碑(言い伝え)を拾い蒐(あつ)め、それを一冊の本に編集した人というのが正しいだろう。
 日本霊異記は、この本の性格上当然のことながら、たくさんの僧侶が物語のなかにいろんなかたちで登場する。
 今号で紹介した行基さんもそのうちの一人、というよりもむしろレギュラーといってよいほどの頻度でその姿を現す。

「行基大徳、天眼(てんげん)を放ち、女人の頭に猪の油を塗れるを視て、呵責する縁」であるとか、また「三宝を信敬し、現報(げんぽう・現世に業因を造って現世に受ける報い)を得る縁」の章では、聖武天皇の代における行基の活躍について語られ、多くの寺が造られ、仏が作られた。その中心人物が行基であり、行基は文殊菩薩の生まれ変わりであるとさえ言っている。

寅さん つまり景戒さんは、行基さんが大好きで、尊敬していた?

ご隠居 まず間違いないだろう。
 まだ若いころ、行基さんも薬師寺の僧であったそうだから景戒さんの先輩ということになる。彼はそこで唯識論(法相宗)を学んだ。
 そしてたちまちにして唯識論を悟った行基さんは、すぐにそれを実践に移した。
 そのような行基さんのもとへ、彼に帰依(きえ)した人々が集まって俗に行基集団なるものが形成され、民衆のために橋を架け、道を拓き、多くの寺が建立(こんりゅう)されたという。
 それ以前の佛教は、あくまでも貴族のためのものであって、僧侶も国家や貴族の庇護のもと、その貴族佛教としての性格を脱却できなかった。
 しかし、大乗佛教というものは本来、「菩薩の行い」、あまねく「民衆の救済」にあるわけだから行基さんの行動はまさに、貴族の占有物となっていた佛教を民衆の側に取り戻した、というわけだ。

「小僧」から「大僧正」へ

寅さん 行基さんというのは、だいたいいつ頃の人ですか?

ご隠居 天智七(六六八)年、和泉の国の生まれとされている。
 ただし、この人が僧として布教活動を始めた最初のころは、かならずしも順風満帆というわけにはいかなかった。いやむしろ、彼の活動が活発で目立てば目立つほど町や村の秩序を取り締まる役人たちにとって、目障り極まる存在であったらしい。
 ここに、その行基のことについて書かれた「続日本紀(しょくにほんぎ)」の記事がある。これは養老元年(七一七)に出された詔書(みことのり)だから、すでに彼は五十に近い年齢なわけだ。

 —- 凡そ僧尼は寺家に寂居して教を受け、道を伝ふ。令に准ずるに云く、其の乞食(こつじき)する者あらば、三綱(さんごう)連署して、午より前に鉢を捧げて、告げ乞へ。此に因りて更に余物を乞ふを得ざれ、と。
 方今、「小僧行基」並びに弟子等、街衢に零畳して妄りに罪福を説き、朋党を合せ構へて指臂を焚き剥(は)ぎ、歴門仮説して強ひて余物を乞ひ、詐りて聖道と称して百姓を妖惑し、道俗擾乱して四民業を棄つ。 —-

寅さん 非常に難解ですが、そもそもこの「続日本紀」とは?

ご隠居 奈良時代から平安時代に編集された日本の正史のうちの一書で、「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「文徳実録」「三代実録」を総称して六国史という。
 さて、ここに書かれている内容だが、およそ僧尼は寺に静かに住して修行するものだ。

 僧尼令(りょう)の規則によれば、托鉢は午前のうちに済ませてしまい、それより以後乞食(こつじき)してはならぬはずであるが— 。
 近頃あろうことか、どこの馬の骨とも定かでない行基という小僧と弟子が、我が物顔に町辻にあふれてこれと目星をつけた家の門を叩いて物をもらい、百姓を惑わして農事の意欲を喪失させ、著しく社会の秩序を乱している。まことに けしからん所業(しょぎょう)である、と。
 このように、行基さんは多くの人々に崇敬(すうけい)され、民衆の圧倒的支持を得ていたが、反面、時の政府筋には要注意人物としてマークされ、目の敵にされていたわけだ。
 ところが、それからほぼ三十年後、突然に行基さんは「大僧正」として「続日本紀」に登場する。「小僧」から「大僧正」となった彼の身にどのような変化が生じたのか、天平勝宝元年(七四九)の行基の「卒伝(そつでん)」を見てみよう。

 —-二月丁酉。「大僧正行基」和尚遷化(せんげ)す。和尚は薬師寺の僧なり。俗姓は高志(こし)氏和泉国の人なり。和尚は真粋天梃にして徳範夙(つと)に彰はる。
 初め出家せしとき瑜伽唯識論を読みて即ち其の意を了しぬ。既にして都鄙(とひ)に周遊して衆生を教化(きょうけ)す。道俗化(け)を慕ひて追従する者、動(やや)もすれば千を以(もち)て数ふ。行く処、和尚の来るを聞けば巷(ちまた)に居る人なく、争ひ来たりて礼拝す。
 器に随ひて誘導し、咸(ことごと)く善に趣かしむ。また親(みずか)ら弟子等を率いて諸(もろもろ)の要害の処に於て橋を造り陂(つつみ)を築く。聞見の及ぶ所、悉く来りて功を加へ不日にして成る。百姓今に至るまで其の利を蒙れり。
 豊桜彦天皇甚だ敬重したまふ。詔(みことのり)して大僧正の位を授け並びに四百人の出家を施す。
 和尚、霊異神験、類を触れて多し。時の人号して行基菩薩と曰ふ。
 留止(るし)する処に皆道場を建つ。その畿内に凡そ四十九処、諸道にもまた往々して在り。弟子相継ぎて皆遺法を守り今に至るまで住持す。薨ずる時、年八十。

大仏開眼と行基 

ご隠居 わずか三十年ばかりの間に、なぜ、これほどまでに行基さんの評価が大きく変化したのだろうか? 三十年前までの行基は、あやしげな言辞を弄して百姓たちをたぶらかす、どうしようもない不良な「小僧」だったはずなのに一転して、こんどは「大僧正」と奉られている。「卒伝」はいう。
 行基は都にかぎらず、どんな辺鄙なところにまで、労を厭わず出かけていって佛教を説き、民衆を教化した。そんな彼の徳を慕い、現代風にいうと、いわゆる行基の「追っかけ」がわんさと詰めかけ、
 —-行く処和尚の来るを聞けば巷に居る人なく、争い来りて礼拝すというくだりの文章は、私たち年代の人間には、なぜかNHKラジオの放送劇「君の名は」が思い浮かぶ。

寅さん なんでまた?

ご隠居 「君の名は」というのはお互い好意をもつ氏家真知子と後宮春樹という主人公のすれちがい劇で、なかなか愛する二人は会うことができない。そのもどかしさがハッピーエンドをねがう多くの女性を熱狂させ、紅涙をしぼった。
 その結果、「君の名は」の放送時間、たしか午後八時だったと思うが、その時間日本中の銭湯の女湯はどこもガラガラになった。

寅さん 「君の名は」と女湯の因果関係は?

ご隠居 昭和二十年代の日本は総じてまだ貧しく、内湯を持たない大半の人はお風呂屋さんの厄介になっていた。ここまでいえば寅さんもおおよそ察しがつくだろう?

寅さん その時間、大方の女性がラジオにかじりつき、洗面道具を持って風呂屋に行かなかった。

ご隠居 ご明察。行基和尚が説法する場所には雲霞のごとく人が群がり、そのかわり町の通りは人影がぱったり絶えてしまう。
 この空疎な町のたたずまいが、どこか「君の名は」にお客をさらわれた、あの頃の銭湯の悲哀に通じるではないか。
 ただこれは、あくまでも当時の純朴な社会的現象を言ったまでで、何か他意があって、行基さんと彼に教化された民衆を揶揄(やゆ)するつもりなど決してないから、念の為。
 とにかく、民衆の圧倒的な人気を背景にして活動する行基を、お上(かみ)はどうすることもできなかったが、やがてそのお上の方針が百八十度転換する。つまり行基は、僧尼令違反の民衆を惑わす僧から「民衆を救う僧」へと一変したわけだ。
 これはもちろん彼の変化ではなく、お上の変化だ。とくに、天皇在位のままで出家した聖武天皇の誓願「大仏開眼」という大事業に、行基さんの援助が、何よりも必要だった、ということだろうか。