全ての人は心の中に善い心の動きと悪い心の動きをもっています。善人と評価されている人が間違いを犯したり、頑是無い子供が言語に絶する恐ろしい行為を働きます。自分の子供が、自分の親が、兄弟や親しい友人やその関係者がテレビや週刊誌に取り沙汰されて自分が信じられないような出来事が起きます。自分の過去を反省すると、人間という高度な文明の中に住みながら、厳密に悪事を一切働いていないと言える人がおられるでしょうか。人は信念があって生きていますが、その信念は真に弱いもので、他人に石を投げつけられる資格のある人は一人も存在しません。
(法主さまのお話を田川純照が筆記)
衝動的に行動しないこと
頭が真っ白になったとか、頭が真っ白でと衝動的に行動して責任を問われている人は沢山おられます。
何も考えることが出来なくなる。そのような時に不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、「不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見」が頭の中にあれば」その時パニックなような状態であっても、頭は真っ白になりません。
自己を忘れそうになった時に十善戒を日常お唱えしていれば、過つ可能性は皆無に近くなります。
間違いを犯す、殺人、暴行、拉致など、何れも道徳の問題ではなくて最悪の犯罪として処罰されます。殺生なことをしてはならないと言うほど簡単な問題ではありません。死ぬとは思ってもいなかった、弁解としては絶対に通用しません。他人を叩いたり蹴ったりする、あるいは刃物で傷付けた場合にどの程度で人が死に至るか、その見極めが付かない。礼に始まり礼で終わる日本の柔道、剣道、空手などは、してはならない禁じ手が定めてあります。
最近、柔道を警察官から習っている子供さんと話したことがありますが、行儀が良くて、はきはきしておられる。警察も治安までに終わらず、子供たちともっと関わって欲しいと感じたような次第です。
怨嗟の中にも倫理は必要で、他人に憎悪の意識が芽生えても、相手を殺したいなどと考えてはなりません。
例えば国家レベルで言えば自衛隊は良い、戦争で大砲や鉄砲を撃ってはならないと言うことです。テロは怖いですね、これも戦争と同じ殺生です。
本当に願いたいのは「武器よさらば」の世界ですが、ミサイルやら核爆弾など、拡散を防ごうとしても持ってしまえばインドもパキスタンも既成事実として核保有国になれるのは変です。日本は非核三原則を国是としてすますが、安保条約を結んでいる米国は最大の核保有国で、日本はこの核の傘の下で平和であるのは、とても矛盾しています。
自衛隊を動乱下にあるイランに派遣する、自衛隊の皆さんも必要最小限の武器は当然に持参しますので、自分の生命に関わるような事態が起きると、反射的に防衛して良い筈です。
武器の使用は防衛であれ威嚇であれ、正当防衛でも殺生に該当します。憲法を改定しても、法律で存在の法律的矛盾を片付けても、殺生は殺生です。
考えてみると、軍隊をもたない国家が何処かにあるでしょうか。伝統的仏教の場合、叡山にも根来寺も僧兵で寺を守ったことがありました。宗教はしばしば武装していた歴史があります。
人が人を殺傷する行為は全て殺生で死刑制度も殺生です。今日も死刑の判決がありました。死刑の判決で幼い子供さんを殺された親御さんたちの気持が多少は癒されるかもしれません。
本当は死刑で報復が終わったとは考え難いと思います。被害者家族の辛い思いは百年くらいは続くと思います。
イラクがテロ国家とされて、北朝鮮の核保有と拉致問題を考えると、この国は第二次大戦前の富国強兵の東亜共栄圏を建設すると称して海外派兵した日本と良く似ている点が沢山あります。
国連は平和の仕組として機能し、信用されているか疑問です。テロリストと民間人の見分けは困難で、戦争終結と戦後処理に於いてイラク国内の国連出先事務所がテロで大変な犠牲を払っています。
殺生の範囲は現実には揺らいでいます。人間を殺し、怪我をさす行為、生きとし生けるものに対する生命を絶ち害する行為は殺生だからと、どこかで慎重であって欲しいものです。
殺生は人間に対する殺害をすることだけではありません。環境破壊も自然破壊も、物を粗末にすることも全て殺生に該当する行為です。
他人を悲しませる行為は全て人間がしてはならない行為です。最近、人は遺伝子操作など、創造主に近付きつつあります。人は過ち多き存在であることを自覚しながら、殺生はしない、十善戒の一、不殺生の戒を大切にして生きていきたいものです。
社是は健在なようですが、家訓は聞きません
心の中に灯明を点し、信念とか信心を油にして
何か行動を起こしたりお話しをする時など、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見がフィルターになると完璧です。そこまではと言われるなら「相手の立場で考える」と良いですね。
心の真ん中に「あたたかい心」を灯火(ともしび)として置いて、灯油を絶やさぬうにしてください。
借金はしない、欲しい物はお金を貯めてから買う。
お金は絶対に貸さない。貸さない借りない。
賭け事や投機、商品先物、株式などは持たない買わない。
大きな家を建てない、大きな仏壇を買わない、大きな墓は造らない。
見栄を張らない、大きな自動車に乗らない。
欲しい物は三日考えて買う。
家族相和し、良く話し合い、ご近所には爽やかな笑顔で接する。
これは立派な家訓になります。三代続けば近隣稀なる名家となります。
ただ酒飲むな、他人にたかるな。
只より高いものはない。
金は使うな。
こけたら石でも掴んで立て。
義理は欠け。
無理はするな。
一言言えば唇寒し。
これは悪いとは言えませんが家訓としては如何なものでしょう。文字通り少し寒いですね。もっと寒い私の考えは、十善護持、刻苦耐労、剛健弘毅、誠実勤勉、団結奮闘、報恩積善、生涯学生、早寝早起なんです。真似した人が人生が少し味気なくなったそうです。
実は、私は自分の人生訓などにそれほど拘っていません。まあ何と無くそのようになっているだけの結果論です。
そのようなあやふやでも長く持ち続けると信念にもなりますし、ある程度の評価は期待せずとも与えられます。
昨今の退廃した風潮は何と無く過ごしている人々の責任です。子供を躾ける自信が無い人が多いようです。
生まれてから暫くは人は動物と同じです。躾けは誕生と同時に始めなくてはなりません。人に育て上げるのです。
最近、理解できない子供の凶悪犯罪が報道されますが、子供と言われるのは、本来なら男性は初通があるまで、女性は初経があるまで、以後は成人同様に責任を負わせる社会の仕組が必要になっているのではと思います。
私は単独で行動することが絶対に無い環境を作っています。常勤監事か専従評議員と一緒でないと絶対に外出しません。夜は大体九時には寝、朝は六時頃に起床します。
物事を決定する権限は一切無く、役員は私の発言をその場で訂正する権限を有し、この原稿も監事と専従の校閲を受けたものです。
万一間違いがあれば、間違いも色々ですが、一切の責任は周囲の人たちにあります。間違いとは十善護持、刻苦耐労、剛健弘毅、誠実勤勉、団結奮闘、報恩積善、生涯学生、早寝早起に反した言動が有った時です。
決定権とか、所有権とか、人権とか、権利と名の付くものは持たない方が大変に楽に生きるヒントかも知れません。
ところで、何か面白いことは有るかと問われますと、何もありません。特別にしたいことも欲しいものも、私自身生きていますが命すら執着はありません。腹は立ちません、怒りは感じません、毀誉褒貶は世間様の玩具です。
趣味は格別にありません。強いて言えば世間の皆さまが喜ばれることが嬉しいように思います。
知っている人々が支障なく暮らしておられるのは快く感じます。私自身のことは、如何ようでも構いませんが、皆さんの喜怒哀楽はそのまま私のことのように感じます。喜びは知らなくても良いですが、悲しいことや辛いことは増幅されて受け止めていると思います。
私は相当多忙です。個人的なことは一々記憶する記憶の容量がありません。
その日に起きたことは寝るまでに済まし、翌日に持ち越しません。参詣された方々の祈願が叶えられるように、亡くなられた人の来世の幸せを願うことで頭の中は一杯です。
他人さまのことを強く祈願すると、祈願される人と人格が重なります。更に集中するとみ仏さまと重なります。
この時に祈願の質が正しいと、常識で考えられないような良い結果が生まれます。祈願には我欲だけのものと、家族のため人のため、世のためと色々あります。変なものが込められた祈願は依頼者と私とみ仏さまを重ねることが不可能です。
縁談を例にとると分かり易く説明できます。良縁は纏まり、悪縁はどんなに祈願しても壊れます。
祈願や供養は体力を消耗します。祈願や供養の性質にもよりますが、得度を例に挙げれば五人の得度で私の体重は丁度一㌔減少します。十人の得度なら二㌔ですから簡単な計算です。誠実丁寧に礼拝すると痩せます。
み仏さまと僧侶と信徒さんが一体となること
それには仏法を信じていただくことが大切な鍵
世の中に「聖者」と言われるような人を送り出したい、私の願いです。それには仏法僧の三宝に帰依していただくことが大切です。
そのためには仲介者である「僧侶の自覚」が無いと難しいことです。本来も僧侶も人の子です。
僧侶になる以前は皆さんと何も違うことはありません。僧侶になる動機は何でも良いと思います。四苦八苦して其処からの逃避でも、乗り越えようとと願う気持でも構いません。
ところで、仏法は本屋さんでも、近所のお寺さんのお坊さんでも、ネットで検索すれば無限にあります。
それでなくても初詣とか結婚式とか葬儀などで嫌でも宗教に出会う機会はあると思います。大半の宗教の関係者は人が集まると教えを説くものです。
お金に困ったりして、お寺さんなら或いはと相談に来られる人もいます。
これはお寺さんの定義が間違っています。宗教は普通は金銭貸借はする筈もありません。
宗教は金貸しは絶対にできません。債務の取立ては債鬼にならないと不可能です。宗教関係者は金銭で人の困難のその場を救ってはならないと教えられ、一緒に地獄を造ろうとは考えておられる筈もありません。
宗教関係者が若し金銭を貸してくれるとしたら、偽者です。最小限だと思いますが返済しなくても良いくらいの小額なら貰えるかも知れません。
お金を借りたい人は宗教の教えを耳にするような余裕はありません。金銭を貸すのが慈悲だろうなどと言うと、運が悪いと一一〇へ電話されます。
観音院の専従職員の場合は金銭の貸し借りをすると懲戒除籍処分です。
宗教関係者は教えを説いて浄財の反対給付を受けて生活しています。
さて教えを求める方法でした。これが案外、難しいことです。
一番の方法は両親なり、祖父母に聞いて宗教者を紹介してもらうことです。
私は教えを説くことには慳貪ではありませんが、時に電話で「仏法の話を聴きたい、夜を徹して話し合いたい」と言われる奇特な人がありますが。このような無理には応じられません。
私は生活のリズムを厳守するようにして、人とお話しする時は、専従職員の同席を定められていて、私が間違った話をした時は同席職員が即座に訂正してくれる規律の中で生きています。
私の徹夜は兎も角、職員に徹夜を求めることは不可能なことなのです。
観音院は一年三百六十五日、午前十時、正午、午後二時に法要を行い、法話も合わせて行っています。テレホン法話は〇八二・二九〇・二六〇一番で二回線毎週吹き込んでいます。
月刊「観自在」はオールカラーでB5判三十二頁で毎月発行し、通巻で二百八十号になります。法要は大型テレビで東京事務所にも毎日流しています。
もっとも東京事務所は現在は僧侶の卵で一杯で一般の人を対象としていません。その内に公開施設にします。
私は人間関係を大切にしていて、対機説法を主にしていて、聴いて貰える人の能力と私の能力を合わせて話をすることにしています。
今一番困難なこしはルクセンブルグに弟子になりたいという人が居まして日常フランス語を使用していて難解な英語メールを送ってきて、これに私が下手な英語で返事をして、対機説法には大きな限界があると思っています。
仏法はお釈迦さまによって説かれ、説法の内容は長く口伝えで、暫くしてサンスクリットの文字となり、それが中国に持ち帰られ、漢訳され、留学僧が唐の時代に日本に伝えられました。
それが「お経」と言われるもので、漢音読み、呉音読みのまま現代にも伝わり、それを現代語で語ることは大変に難しいことです。
仏教も国家に保護された時代、廃仏毀釈という明治の大難、戦後の宗教法人法の変遷、女性の司祭者参加などを経て今日があります。江戸時代の吉宗の檀家制度、第二次大戦後の農地解放、現代の檀家制度の崩壊、人人の都市への移動、新らしい宗教の乱立、それなりの時代の変化に対応する重要な意味あることです。
道徳の退廃と宗教と社会の乖離は平行しています。ところで世間が冷たくにるにつれて「親切」とか「相手の立場で考える」「信徒運営での情報開示」には凄まじい需要が生じてきました。
観音院が東京に「道場」を設置したのは自然の需要に対応したのです。
現在は十数名の僧侶が研鑽中ですが、近い内に皆さのがお越しになれるよう対応を考えています。
場所は東京都墨田区両国1・七・四、電話〇三・三六三三・七一五五番です。
第二土曜・日曜日には私も体力の続く限りお待ちしてます。電話で予約してお越しくだされば幸甚です。