目標は手の届くところから徐々に上げる

人間は普通は人生に目的をもって生きているとは限らない。ただ何と無く生きていて、時ととして「これで良いのか」と考えるのが普通の人だ。人生に目的を立てて生きても良いし、別に目的など無くても良い。それぞれの人がどのように生きるか、それは各自に与えられた基本的な自由で、他人がとやかく言うものではない。しかるに、何故か人々は私に如何に生きるべきか問う。だから、私の生き方を説明して皆さんの参考に役立てば幸甚である。鈴之僧正さまのお話を要約。田川純照記

偉い人と言われる立場に就く 公序良俗を欠くと幻覚みたい

    

人生の目的は成功であり、合格であり、認知されることであると極言してもも良いでしょう。

ところで、成功もいろいろあります。目の前の蝿を追うことから億万長者になることまで、それでも周囲に疎まれたり、結果として刑務所に服役している成功したと言われている人たちもいて、成功という意味もいろいろあって、なかなか人生の目的と言うものは定義が困難です。

昔、極めて優れた経営者で且つ芸術家でもあると思う人に会ったことがあります。後日、麻薬輸入の疑惑で逮捕され、最近実刑が確定して収監された彼の姿を見て大変に悲しく思いました。初めてお会いした時には世の中には才能に恵まれたすごい人もいるものだと私としては尊敬できる人と思っていた方であるだけに現在の彼は絶対に人生の目的として参考にしてはならないと思います。芸術家は時ととして、覚醒剤とか麻薬に手を出すことがありますが、そんな薬物に支えられた芸術なんて屁みたいなものです。

塀の内に落ちると行動が拘束され、刑期中は自由がありません。収監されている人たちは気の毒でもあり、いわんや無期とか死刑が確定している人など、思うようにできることは殆どありません。

外部との接触も限られた文書くらいで、刑務所はこの世の地獄としての機能があります。さりとて刑務所は懲罰的機能だけではなく悪事をした人を更正させる機能が主であり、刑務所職員を獄吏のように受け止めるのは筋違いで、大変な仕事をしておられる公務員と考えてあげたいものです。

ところが、会社の社長さんとか国会議員など、一応世間では成功したといえる人が有罪の実刑判決を受けて服役されています。成功される過程で大きな無理をされたのか、道義に悖る行為があって後日に発覚した、生きて行く日常で無理があってはなりません。有名になると、一挙手一投足、一言一句まで、彼是といわれる立場に自分を置くことになります。顔が売れることは決して幸せとは言えません。成功するということは慎重になること、公序良俗を守ること、脱税をしないこと、法律に触れないこと。他人を傷つけないことなど、細心の注意で日々を過ごさなくてはならないことを意味します。謙虚でなくてはならない。妬まれてはなりません。

プライバシーを慎重にする 天も御佛様も見通しなのです

家族も職場も世間も欺くことはできます。生涯表沙汰にならないのは余程幸運か小さな悪事で被害者がいない場合です。
誰も見ていないなら赤信号を無視するような性格は成功を維持することができません。内緒事は内緒にしておくことが困難です。嘘を吐かない、正直で、加えて間違ったことをしない、これは、子供の時からの躾が大切です。親が見本を示さなくてはなりません。

他人のことを彼是と言わないことも大切です。他人を判断し評価することは難しいことです。人間関係が大きくなるほど他人のことを知ることになります。

私は立場上、多くの告白を受けますが、日記とかメモなどを一切もっていません。信徒さんに関わる情報は住所とか電話番号などで仮に表沙汰になっても大きな問題は起きないよう用心しています。

それでも三ヶ月くらいの期間しか携帯に入れていません。全て記憶に頼っていて、死ねばそれらは完全に失われます。

相手の立場で深く祈念すれば、一万人か二万人、否それ以上の人との人間関係の内容は記憶できるものです。遺言なんてありません。死んだ後は法律の定めるままに相続がなされれば良い。相続財産があればの話ですが。

死後に相続に関して身内で争いが起きぬようにして置きたいものです。若い時には遺言もしていましたが、もうその必要もありません。今現在、何も言い残すようなことはありません。死後まで指図するつもりが無いのです。

世間の人々は死後に争いが残らぬよう遺言は作成しておくことが望ましいことです。遺言は無効にならぬよう、弁護士さんと相談して公正証書にしておきなさい。

現在の私は何にも執着をもっていない。ただ今息が絶えても構わない、極言すれば、寺も私のものではないし、御佛様もそうです。信徒さんを私のものと考えることもありません。何も欲しいものは有りません。

但し、沢山の人々に頼られていて、勝手に死ぬ訳にはいきません。さりとて、皆さんの希望通りに何時までも生きていることは不可能です。できるだけ日常生活で注意して、些細な不注意で死ぬことはできない、目も鼻も耳も、消化器も、血液も再三医師に診てもらい早めに治療を受けています。

私に限らず、多くの高齢者は多分に私と同じで、若い人を大切に思って生きておられる筈です。

年をとって大切なことは吝嗇をしない、浪費をしない、偉そうにしない、子供にも人格が厳然としてあり、仮初にも思うようにしたいと願ってはなりません。子供は親の思い通りにはならないし、親は子供の理想の姿では決してありません。国家資格、例えば弁護士とか、医師など、家業として子供に後を継がせようとすると地獄になります。後を継げる子供が恵まれるのは大変な幸運です。子供に彼是と願う前に自分自身が模範的な生き方をしてください。

私は物心がついてから、何となく生きてきた 辛いとか、何か欲しいとか、目的は立てなかった

幼児期の思い出としては寺の庫裏の長い廊下を拭くことが毎日の日課だった。暑い夏も手がこごるような寒い日も、別に嫌だとも辛いとも考えなかった。客用の便所は母親、庫裏は私の担当と自然に決まっていて不審に感じなかった。

学校はよく休んだ、どのような届出をしていてくれたか知らないが、納戸に潜り込んで父親の蔵書を読んでいた。その中に大量の講談があって、まあ宝の山があったようなもので、夢中で読み耽ったものだ。吉川英治の時代物やら金色夜叉、我輩は猫であるなど手当たり次第の乱読であった。百科事典は格好の読み物で子供が知ってはいけないことは大概知っていた。

母親の実家が農家で、よく預けられた。多分母親は病弱だったのだろう。田植えや草抜き、稲刈りは勿論、イチゴや山芋、大根、人参、葉ものなどの栽培や手入れをさせられたが、楽しくて楽しくて何時までも里にいたかった。

糞尿を肥えたごに入れて天秤棒で要領よく畑に運び、薄めて撒いたり、相当体力が必要なものもあり、重たかったが辛くはなかった。

おやつも焼きむすびなどで、贅沢とはおよそ縁がなかった。

 

僧侶にする訓練というか、七歳くらいの時にはお檀家さんを回ってお布施をもらっていた。小遣いが一銭か二銭という時代に百円という大金をお布施にもらった経験がある。学校に持って行って見せびらかすと、先生がこれが百円札と職員室で回して見ていた。

小学校を卒業するころには貯金は千円を超えていた。自分でお金を使ったことが無く、お金の交換価値は知らなかった。

この頃、米英撃滅大祈願なんてどこの寺でもしていたし、鬼畜米英と学校で習い、しばしば戦死された英雄の葬儀がなされた。戦艦大和が撃沈され、生き残った乗組員の話を聞いて恐ろしく思った。各地の玉砕報道、そして原爆、八月十五日の玉音放送と占領軍の進駐、何とも慌しい少年時代であった。

このころ人生について考えたことは無い。強いて言えば、原爆で一切が灰燼に帰したこと。焼け跡で南瓜や胡瓜、トマトや枝豆、小麦、南京豆や大根など、家の焼けた灰が肥料になってとても良くできて、南瓜などは冬を越しても食卓にのぼった。

母親は原爆の怪我が治らず、檀家も四散して、生活は苦しかった。呉市の檀徒の進駐軍のお土産店に手伝いに行き、その稼ぎが家族から喜ばれた。もっとも習った英語がオーストラリア訛りで、後日、大変に困りました。

第二次大戦後のことは物資不足とか食料不足など、体験された文書が沢山ありますので省きます。皆さん苦労されたと思います。ですが私は相当鈍感なのでしょうか、苦しかった思い出は何一つありません。祖父や兄弟が原爆死したのですが、それほど悲しくはありませんでした。その日その日を過ごすのが精一杯で「死」ということさえ鈍感になるくらい、焼け跡には遺体が至るところにありました。

中学は入試で船の出会い算で出題者が一マイルは千八百五十二メートルという知識がないと解けない意地悪な問題が出て、これを記憶していただけで、数学の試験結果が一番だったというような馬鹿なことしか記憶にありません。ともあれ、焼け跡のトタン板でで作ったバラックに親子四人、それに、転げ込んだ人一人、着た切り雀で着替えも無く、やっと電気が曳かれて、風呂は焼け残りの露天風呂、浮浪児同然で、下痢が続いていると、人生の目的など考える余裕がありません。食べ物や日常用品の絶対量が足りないと、ある種の飢餓状態になるものです。

高校は夜学、かつ広島大学の先生の書生、仕事は焼け跡に穴を掘って瓦やガラクタを埋める毎日、夜は電気が点けられないので、駅の待合室で勉強してました。

先生の師匠は宮大工から僧侶になった人で、この人は親切で、私に木組みとか、欄間の彫刻とか、一通り大工仕事を教えてもらいまして、今でも有り難く思っています。常光さんというお坊さんがいて、この人にはガリ版の多色刷りや編集を教えてもらいました。

佛教タイムスと言う新聞を拵えて東京に移転されました。鈴木さんという偉いお坊さんは一対一で紙芝居を演じてくださって、これは幸せなことでした。戦後は偉いお坊さんも暇だったようです。

ところが私を書生代わり兼穴掘りにしていた先生も金銭に困っていて、質屋通いをさせられました。この時に、どんなことがあっても借金はしないという人生哲学を身に付けたように思います。食わせてくれるけれど小遣いを一銭もくださらない。債鬼に追われる師匠の元では文句は言えません。

このころ二つほど勉強させてもらいました。一つは疎開先の旅館で、お寺さんの坊ちゃんと大事にされ、学校の帰りに寄ってお八つを食べさせてもらっていましたが、原爆で広島は全滅、七年は草も生えないという噂が立つと、旅館の女将さんに塩を撒かれて追い払われまして、親が相当高額なお金を預けていると聞いていましたが。

もう一つは、穴掘り土方をしている時、中年の小母さんが「あんたは観音院の坊ちゃんだに、こんな可哀想なことをさせられて」と執拗にからかいにやって来る、変な趣味の悪い人で迷惑にも邪魔にも面白くも感じられました。

先代の友人に三井英光さんという高僧がいて、この方は極めて凄い霊性といったら良いだろうか、現在の私に大変な感化影響を与えて下さった。言葉に尽くし難いので述べることができない。今春遷化された。御佛様が亡くなったような感じで深刻な悲しみであった。

子供はどのような環境でも 生き抜く智恵をもっている

私は裕福な家庭に生まれ、一転して過酷な生活となり、中学一年で自活したけれども、希望も目的も持つ余裕は無かった。出会いが人間の運命を左右しているように思えてならない。

中学の生物の代用教師に広島大学の生物学か何かの教室に連れて行ってくれた助手の方、もう多分教授を定年退職しておられるだろうと思うが、ここで河村先生という碩学、に可愛がってもらうご縁ができて両生類について大学生並の勉強を楽しくさせてもらった。人生とは出会いだなと思う。

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