複雑な問題を抱える高齢化社会の人間関係

高齢者であっても超元気な人は沢山おられる。加齢による老化、身体の衰えは間違えなく忍び寄る。歯が悪くなる、目が見えなくなる、耳が聞こえなくなる。食が細くなる。排泄がままならない。耳鳴りがする。足腰が弱ってくる。行動範囲が狭くなる。伴侶が亡くなる。知り合いが次々と死ぬ。子供が転勤で遠くに行く。掃除、洗濯、料理が思うようにならない。食べられない物が増える。嗜好が変わる。その他にも精神的に老いを自覚させられる手足の痺れなど、これをどのように生きるか。鈴之僧正さまのお話を要約 田川純照

老人には老人の分と言うものが。行動範囲が狭くなるのは淋しい

五月には中国の桂林に行くことにしています。今年はニューヨークにも行ってブロードウェイのミュージカルも見たい。出来れば南アフリカ共和国にも行ってみたいと願っています。

最近は運賃もホテルも安くなっていますので、国内旅行よりも外国旅行の方が安上がりのような一面もあります。

旅はくせのようなもので、出掛けるのが億劫になると、何もかも面倒になる、弾みが付けば何処にでも行くことは出来ます。

一人旅は心細いものです。何が心細いか、荷物の持ち運び、身体具合が悪くなった時、言葉が通じないなど、いろいろと理由は付けられますが、ヨイショットと立ち上がって外に出てみましょう。

外国に出て見れば、日本の良いところも、悪いところもよく理解出来ると思います。

百聞は一見にしかずと言う諺通りにグランドキャニオンの息をのむような景観もナイヤガラの滝もワイキキの浜の水も、写真やビデオで見るのと、行って見るのと話に聞くのでは随分違います。

桂林も「山水画、墨絵の世界」と一応に言ってしまえばそれまでですが、漓江(りこう)を遊覧船で下る途中で「これは素晴らしい景色だ」と思われて写真を撮られると、百枚や二百枚では到底フィルムが足りません。

フィルムは三十六枚撮りを十本は用意されると良いでしょう。

写真を撮ったらメモをしておかないと何が何やら分からないくらい奇岩奇石、奇山、ちょっと説明出来ません。珍しい絶景の連続で、ビデオを回し続けることが感動を良く伝えるかもしれません。

家の中に籠もっていては、鳥の声も水のせせらぎも、人々の悲喜こもごもの会話も聞こえません。

行動範囲を広くする工夫と勇気。身体と精神の健康を維持する

私の必要最小限は六畳一間で、隣接して台所、便所、風呂があって、電話もインターネットも引いてあって、此処で何でも間に合います。冷暖房完備で湿度も調整してあって快適です。

で、健康維持のために健康器具を買って毎日時間を決めて運動する。何だか侘しいですね。

ですから応接で皆さんと話したり、場合によっては外に出掛けて行くよう努力しています。

今年早々にインサイト(ホンダの二人乗り低燃費四輪車)を購入しましたが、大きさは軽並、走りは普通車、燃費は普通車の半分、給油を忘れるくらい走行距離が良く伸びます。理論的には無給油で半径六百五十キロまで行動範囲が広がりました。

東京大阪など、新幹線を利用して、一ヵ月に一度は出掛けることにしています。動かないと老化は加速します。旅行は距離ではなくて移動に要する時間で計画を立てています。県内を車で移動するのと、日本中何処でも移動する時間は大体同じになりました。

自分で自分を部屋に縛りつけない。思い切って外に出掛けるように

マンション暮らしの老夫婦で、電話で確認を取らないと絶対にドアのチェーンを開けない、インターホンにも出ない方を知っています。中間山地で家の廊下や窓に全て鍵をかけ、カーテンを下ろして外には出ない方も知ってます。

相談したいことがあるとのことでお伺いしたのですが、最初は留守だと思いました。

島嶼部で橋が架かっていないところでは、外部からの人もあまり来ないせいでしょうか、未だ鍵をかけない習慣が残っているところもあります。離島対策の対象である場所よりは中間山地の場所の方が人間関係は疎遠になっているように思われます。

山村部と島嶼部の相違は人影が山村部の方が少ないようです。お寺さんも山村部の方が人口の減少に悩んでおられるように思います。

農業水産業に従事する方々の高齢化の進み具合も農村の方が深刻のように思います。減反政策は日本の農業に深刻な打撃を与えているように思えてなりません。

お年寄りが安心して作業が出来る環境や、家に鍵を懸けなくても外出出来るような世の中をつくることが大切だと思います。

農林関係の構造不況は法律的な救済が必要です。日本の材木を買うより、カナダの材木を買う方が安い、これでは日本の山の将来はありません。

農林業、水産業ともに食料の自国調達率の問題だけではなく、国土保全の観点からも大切にする国民的合意が必要です。

電動スクーターを買って外へ。家の中の段差を無くすること

高齢者で足が悪い人は少なくありません。思い切って電動スクーターを購入し、買物に、友達に会いに行きましょう。

家の中の段差を無くするような工事をしてもらいましょう。

電動スクーターや電動車椅子が使い易いように世の中を整備したいものです。誰かに頼めば必要な物を買ってきてもらうことは出来ますが、自分で選択して買うことと配達してもらうのでは納得度が異なります。

道路事情とかお店なども電動スクーターや電動車椅子に対応が出来ているとは言い難いのですが、利用者が増えれば対応せざるを得ません。あれこれ考える前に先ず使うこと、そのことが世の中を変えることになります。足の不自由な方が主導権をもってください。

年寄り同志の同居をする前に予行演習を。家を売って、荷物を運んでからの後悔は

年老いて、一人暮らしとなり、兄弟の場合は少ないのですが、親子や姉妹が同居した。ところが、どうも上手く行かない。元の場所へ帰りたくても家は売って無い。 そのような相談が沢山寄せられます。或いは、年老いた親の面倒を見るために退職金を前借りして親の居る家を修理、建て直しをして同居、遠距離通勤をされているが、ご主人の留守に、強風が吹いて風音に怯えて奥さんが淋しくて辛抱が出来なくなる……。

このような相談が、問題が起きてから寄せられますが、解決は困難で、助言に困ります。

長い間、別々に暮らして、考え方も食べ物の好みも異なる、就寝時間も違う、新聞の種類、扱い方が違う・・・几帳面に綺麗に読む人と、乱雑に読む相違、大したことでは無いのですが、次第次第に人間関係が拗(こじ)れて来る。そのようなものかもしれません。

一軒の家に財布が二つあるのも喧嘩の元になることがあります。

兄弟は他人の始まりという諺もありますが、一軒の家に同居して出来た諺ではないかと思うことも少なくありません。

折り合いが悪くなる原因は幾つかありますが、誠実さ、約束を守ること、勤勉の度合い、清潔感の相違、物に対する執着、食事の好み、睡眠時間の長さ、そのような微妙なことで相違が大きくなって我慢が出来なくなることです。

鼾(いびき)の大小で人間関係が壊れる、難聴でテレビの音の大きさが違うことが喧嘩の種になったりすることもある。

仲良くすることに理由は不必要ですが、喧嘩の種は幾らでもあって仲良い関係は難しいものです。人は協調することが出来るように二者各々、いろいろと考え、変化し、態度を変え、将来について予測を立てます。

一人で考えても物事の方針は中々決まらないのに、二人で考えると、多数決は成立しませんし、余計にややこしくなる場合が多く見られるようです。

片方が一方の全面的な信頼を時間を超えて得られるならば、協調は成立します。人間は老いるものですから、時間を超えた信頼関係など成立することは不可能です。

いろいろな場面を考えて、同居に際しては一年から二年くらいの試行期間を設けて、上手くやれるか否か見極めて、納得が出来てからスタートされるのが望ましいことのように思われます。

目先の利益を単純計算して早計に行動することなく、慎重の上にも慎重に行動することが、仲良しの兄弟姉妹の老後を平和に保つ上に必要です。

特に申し上げておかなければならないことは、住居移転が遠距離の場合と不動産処分を伴う共同生活の計画は、解決が不可能な確執を生じることがあります。

高齢者の共同生活も一方の健康の破綻、或いは死亡は当然に来ることで、遠からず一人になり、残されたものも何れは健康を害し、或いは旅立たねばならない時が来ます。その時にどうするか、大変な心配が残ります。

子供が居るとか居ないとかは考慮しない方が良いでしょう。子供の生活環境も経済的なことも、子供の健康状態も変動するもので、当てに出来るものはありません。

頼りにはしていなかったが、想像以上に良く面倒を見てもらうことが出来た例も沢山あります。

「ご縁」が有るか無いかが感謝出来る関係、「ご縁」が無いと親子兄弟姉妹でも人間関係は上手く行かないと思います。

アルツハイマー病は大統領も一般市民も僧侶も神主も、職業や地位などを選びません。家族が老人性痴呆になったり徘徊老人になった場合に面倒を見る人は地獄の苦しみを体験しておられます。老いて身体が不自由になることは何方も高い可能性が考えられることで他人事とは考えないことです。

四月から介護保健が施行されましたが、ヘルパーさんが家庭を訪問して、排泄・歯磨き・洗顔・食事の面倒を見ておられます。「今日は」から始まって、「さようなら」まで三十分で済ますように計算して配置されています。三十分以上の時間をかけていては介護保険では賄えないといわれます。

若い人たちの中には食事だけで一時間もかかる人たちが珍しくありません。この人たちは若い内は介護する側に回ることは不可能であり、将来的には介護されることからも外れた常識外の存在です。

身近に身の回りのことがテキパキと出来ない人がいたら注意指導してあげることが大切です。現在では介護する立場にも付けず、将来は地獄をつくり、他人を地獄に陥とす人になられる可能性が高いのです。早飯、早糞が出来ることを前提として、社会保証の制度の適用範囲になるということは残酷な話でもあります。

電話の使い方で揉めることも。これからの必需品は携帯電話

一本の電話を二人で使うことは基本料金の節約になりますが、どちらかの口座から引き落とされますので、払う方が長電話をする方に注意をする。された方はたかが電話代くらいと立腹されます。

いさかいの多くはこのような些細なことが原因となります。

携帯電話は高齢者の必需品と言えます。具合が悪くなった時などに直ぐに連絡出来る、親戚や物を配達してくれる店、病院、お友達などの電話番号を入力しておくと便利です。

観音院は登録されたお年寄りの緊急電話には二十四時間、三百六十五日対応する制度が出来上がっていて、寺には法主さんと住職夫妻、近所に常勤職員が住んでいます。全てが携帯電話やインターネットで結ばれていて、協力して行動出来るようになっています。

出来ることも出来ないこともあります。何が出来るか、何をするべきか模索しています。

介護まで要望されていますが、これは今後の課題となります。介護保健については様々な問題点もあり、先進諸国では複雑な事情も抱えていて早計に着手することが出来ない大きな問題です。

お見舞いとか、精神的な面での支え、葬儀についての相談、死後の供養の仕方などは当然にいろいろな対応を考え、お約束については公正証書にして、約束が守れる制度を考えています。(既にこのようなシステムを提供する会社が出来ています。)

お寺が出来ることの特色は、「ご縁」の有無によって物事がなされることです。「ご縁」が無いと、したくても何も出来ません。介護保険とは制度も運営の在り方も根本的に違います。

お寺は人が、人として尊敬され敬愛され、社会の中で平和に暮らせる生き方を教える場所です。

高齢化社会に如何に対処するか皆で考えましょう。

  • 家の中は、皆さんそれなりに快適で安全ですが、慣れてしまうと身体が鈍ります。外に出ることは多少の危険と刺激があり、これが老化を防ぐ上で有効と考えられます。冬の寒い日や夏の日照りの下に出ることは慎重にしたいものです。無理をしないように、行動範囲を狭くしないように元気にやりましょう。
  • 電動スクーターも慣れが必要です。元気なうちに使い方に慣れておくことが大切です。行動範囲の道路事情を知っておくことが大切です。路肩の段差が転落や横転の原因になります。小さな窪みに車輪が嵌まると身動きが出来なくなりますので注意したいものです。年をとっても出歩くことはとても大切です。
  • 老後の生活設計を、足して二で割るような考え方は不適切です。特に片方が痴呆状態になったり、寝たきりになられた場合、片方の一人が面倒を見ることは不可能です。兄弟姉妹親子の関係にあっても無理です。不可能なことは最初から計画しないことです。介護専門の人に面倒を見てもらう計画が良いですね。
  • 物事をてきぱきとする習慣はとても大切です。時間を浪費する、同じことを繰り返して言う、尻が重い、このような傾向は介護する側には絶対に向きません。
  • 怖いことは、怠惰でなくても物事をするのが鈍い、ハイ、イイエが明確に言えないと、介護してもらう立場になっても他人を困らせることになります。

決め事ルール違反の受皿とならないように。反社会的な行為の受皿が仕方無い人を育てる

引き籠もり、家から出ない、昼は寝ていて夜になると活動を始める、どうしたら良いか。

このような相談がとても多くなりました。「引き籠もり」の最初は五月の連休に始めることが多いようです。

その他にも正月開け、夏休みも要注意です。

人前に出たくなくなる理由、これは様々ですが、根本的には本人の性格の弱さにあります。

人の性格はなかなか変わりませんから、矯正しようとすると軋轢(あつれき)が起きます。さりとて放置すると引き籠もる傾向はだんだんと強くなります。

特に引き籠もった人が夜昼が反対になると同居している人は大変なことになります。

夜中に台所で探し物をする音がする、車で夜中に出掛ける、エンジンがかかると帰ってくるまで心配する、体験した人でないと理解出来ない悩みになります。

大人の引き籠もりには自己責任もあり、その原因の解決によって元気を取り戻すこともあります。

特に本人も知らない病気が進行中のような場合もあって、暫くはあたたかく様子を見るような家族愛が大切になります。

しかし、停年後の引き籠もりは、適当な充電期間で切り上げて、再就職とか、旅行など、人生八十年時代ですから、その後を如何に過ごすか計画を立てることが大切です。

多くの原因については周囲の理解も成立しやすく、ある種の合意も得られるようです。

親子であることで大目に見る。甘え根性で怠惰な引き籠もり

格別な問題として持ち込まれる多くの相談は子供の引き籠もりです。総じて仕事が長続きしない、人間関係が下手、虚栄心が強い、責任感が欠如している、勤労意欲が感じられない、怠惰、言語動作が粗暴であるなどなどです。

最近SOHO(スモール・オフィス・ホーム・オフィス)などといって自宅で自分の能力を生かしながら仕事をする人が増える傾向にあります。

ところで、SOHOの人たちの中には安い料金で作業の下請けをして相場を破壊する、仕事を途中で投げ出すなど無責任な人も含まれていてSOHOの評価を落としている場合が少なくありません。

SOHOは確実な得意が二十乃至三十はないと成立しません。一つの事務所から月額五万円の仕事が継続して出ることは少ないからです。名刺などはパソコンで簡単に出来ます。家庭の机にパソコンを置いて、ついでに応接間も使って、表札の横に社名でも張って、それでも大変な経費が必要で、経費を賄う収入は簡単に得られるものではありません。

仕事を出す方側としては、SOHOが法人であれば報酬に対して源泉徴収する必要はありませんが個人の場合は一割を源泉徴収して支払うことになります。

SOHOは仕事をして収入を得るのと同様に帳簿をつけることが大切で、仕事の費用と家庭的費用を明確に分ける能力が必要です。SOHOは出来るだけ早く法人化することが大切です。

一番難しいことは永続する仕事を得ることで、家で待っていたのではどうにもなりません。人脈と営業力、技術力、家族の後援が欠かせない仕事の在り方です。

SOHOとは名ばかりの引き籠もりでは困ったことになります。

本来は会社などの組織の中でも上手くやって行ける人が、独立を志してSOHOという過程を経て社会的に認められてというように
なることが望ましいことです。

フリーターと言う仕事は無い。アルバイトを続けて生計を

貴方はどのような仕事をしておられるか、という質問に「フリーターです」と答える人がありますが、フリーターは、フリー・アルバイターの略語で定職に就かず、アルバイトを続けて生計を立てる人のことです。

親から独立をしている場合は、フリーターであろうと生計が立てば立派なものです。失業保険の給付が終わって、ずるずるとフリーターでは困ります。

フリーターと称する人たちで実力がある人たちは服装がきちんとしています。カジュアルな服装で仕事が成り立っている人は素晴らしい実力がある人で、フリーターと言うより先生と尊称されている人たちです。

立案とかデザインとか、ホームページ作成代行のような国家資格を伴わない仕事は沢山あります。

多くは専門家集団が激烈な競争を繰り広げていて、仕事は細分化され専門化され個人一人で割り込める余地はありません。

三十歳代までは人材、五十歳代では廃材という厭な言葉がありますが、何が出来るかと聞かれて、このような仕事が出来ると給与の代償である仕事の質を示されないとなかなか収入は得られません。

むしろ、学卒の若い内に就職して、企業内教育を受けて、それを一人前にやれるようになることが大切なように思います。

この考え方は画一的で企業の歯車の一つのよう人格を形成する恐
れがあり好きではありませんが、個人の理想や趣味の延長、好き嫌いを大切にして、それが中途半端な「待ちの姿勢」の人にする場合も見受けられます。

企業と企業の間で、納期に仕事が間に合わない、支払日に支払えない、このような場合は特段の事情が無い限り契約は打切りです。

企業内においても、納期に仕事が間に合わない人は企業に甚大な損害を与えます。約束を守れない人は、失業を覚悟しなくてはなりません。場合によっては所属企業を倒産させることもあります。

「済みません」では済まない事態を組織に直面させる、一人の約束を破る行為は、その人が企業内破産者であることを示しています。

全ての企業の意思は契約です。企業が済まないと言った場合は何かの損害を相手に与えています。企業は人によって構成されていますので、一人の約束不履行は所属する企業を通じて、誰かに損害を与える行為になります。

通常、企業は人は病気になることもある、退職することもある、いろいろな障害が予想されますので、複数の人が一つ仕事に関与し約束を破らぬように補完対策を講じています。

個人の場合ですと、余程特殊な仕事でないかぎり、配偶者が代理で仕事をしたり、他人に代理を頼んだりすることは無理です。大体出来上がっています、もう直ぐです……などの言い訳が通用するのは約束の期限以内です。期限の到来すると、出来たか出来ないか、+か-か、0か1かです。ここら当たりが人間の価値の目安になります。場合により排除されます。

人間関係の破壊が進むと個人の能力が問われる。先祖を敬うと家が栄える筈だか現代では如何に

先祖を大切にし敬うと家が栄えると言われてます。しかし、亡くなった祖父母や父母を尊敬し、丁重な先祖供養などの佛事を営む以前の問題として目先の多くの困難が今起きつつあります。

親子間の会話が無い、日常茶飯事の離婚、蒸発、家出、出社拒否や登校拒否、不倫の言葉に代表される浮気、姦通など、未成年者の性行為や妊娠出産などの問題。

学級崩壊も問題ですが、それ以前に家庭が崩壊しつつあります。

両親は厭(いや)だ、お父さんは厭だ、お母さんは厭だと子供が主張します。配偶者はお互いか一方かが厭になったと言います。

親は論理的に絶対に選ぶことが出来ません。このよう馬鹿げたことを子供が主張する、親孝行などの概念はとっくに崩壊して、親も子供には期待していませんが、親が厭なら独立して生計を立てるのが子供の立場を最大限に生かすことになります。

厭だ厭だと言いながら親の扶養家族でいることは大変な矛盾です。子供に味噌滓(みそかす)に言われながら子供を扶養するのは親も詮ないことです。

酷い子供は、親も嫌い、親の仕事も嫌い、卒業した小・中学校や大学まで嫌い、自分の過去を総否定と言うのもあります。

厄介なのは配偶者の一方が子供と一緒に行動を始める、多くはお母さんがこのような馬鹿なことをするのですが、お父さんにもそうなる原因の一端はあるとしても本当に気の毒なことになります。

まあ、このようになると夫婦は別居状態が普通で速やかに離婚が望ましいことですが、体面というものがあってそれも出来ない。

反対の場合もあります。子供が完全に不適合者として家族から排除または放任されている。他人に子供のことを聞かれると「内の子供はどうにもなりません」と仕事の引継ぎは認めていません。

親の仕事を子供が相続することで成立していた家業という考え方は殆ど無くなりました。医者の子供が医者になるとか、弁護士の子供が弁護士になるようなことは大体諦められました。

同じようなことは僧侶の世界でも同じことで、住職という職の地位を子供が継ぐことはだんだんと少なくなっています。

家の宗教は憲法の元ではありません。信教は個人の自由です。無宗教も可です。先祖の祭祀に関しても相続の適用は無く、関係者の話し合いで定められます。

個人の自由を徹底して尊重して今日の社会があります。

個人の能力を一つの商店として。商品と売上次第で個人の能力

一軒の家に夫商店、妻商店、子供商店と別けて考えると割り切りが簡単になります。

例えば、お互いに「愛情」を並べて売っているとします。夫商店が余所で「愛情」求めて、妻商店の「愛情」は不用と言えば妻商店は夫商店から買ってもらえる「愛情」を品ぞろえするか、夫以外に買ってもらうか、誰にも買って貰えない「愛情」なら倒産です。

子供も同じことです。子供の売る「愛情」が気に入らなければ、その子供は親の買ってくれる「愛情」を品揃えするか、家庭外で売ることを考えなくてならない。誰にも可愛がられないと子供商店が倒産することになります。

大変に深い「愛情」も相手の望まないものであれば一方的で深情けみたいなことになります。

結婚は男性商店と女性商店の合併経営と考えれば分かりやすい、合併が上手く行かない時は分離になります。お互いに得るもの、提供するものが無ければ別れる、これは合理的で非情で人間的な考え方とは申せません。子供商店は中学卒業か高校卒業までは親商店の保護監督が必要になります。

老後については、各自で年金に相当する自分の店の維持資金を用意しなくてはなりません。現在の介護保険制度は財源がありませんので早晩行き詰まることになると思っておく方が良いでしょう。

職場では非常に明快です。職場環境、福利厚生、給与などを得る対象として、作業なり知恵なりを提供する。職場が要求する作業や知恵を提供したくなかったら「買うものがありません」と「売るものがありません」の関係で縁は切れます。

人間には好き嫌いという感情があります。「生老病死」の四苦と愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五陰盛苦(ごおんじょうく)と合計八苦が人間の苦しみとして代表的です。

五陰は五蘊のことで広辞苑によると「蘊」は梵語 skandhaで集合体のこと、五蘊は現象界の存在の五種の原理。色・受・想・行・識の総称で、物質と精神との諸要素を収める。色は物質および肉体、受は感受作用、想は表象作用、行は意志・記憶など、識は認識作用・意識と説明されています。

四苦八苦も解脱出来ます。で、それから好き嫌いとか、人の掌の温もりとか、いろいろと大事にしたいと思うものがあります。

人間関係を商店に例えるべきではなく、倫理道徳を大切に考え、親を大切にし、兄弟姉妹仲良く、友人を大切に、老人を敬い、弱者に温かく、他人の間違いを咎(とが)めることなく、多少の間違いは許容すること考え方をもちたいものだと考えます。

子供を育てるに当たっては自立心を大切に、社会規範を守るよう教え、協調性や弱いものを助ける考え方、そして社会や国を大切にする心、公共心を大切にする、言葉を大切に、義務教育の徹底した理解など、人の幸せを願う上での期待があります。

今の世の中は何処か不可(いけ)ないと思います。十善戒を持ち出すまでもなく、「信頼すべきもの」が揺らいでいます。どうすれば良いかご一緒に考えましょう。

  • 「度外れた甘やかし」は子供の自立心を損なう、勉強しなくても欲しい物をねだれば与えられる環境は、怠惰でも親が何とかしてくれる家庭です。勤労精神や誠実さや、約束を守ること、公共心などは育児の過程でしっかり躾けること。ただし。気の弱い子供や、体力的に弱い子供の立場も理解する必要が。
  • 勤労精神の大切なこと、付加価値を創(つく)ることの大切なこと、礼儀作法を守れること、約束を守ることなどは全て家庭の躾けと考えるのが大切。
  • 学校の役割は、子供の尊厳を守りながら各個の個性を育むこと。先生は子供に尊敬されるように行動すること。畏怖もされず慕われもしないようでは困ります。
  • 個々の人間の自立心や能力が、その人の将来の幸不幸を左右するのは当然のことかも知れないが、年老いた人に自立心や能力を問うことができるだろうか疑問に感じる。さりとて、度を超えた甘えを受け入れる親、子供の家庭内暴力などを許容することも納得出来ない。子供をどのように躾ければ良いか。
  • 一軒の家の中に住んでいて、家族が取引関係にあって、提供するものの質で人間関係が熟成されて良い家庭になったり、家庭が崩壊したりする。そのような酷しさが求められるとマイ・スイートホームとは考え難い。それが本当なら毎日の緊張で胃潰瘍が出来そうな雰囲気、何方らにせよ真っ平御免だ。
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