稲作と仏教

季節は初秋を迎え、スポーツや読書など、何をするのにも適した気候になってきます。
 今年は猛暑、うだるような残暑も終わり、夏の間に落ちていた食欲も戻ってくることでしょう。虫の音に耳を傾け、心穏やかに過ごすのにもいいかもしれません。

 秋は収穫の時期でもあります。お米を生産している農家の人たちにとっては、最も忙しい期間であるといえるでしょう。

 仏教では、出家、聖職者である僧侶は、耕作などの一切の生産活動(商業活動や福祉活動も含む)を禁止されていました。
 今でも、上座仏教(じょうざ、上座部ともいわれる)が根付いているスリランカやタイなどでは、多くの僧侶が托鉢(たくはつ)などで得る寄進(きしん)喜捨(きしゃ)で生活を賄っています。
 僧侶や寺院にお布施することで、徳を積むことが出来ると、自然に考えている熱心な信者が多いとされています。

 日本の稲作の起源は、縄文時代末期頃に中国から技術が伝わってきたのが始まりとされています。
 稲作文化の渡来ルートも、中国北部から朝鮮を経てきた九州に伝わったとされる北方説、中国南部から奄美諸島を経て九州に伝わったとされる南方説、中国中部の江南地方の民族が北九州に移住して稲作を伝えたとする説など、諸説あります。
 温暖な気候の日本に、稲作は急激に広がっていきました。瑞穂の国といわれるゆえんです。
 現在では、日本の販売農家の中で、約九割が稲作農家だとされています。また、日本全土の総耕地面積の約四割が稲作水田であるとされています。
 また、大和朝廷の時代から、お米は貨幣の代わりに経済を支える中心的な役割を担ってきました。国に納める税もお米でした。どれだけ多くのお米を生産し、所有できるかが富を象徴していました。稲作にまつわる祭事や儀礼、伝統芸能は、現在でも各地で行われています。
 このように、稲作は、日本人の生活や文化に無くてはならない存在になってきました。

 お大師さま、弘法大師空海(七七四-八三五)が活躍された奈良平安時代は、日本では墾田永年私財法(七四三年)が制定され、丁度、荘園制度が始まった頃にあたり、貴族や寺社による墾田が盛んに行われていました。
 当時は、現在のように高度な治水の技術も無く、日照りが続けば水田は枯渇し、それにより、度々飢饉(ききん)が発生していました。困窮する民衆のために、真言密教の僧や修験道の修行者たちは、加持祈祷(かじきとう)によって雨を降らしたと言われています。
 弘法大師は、加持力以外にも、治水などの土木建築技術においても秀でておられました。
 その中でも有名なものに、讃岐国(現在の香川県)の「満濃池」の修築があります。
 満濃池は、現在でも灌漑用の溜池として日本最大の規模を誇っています。また、今昔物語の中でも、竜王が棲(す)む池として語られています。
 讃岐地方は、温暖で降雨量の少ない瀬戸内地方の中でも更に雨の少ない地域として知られています。しかも、平野に傾斜があるため、地形的にも雨水が留まりにくく、また、大雨の際には洪水が起こりやすい状態であるされています。稲作をするうえで、溜池の存在は有り難く必要不可欠であったといえるでしょう。
 お大師さまが政府から満濃池の築造を依頼される前には、政府の役人たちの手によって何度か築池が試みられたのですが、その都度、人夫の不足などにより失敗に終わったようです。
 政府の要請に応え、お大師さまは沙弥(しゃみ・少年僧)一人と童子(まだ得度剃髪をしていない奉仕の少年)四人を従え、築池使別当として讃岐国に来られました。
 地元の豪族、佐伯氏の出身である彼の下には、築池の人夫をするために多くの農夫たちが慕い集い、僅か三ヵ月足らずで溜池を完成させました。
 その際に使われた土木技術には、アーチ状堤防や余水吐、水たたきなど、現代にも通じるものがあったとのことです。満濃池のおかげで、讃岐の農民たちは稲作をする上で、代々にわたり多大な恩恵を受けたことでしょう。

 現在、日本の稲作農家はWTO(世界貿易機関)の農業協定によるコメ輸入自由化問題に伴い、存続の危機に立たされる可能性があります。牛肉や他の農作物とは異なり、今のところ関税化の例外措置として輸入数量制限を行っているのが現状ですが、海外からの圧力で関税の引き下げを迫られています。減反政策の続く中、コメの輸入を自由化することで、食料自給率を更に低下させる危険性があります。
 日本の文化、そして多くの仏教徒たちの生活を支えてきた稲作、コメ作りを、改めて考え直してみる時なのかもしれません。
 我々個人の問題意識しだいにより、仏教と同様に渡来してきた稲作文化の未来を大きく左右することになるでしょう。先達方が築いてきた日本の伝統文化を大切に保存し、子孫たちに伝えていくのも私たちに課せられた義務なのではないでしょうか。