総理の富国有徳の国是について考えてみる

 第二次世界大戦以後、ソ連邦の崩壊、ベルリンの壁の撤去、東西 冷戦の終結と概して世界は平和であったように思える。  廃墟と化した日本が目ざましい復興を成し遂げ、経済的にも優れ て豊かになったように見えるが、日本経済のバブルは弾け、今日本 は不況に喘ぎ、深刻な財政赤字、世間ではリストラの嵐が吹き荒れ て失業者が増加する一方で、寒空の下にホームレスが震えている。  自殺者が年間三万人を超え、倒産する会社も多い。  繁栄を誇った日本経済が経済戦争に破れて、アメリカの一人勝ち の様相が見えてくる。  国会で野党の審議拒否という異常な状態が続いている。学級崩壊 と同じように国会すら崩壊の気配が濃厚である。  豊富な物に囲まれて、わがままに育った議員さんが多いのだろう か、戦後導入された民主主義が多数決の原理が否定されて、自分の 意見が通らなければ審議拒否、これは愚挙としか言いようが無い。  六百四十七兆円の国債を背負っている日本を富ませるのは難しい ことで、その上に有徳とはもっと大変なことかもしれない。  十善戒は優れた徳目であり、日本が不殺生・不偸盗・不邪淫・不 妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見を心掛け るならば立派なことである。  グローバル化で国境の壁が段々と低くなっている。少子高齢化社 会には移民の受入れが解決の鍵になるかもしれない。  貧しい国と富める国の所得の乖離が平衡になるまで、今しばらく は紆余曲折がありそうだ。  貧しさには多くの人が耐えられるが、不平等には誰もが耐えられ ないと思う。 五十年後を考えて 五十年経つ日本の人口が半分になるそうだ。一人の高齢者の面倒を 見るのに二人の労働者が必要になるとも言われる。お互い に人間で幸福を求めながら、民族や宗教の相違による紛争だけは二 十一世紀の課題として無くして欲しいもの、平和が良い。

住職/高田寛恵

恭敬三宝 謹賀新年 今年は明朗にやる

恭敬三宝 謹賀新年 今年は明朗にやる

二〇〇〇年ですね。二十世紀は西暦一九〇一年から二〇〇〇年までの一〇〇年間です。今年は二十世紀の仕上げの歳です。

この百年間の国民総生産の伸びは日本が世界で一番です。伸び率千六百%だそうです。

今年は健康に注意して二十一世紀に向かって生きて参りましょう。

あれもしたい、これもしたい、などと申しますと驚かれるかしれませんが、皆さんが願われることは全部やりたいと思います。

あれもしては不可ない、これもしては不可ないと思いますと沈みがちになりますから、いろいろと皆さんと一緒に考えましょう。

多少はハイな気持ちでやらなくてはと思っています。

勿論、十善戒のフィルターにかけて計画させていただきます。

現状維持も大変な観音院で、大変だ大変だと言ってみても何も見通しは立ちません。健康に注意し事故を起こさないようにも注意して、皆さんとご一緒に苦楽を共にしながら考えて行くことが大切だと思います。


世の中は悪意と危険に満ちていますが、被害妄想はやりたくありません。善意でぶっつかって行けば悪意は清められると堅く信じて道が開けることを期待します。

気も心も若く、好奇心旺盛で、新しいものを取り入れ、いろいろと勉強をしたいと思います。

今年も昨年に引き続いて激動の一年になるのは覚悟しておいた方がよいかもしれません。激動の中にあっても「約束を守る」というような基本的なことは大切にして参りたいと願います。

慎重に、かつ臆病にならず、コツコツと誠実に働き、嘘を言わないと良い将来が開けましょう。

要は不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見を日常心掛けて過ごせば、過ち少なく良き年となりましょう。


約束を大切にする

約束は人のしるし、約束無くして救いは有りません。言葉の意味も使い方も約束で出来ています。考えるのも言葉で考えています。

愛情の表現も、善意の表現も 言葉や態度で伝えます。善い心と善い態度と善い言葉で善い未来をつくるように願います。

50年後のことを考えて責任を持ちたい

 将来を考えて今日のことをしなければならない。  10年や20年は一瞬の夢に近い。30年もまた一睡の如く過ぎ 去って行く。  50年後のことを考えるには50年前を考えるとよい。  50年前には冷暖房も無く、新幹線も無く、内視鏡手術も行われ ず、抗生物質も普及して無かった。  パソコンは芽も出ておらず、計算尺なるものが使用され、携帯電 話どころかダイヤル式の電話機も一般の家庭には無かった。  自動車は未だ貴重品で、占領軍の払下げのジープが有っても走れ る道路が少なく、道幅も狭く、交通機関も少なかった。  開発途上国の日本に現在の繁栄を予想出来た人は皆無であった。  私は50年前は幼児で、どのような社会であったか、聞いた以外 はほとんど知らない。  子供のころにはテレビは無く、週刊誌も無く、今ある物の大半は 私の成長と共に世間に出て来た。  いろいろと回顧すれば感慨無量なるものがある。多くの物が溢れ るようになったが、私たちは多くの貴重なものも失った。  もっとも大きな変化は人間関係と道徳観で、核家族とか、少子高 齢化など思いもよらなかった。  この50年間の日本の歩みは、どうも目先を上手く乗り切ること に重点が置かれていたように思え てならない。  過剰生産、過剰消費、過剰設備に過剰負債、昨今のリストラは凄 まじいものがあり、赤字国債も史上最大となっているが、もう、こ こらで10年後、30年後、50年後の将来を考えるべきだと思う のだが、如何だろうか。  将来のことを慎重に考えて日々を過ごしたい。 50年後を考えて 50年経つと私は102歳になる。惰性でこのまま行っても良さ そうな気がしないでもないが、私自身は別として、その頃に日本 で生活している人たちの幸せを考えると少々不安になる。老後は 幸せな子供や孫たちに囲まれて過ごしたいと切に願う。

住職/高田寛恵

良く考えて、確実に自分の意思を伝え、約束は誠実に守る

 十善戒(じゅうぜん戒)の内で不妄語・不綺語・不悪口・不両舌 の四つは口に関することで、私たちの日常生活で、この四つの戒を 守って過ごせれば、最大の信頼を得ることが可能になります。  嘘を言わない、心にもないことを言わない、他人の短所を言った り自分の長所を言わない、信用を失うようなことを言わない。それ ほど難しいことではありません。  にも関わらず何故か「物言えば唇寒し秋の風」(芭蕉の句) のよ うに昔から考え定まらずに物を言えば禍を招くとされ、言葉遣いの 肝要が説かれています。           (鈴之僧正さまのお話を要約/田川純照 記)  用字用語と文脈に注意する        自分の希望を的確に述べる ■何を考えているか分からない、何をしたいのか分からない、目的 意識の明確でない人は不幸です。「言語」を除いて、私たちの生活 を営むことは不可能です。例えばテレビから音声を除くと、どのよ うな結果になるでしょうか。  音声だけではありません、画像も言語の一部分であるデジタルで 管理されていて、言語を除くとテレビ放送自体が無くなります。  私たちが日常使っているワープロから文字を除いたら機器として 存在の意味があるでしょうか。 「言語」は人間の証明であり尊厳でもあります。人間が持つ最も重 要なものです。  しかるに、人は何故に嘘を言うか、何故に心にも無いことを言う のか、他人の短所を言い、自分の長所をひけらかすのか、どうして 信用を失うようなことを言うのか、不思議な生き物です。  それらは全て、実力以上に自分に能力があるように信じさせよう としたり、自分の欠点を誤魔化すことに動機があります。  詐偽(さぎ)は言葉によって相手を誤認させることから始まりま す。そこから世間が期待して金銭を提供して、最初の約束が守られ ないと、刑事事件に発展します。  私たちが日常使っている言葉も内容配達証明とか公正証書とか、 判決文のようなものでないと即座には信用出来ない一面があるのは 本当に悲しいことです。  その上に書いてある文章が本人の意思に基づくものであることを 証明するために印鑑証明書を添付したり、連帯保証人をつけたり、 録音録画したりして信憑性を高める必要があります。人間は嘘を突 くのが当たり前なのでしょうか。  人は誕生して言葉を学習し        無意識に使用することが問題 ■人が誕生すると取り合えず名前を付けます。届出をする。就学通 知書が来る。合格通知書を何枚かもらって、履歴書を書いて仕事に 就く。観音院は職員に履歴書を求めませんが、世間一般では履歴書 を求めるようです。  仕事は「言葉」を省いて成立しません。打合せ、指示、連絡、報 告など全て言葉によります。  生老病死のなかでする契約とか通知などは膨大な量になります。 その膨大な言葉の中に、真実もあれば、思い違いも誤解も、想像も 嘘も創作も含まれます。  置かれた立場によっては、死刑の判決文も、単なる罵詈雑言も名 誉棄損の文書も怪文書も書くことがあります。最悪は「嘘」を遺言 として自殺する人すらあります。  欲も得も卒業したと言いながら「偽証」をする老人もいます。  深く考えて発言したり、文章を作成したりすることは普通の状態 では出来ないことです。時には慎重に、時には何げなく意思を伝え ながら、やがて何も表現しなくなると「死」に至ります。  人が慎重になったり、緊張して考えながら話したり書いたりする のは、多くは自分を売り込む場合であり、その際にも都合の悪いこ とや、相手に悪印象を与えることは出しません。最悪の場合は、こ のような重要な場合でも最初から履歴を詐称したり、時には騙す目 的で、無い事を有るかの如く説明したりすることもあります。  話をすることは生命の火が灯っているあかしです。よく言われる ように「死人に口無し」です。  非常に口巧者な人も筆達者な人もいます。それが他人に幸せをも たらすものであり、情報を適切に開示するものであれば問題はあり ませんが、人間関係を裂いたり、他人の財産を巻き上げたり、不必 要な物を買わせる手段として使われるなら、その人は自覚していな くても悪人であり、自覚していれば極悪人です。  世間には「エスキモーに冷蔵庫を売りつける」ような能力をもつ 人もいます。この人は冷蔵庫を売る会社の信用を傷つける人です。 ▼妄語(もうご)・綺語(きご)・悪口(あっく)・両舌(りょう ぜつ)は、慳貪(けんどん)・瞋恚(しんに)・邪見(じゃけん) の心から生じるもので、殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう) ・邪淫(じゃいん)な態度となり、相互に密接な関係があって不幸 の再生産となります。  悪いことは三度ある、と世間で言われていますが、そのように甘 いものでは無く、打ち寄せる波のように、次々と押し寄せて来るの が悪いことの本質で、二度や三度の悪いことは大した問題ではあり ません。 ▼悪い履歴は記録され、その人が最善の努力をして、二度と悪いこ とを考えない、実行しないような立派な人になっても、昔に行って 悪い履歴が持ち出され、現在の足を引っ張るのが社会の仕組みであ り、現代の社会は人間を更生させないような意地悪な仕組みになっ ていることは認識しておきたいものです。 ■事業が失敗するのは、放漫経営であったり、誠実でなかったり、 技術力が無かったり、事業そのものが時代に合わなくなったり、お 人好しであったり、理由はいろいろあって、必ずしも経営者の資質 性格、考え方が悪いとは言えないのですが、不渡りを出すと数年間 は銀行取引は出来ません。 ▼手形は割り引いたり、裏書きして現金同様に通用させることも可 能です。不渡りとなると、裏書きした人は連帯保証人です。 ▼手形という商業になくてはならない決済の仕組みと信用に傷を付 けると、本人がどのように善人であっても商業上の悪人です。 悪事は記憶に止まらず記録されて残される       一度の失敗をなかなか許さない厳しい仕組み ▼人間の怖いところは記憶し記録する性質です。記録は権限ある人 が消さない限り何時までも残ります。善い情報だけを残し、悪い情 報を消すことは不可能です。インターネットなどでは検索すれば、 瞬時に情報が探し出せる機能があり、個人の些細な忘れて欲しいよ うな情報もなかなか抹消されない仕組みになっています。 ■人はどのよう人でも話したくない過去の失敗の一つや二つはもっ ているものです。怖いのは自分でも忘れているようなことを蒸し返 す他人がいることで、それらを掘り起こすことを仕事とする興信所 (こうしんしょ)という組織もあります。興信所は商事または人事 について秘密に調査して、会員または依頼者に報ずる役割を果たす もので、一八三○年にイギリスで創設され、日本では一八九二年に 大阪に初めて設立されています。 ▼他人が秘していることを探り出すことは、悪口、両舌に類する行 為ですが、商人が取引きを始めるにあたり、相手をよく知っておく ことは大切なことかもしれません。 ▼秘しておきたいことに家族の歴史がありますが、お寺に過去帳を 見せて欲しいという依頼は案外に多いもので、観音院ではこのよう な調査は峻拒しています。  ところが悪質な興信所もあってお寺が見せないのだから変な事が あるかもしれないと悪い報告文書を作成したものがいます。  過去帳に記載するデータは個人の特筆すべき善行、お寺に対する 貢献、死亡年月日、享年、氏名、最近では生前の写真、戒名、施主 の氏名と住所、施主との続柄などです。過去帳は施主かその家族し か見せません。だんだんと興信所に過去帳を見せないお寺さんが増 えています。それに、昨今出自に関して記帳してあるような過去帳 はありません。  観音院の場合は戒名は全て院号居士大姉で、長生きをした年齢に 応じて禅定門とか禅定尼になります。得度を受けた人は二文字の僧 名を戒名とします。  私どもは「過去帳」は個人のプライバシーに属するものとして祭 祀を継承された方以外にお見せすることは絶対にありません。  過去帳には色々と分析出来る要素があります。長生きか短命か、 寺を大切にしたか否か、経済力が維持されているか否かなどです。  最近、観音院で開発した過去帳には、故人の声や写真などが保存 出来ます。ご本人が望まれれば画像も音声も自分史も子孫に伝える ことが可能です。  望まれれば公開も可能ですし、パスワードを付して身内だけに見 れるようにすることも可能です。  戒名は授戒して「私は佛教徒では□□と名乗ります」という意味 で、生きている内にもらうのが大切なことで、死んで戒名を付けて もらうのは、没後作僧というしきたりで、葬儀の約束事みたいなも のです。  没後作僧(ぼつごさそう)というのは、佛教徒なら授戒も受けて 僧名も持っている筈なんですが、死ぬまで正式に寺とご縁を結んで おられないので、死人に口無し-、戒名を付けて、剃刀をあてて、 一発で僧にしてしまう、乱暴かつ簡便な方法です。  考えてもみてください。生きてるうちは嘘も突き、約束も破り、 時には不倫、一生懸命に努力はされたかもしれないが、寺にも寄り つかず、僧侶なんか友人にも知人にもいない。それで死んだら佛式 で葬儀をして欲しい。そのようなしたい放題の人の葬儀は僧侶も寺 も抜きで勝手にされたらよいのですが、家の宗旨がなんて、何時も 申し上げることですが、家は宗教をもつことは出来ません。  で、お寺さんに葬儀を依頼すると、戒名料なんて変なことになっ てくるわけです。  一つのお寺を維持するには最低でも年間壱千万円は必要です。本 堂や庫裏の営繕費、僧侶の生活費や次の住職の養成費などです。そ れは日常出入りされている檀信徒さんが負担されているのです。  檀信徒平均二百五十所帯として一軒当たり年平均四万円です。寺 によっては護持会があって平常時は年間二万円、屋根の修理や子供 さんが佛教大学に行かれる時は臨時負担とか、その寺々で仕組みは 異なります。  そこへ突然に飛び込んで、にわか檀信徒で葬儀をして欲しい、読 経料は幾らか、戒名料は幾らかと聞かれても住職さんは困られるこ とだと思います。当寺は知らない人の葬儀は致したくありませんと 断るのは如何なものでしょう。  葬儀は家族や知人の死に際して遺された人たちが哀悼の意を表し て見送るのが本来の姿です。  僧侶の立場とすれば布施が幾らか、読経料が幾らかという次元の 問題では絶対にありません。  師匠の弟子なり自分の弟子の死は極めて僧侶自身の問題であり、 他人事ではありません。  それが何時のまにかサービス対価のようなものが生まれて来て、 相場はなどと聞かれると、宗教活動というより一種の商業活動のよ うな面が見られます。  これは何処かが奇怪しいので、一般大衆の嘘と僧侶の嘘が重なっ て虚々実々の関係が見えて来るように思えます。  大半の寺院の過去帳は        パソコンに移行しつつある ■多くの寺院でパソコンが導入され、回忌の案内などは自動的に文 書が発送出来るシステムになりつつあります。  観音院のこの方向の技術は最先端で、かつ最高水準のものです。  換言すれば、公開すべき運営や財務に関するものと、絶対に公開 しない守秘義務があるものが線引き作業が完全に終了しています。 ■現在3台のサーバがあって、1台は電話線との接続を禁止してあ ります。このサーバに7台の端末が付いていて、寺院の基幹となる 業務をしますが、担当者以外は閲覧もコピーも出来ません。信徒さ んの情報が外部に漏れることは構造上有り得ません。2台のサーバ は1台は寺院の中にあってDIONで二十四時間接続されていて、 インターネット寺子屋のウインドウーズ十台に接続されている他に 受付、住職、法主さん場所ごとになど、画像処理にiMACやG3 が2台、AカラーA3版などがあります。 ▼残りの1台はプロバイダに預けています。観音院の職員は誰でも メールくらいは書けますが、ぼつぼつ専任者が必要です。 ※金融界の再編成、企業の吸収合併や離合集散、リストラや失業者  の増加、史上最低の金利、史上最高の赤字国債と地方債の合計六  四七兆円、規制緩和の合唱の中で、愛社精神とか家族愛などが失  われ、愛国精神と言う言葉も無くなっている。他人を愛する心が  道徳の基盤であるが、物事は「愛」の外でなされる。 ※あまりにも急激な経済の動向は、従来の規範で考えることが出来  ない。やがては国境のような概念も希薄になるのだろうが、宗教  や文化の衝突は避けられないものだろうか。発展途上国の労働者  と高度文明国家の賃金の差が無くなるまでに、水は低きに流れる ように、しかも両者の間に深刻な苦痛が生まれそう。 ※宗教と経済の関わりについては、曲事が多い。運営と経理を公開  すれば、かなりの部分がすっきりすると思われる。寺が存在する  こと、僧侶を必要とするならば、寺の営繕費、人件費などの総計  から、檀信徒が受ける便益については簡単に原価の計算が出来て、  虚々実々の駆け引きは不必要になり信頼も増す。 ※経済とは「経世済民」の略語で佛教語では無いが、世の中を治め、  人民の苦しみを救うことで、それが次第に金銭が伴う活動の全て  を差すようになった。宗教活動と経済は不可分のもので、関係が  無いと規定すれば、寺にぺんぺん草が生え、住む僧侶もいなくなっ  てしまう。宗教が必要なら必要経費分担が望ましい。 ————————————————————————- 鈴の法話 2000-02-2 失ってみて大切さがわかる言語やイメージ      障害者や高齢者に深い思いやりの心を ◆法主さんのお話より要約◆  年齢はそれほど感じていなかったが、先ず目、続いて歯と、世間 で言われる通りに加齢による不自由が生じて来ました。  昔、ガス風呂に点火した際、漏れて溜まっていたガスに引火爆発 して、炉内のゴミと火が顔面に吹き付け、救急車も無いころで、顔 に手を当てて、目医者まで一キロばかり手探りで歩いて治療を受け に行った経験がありますが、頭の中の地図を辿って…、本当に怖い 思いをしました。  現在の乗物はGPSと言うナビゲーターを付ければ、電話番号を 入力すれば迷うことなく行きたいところへ行けます。  見えないということは大変に怖いことで、海で夜間、それも霧が 深い時など、潜水艦と同じ状態ですが、ソナーとナビゲータとレー ダーの画面で運転します。  このような場合に電源部分が故障して、何も見えない立場に置か れたことがありますが、それは怖い体験です。実際には懐中電灯が あって、修理して、困難は乗り越えたのですが、便利な生活をして いますと、画像を認識することの有り難さは感じないものです。 人の脳波を認識してデータに          変換するマシンがあるとか ■頭の中で考えたことをデータにしたり、音声にしたり、簡便な作 業を行ってくれるマシンが開発されたという話を聞きました。  残念ですが、この話は嘘だと思います。人は頭の中で考えても、 書いたり話したりする際には抑制しているものです。  感じたことや欲望が、データや動作になっては大変です。人はさ まざまなことを考えながら選択して、口や手に移していて、そこに 十善戒も必要になってきます。  それにしても、このようなマシンを付けていては滅多なことは考 えられないし、夢も見られない、人間の脳は大変な働きをしていま すから、それを言語や画像、動作に変換して取り出すことは絶対に 不可能なことで、最近この手の話がよく聞かれますが、出来ないも ものは出来ません。  かりに出来たとしても作ってはならないマシンで、クーロン技術 を人間に応用してはならないのと同じように公序良俗に反します。  耳が聞こえない、話せない、眼が見えない、時には単独で、気の 毒な場合は三重苦の場合もあります。この人たちにとっては十善戒 以前に情報を受け取り、自分の考えを伝えることが大切です。  「不邪淫」という戒律と、いわゆる「アダルト」は相容れない概念 ですが、性的知識は全ての人にとって重要なものであり、純粋培養 的に人が成長し「性」について知識の無い人を作ってはならないと 思います。  世間に有る情報の全てを入手することが可能であり、同一条件の 基で、十善戒に照合して行為に及ばざるか、どうするか判断出来る ような世の中にしたいものです。  殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・慳貪・瞋恚・邪見 なることは知っていて、判断して、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄 語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見となること が望ましいことです。 ▼点字図書館で見られる書籍はキリスト教関係など数少なく、佛教 関係の点字資料はほとんどありません。これは視覚障害者に対して 思いを致していないとしか判断のしようがありません。 ■観音院では、点字パソコン導入の計画がなされていて、今年中に は少しは改善されるよう努力がなされています。 ■コンピュータやパソコンを宗教事務に導入することに、最初は抵 抗がありました。これらは人の使う道具であり、武器のように他人 を傷つける心配は無く、筆書きがキーボードに変わることに多少の 違和感があったのでしょう。 ▼これらを使う上での倫理は情報開示と守秘義務をわきまえること です。経理とか運営議事録などは公開する。個人情報は漏洩しない ように万全の措置をとることが必要です。コンピュータはデータの コピーが短時間で且つMOなどの大容量の媒体に簡単に複写出来ま すから、寺院にもセキュリティということが重要になります。 ▼寺関係者が使うメールなどは、認証サーバを自前で設置し、ハッ カーされないようにすることを計画しています。 ■コンピュータの次元では性善説が通用しません。不偸盗の概念を 説く前に盗まれないようにガードを厳重にする知恵が必要です。 ▼観音院の高レベルの業務で使用される端末は指紋で使用者を認証 するように計画しています。 ▼十善戒を犯せる理由のひとつに「誰がしたか個人を特定出来ない ようにする技術や他人になりすます方法」がありますが、それを防 ぐ方法を確立することは悪事を未然に防ぐことにもなります。 ▼iモードのメールは大変便利なものです。大切なメールはパソコ ンに転送して、フォルダーに保存するなり、印刷をするように心掛 けましょう。 ▼メールは文書のソースで見る習慣を付けましょう、相手のブラウ ザやら、使用しておられるメールのソフトやら、多くの情報が添付 されています。 ▼シグネーチャーは三行あたりが適切です。飾り文字やら記号を並 べる必要はありません。 インターネットは真剣に         英語を日常用語として使える ■観音院はパソコン通信の時代からインターネットの時代まで便利 に使っていました。使っているドメインも一〇個もあります。  メールアドレスも発行出来るようになっています。  このような時代の変化の中で一番大切にしなければならないのが パスワードです。  パソコンの画面の横にパスワードを紙に書いて張って置くような ことは絶対にしてはいけません。  観音院には多様なインターネット掲示板やチャットなどを持って いて、信徒さんには無料で使用していただいています。  手配することがお仕事である場合は市場から淘汰される恐れがあ りますので、ご自分のお仕事を点検されて未来予測をされることが 肝要だと思います。世の中は大変革を遂げつつあります。 携帯電話の普及と人間関係の変化を認める    インターネット時代の十善戒について考える ■二〇〇〇年の成人式は散々なことになった例が多いようです。  主役は携帯電話で、三年も待たずして子供も大人も携帯電話を持 つようになると推測します。 ▼面談中に携帯電話が鳴って、長々と話をするなど、馬鹿者ではな いかと思いたくなります。  葬儀の最中に携帯でぼそぼそとやるのも、法話中に携帯を掛ける のも正しくは犯罪で説教礼拝妨害罪で罰せられることもあります。  車の運転中に携帯で話をすると高い割合で交通事故につながると かで禁止になりましたが、お寺や教会で携帯電話を使用するのも極 めて危ない行為ですから気を付けられると良いでしょう。  インターネットも携帯電話も急速に普及していますが、倫理は勿 論、マナーも出来つつあるところで、従来の人間関係とか倫理では 想定出来ない問題が起きています。  就業時間中の私用電話は原則的に禁止されています。同様に就業 中の私用メールの受発信も禁止されるでしょう。  私用メールに限らず添付文書を開くのは慎重にしないとウィルス に感染し固定ディスクのデータが消滅したり、パソコンを初期化し なくてはならないような事態も起きることがあります。  或いは、あちこちとホームページを閲覧しているとダイヤルQ2 へ自然とつながって、後日高額な電話料金を請求されます。  接続については最寄りのアクセスポイントにダイアルアップする のが常識ですが、東京の人が広島に来て、設定をそのままで使い続 けて一ヵ月の電話料金が十二万円を超えた話もあります。これなど は転勤される方などは注意が必要なことです。  アンケートなどでメールアドレスを入れなくても良いもの、例え ば「貴方の値打ちは?」というようなものを見ますと、アドレスは 入れたのと同じだと考えておきましょう。  掲示板などでハンドルだけで書き込めるものがありますが、悪戯 はしないようにしましょう。犯人を割り出せる技術があります。 ■掲示板などで、連続書き込みとか、他人の名誉を棄損する書き込 み、罵詈雑言、果ては見に行っただけでアドレスが割り出される、 書き込むと知らない人に「思いもそめないメール」が飛ぶ、マシン がフリーズするなど、さまざまな下らない技術があることも知って おきましょう。  インターネットの世界ではガード下の小便臭い匂いとか、街路灯 が付いていないとか、ここは危ないという雰囲気がありません。  ホームページや掲示板、メールの遣り取りで一番困った問題は、 身を飾り、能力を飾り、他人を中傷するようなもの、嘘、悪口など が沢山あることです。  ネット・サーフィンは余程慎重にされるべきだと思います。また、 ご自分のホームページを作成されるについては、住所・氏名・電話 番号・プロフィールなどは開示しない用心が大切です。  業務に関するものなら別として個人が個人情報を開示すると、買 わない物を送りつけられたり、ストーカー紛いの被害を受けること も珍しく無く、慎重になさって欲しいものです。  インターネットの世界も実社会と同じで、公衆電話ボックスに怪 しからぬメモ広告が沢山張りつけられているように、猥褻なものか ら、異常嗜好、爆弾の造り方など何でもありで、不倫も姦通も起き ているようです。  パソコンもインターネットも       恐れずに使いこなす気持ちに ■パソコンは風呂にでも一緒に入り、石鹸を付けて洗うようなこと をしない限り普通は壊れません。生半可の知識がある人がシステム を壊すことが多いようです。  観音院の職員ではマックを三台も壊された経験があります。常識 では考えられないような基本的なソフトを削除していました。  これは例外で、滅多に壊れるようなものではありません。寺子屋 のパソコンはNTサーバで管理していて、毎日でも初期化すること が可能です。  危険な作業をしようとすると警告が出ますから、そのようなこと は止めるべきですね。  最初の一台を購入される時は是非ともJISキーボードにしてく ださい。五十音配列は何時までも目で見て確かめてキーを確認して 打つことになります。  設定はローマ字入力が良いと思います。 ■パソコンはテレビと同じようなものです。最初は値段も相当高額 でしたが、現在では十万円を割る製品も出ています。最終的には一 台三万円から五万円くらいになるかもしれません。 ▼テレビが見れるパソコンは既に商品化されています。次々と新製 品が市場に出ますから、完成度の高いところで買うことは不可能の ように思います。 ▼声で入力出来るIBMの製品も出ています。使いやすく、価格が 段々と安くなり、性能が良くなる傾向で、自動車と同じくらいの感 覚で買えばよいでしょう。  観音院で一番古いパソコンは六年目になります。それでも使えな いことはありませんが、取り合えず間に合っているので、新機種に 買い換えないだけです。  新しい物は場所を取らず、電気代も安く、目に優しいのですが、 どうしたものでしょうか。 ■インターネットを利用して便利なものは大百科事典を手元に置い ているような性質があります、資料を調べるのがとても楽です。新 聞のニュースも読めますし、最近では音楽作品も買えるようになり ました。勿論、何でも買うことが出来ます。ホテルの予約も、航空 券の手配も出来ます。証券会社も銀行もインターネットに続々と対 応しています。 ▼小学生くらいからメールアドレスを持つのは当たり前の時代にな りそうです。現在の難点は電話代と接続プロバイダの料金がまだま だ高額なことですが、ケーブルテレビでアクセスすることは実用化 されていますし、プロバイダ料金は競争激化の状況です。 ■インターネットの時代で一番怖いことは、流通の中間業種などで すと急に注文が無くなるようなことも考えられます。 ※「善に執着することは悪事をなすよりなお悪し」とは法主さんの 言葉ですが、言葉を大切にすることは情報を正確に伝えることであ り、伝えられた情報の質が次の情報の需要を生みます。  まことしやかな情報で他人を混乱させないよう、情報は良くよく 吟味して、自信のもてるものを送りたいものです。 ※インターネットで検索して得られる情報は、如何なる大辞典をも 上回る量があります。但し、情報は選択または編集してありません。 インターネットの世界は自己責任で成立しています。  どのように判断し、何をつかみ、どのような結論に至るか、次の 行為も、結果も最初から最後まで自己責任になります。 ※ホームページでは、個人情報を掲載しない思慮が大切です。営業 や広報的なものであっても、担当者の個人情報は掲載を控えるのが 妥当だと思います。残念ですが、インターネットの世界は性悪説で 構築されています。他人を信用する場合は極めて慎重に、メールの 遣り取りや、面談をしてから、信用しましょう。 *インターネットが自在に使いこなせないと、これからは事業をす ることは不可能になります。好き嫌いの問題ではありません。欠陥 を承知しながらも使いこなして行くことが大事です。  多くの欠陥は見つけられ次第に改善されます。全ての家庭がイン ターネットにつながれる日は二、三年内のことでしょう。

法主/鈴之僧正

思いやりと、いたわりと、不殺生

■ミレニアムとは千年祭のことだか、千年はともかく五十年後くら いのことは考えておきたい。住職が五十年後まで生きる確率はある が、私は五十年後に百十七歳になるので、生存率は? ▼けれども今一番気にかかることは、三十年後、五十年後の子供や 孫たちのことである。 ■史上最大の財政赤字は国民一人当たりにすると四〇〇万円を超え るかもしれない。外国からの投融資も莫大な金額で、加えて年金な どの原資を含めて、日本に気の遠くなるようなお金が動いている。 ▼再来年からは金融機関が破綻した際のペイオフも始まるらしい。 一〇〇〇万円を超える貯金を持っている人は複数の金融機関に別け て預けることが必要になる。 ■預貯金の利息と年金で生活している人には当分は冬の時代。老後 の生活設計を立てることが不可能になりつつある。 ▼確定拠出型年金は自己責任で資金を運用するもので、これも難易 度が高く一般の人には難しい。 ■個人個人がインターネットで資金を運用することは普通のことに なる。さりとて株価が永劫に上がり続けることなど無いわけで、個 人の一挙手一投足がそのまま、その人の将来の幸不幸を決める。 ■お寺も大変な時代に突入しつつある。葬儀や法事で日々が過ごせ ない。一々詳説はしないが、寺に高性能のサーバーを設置して、信 徒さんの情報管理の手伝いとか、様々な情報を提供する機能を整備 しつつある。 ▼別けても大切なのは「ものの考え方」で倫理道徳を復興し、過ち 少なく、幸せの多い生活を導いて行く責任がある。 ※今年生まれた子供は三十年経てば世間を背負って立つことになる。 この子供たちに何を用意してやれるかが、そのまま将来の日本の姿 になる。子供の特技を伸ばし、その子が幸せに過ごせるよう環境を 整備し、深い思いやりで育てることが望ましい。

法主/鈴之僧正

三宝を敬って果報を得た話

 大伴屋栖野古(おおとものやすのこ)の連の公(むらじのきみ) は、紀伊の国名草郡の宇治(和歌山市紀三井寺宇治)の大伴一族の 先祖(とおつおや)である。  人柄が生まれながらに純粋で、人情に厚く、三宝(佛と、佛の教 えと、佛の教えを学習する佛弟子集団の三つ)を尊びあがめていた。  大伴屋栖野古に関する資料を調べると、次のように書かれている。  欽明(きんめい)天皇の御世(みよ)に、和泉の国の沖合の海中 に、楽器を演奏しているような音が聞こえてきた。  それは横笛、十三絃の筝(そう)、七絃の琴、それに竪琴も加わっ た合奏のようでもあったし、あるいは雷鳴が、腹の底にとどろきわ たるような重々しい響きでもあった。  そしてそれは、昼は鳴り、夜はひかり輝きながら、陸地を指して 東へ東へ流れ、ゆっくり近づいて来るのであった。  その不思議な噂を聞いた大伴屋栖野古は、さっそく天皇のお耳に いれることにした。が、天皇は口を閉じて、何も言われなかった。  そこで屋栖野古は、皇后(おおききさき)に話すことにした。  すると皇后は、「ならば、汝が行って事実を確かめるがよい」と じきじきにお言葉をいただいた。  喜んだ屋栖野古は、ただちに飛鳥の都から山を越えて、和泉の国 の海辺へと向かった。  彼がそこで見たものは、落雷に撃たれた大きな楠木であった。  飛鳥へ帰ってきた屋栖野古が、皇后に報告する。 「高脚の浜(大阪・堺市浜寺海岸に、大きな楠が流れついておりま した。つきましては、お願いがございます。この屋栖野古にその楠 で佛像を作ることをお許しください」とお願いした。  皇后は、「汝の好きなようにするがよい」と、お聞き届けになっ た。  屋栖野古は大喜びである。さっそく嶋の大臣(しまのおおおみ・ 蘇我馬子のこと。馬子は屋敷の庭園内に広大な池をつくり、池の中 に島があったことから、そう呼称された。最近、当時の庭園跡が発 掘されている)に、皇后の言葉を伝えた。  大臣の馬子も喜んで、池辺直氷田(いけべのあたへひた)に佛像 彫刻の監督を依頼することとした。  このようにして彫りあげた弥陀(みだ)三尊像を、飛鳥の豊浦寺 (とゆらでら・馬子の父の蘇我稲目建立)の金堂に安置して、人々 の信仰をあつめることとなった。  ところがここに、そのことを非常に苦々しく思っている男がいた。  物部弓削守屋(もののべのゆげのもりや)の大連(おおむらじ) である。  守屋は、皇后にこう言った。 「およそ、我が国は神の国であります。どうしてそのような国に、 どこから来たか定かでない外国の佛の像など、敬う必要がありまし ょう。即刻かの佛を廃棄させてください」  血相をかえて詰め寄る守屋にはある種の決意がうかんでいる。  佛のことで、大きな政治問題にも発展しかねない事態を憂慮した 皇后は、ここは事を穏便におさめるしかないと、屋栖野古に、「守 屋の大連がうるさいことを言ってきたから、あの佛像を早くどこぞ に隠しなさい」と命じた。  屋栖野古は、皇后の意をすぐさま池辺直氷田に伝えて、その佛像 を、稲束の倉庫の中に隠した。  一方、物部守屋は、血眼になって佛像を捜したが、どうしてもそ の所在が分からない。  かくなるうえは最後の手段とばかり、とうとう豊浦寺に火をかけ て焼き払い、お寺にあった諸佛の像を略奪して、難波の堀江に流し てしまった。  そして屋栖野古を責めていう。 「いま、国家(みかど)に多くの災厄(さいやく)が起こるのは、 すべて、隣国から渡ってきた客神(まれひとがみ)の像をこの国に 置き、一部の者たちがそれを崇(あが)めているからだ。  国にわざわいをもたらす佛像はただちに豊国(韓国のこと・その 頃は韓国を宝国、財宝国などと言っていた)に流し棄てなければな らない。お前が楠木で作った佛像とやらも、隠しだてしないですぐ に差し出さないと、わしにも考えがあるぞ」と、目を怒らせて威嚇 した。  屋栖野古は、固くくちびるを噛み締めて、守屋をにらみ返した。  ここにいたって、物部守屋の大連の腹は決まった  佛を信仰する崇佛派(すうぶつは)がそういう気なら、佛を排斥 (はいせき)するこちら側もそれに対抗し、断固として佛をこの国 から締め出し、大臣馬子を頂点とする崇佛派を一掃してやろうと、 ひそかに機会を窺っていた。  人々の上に立って国を取り仕切る立場にある政治家が、こんな考 えをしていて、国の平和を保たれるはずがない。  ここに、天も地も、物部守屋の大連の所業をにくむところとなっ て、用明天皇の御世、とうとう守屋は蘇我馬子側に平定されてしま った。  と同時に、それまでひた隠しにしてきたくだんの佛の像を、稲束 の倉庫の奥から取り出して、誰はばかることなく後の世に伝えたの である。いま、奈良の吉野の比蘇山寺に安置して光を放つ阿弥陀三 尊像が、これである。  時が移り、皇后が癸丑(みずのとうし)の年の春正月、推古天皇 として小墾田(おはりだ)の宮に即位された。  その元年の夏、推古天皇は、厩戸皇子(うまやどのみこ・聖徳太 子のこと)を立てて皇太子とされたのである。  そのさい屋栖野古は、皇太子のそば近く仕える重要な補佐官に任 命された。  推古十三年の夏五月、「汝の功績は、とこしえに忘れがたいもの がある」という、天皇のお言葉とともに、屋栖野古は大信位(推古 十一年制定の位階・十二位階中の第七位にあたる)を賜った。  推古十七年春二月、皇太子は屋栖野古に、播磨の国揖保郡(兵庫 県姫路市の西郊)二百七十三町五段余の水田の管理を一任された。  推古二十九年春二月、皇太子が斑鳩宮(いかるがのみや)におい て薨(みまか)られる。  太子の死を悼んで、屋栖野古は出家を必死に乞いのぞんだが、天 皇はお許しにならなかった。  推古三十二年夏四月、一人の、外見だけは見るからに立派そうな 僧が、あろうことか、手にした斧で老父を叩いているのを目撃した。  屋栖野古は、すぐさま天皇に見てきた有り様を奏上(そうじょう) し、彼の考えを付け加えた。 「あのような非道をはたらく者が他に居るとも思えませんが、いや しくもみ佛に仕え、民を教化(きょうけ)する僧の行状をこのまま 自由放任していては、佛教の将来のために良くありません。これか らは僧や尼僧のおこないを取り調べ、上座の者を置いて悪を正し、 事の是非を判定させるようにしたら如何でございましょうか」と提 案した。  天皇は「その通りです。お前の思うように取り計らってみなさい」 と、お許しになった。  そこで屋栖野古が、出家者の人数を調べてみると、僧が八百三十 七人、尼僧が五百七十九人だった。  このような経緯があったのちに我が国における初めての僧綱〔そ うごう、僧正(そうじょう)・僧都(そうず)・僧頭の総称〕が組 織された。  そのさい任命されたのは、僧正が元興寺の百済僧(くだらそう) 観勒(かんろく)師、僧都が鞍部徳積(くらつくりのとこさか)と 屋栖野古であった。  推古三十三年冬十二月、大伴屋栖野古の連の公は、その頃住んで いた難波の地で卒(みまか)った。  遺体は、普通でない香りが立ちのぼり、よい匂いがした。  推古天皇は、屋栖野古の野辺の送りを七日間差し止めて、生前の 彼の功労をたたえ、偲(しの)ぶことにした。  そうこうしていると、その三日目、屋栖野古は突然、生き返った のである。  彼は妻子にこう話して聞かせた。 「五つの色の美しい雲があった。それは虹のように北の空にかかっ ていた。その雲の道を行くと、世に名高い妙香が入れ代わり立ち代 わり、鼻腔(びくう)をくすぐる素晴らしい香りだった。  道のほとりに黄金の山があった。その輝きの照り返しが顔にあたっ て眩しかったが、見ると、そこにお亡くなりになった聖徳太子のお 姿があった。勿体なくも、私をお待ちになっていたのだ。  太子のお供をして、しばらくの間一緒に山に登った。  その黄金の山の頂きに、一人の比丘(びく)がいた。比丘は太子 に敬礼(きょうらい)したあと、私に向いて、「わたしは東の宮の 童(わらわ)です。あなたは今より八日後の夜、剣難(けんなん) に遭遇しますので、それを避ける仙薬(せんやく)を差し上げまし ょう」といいながら、手に巻いた飾りの輪から一つの玉を解いて、 私に服用させた。  それから「南無妙徳菩薩」と三回私に唱えさせたあと、聖徳太子 に恭しく一礼して、去って行った。  ややあって、太子がおっしゃるには、「屋栖野古よ。お前はすみ やかに家に戻って、ほとけを作る場所をきれいに掃除しておきなさ い。わたしはこれより佛前に懺悔(さんげ)しおえれば、宮に還 (かえ)ってみほとけを作るつもりでいる—-」と。  —-そういうわけで、さっき来た道を引き返していると、いつの まにか正気づいた、というわけで不思議なことがあるものよ」と、 ひとつ安堵(あんど)の大きな溜め息をついた。  この話を聞いた時の人々は、屋栖野古のことを、活き還った連の 公と呼んだという。  また時が移って、孝徳天皇の御世六年、秋九月、屋栖野古は大花 上の位を賜る。  そして春秋九十有余歳にして、こんどこそ本当に卒(みまか)っ た。 佛教伝来(ぶっきょうでんらい) 寅さん 佛教が日本へ伝来したのはこの屋栖野古とか馬子の時代で はないはずでしょうか—-? ご隠居 今回の話はあくまでも奈良の薬師寺の景戒(きょうかい) さんの書かれた説話だ。  佛教が日本に入ってきたのは、日本書紀によると欽明天皇の十三 年(五五二)、法王帝説、元興寺縁起などでは、これより十四年前 (五三八)だな。 寅さん で、そんな昔、佛教はすんなり日本に受け入れられたんで すか? ご隠居 なかなかどうして。馬子と守屋がほとけをめぐって深刻に 対立したように、その彼らの一代前の親同士、蘇我稲目と物部尾輿 (おこし)の二人も、物凄いいがみあいを演じている。  ことは百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)が金銅の釈迦佛 一体と若干の経典をそえて欽明天皇に献上したのに始まった。  天皇が群臣に意見を聞く。 「佛というものの顔かたちを見るとまことに端厳で、これまで見た ことのないほどのものだが、敬うべきであるか、否か」  稲目がまず答える。「西方の諸国がみな信奉(しんぽう)してい るものを、日本だけ信奉しないでは、笑い物になります」  次に尾輿が、「わが日本は古来より天神地祇(てんじんちぎ)百 八十神(ももあまりやそのかみ)の国です。蕃神(ばんしん)など を信奉されては、国神(くにつかみ)の怒りにふれ、たたりをこう むります」と反対した。  こんな相反する意見が出たので天皇も困った。仕方がないので、 「稲目が信奉したいというのだから、これは稲目にやろう」と、佛 像その他を与えた。  悪いことにその頃、得体の知れない吹き出物が流行しはじめた。 排佛派の旗頭(はたがしら)である尾輿がそれみたことかとばかり に、「この前あれほど申し上げましたのに、お聞き入れがなく、異 国の神を信奉させたりなさるので、こんな災厄がふりかかりました」 と、天皇に迫ったから、天皇もやむを得ず、佛像を難波の堀江に棄 てさせた。 寅さん なんだか日本霊異記によく似たはなしですね。 ご隠居 崇佛、排佛の争いは、このようにいったんは排佛派の勝利 となったが、その後は歴史に明らかなように佛教は着実に日本に根 づいていった。 寅さん それにしても稲目の子が馬子、尾輿の子が守屋と、親子二 代にわたって壮烈にやりあったことになりますね。 ご隠居 では、屋栖野古の話に戻って、この話のオチを説明して物 語を締めくくろうか。 寅さん へえ、オチがあるんで? ご隠居 童(わらわ)が屋栖野古に「八日後に剣難がある、と言っ たのは蘇我入鹿が中大兄皇子に誅殺(ちゅうさつ)されたことで、 あの世の八日はこの世の八年にあたる。妙徳菩薩とは文殊菩薩のこ とで、黄金の山というのは中国の五台山のことだな。  また、東の宮とは、日本の国の意味で、その宮に還り、ほとけを 作るというのは、聖武天皇が日本の国に生まれ、お寺をつくり、佛 をお作りになるという意味だな。  そして、この時代に活躍した行基大徳は、文殊師利菩薩の生まれ 変わりであって、これはたいそう奇異なことである、と霊異記の著 者景戒和尚は話を結んでいる。

恭敬三宝・春から縁起の良い人たち

「龍」の当選者 ■龍のことを英語でDRAGONといいます。ドラゴンも正解とし ました。正解者を抽選して二十名様に贈呈します。家内安全と開運 厄除けが祈願してあります。 電子辞書広辞苑 ■広辞苑で広辞苑を引いても「該当項目がありません」と表示され ます。正解者を抽選して二名様に贈呈しました。 身代わり観音様 ■応募者を抽選の上、二十名様に贈呈しました。 二月のクイズ ■「ど忘れ漢字も答え一発、ポケットサイズ、漢字七万五千語、和英 二万二百語、英和八万六千四百語に電話帳メモや十桁計算機能も付 いているもの」を二名さまに。 ■問題■地名「長万部」のフリガナは□□□□□□です。 ■解答の分かった人は二月五日までに観音院副住職会に必着するよ う葉書で解答をお寄せください。郵便番号・住所・氏名・年齢、電 話番号をお忘れなく。 ■「SHARP MPEG4」を一名様に。 問題「用途は?」応募の決まりは前項と同じです。 ■何度もお願いすることですが、家族や親戚の名前を使った大量応 募は止めてくださるようお願い致します。一枚一枚を仕分けするこ とは大変な作業となります。 景気の底離れ ■悪い景気も飽き飽きして来ました。最近は少し良くなったという お話を聞けることもあって、これで$が一〇五円くらいで落ち着い て欲しいものです。 ▼今年の卒業生の就職内定率は史上最低で若い人のことが大変に心 配に思われます。  三十才台で人材、五十台は廃材なんて言われるのは余りと言えば 余りなことです。  それにしても、大学高校の今春の求職者に十人中七人しか就職内 定が出来ず、就職が出来ても大体三割はミスマッチだそうですから、 気の毒な事態だと思います。 ▼自分の好きな仕事をするには欲望を低く抑えなくてはなりません。  どうか、求職活動をして、少々ミスマッチがあっても、辛抱して 仕事に精励されることをお願いするものです。 節分厄除け法要 ■お正月には大般若転読法要が元日の零時と二日の午前十時と連続 して執行されたにも関わらず、本堂満員のお参りで、真に有り難く 厚く御礼申し上げます。 ▼節分厄除けは正月二十二日から二月三日まで、吉例の「一本うど ん」を接待いたします。 ▼福引も大入り福袋も、引き続いて行っています。 ▼法要は毎日午前十時と、正午十二時、午後二時から年中無休で執 行させていただいています。御家族お揃いでご参詣ください。 役員会ご案内 ■平成十一年度の決算と平成十二年度の予算を審議するための宗教 法人「観音院」の評議員会と責任役員会を平成十二年四月十五日の 土曜日午後六時に開催致します。 ▼役員改選の件  従来の役員さんの再任が希望されています。 ▼決算並びに予算の承認 ▼隣接地購入の一切の権限を代表役員に付与する。 ▼その他、信徒さまの提案事項 ■観音院をこのようにしたら良いというご提案がありましたら三月 末までに文書でご提案ください。 ■決算見込み、昨年並で経理は移行しつつあります。 ■場所、観音院 客殿。  ご案内状は四月一日に発送致します。ご多忙中恐縮ですが、役員 各位様におかれては万障お繰り合わせの上、ご出席をお願いします。 ■傍聴について、何方様でも傍聴を出来ますが、粗飯を用意します ので、前日までに電話でご連絡を賜りますよう願い上げます。

恭敬三宝、謹賀新年、今年は明朗にやる

二〇〇〇年ですね。二十世紀は西暦一九〇一年から二〇〇〇年までの一〇〇年間です。今年は二十世紀の仕上げの歳です。

この百年間の国民総生産の伸びは日本が世界で一番です。伸び率千六百%だそうです。

今年は健康に注意して二十一世紀に向かって生きて参りましょう。


あれもしたい、これもしたい、などと申しますと驚かれるかしれませんが、皆さんが願われることは全部やりたいと思います。

あれもしては不可ない、これもしては不可ないと思いますと沈みがちになりますから、いろいろと皆さんと一緒に考えましょう。

多少はハイな気持ちでやらなくてはと思っています。勿論、十善戒のフィルターにかけて計画させていただきます。

現状維持も大変な観音院で、大変だ大変だと言ってみても何も見通しは立ちません。健康に注意し事故を起こさないようにも注意して、皆さんとご一緒に苦楽を共にしながら考えて行くことが大切だと思います。

世の中は悪意と危険に満ちていますが、被害妄想はやりたくありません。善意でぶっつかって行けば悪意は清められると堅く信じて道が開けることを期待します。

気も心も若く、好奇心旺盛で、新しいものを取り入れ、いろいろと勉強をしたいと思います。

今年も昨年に引き続いて激動の一年になるのは覚悟しておいた方がよいかもしれません。激動の中にあっても「約束を守る」というような基本的なことは大切にして参りたいと願います。慎重に、かつ臆病にならず、コツコツと誠実に働き、嘘を言わないと良い将来が開けましょう。

要は不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見を日常心掛けて過ごせば、過ち少なく良き年となりましょう。


約束を大切にする

約束は人のしるし、約束無くして救いは有りません。言葉の意味も使い方も約束で出来ています。考えるのも言葉で考えています。愛情の表現も、善意の表現も、言葉や態度で伝えます。善い心と善い態度と善い言葉で善い未来をつくるように願います。

住職/高田寛恵

健康で、明るく、楽しく生きることを願う。 十善戒を前向きに受け止めて皆さん仲良く。

「佛教徒であることを即質実に修行して、ああしては不可ない、こうしては不可ないと、がんじがらめで考えるのは間違い」だそうです。

「生涯を充実して生きること、生まれて来て良かったと感謝出来るような、一日も長生きが出来るように願えるような、そのような立場に人をおくことが救いだ」。このようなお話を聞けるとご安心されると思います。修行しなくては、修行するぞ、それでは、まるで強迫観念に支配されたような毎日で、息苦しく感じます。佛教は幸せのためにあります。(文中の要約文:田川純照)


恭敬三宝、謹賀新年、今年は二十世紀の締めくくり。

恭敬三宝は帰依佛・帰依法・帰依僧のことです。佛教徒のあるべき生活態度を表したものです。

大晦日の午後十一時ころから三々五々に参詣なされた方に正賀湯(生姜湯に砂糖を加えた飲物)を接待し、百八煩悩を滅する鐘を鳴らし、法主さんの新年挨拶、続いて、大般若転読法要が執行されます。毎年の積み上げですが、法主さんは新年のご挨拶に出ることについて体調を調えることに相当な神経を使っておられます。


法主さんのお話より

今年は二十世紀末(西暦一九〇一年の年初から二〇〇〇年の年末までの一〇〇年間の最後の年)に相当し、気持ちが高揚するような一面があります。

地球が出来て、生物が発生して、人間のような知能を持つ生き物が出来るまでには六〇億年もの時間が必要とかで一〇〇年も一〇〇〇年も余り大きな相違ではありませんが、平均寿命が七〇歳や八〇歳を超えるようになっても、一〇〇歳を超える人は珍しく、二〇〇〇年などという切りの良い年を跨ぐことは、まあ目出度いことです。

世紀末に何か悪いことが起きると予言しては不可ません。良いことも悪いことも何時でも起きますし、お天道様のことは予測がつきません。

一人ひとりについて言えば、自分の生老病死の方が余程大切なことで、衛生や医学の進歩などて人間の寿命が延びても、生まれて来たら老病死は避けられません。

節分星祭は年越しの日に際して、幸多き新しい出発を神佛に祈る。

一一〇〇年くらい昔の宇多天皇の頃、鞍馬の奥に二匹の鬼が住んでいて、都に危害を及ぼすので、天皇は毘沙門天に霊示を受けて、三石三斗の煎り豆を鬼に目に投げて退治した故事から「福は内、鬼は外」といって豆撒きをするようになり、追儺といいます。相当昔からあった行事です。

一年は春夏秋冬で回っていますが、節分は立春の前夜、冬と春の季節の分かれ目に幸多き年となるように祈ります。新年初詣や年末のお礼参りと重なり、観音院では十二月から二月の十三日くらいまで厄除けと招福のご祈願が行われています。

十二月三十一日の年越し法要くらいから福引があったりして沢山の参詣者があります。

星祭は護摩木を壇上で焚いてご祈願します。元日は四座、日常は毎日三座執行しています。

護摩祈願は、御佛様の智恵の光をもって、願主の迷いや不浄な心を焼き払い、清浄な心で災厄や悪意を消し、幸せ多く良い人間関係に恵まれるように祈ります。

観音院の法要は祈願と合わせて願主のご先祖さまの菩提を弔うのが常で格別な特徴になっています。

これは想像を絶する修行で五年とか十年と、期間を定めたものでは無くて、毎日のことで、さりとて修行しなくては、修行するぞ、修行しなくてはで執行出来るような生易しいものではあのません。

観自在も通巻二百四十号を超えましたが、努力して発行するような考えでは残酷物語です。寺のことを皆さまに報告したり、行事の写真を撮影したり、ホームページに転載したり、それらを楽しみにやってなくては浮かばれません。

世間様が良くやっていると誉めてくださることは、実際には淡々と余裕をもってなされなくては担当者は苦労だけになります。

何事も明朗に、さりとて脱線せず、余暇には趣味をもって、旅行したり、オフ会をもったりして楽しく充実した日々を送っています。

法主さんは見掛けは窮屈な立場ですが、夜は十時には帰寺されますし、定期検診は受けられるし、泥酔されることも無いし、適当に運動もされていて、真面目で几帳面ということが幸せなんです。

生きることや仕事がだんだん辛くなる、どうしたら良いだろうか、仕事をすることや生きることが辛くなる、休みたい・死んでしまいたい、どうして良いか分からない、休むと仕事が溜まる、頑張らなくては、頑張っても駄目、どうして良いか分からない、毎日が辛くなるような「悪循環」は絶対に避けて頂きたいと願います。

法主さんはコツコツと誠実に生きて幸せを実感できて、それを周囲に及ぼし、皆で幸せになる方法を示しておられるだけです。

慈悲は佛教の実践の中心の徳目、慈悲は佛であり、それで凡夫は救われる

観音院の慈悲は境内建物では頑丈に設えてあって、防災に十分の配慮が払われていて、維持する檀信徒さんに永い目で見て負担が余り掛からないように出来ています。

本来は板で造る縁側部分が黒御影石で出来ています。これは雑巾掛けの労力を省いた構造で、須弥壇も黒御影石で防火上の配慮、境内の石畳は草抜きの労力を省くこと、その他にも専従者の労力を省く工夫が全体にしてあります。

運営の上では経理の公開や議事録の開示、世襲制の廃止、後継者の養成など、多くのお寺さんが悩んでおられることが排除してあり、心配が無いような慈悲が具体的に採り入れられています。

出入り禁止の場所がありませんので、公序良俗に反する活動が不可能になっていて、これも慈悲の構造的な具現です。

勘定科目の中に檀信徒奨学金があるのも珍しいことです。

保護を受けている世帯の子弟で高校で月額三万円、大学で五万円で、卒業後に返済を求めません。

ただし、奨学金ともなれば成績が優秀でとか、留年すれば打ち切られるとか、予算が厳しい時には募集をしないとか、ここらあたりは慈悲に限界があり、宗教法人では止む得ぬことかと思います。

僧侶や寺院職員の守秘義務は、医療情報以上の守秘義務で絶対に漏洩することが無いように決められて、懺悔告白については犯罪に関しても自首は勧めても寺から通報するようなことはありません。

僧侶や専従職員の役宅を歩いて三分の位置に用意するとか、法主さんと住職さんの何方かが寺に必ず居られる態勢なども、三百六十五日毎日法要が執行され、二十四時間、寺の門が開いていることも慈悲の表現です。

災害用の青いビニールシート類を備蓄していることも、発電機を二重に備えつけていることも全て慈悲の直接的表現です。

寺院も自由競争の時代に突入、世間から選択して貰えるお寺

慈悲を標榜する観音院にあっては、慈悲は太陽のようなもので、日陰に居る人には当たらないと鷹揚に構えていることは出来ません。

慈悲は売り物でも無く、価格もありませんが、求める人に慈悲を用意し、積極的に世の人びとに差し上げなければなりません。

判りやすい例を上げれば大学です。小子高齢化社会で子供が激減し、社会からは即戦力の卒業生を求められる、大学生は入学後は遊んで授業に身が入らない。つまるところは興味深い授業、良い先生を用意すること、産学共同と言われる通りに社会と密接に協力したものでなくてはなりません。

お寺も同様です。檀家制度は徳川幕府のキリシタン禁制の下で、寺請け制度の中で人別帳を預かりがっしりした制度と規制の中で温存されてきた一面があります。

現在のような核家族や都市集中化、家庭の崩壊は予測していません。市民は寺を自由に選択出来るように憲法で保証されています。

葬式佛教とか葬式坊主と言われるのは厭なことです。日常的に皆さまの生活に関わって喜怒哀楽を共にするような、社会に組み込まれた寺院として機能することに大変な努力を続けています。

慈悲、慈悲と言うのも書くのも簡単ですが、寺として慈悲をどう示すかというのは、私たちは真面目に考えているだけに大変なことだと思います。台所や便所を綺麗に清潔にすることも、紛れもない慈悲の行いです。

寺子屋を運営し、パソコンを使用してもらうのも慈悲です。食事時に粗飯を提供するのも同様です。

驚かれるかもしれませんが、御佛様を大切にするのも慈悲です。

「慈悲」について法主さんに意味を聞いてみました。

■法主さんのお話■

慈悲とは佛さまが衆生をあわれみ、いつくしまれる心。一説に、衆生に楽を与えるを慈、苦を除くを悲という。難しいね。

相手の立場で考えて、相手の喜ぶようにして上げること。但し、慈悲には銀行業務と保証業務は含まれない。司法にも医療にも殆ど無いと思った方が良い。

英語のMEYCYで正解だと思うけれど、詳しくは中村元博士の「慈悲」を読んでください。

慈悲深い人の心の中に無慈悲が住んでいる。鬼の目に涙といって無慈悲な人の心にも慈悲深いものがあったりする。

多くの人は慈悲深い方になることを志していて、無慈悲を標榜する人は出会ったことが無い。

多くの場合、慈悲深い人は経済的に恵まれていることが多く、その日暮らしでは無い袖は振れぬ。

慈悲と言う言葉の解釈はとても難しい、人の言動から滲み出るようなもので、観察期間が必要。

法律に基づいて仕事をしている警察官とか裁判官が恣意に慈悲を振り回したら世の中は無茶苦茶になる。学校の先生の採点が甘くなれば失格だし、医師が無料で薬をじゃんじゃん出したら病院は立ち行かない。

私は慈悲深い僧侶か、僧侶は誰でも点検してみる必要がある。

旅行ではグリーン車かFクラスに乗りホテルも一流。寺では冷暖房完備で、新鮮で工夫された料理を食べている。溢れるばかりの皆さんの思いやりの中で日常を過ごしていて、大変に感謝していますが、さて私が慈悲を標榜する寺院の教義の責任者として口先で慈悲を唱えるのではなく、慈悲の実践について常に点検しなくてはならない。

◆法主さんは皆さんと共に◆

法主さんの日常は職員や信徒の皆さまに提供する食事と同じで、お客さまとレストランなどに行かれた場合に、コースであれば半分程度、アルコール類は召し上がりません、食が細いのです。外出は全て仕事で、車両やチケットの手配は全て私どもが手配しています。

法主さんは慈悲深い僧侶だと思います。内緒事が一切ありませんし、ご自分で買物をされません。

膨大な人と面談され、善く拝まれ、生活は規則的で、これといった欲望をもっておられません。

物とか地位とか、これといって執着されるものが一切有りませんので、周囲の人間は応対に大変に気を使います。

気を使うようでは厭がられますし、粗末にも出来ない、そのようなところが難しい点です。

何時までも長生きしてくださるよう祈りながら、目立たないように、皆さんと相談しながら法主さんに仕えて参ります。


佛教には静とか無我とか無欲など欲望を押さえるようなイメージがあって、明るく楽しく生きる発想は持ち難いように思われています。加えて葬儀の場合などに佛教と触れられる機会が多く誤解があります。十善戒は間違い少なく人生を充実して生きるためにあって、佛教は日常生活に役立つ心強い知識です。

生涯を善人として過ごすか、疑問符を背負って生きて行くか、損得を離れて考えれば、善人として生きる方が人間関係は良くなります。善なるものに執着し過ぎると周囲の迷惑となる場合もあります。物事はほどほどに、出来れば善い人としてご近所や同僚などから評価される方が生きるのが易しいと思います。

お寺さんも世間と同じように競争の中にあって、檀家制度の中で安閑としておれないことを自覚しなくてはなりません。何を世間さまにお寺が提供出来るかが大切になります。観音院は経理と運営を公開する信徒運営のお寺です。どのように在れば良いか皆さまの提案と、より良い奉仕で、存在したいと願います。

執着を全て無くすと慈悲の対象すら失うことがあります。欲望を滅することで自分一人の問題は全て解決して結構なことだけれど、それでは石ころと同じに成りかねないので、そこから慈悲を生み出すのは御佛様にお縋りするしか道は無く、慈悲をどのように示せるか、皆さんとご一緒に考えて参りたいものです。


人間がいて、社会があって十善戒も慈悲も、大海原の孤島に一人で住めば、生老病死だけ。

船が難破などして、大海原に一人が流れ着いて孤島で生きて行くことになれば、その人は慈悲心を持とうにも相手がありません。

孤高という言葉がありますが、人並み優れた修行をして涅槃の境地に赴いた人は、ともすれば周囲に一切の関心が無くなる。執着も無ければ、関心も無い、それは結構なことだけれども、その境地から慈悲を示して行くようなものでなくてはなりません。悟りを求める者の陥りやすい独善で、周囲の人との協調、周囲に対する感謝、自分の体験や考えていることを社会に表明することは非常に重要な役割になります。

法主さんが地位や金銭、物品、人間関係などについて執着を完全に解脱しておられることは周辺の人は理解しています。ですが、観音院に対して密接であり、信徒さんをとても大切に思われて生きておられます。同時に、屁理屈や得手勝手な主張をすると、縁が切れてしまいます。馬面人参方式も通用せず、動機付けの材料がありません。全ての人は漠然と好みの方向に流れて行く傾向があります。

法主さんはご自分の人生については、思い残すことなく整理されていて、早く引退され、以来もう十四年、幸いにも健康状態に細心の注意をされていて、大胆なことは決してされません。自分の不注意で病気になったり、怪我をしたり、寝ついたりしたら申し訳が無いと言われます。健康に注意するのは、自分の身体であって自分の身体でない、だから大切にされるのだそうです。


結婚しなければ子供も出来ない、子供の将来で苦労もせずにすむ

この世に生まれて来て、成長して、勉強して、結婚して、子供が出来て、これは大変に幸せなことです。多くの宗教は聖職者に家庭を持つことを認めていません。そのような意味では明治五年の「僧侶の妻帯勝手」という法令以来、多くの僧侶は大変に苦労されているように思われます。僧侶が妻子を持つことは、考え方次第では大変な悩みを持つことと同じです。妻子の将来を考えると資産が必要です。資産を持つには収入とか、倹約とか、愛情とか、運用とか、さまざまな知識が必要になります。子供の教育とか、その子供に寺を継がせたい、このように考えることは普通の親です。自分の老後のことも気に掛かります。

そのような家庭事情をもっていて、僧侶たらんとすることは大変な矛盾です。ある意味では葛藤かもしれません。

お釈迦さまが出家された際に周囲は全て放棄されています。動機として生老病死苦などが上げられていますが、お釈迦さまと人間関係があった人々にとっては辛い決断があったと想像されます。

法主さんが家庭についての精神的負担を滅せられるまでには、この問題に気付かれて約三十年の歳月を要しておられます。全ての人に平等に人間関係を始めるだけでも相当慎重な努力が重ねられているようです。

住職であることを辞める、宗教法人の責任者としての苦労、観音院の場合であれば職員の生活を保証する責任、それだけでも小企業の社長さんと同様の責任はあります。採用とか仕事の割り振り、そのようなことは僧侶の立場としては関わることが難しいのです。


住職は源泉徴収義務者でもあります。寺院財産の管理責任者でもあります。これらは極めて世俗的なことで、悟りを求めることとは全く関係がありません。

火災保険、社会保険、生命保険など、いわんや預貯金の管理や帳簿の整合性など、僧侶の関わることとも思えません。尤も、この時のご苦労が法主さんの現在の心境を保証する年金となって役立っているのですから、皮肉と言えば皮肉ですが、「悟ろうと努力するには、日常の雑事を几帳面にしておくべきだ」と言われます。

現世や来世についての一切に執着が無くなったとしても、慈悲の対象まで失われては法主さんの存在そのものが迷惑となります。勿論、大きな慈悲は持っておられますので、慈悲の実現には職員全員が協力したいと考えています。「苦」は誰もが厭うものです。他から持ち込まれる苦は降りかかる火の粉のようなものですが、自分で自分の心の中に苦を生じる精神構造を滅することは困難なことだと言われます。

悟ったようでも、他から苦を持ち込まれたり、自分で心中に苦を生じせしめたり、不動の悟りは難しいものだとも言われます。


一喜一憂・四苦八苦する、御佛様に抱かれていて解脱

観音院のインターネットのホームページは大変に有名で、維持と更新は多くのボランティアに支えられていて今日があります。

多くのボランティアのご協力は実はホームページには馴染まないものがあります。更新をお任せしている人にはパスワードを教えています。時には古いデータに戻されたり、大切なソフトが書き換えられて動かなくなったりすることもあります。

間違いは多々ありますが、法主さんは「全部無くなっても一からやり直す」と未練も執着も持っておられません。

ですが、職員としては大切にしていてデータを蓄積しています。

アクセスは時には二万を超える日もあり、ミラーサイトも用意していて、ドメインは現在十二個を所有しています。

ネットのドメインも持っていて信徒さまにはファイル領域を無料で貸して上げることも可能です。

buddhist.or.jpとかbukkyou.ne.jpならサーバーを持っていますので幾らでもメールアドレスを作って上げられます。

生前戒名くらいに考えて頂けばご理解頂けると思います。とは言いながら、これも作業上の限界があり、そのために専従者を置くほどの費用がありませんので、佛縁の有る方の範囲内になると思います。

掲示板やチャットなどなら信徒さまには幾らでも使って頂くことが可能です。何かの時に思い出して頂ければ幸甚です。


人、一人ひとりの人間としての尊厳を認め、他人を自分の思うようにしたいと願わぬこと

人として自分で自分の心の中に作る苦で一番大きなものは、自分の子供を自分の好きに出来るように錯覚して、好みに出来ない苦しみといわれます。

観音院は世襲制を廃止していますが、それには法主さんの心中に葛藤があって、それを乗り越えるには「たがを外す」必要があると思われたからです。

そもそも出家の動機として僧侶という家の職業を継がなくてはなどという考え方は間違いです。

何処のお寺さんの子供も、子供は子供なりの人間関係を持ち、普通の家庭の子供と類似した生活をしておられます。

強いて違いを挙げれば、本堂があって、庫裏に住んでいる。父親である僧侶が真面目であれば朝夕読経をする、母親が佛飯を供えることくらいでしょうか。

親の考え方にもよりますが、小中学生の時に得度して突然に頭を剃って登校する、この時の子供の精神状態をどのように考えられるでしょうか。

社会も僧侶の後継者は僧侶の子供というような暗黙の了解、未だそれほど長い期間は経ていませんが、そのような思い込みがあると思います。NHKのドラマで僧侶の一人娘を愛して、その娘さんと一緒になるために出家修行するというものがありましたが、無茶苦茶な設定ですが、現実には有り得ます。

観音院によく相談に来ていたお寺の娘さんが、会社員と恋愛されて、僧侶になってくれるよう説得して欲しいと依頼された住職さんが、会社員に会って本当に説得されてしまいました。

お寺さんも檀家さんも喜んだのですが、結局は僧侶にならないで娘さんは寺よりは会社員を選択されました。

この例について法主さんは「会社員が僧侶になっていたら、二人の子供を僧侶にしたいと願っただろう」と言われます。

お寺の一人娘さんが都市部に就職して、運が良いと配偶者を連れて田舎の寺に帰って来ることはありますが、このような在り方で寺を存続して行くことに皆さんは矛盾を感じられないでしょうか。

宗教法人やお寺の公益性と住職の私物化がしばしば問題になりますが、世の中がそうさせるようになっているとも考えられます。

最近では女性でも出家して僧籍に身を置き、住職になる道が開かれています。観音院の住職資格については性別は問いません。

観音院に僧籍がある人の内から縁がある人が次の住職になられることになっています。

観音院は完全に同族的運営ではありません。責任役員十名は三親等以内の親族が重複出来ず、評議員規定は寛容で住職以外の人では重複しておられる例はあるかもしれません。監事は春木吉祥・能島慶華・田川純照の三人です。

これからの寺院がどうあるべきか、未だ明確な道が示されている訳ではありません。観音院は一つの実験的試みで、これが正しいと信念をもっているのでもなく、模索しているのです。


日本は本当に民主国家か、水戸黄門漫遊記の人気は。

先日、法主さんテレビのスイッチを入れられて、「水戸黄門漫遊記」を放映されているのを見られて、このような番組が長続きする日本について、日本は民主化されたのだろうかと慨嘆しておられました。「あの印籠は目に入らぬ」とも言っておられますが、皆さまはどのように考えられますか。

検察官も裁判官も弁護士も一緒にしたような存在を望むことは怖いと思われているのです。あまり神経質にならずに受け止めるべきかもしれません。

平成十一年度もいろいろ不祥事が続きました。挙げ句の果ては違憲ではないかと疑われる法律までが制定されたりもしました。 宗教もビジネスではないかと疑われるような集金活動をするものが出て来たり、児童の義務教育を否定するものから、常識で考えられぬ教義を持つものまで存在していて、文化庁も警察も大変です。

企業の再構築は時の流れのようにも見えます。韓国は経済危機脱出宣言をしましたが、多くの失業者が出ました。日本もどうやら経済危機から回復基調に向かっているようですが、働きたい人に求職が少なく、大変に心配です。

健全に見える企業が粉飾決算をしていたり、お役所の仕事に談合が行われていたり、税金の無駄遣いが表面化したり、何だか想像上の強大な権力を持っている「水戸のご隠居」さんを待ち望むような雰囲気があるようです。


アスピリンで血栓を防ぎ、血はさらさらと流したいもの。

法主さんは大体三ヵ月に一度は血液検査を受けておられますが、加齢に伴う不調を防ぐためにアスピリンや中性脂肪を少なくする錠剤を差し上げています。

観音院のアスピリンは監事制度です。監事は観音院の業務が適性に執行されているか常勤で監査を行い万一不正があれば、この観自在の紙面で報告し、独立した権限で役員会を招集し、是正を求めることが保証されています。

また監事は、法主さんや住職さんの業務に適性を欠く発言や行為がある時は、その場で訂正する権限を持っています。

どのような組織もやがて歪みや腐敗は生じます。どのような技術を用いた乗物も乗換えの時期があります。堅牢無比な建造物も崩壊する時が訪れます。

組織を社会有為に生かして行くか、乗物を無事故に運転するか、建造物を後世に残して行くか、それは人々の努力次第です。

全てのものは移ろいて、しかも元の形を止めることなく、水が流れとなり、海にそそぎ、雲となり、雨となって行くようです。

細心の注意で取り扱う、清潔にする、手入れを怠らない、見掛けだけで判断せず内部構造の疲労などに注意する、たくさんの人の意見を聞くことなどで不幸は避けられることがあります。

人もまた生老病死を逃れることは出来ません。四苦八苦の中に在りながら、それをどのように受けとめるか、冷静で慎重な思考をする傾向を身に付け、二十世紀最後の一年を充実して過ごされるよう祈念いたします。


一切のものに執着を滅することは難しいことではなく、教えを素直に信じれば良い。悟っても生きている限り、四苦八苦の中にあり、そこから慈悲を生み出す働きも生まれる。分からぬことは素直に認め、知らぬことを知ったかぶりをせず、冷静にありのままの自分を見つめ、努力を続けて行くと良い。

悟ることと富とは関係が無い。相応を超えて求めると矛盾する。周囲の人々に感謝し、それを体現出来ると良い。自分の出来ることと出来ないことについては正直でありたい。約束を守り、誠実に生きて行くなら苦悩は比較的少ない。身近な人から信頼され、それが少しづつ広がって行くのを見ると良い。

人の基本的人権は冒してはならない。親には親の考えがあり子供もまた同じ。自分の心が思うようならないのに、他人を自分の思うようにしたいと願うと、自分で自分の心の中に自分で苦を作ることになる他人から持ち込まれる苦は容易に避けられるが、自分で作る自分の苦は相当に厄介なものである。

出来ぬものを作れると思い、あるものの姿を永続すると信じる。努力して物事を成し遂げ、それを比較的に永く維持することは可能だが、永遠に続くものなどは有り得ない。諸行無常を受け入れることが出来れば、四苦八苦も苦にならなくなる。今年は二十世紀の最後の一年、充実して過ごしてください。

法主/鈴之僧正

全てに愛を、仕事と光を、不殺生。

■人を大切にすることは不殺生(ふせっしょう)の肝要で、全ての 人が安心して仕事が出来て、安心して住めるようでないと、日本は 社会的に殺生をしていることになる。 ▼自分の能力と職場がミスマッチしている場合は自分で自分を殺す ことになりかねない。 ▼適材適所と収入のバランスがとれてないと何処かで無理が起きる 結果になる。年功序列賃金は過去のものになっている。目を覚ます ことが自分を大切にすることに。 ■厭なことをするには適性を欠 いているか、能力的に無理があるか、 相性が悪いか、これも何処 かに無理がある。楽な方に行くことも考 えてみる。他人が厭がる ことをしないこと。  自分に能力か思いやりが足りないか、それ とも相手に能力が無い か投げられているか。無理はしない。無理 をさせない。 ■今年は東南アジア諸国は大体が経済危機を脱して 成長過程に向か うだろう。日本の平均株価も三万円台をこえるか も。円は一$百円 より高くなるかもしれない。 ▼今年中に公定歩合は多少上がるかもしれない。史上最低が長い。 ▼素人は株や商品先物などに手を出す前に予算を決めておく。儲け ても有頂天にならない。引き時は玄人でも難しいから無理かも。 ■今年は庚辰(かのえたつ)、庚は「金の兄」の意味で、辰は「竜 の落し子」と思うか「龍」と思うか。龍は大海や地底に住し、雲雨 を自在に支配する力を持つとされる、どっちかな。 ■ものは受け取りようで自在に良くも悪くもなる。その上に規制の 撤廃、グローバル化、人間関係の崩壊、自己責任と、世の中は自分 で自由に変えることも可能。振り回されことも当然ある。 ※自分の判断や行動は全て自己責任で、良ければ我が世の謳歌。駄目 なら自分のせい。頼りになるものはホント佛さんか神さんくらいのも ので、情報収集と分析次第で、物事を裏目に出さぬように、借金をし ないよう、現金を大切に、身辺を綺麗にする。

法主/鈴之僧正