「がらんどう」は 中が空っぽのお堂

人が沢山集まって来て、博打をさせて、寺銭を取ったのでは伽藍堂です。伽藍堂は中身が無いお堂のことです。
 信徒さんが集まって「花見の宴会」をするのは微妙なところです。
 「花見の宴会」も最初と最後に読経し、お坊さんが法話をする、これは伽藍堂ではありません。
 昔も今も本堂を出張販売の呉服屋さんに貸して席料を貰う、これは博打場にして寺銭を取るのとほぼ同じ行為でで悲しいことですね。
 お堂に仏具を入れて荘厳する、どんなに立派な荘厳しても、望ましい人々が居ないと伽藍堂です。
 観音院は大変に頑丈で立派な荘厳をしていますが、万一、一日三座の法要を怠ったり、信徒さんの参詣が無かったりすると只の伽藍堂になります。
 一日三座の法要をするようになって台風が来ようと、大雨が降ろうと、参詣者が無いと言う経験がありません。
 大きな寺院でも大雪が降って、一面に足跡一つも無い、良くある光景です。
 弟子思いの住職さんが、「今日は法要しないから、ゆっくりしなさい」なんて言われたら、立派なお堂も伽藍堂になってしまいます。
 先代も先々代も遷化するまで朝夕の読経は座して行い、座れないようになると横になったままでも読経していました。努力では無く淡々としてです。
 お堂が立派になるにはお坊さんの質が大切です。信心の無いお坊さんだと立派なお堂も伽藍堂になります。
 立派なお坊さんの定義は「覚り」が有るか無いかで決まります。
 覚っているか否かは見ただけでは分かりません。良く参詣して、いろいろ話を聞いて納得されて帰依されると良いでしょう。
 伽藍に荘厳して、立派なお坊さんが居ても、世間の人が居なければ、伽藍は空っぽと同じようなものです。
 世間の人、信徒さんと言っても良いですが、集まって居るだけでは烏合の衆と同じです。烏合と言うのは何と無く鳥が集まっているような状態のことです。お菓子を上げるから皆さん来ないと言って集めた人より始末が悪い、何の目的も規律も無く、ただがやがやと集まっている人たちのことです。
 これでは相撲見物の人たちの方が居られる方が益しです。まあ実際に芸能人に来て貰って清興とか何とかいって人集めをする寺院もあります。
 有名人を広告塔に使う団体も少なくありませんが可笑しいですね。
 お堂とお坊さんと信徒さんの関係は大切です。不可分と考えて良いです。しかし、信徒さんは老若男女を問わず善男善女人で無くてはなりません。
 お寺の門をくぐり、お堂に上がるだけでも、清められるくらいのものです。
 参詣者は如何なる人も全て善男善女人です。これが観音院の加持功徳力なのです。
 加持とはみ仏様の力で一切衆生を清め、加護することで、殊にはみ仏様と僧侶と皆さんが一体となり、災いを除き、願望が成就されます。功徳とは、善行を積まれる人となられ、その結果としてみ仏様の恵みがあります。これは難しい説明ですね。観音院は不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見を説いている寺です。
 優しい心をみ仏様に供えてください。最高の供物になります。優しい人になるよう努めてください。門を通過しただけで、罪障を清める、そのように簡単に人は善人になれません。

 法要を休み無く継続するために、僧侶は一日一日、健康に留意し、怪我をしないよう、事故に遇わぬよう細心の注意で過ごし、風邪を引くことも許されません。この僧侶の精進はみ仏様に捧げる最大の信心帰依となります。
 一生懸命の僧侶と一生懸命の参詣者の法要、この中に加持も功徳も生まれてくるのです。
 観音院の参詣者の大きな特徴は多くの参詣者が僧侶と一緒に声に出して読経されることです。ご一緒していて、所謂ご法楽というものに浸ることが可能にになります。有り難いことです。
 法要の執行される前に、一生懸命に掃除に励まれる信徒さんや僧侶の姿を目にすることができます。
 法要が済んだ後の片付けも同様で、観音院の法要はみ仏様と僧侶と参詣者が一体になってなされていることが良く分かります。
 このような日常を見ていますと、どのような仕事であっても三位一体が如何に大切か理解出来ます。