吉田兼好のつれづれ草

ご隠居 きょうはひとつ古文から話を始めてみようか。
寅さん 私は自慢するわけではありませんが、数学と古文とピーマンは、中学生の
    時分からあんまり好きでない性分なんですが。
ご隠居 そんなことは言わないでまあ聴きなさい。
    これは、吉田兼好(よしだ・けんこう)の有名な「徒然草」の第二百四十
    三段の文章だ。
                 ・
— 八つになりし年、父に問ひて云はく、「仏は如何なるものにか候(そうろ)ふらん」と云ふ。
 父が云はく、「仏には、人の成りたるなり」と。
 また問ふ。「人は何として仏には成り候ふやらん」と。
 父、また、「仏の教へによりて成るなり」と答ふ。
 また問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」と。
 また答ふ、「それもまた、先の仏の教へによりて成り給(たま)ふなり」と。
 また問ふ、「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と云ふ時、父「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」と言ひて笑ふ。「問ひ詰められて、え答へずなり侍(はんべ)りつ」と、諸人に語りて興じき。
                 ・
ご隠居 これは兼好法師が八歳のとき(正応三年・一二九〇年頃)父親に、子ども
    らしい執拗さで、仏がどのような存在であるかを問い詰める一場面だ。
寅さん それで、結末はどうなりました?
ご隠居 いやいや、結果もなにもこの話はこれでおしまいだ。
寅さん なんだ、それだけですか。
ご隠居 なんだ、はないだろう。よいか。
    八つの子どもが、ほとけさまとはどのようなものでございましょうか?、
    と質問した。
    仏とは人が成ったものだよ、と父が答えた。すると八つの兼好さんが父親
    に「ねんだ」をくり始めた。
    「では、人は何によって、どんな方法で、ほとけさまになったのでござい
    ましょうか?」
    「それは、仏の教えによってなったものなのだよ、坊や」
    「そのお教えになったほとけさまには、どなたがお教えになったのでござ
    いますか?」
    「それもまた、その前の仏の教えによっておなりになったのだよ」
    「では、それを、教え始められた一番最初のほとけさまとは、いったいど
    のようなほとけさまでございますか?」と息子に問い詰められ「それは、
    あれだ、第一の仏は、天から降ってきたのだろうか。または、地面から湧
    (わ)いて出てきたのだろうか」と、とうとう降参したという、
    なかなか含蓄のある一文(いちぶん)だ。
仏法はだれのもの?

 もとより仏法は、聖人、賢人の独占物でもないし、彼らのために起こったものでもありません。
 では、仏法はなんのため、だれのためにあるのでしょうか。さあどうでしょう?
 結論から申しますと、仏法ほんらいの目的は衆生済度(しゅじょうさいど・私たち凡人を救って、さとりの境地にみちびく)のために起こったものとされています。
 したがって、世間一般的な私たちが、仏法の教えを遵守(じゅんしゅ)できないことはありません。どのような人でも仏法を受け入れることは可能のはずです。
 ただ、仏法は「信仰」によって成り立ち、受容される性質のものですから、信仰心に欠けるものは、そのかぎりにあらずということもできるでしょう。
 仏法の教えを遵守するための要諦(ようてい)は、とりあえず、十悪を犯してはならない、と自らを固く戒めることにあります。
 そして、善い結果の得られる六つのおこない、すなわち六波羅密(ろくはらみつ)を行じます。この六波羅密を行ずるのは、私たちが多かれ少なかれ有している六つの短所、欠点を取り除くためです。
 六つの欠点とは何か?
 いわゆる慳貪(けんどん・欲深いこと)を是正するするために布施(他人に物をほどこすこと)を行じ、毀禁(ききん・禁を破る)を除くために戒法を遵守(じゅんしゅ)し、瞋恚(しんい・怒り)を除去するために忍辱(にんにく・はずかしめや悩みを堪えしのぶこと)を修行し、懈怠(けたい・怠りなまけること)を一掃するために精進を修し、動蕩(どうとう・精神のぐらつき)を鎮めおさえるために禅定(ぜんじょう)を修行し、愚癡(ぐち・おろかさ)を退治するために智慧を学修する、というものです。
 以上、ここに挙げた六蔽(ろくへい・六つの欠点)は多少にかかわらず、私たちの心のなかに内包しているところのものですから、すくなくとも釈尊の教えを信じ、敬虔な日々を送っているような人であれば、それらの弊害はよくご存じのはずです。
仏法は実践
 仏法を忠実に守り、仏法を知るということは、すなわち仏法の教えにしたがい、それを実践し、行うということです。
 仏法を行わない者は、たとえ百千万巻の経典を読んだとしても、それは、仏法に忠実であり仏法を知悉(ちしつ)していることにはなりません。
 みずからを省みて、仏法の禁忌する十悪、五欲(色欲、声欲、香欲、味欲、触欲)の抑制に努め、六波羅密を行ずる意味をよく理解して、その悪い箇所を是正し、善心の育成に意をもちいれば、それはすでにまことの仏信徒です。
 その第一の要件は、まず三業清浄(さんごうしょうじょう)であることが必須条件です。
 三業とは、自らの身口意(しん・く・い)のおよぼすさまざまな作用のことです。
 そして三業のそれらの作用が、もしも不浄であるならば、いたるところすべて穢土(えど)であり、作用が清浄であれば、ことごとくみな浄土となる。
 したがって、この十悪、五欲、六蔽が巣くい、はびこる身は穢土ということであって、それらが、その身から離脱したあかつきにおいて、はじめて浄土の人、つまり心地清浄の人となり得るわけです。
 七仏通誡(つうかい)の偈(げ)にこうあります。
「諸悪莫作(しょあくまくさ・悪をなすなかれ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう・善に努めなさい)自浄其意(じじょうごい)、是諸佛教(ぜしょぶっきょう)」
 自浄其意とは心地(しんち)が清浄なことにほかなりません。すなわち、この心地清浄、自浄其意は佛教の一大要諦であると考えてまちがいないでしょう。
 では、どうすれば心地を清浄にすることが可能でしょうか。
 なんとしてでも十悪だけはしりぞけること、それで十分であるとされています。
 それだけで、なぜ心地が清浄になるのでしょうか。
 十悪の原因は、三業が不浄である、ということにほかなりません。
 十悪とは「身三、口四、意三」に起因するものです。
 身三とは、殺生、偸盗、邪淫。口四とは、妄語(もうご・うそをつくこと)、綺語(きご・本心を隠してたくみに自分を飾った言葉。おべっか)、悪口(あっく)、両舌(りょうぜつ・二枚舌)。
 意三とは、貪欲、瞋恚(しんに)、邪見のことです。
 私たち自らの身、口、意の三業に、これら十悪が萌芽すれば、それはすなわち不浄であり、その不浄を断固としてしりぞけ、排除することを十善といいます。
 先ほどの「諸悪莫作」というのがつまり十悪のことで、「衆善奉行」がこの十善のことです。
 かねがね鈴之僧正が、くり返し「十善」を示されて、みなさんにお説きになる所以も、まさしく、衆善奉行の一点に集約されていると思います。
 なにが悪いといって十悪にまさるものはなく、十善にすぎたる善いことはありません。したがって十悪をしりぞけ、十善を志向すれば、おのずから心地清浄となるはずです。
 そして、この心地清浄である状態を「密厳浄土(みつごんじょうど)」、極楽浄土と言い換えてもよいでしょう。
 よく世間では、極楽浄土というと、あたかも未来後生死後のことでもあるかのように解釈されているようですが、かならずしも仏教は、そうは教えていない。仏教の主目的とする「自浄其意」は未来後生(ごしょう)といった、はるかな先にそれを求めているわけでは決してありません。
 現世に生きている今の私たちの心地清浄が大切なのです。「この身、今生(こんじょう)に向かって度(ど=渡る)せずむば、さらにいずれの生(しょう)に向かってかこの身を度せむ」
 つまり、この世で、心地不浄のまま不真面目に生きてきた者が、いつの世において、その迷いを覚まし、悟りの世界にはいることができようか、という意味合いかと思います。
 維摩経仏国品も「十善これ菩薩の浄土なり」と説いております。
七曜戒 朝の言葉・日曜日
 あたたかき心を持ちて励み行く。
 われら今日も生きてあり、万物を羽包(はぐく)み育て、すべてを差別なく、善きも悪しきも平等(ひと)しく照らしたまえる真言の みほとけに 心からこの身を献げたてまつる。
 われらこの身この生(しょう)において みほとけの身とならんと願うがゆえに、身と口と意(こころ)とのうえに常にあたたかき心もちて励み行かん。
 されば みほとけは問いたまう、よく十善(まこと)の道を守り、朝の言葉(ちかい)によりて生き行くや。
 われら誓いたてまつる、われら幸いを得んがために、十善の道を奉ずるにあらず、安楽を得んがために朝の言葉を立てるにあらず、みほとけの説きたまえることを信じるがゆえに、十善の道を奉じ、朝の言葉にて生き行くなり、みほとけの説きたまえるところに従ってこの身この生において苦しみ多く往きて無限の地獄に沈むとも、われ喜んでみほとけの心のままに生き往(ゆ)かん。
 みほとけは説きたまえり、善いかな金剛(まこと)のさとりを求めるものよ、つねにほろびぬものとして、このみ教えを持つものはいかなる障(さわ)りも打ちくだき、ほとけ菩薩(ひじり)のみ位も、すべての悉地(のぞみ)も得らるべし。
天女の復縁
 分別功徳(ふんべつくどく)論にこんな説話が出ている。
 昔、天竺舎衛城の街に、たいへん仲の良い夫婦が住んでいた。二人そろって信仰心に厚く、ふかく三宝を敬信していた。
 ところがあるとき、まだ若いのにその妻がにわかに身罷(みま)かってしまった。それでも彼女は三宝敬信の功徳にあずかったのか刀利天(とうりてん)に天女となって、後生(ごしょう)を得たのである。
 果報(かほう)はそれだけにとどまらなかった。
 天女に生まれ変わった彼女は、天のなかでも比類ない美女になっていたのであった。
「まあ、私ったらこんなに綺麗になって、どうしましょ」
 そこで彼女は思案した。せっかく美人になったのだから、天上のどなたか、夫としてふさわしい人を見つけなければ、と、付与された天眼(てんげん)でもって、真剣に婿捜しに奔走する。しかし、一人として彼女のめがねにかなう者はいなかった。
 ふと、思いだして、あとにのこしてきた夫はどうしているだろうと、下界(げかい)に目を転じると、彼は妻が死んだのちに出家して僧形(そうぎょう)に姿を変えていたばかりか、すっかり年老いていた。不自由な身をいとわず、三宝を敬礼(きょうらい)し修行に打ち込んでいる。
 あらためてそうした彼の善根をまのあたりにして、「この人はあの持ち前の善根によって、きっと将来は刀利天に生ずるはずだわ」と、胸を弾ませて下界に下り、元の夫の前に姿を現した。
 いきなりのことで老僧は驚いた。
「はて、あんたはどなたかな?」
「お分かりありませんか。私の前世は、あなたの妻でしたが、生前の三宝敬信の功徳によって、こうして天女となることができました。
 でも、あいにくなことに、刀利天には夫として私とつり合う適当な方が見当たりません。
 そうしたおり、はからずも以前にも増すあなたの精進ぶりを拝見いたしました。
 あなたは来世かならず天上に生じられる方です。そのときは、どうぞ、また私の夫になってくださいまし」と頼んで天へ帰っていった。
 老僧は彼女のたっての願いをどのように聴いたのだろうか。
 耳にこころよい話に触発されてか、あるいはまた有漏(うろ)の福善・・煩悩を断ち悟りをひらくことを求めてだろうか、爾来ますます修行につとめたのである。

 しばらく時を経、ふたたび老僧のもとへ天女が下りてきて言った「あなたのご精進ぶりが天界に通じ、あなたは来世、兜率天(とそつてん・六欲天の第四天)に生じられることになりました。
 したがって、刀利天(六欲天のうちの第二天で下位にあたる)にいる私では、貴方さまの妻になる資格がなくなりました」と、残念そうに言い残して去った。
 老僧は、以後いよいよ精進し、ついには阿羅漢果(あらかんか)を獲得し、三明(さんみょう)六通(ろくつう)八解脱(はちげだつ)を具(ぐ)したという。

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