世間の目

ご隠居 「この私が悪人に見えますか?」 昨年暮れから、耐震強度偽装で世間を
     騒がせている渦中の人物がテレビカメラにむかって堂々と胸をはってみ
     せた。

寅さん しかし、あの顔は、誰がどう贔屓目(ひいきめ)にみても善人の顔ではあ
    りませんね。

ご隠居 顔の造作は、それぞれ天からの授かりものだから、これ以上とやかく言わ
    ないが、当人にすれば、自分はなにも良心に恥じるような疚(やま)しい
    ことはしていない、ということが言いたかったのだろう。
    それはともかく、ごく一部の例外的な人間を除いて、たいていの人は、自
    分自身のことを、それほどに悪い人間ではないと思っているはずだ。いや
    むしろ自分はまずほどほどに善人の部類にはいる人間だと考えているので
    はないだろうか。

寅さん とりたてて悪いことをしてないのなら、そう思うのが当たり前ではないで
    しょうか。
    それとも、そう思ってはいけない理由が何かあるんでしょうか?

ご隠居 そこが私たち人間社会のむつかしいところで、自分一人が勝手に思い込ん
    でいる「善良さ」は、自分以外の相手にはなかなか通用しない。主観と客
    観の相違だ。
    自分では「よかれ」とおもってする善意のはずの行為が、相手によっては
    お節介や、迷惑と感じとられたり、かといって、事に臨んで事態から距離
    をおき、何もしないで静観する態度をとっているとあの人は薄情だ、不人
    情だと白い目で見られたりもする。
    ここに、だれが考えたか知らないが「つもり違い人生訓十箇条」というの
    があるから見てみよう。

    厚いつもりで薄いのが人情
    弱いつもりで強いのが自我
    浅いつもりで深いのが欲望
    多いつもりで少ないのが分別
    強いつもりで弱いのが根性
    薄いつもりで厚いのが面の皮
    低いつもりで高いのが気位
    深いつもりで浅いのが知識
    高いつもりで低いのが教養
    少ないつもりで多いのが無駄

    と、まあこんなふうで、一般的に人間というものは、自分が内心でうぬぼ
    れているほどには人格的完成度にまだまだほど遠く、辛辣(しんらつ)な
    他人の目からみると、あちこち欠点だらけということではないだろうか。

    観音院の常用教典の十五ページから「懺悔(さんげ)」にも「悪と知りつ
    つ犯したる罪、悪と知らずに犯したる罪・・・・」とある、人は、知ると知ら
    ずに犯したる罪障に思いを致して心したいものだな。
仏法よりみた世間

ご隠居 視点を変えて、仏法はわれわれの世間をどのようにみているのだろうか。

    —– 一に曰(いわ)く。およそ世間一切有為(うい)のことは、みなこ
    とごとく無常にして、虚幻不実(きょげんふじつ・うそまぼろし)なるも
    ののみなれば、一も長久不変なるもの無し。しかるを凡夫は妄(みだ)り
    に常なるものなりと計(推しはかる)す。これを常転倒となす。
    転倒(てんどう)は、煩悩などのため誤った見方や在り方をすること、真
    理に違うこと、をいう。

    二に曰く。世間五欲(物欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲)の楽しみは、
    みなこれ受苦の原因ならざるものはなし。
    しかるを凡夫は苦果の報(むく)い来ることを了(さと)らず、妄りに、
    これ人間無上の快楽なりと計す。これを楽転倒となす。

    三に曰く。この身は元来、四大(万有を構成する地・水・火・風の四つの
    元素)の仮和合によりて暫時(ざんじ)は我が物のようなれども、畢竟(
    ひっきょう・つまり)これ借用物なれば、その期限来たるや必ず元の四大
    に返却せざるべからずものなり。
    しかるに借用物なることを知らず、何処どこまでも我が物なりと執着する
    を我転倒となす。

    四に曰く。我が身も他人の身も共に不浄なるものなることを了(さと)ら
    ず、妄りに貪着を生じ、男身、女身共に、もって浄なるものなりと思うは
    これ浄転倒なり。

寅さん 私たちにとってなにやら耳に痛いような意味のことを言われているようで
    すが・・・・。

ご隠居 つまりこれは、われわれが真実であり、正しいことだと思っていることは
    声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)の「二乗」からみると、それらは
    凡夫の思い込みや妄想であり、単なる錯覚にすぎない、といっているわけ
    だ。
    因縁によってできあがっているこの世のものすべて、あらゆるものが生滅
    変化して定まりがないのに、凡夫は、この世はこれから先もずっと永遠に
    つづき、不変であると錯覚している。
    そして、人間がこの世で求める欲求は、物欲や色欲や、あるいはまた名誉
    欲などにおよそ集約されるが、これらはすべて「苦しみの原因」でないも
    のはない。にもかかわらず凡夫は、この苦しみの種子を人生無上の快楽で
    あると錯覚している。
    さらにまた、人間の人体というものは、四つの元素が結合してできた単な
    る化合物でしかない。したがって、われわれのこの人体はいわば自然界か
    ら借りてきた借用物にすぎない。借用物であるかぎりは、期限がくれば、
    本来の貸主である四大に返却するのは当然のことだが、この人体を支配し
    ている当の本人は、この明らかな道理を理解しようとせず、自分は自分自
    身のほかの何者でもない。だれがこの大事な我が物を勝手にさせてなるも
    のかと、がむしゃらに、己れに執着してはばからない、というわけだ。
    以上が声聞、縁覚からみたところの凡夫の転倒、つまり錯覚であるが、立
    場をかえて、では、二乗が正観であるとおもっているところのものを「菩
    薩」からみると、その二乗も転倒であるとし、凡夫も二乗もともに諸法の
    実相をみることはできない、としている。そして菩薩にいたって、ようや
    くわずかながらその転倒をまぬかれ、「仏」にいたってはじめて真実の「
    常楽我浄」に住することができ、一切の転倒夢想を遠離(おんり)して涅
    槃(ねはん)を究竟(くきょう・果たしおえる)すと、大乗仏教はこのよ
    うに説いている。

仏の世界

寅さん 悟りの浅深の度合いによって、二乗、大乗とそれぞれ段階があることは
    分かりましたが、自分も、まぎれもない凡夫の一人として言わせてもらう
    なら、人間の根源的な欲望そのものが苦しみの種だとか、お前のその身体
    は束(つか)の間の借り物だから、それに執着してはならぬ、といわれて
    も、ハイそうでございますか、とおいそれとは得心(とくしん)がいきま
    せんね。

ご隠居 それは私とても全く同じ気持ちだが、さらにもうひとつ上の仏の世界、い
    わゆる法界(ほっかい)にわけいるとそれ以上に難解かつ深遠となる。

 戦国乱世を生きぬいた徳川家康に、こんな話が伝えられている。
 家康は元来、仏法の信仰心に厚い人で、諸宗の名僧知識たちの参謁(さんえつ)が絶えなかったそうで、あるとき、高僧たちによる顕密(けんみつ)の議論が一段落すると、家康が次のようなことを一同に訊(たず)ねた。
「清浄(しょうじょう)の行者涅槃(ねはん)に入らず、破戒の比丘(びく)地獄に入らず——」というのがあるが、これをどのように解釈すべきか、と。
 その場に居合わせた高僧たちがどう答えたか記録にないが、家康が提示した経文は、「文殊師利(もんじゅしり)所説摩訶般若波羅蜜経」の一節であった。
 —– そのときに舎利弗(しゃりほつ)、仏に曰(もう)して申さく、世尊、文殊師利所説(しょせつ)の般若波羅蜜の如きは、初学の菩薩のみ知ることあたわざる所に非(あら)ず、及びもろもろの二乗の所作、すでに弁ぜる者もまた未だ了することあたわじ。
かくの如きの説法はよく知る者なし何をもっての故に。
 菩提の相は実に法としてしかも知るべきこと有ることなきが故に。
 見もなく聞もなく、得(とく)もなく、念もなく、生もなく滅もなく、説もなく聴もなし。かくの如く菩提は性相空寂(しょうそうくうじゃく)にして、證もなく、知もなく、形もなく相もなし。如何が(いかんが・どうして)まさに菩提を得る者あるべき。
 舎利弗、文殊師利に語って曰く。
 仏、法界において阿耨多羅三藐三菩提を證したまわざるや。
 文殊師利の曰く、否(いな)なり。
 何をもっての故に。
 世尊即ちこれ法界なり、もし、法界をもって法界を證せば即ちこれ諍論(じょうろん・論争のこと)なり。舎利弗、法界の相は、即ちこれ菩提(ぼだい)なり。
 何をもっての故に。
 この法界の中には衆生の相なし。
 一切の法、空なるが故に。一切の法空即これ菩提にして、無二無分別の故に、無分別の中には即ち知る者なし、もし知者なければ即ち言説なし、一切の諸法は決定の状を見ざるが故に。逆罪の相の如きも不可思議なり、諸法の実相は不可壊(ふかえ)の故に、かくの如く逆罪もまた本性なし。天上にも生ぜず、地獄にも堕せず、また涅槃にも入(い)らず。
 何をもっての故に。
 一切の業縁(ごうえん)はみな実際に住(じゅう)して不来不去、非因非果なり。
 何をもっての故に。
 法界無辺にして前もなく後(のち)も無きが故に。この故に、舎利弗、もし見るに、犯重の比丘も地獄に堕せず、清浄の行者も涅槃に入らず。かくの如きの比丘は応供(おうぐ)にあらず、不応供に非ず、尽漏(じんろ)に非ず、不尽漏に非ず。
 何をもっての故に。
 諸法の中において平等に住するが故なり云々・・・・・・。

涅槃(ねはん)と菩提(ぼだい)

寅さん 一生懸命修行に励んでも涅槃に入れないのは何故か、何故破戒僧は地獄へ
    堕ちないのか、これだけではさっぱり分かりませんね。だいいち、ここで
    言ってる涅槃とは、そもそも何ですか?

ご隠居 一般的に涅槃というと、釈尊涅槃図で知られているように「大般涅槃(は
    つねはん)したまえり、薪尽きて火の滅するが如し」と、覚者の死のよう
    に解釈されているが、本来は「覚者となる」こと、つまり「成道(じょう
    どう)」、「解脱(げだつ)」することだそうだ。
    また、薪(たきぎ)や油を人間の「煩悩(ぼんのう)」にたとえて、これ
    が滅することによって、火や灯火が消えるとし、
   「一切衆生は煩悩の油のゆえに涅槃に入らず、もし断ずることを得ば、即ち
    涅槃に入る」ともいわれている。
    では、寅さんがさっぱり分からんという、この文章の意味を一緒に考えて
    みることにしよう。

 舎利弗が仏に言った。
 文殊菩薩が説いている般若波羅蜜(菩薩の修行徳目。仏の一切智を得るまでの菩薩の智慧)などはあまりにも内容が高度にすぎて、声聞、縁覚はおろか、初心の菩薩でさえも、その本当のところを理解していないように思います。
 何故かというと、菩提というものは法として在るのであって、それをかたちとして実感することができないからです。
 すがたかたちがないから、見ることも聞くこともできず、生も滅もなく、だれひとりいない空漠たる空間において、どうして菩提を得ることができましょうか、と。

寅さん この「菩提」の意味は?

ご隠居 通常、菩提といえば仏の阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさん
    ぼだい・無上正等菩提)のことで、その菩提は虚空の広大にして辺際なく
    一切世界の成壊にも関係なくして、常に増減なく、無二にして唯一相であ
    るとされ、菩薩もこの無上菩提を得るために六波羅蜜を学んでいるとされ
    ている。

 文殊菩薩に舎利弗がいう。
 仏は、その無上正等菩提をいずくで証したまわれたのであろうか。法界(ほっかい)においてか。

 いな、そうではない、と文殊菩薩は否定する。何故かといえば、世尊はすなわち法界である。また法界のすがたは、すなわち菩提でもある。舎利弗よ、法界をもって法界を悟ることがあるだろうか。明らかに矛盾撞着(むじゅん・どうちゃく)する、と。

寅さん 法界とは?

ご隠居 法界は真如、法身、また如来の家ともいい、「無辺の法界は常に寂然とし
    て如如不動なること虚空に等し」と表現される。
    そして、この法界は一切空であるから、そこには差別も思念もなく、知る
    ものもなければ、それを説くものもいない、と。

ご隠居 以上の経文は文殊菩薩の根本智をもって説かれたもので、ここでは、諸法
    は因縁より生起する、という既存の概念を「捨象」(しゃしょう・ある概
    念を抽象するとき、いろいろな性質を捨て去る)している。
    したがって、従来のように因縁所生説にたてば、そこには当然、生死もあ
    れば涅槃もあり、持戒も破戒も、善悪もあり苦楽の差別もあるが、因縁を
    否定し去って、いわゆる諸法皆空の視点からすると、生死もなく涅槃もな
    く、極楽も地獄もなく、不浄もなく清浄もなく善悪もなく、苦楽もなく、
    破戒も持戒もないから、破戒の比丘が地獄に堕し、清浄持戒の比丘が涅槃
    に入ることはない、というわけだ。

 お大師さまの般若心経秘鍵(ひけん)には「文殊の利剣(りけん)は諸戯を絶つ」、文殊菩薩の利剣(仏智)は一切衆生の戯論と過ちを断ち切られる、とある。文殊菩薩さまは仏の智慧(般若)を象徴する菩薩で、人々のとらわれ悩み苦しみを断ち切ってお救い下さる。
 お大師さまが請来された多くの密教経典の中には、現代まで継承されている星供(ほしく)星まつりの宿曜経は、「文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経 」、星宿法占いの経典で一般には宿曜経(すくようきょう ・しゅくようきょう)と略称されている。
 古来、星宿法は人々が厄災から護られるよう日々の幸福を願って受け継がれている。二十七宿や十二宮、七曜等の大宇宙の天体の動きや曜日の巡りを元に日や方角等の吉凶を読み解く経である。インド占星術を含み、中国の不空三蔵さまが七五九年に訳出され、さらに一行(いちぎょう)さまが梵天火羅九曜経(ぼんてんからくようきょう)を撰述され、北斗七星、北極星などを祭った「星曼陀羅」がまつられ、現代も皆さまの幸福を祈祷する星まつりが行なわれる。  

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