「三摩地のアプローチ」
カレンダーをめくり、残り一枚のみになり、少々心細そうに十二月の風景と四週間余りの日付を示す姿を見て、破り捨ててきたページの厚み分だけ、自分の納得できる生活を送ってこれたのだろうか、と省みる今日この頃です。
山々がしだいに彩りを失っていくのと対照的に、街では、年末に向けて賑わいを呈してきます。
今年もいろいろな事故や災害、事件がありましたが、おかげさまで、信徒さまも職員も無事に過ごすことができました。これも、み仏さまのご加護を信じてご守護頂いた結果だろうと存知ます。
観音院の法主さまや院主さまが法話の中で度々、「信心」という言葉を使われます。信じる、ということは、とても大きな力を発揮します。そして、私たちにおかげや恩恵を与えてくださいます。
何かしらの幸運な出来事が起きた場合、何も信じていなければ、ただ単なる事実としてしか残りません。しかし、そこに何らかの信仰心があれば、ああ、信じて祈っていたおかげで良い結果を得られた、有り難い、という「感謝」の気持ちがそこで生まれます。
先日、遍路を重ねる先達の話を聞く機会がありました。
阪神大震災のとき、たまたま家を留守にしていたおかげで、全壊した家の下敷きにならずにすんだ。瓦礫の下を探ると、そこには、お遍路の御朱印帳が出てきて、ああ、これはお大師さまが守って下さったのだろう。これは、お礼参りをしなければいけない。
こういった経緯で、その人は遍路を何度も回ってさらに行を重ねているといっていました。
信じることで得られた結果が、さらに何かをしてみようという原動力を生み出す。そのような善き循環が存在しているようです。
医学でも免疫力、自然治癒力、信心、笑いの効用など採りいれたり、プラシーボ(偽薬)効果という言葉があるように、医学的にも、「信じる」という力に何かしらの効力があるとされています。治療効果の望めない栄養薬等を、病気に効くと信じ込むことで、本当に症状が回復に向かう。そういった事例が、実際にあるのです。
プラシーボ効果を得るためには、患者の医者に対する絶対的な信頼感と、また、医者がその処置をすることで絶対に患者が良くなると信じることが必要とされるようです。どちらかが、半信半疑でいては治療効果は望めません。
僧侶が行う加持祈祷(かじきとう)にも同様であると言えます。祈願者の皆さまが、み仏さまにお願いすればきっとうまくいく、良くなる、と信じて、僧侶もまた、祈願者の思いをみ仏さまに届け、必ずや願いがかないますようにと念ずることで、両者の思いが加持感応(かじかんのう)し、そこで霊験が得られる。そういったものであると私は思っています。
観音経にも「念念勿生疑(ねんねんもっしょうぎ)」という一節があります。観音さまの「大慈大悲」を疑うことなく、一心に念じることの大切さを説いています。
さて、仏教徒としての行うべき修行徳目としては、六波羅蜜や三学といったものがありますが、それらは、最終的に何を求めているかと申しますと、日々に十善戒を守る、仏の智慧(ちえ)です。
一口に智慧、といいましても、計算する能力とか、暗記する能力とか、処世の能力など、さまざまですが、ここでいうところの智慧とは、般若、つまり究極の智慧であり、即ち「覚る」ことです。
覚るということは、どういうことか。それは、真理に気づく、輪廻(りんね)から解脱(げだつ)し、涅槃(ねはん)に入る、など、色々な言い方がありますが、その内容は筆舌に尽くしがたく、人生を善く生き、体験した者にしか分からない境地と言えるでしょう。
初期仏教や大乗仏教において、覚りへのプロセスのうちで最も大切とされるものが、瞑想(めいそう)、禅定(ぜんじょう)です。心を落ち着けて、真理について、思惟することを三昧(サンスクリットでは「サマーディ」)といいます。
真言密教で、法身(ほっしん)大日如来と行者が入我我入(にゅうががにゅう)して、真理に目覚めるために行われる身・口・意の三密加持の中の「意密」においても、心を三摩地に置くことが重要とされています。
心を寂静にして、ありのままの真実を見つめること、それが覚りへの一歩となるのです。
穏やかな瞑想を行うための方法の一つに、瑜伽(ヨーガ)があります。ヨーガとは、本来は馬などを紐で繋(つな)いでおく、結びつけるという意味でしたが、そこから派生して、意識を縛り付けるという「精神統一」を意味するようになりました。
現在、われわれが認識しているヨーガは、複雑な姿勢をとって、体の柔軟性を高めるなど、健康面を求めるものが一般的であると思います。それは、ヨーガの中でも「ハタ・ヨーガ」と呼ばれるものから派生したもので、さまざまな体位(アーサナ)を用いることで瞑想状態を作り出すことを目的としています。
瞑想は、積極的に一般の人々も行うと良いと思います。
心を落ち着けるトレーニングを積むことで、冷静に物事を判断できるようになります。
人を惑わす三つの煩悩、貪・瞋・痴(とん・じん・ち)の三毒は、「禅定をする」ことで克服することができるでしょう。
これは、本当に必要なものか、人にお金を借りてまで買うものなのか、とか、なぜ腹立たしいのか、いらいらしている原因は何だろう、それはどうすれば解消できるのか、とか、人として道を誤っていないか、など、物事を冷静に見極める目を養えることと思います。
穏やかな心でいつづけるためには、こだわりを持ち過ぎないことが重要です。欲望を持つな、というのではなく、執着しないように、という意味です。
心に何の心配事もなく、一つの仕事を一生懸命に勤める、ということも、見方を変えれば、ある種の三摩地なのかもしれません。
お大師さまの著書『十住心論』の中で、「嬰童無畏心(ようどうむいしん)」と呼ばれる心の段階があります。嬰児が母親に抱かれている時のように、絶対的な安心感の中で恐れを抱かない心、つまり、自分が信じる絶対的な存在(宗教)にすがることで心の平穏を得ている人々のことを指します。
つまるところ、精神的な集中、三摩地を獲得する上で、何かを信じる、という行為がとても重要な部分をしめていると言るでしょう。
観音院では、今年も年末に「大掃除」を行います。掃除は僧侶の基本、行法中に三摩地に入り、ご本尊さまを壇上にお迎えします。み仏さまをお迎えする道場をきれいにしておくことは僧侶が三摩地を得やすくなり、お参りにいらっしゃる参拝者の皆さまのご祈願についてもしっかりと拝むことができます。毎月の第一日曜日午前八時からもお寺の掃除があります。お時間がありましたら、是非とも、お手伝いくださいませ。