人が亡くなられると後は僧侶にお任せください

人が亡くなった時に、遺族だけで葬儀について相談して葬儀社に知らせて、それから後に僧侶に枕経を依頼するのは、無法者のすることです。そのような無法地帯に飛び込む勇気は聊(いささ)かも御座いません。毀誉褒貶(きよほうへん)は何も感じませんが、
僧侶としての出仕の義務は、その時点で無くなっていると考えられます。

 そもそも、人が亡くなられて、その時からは、僧侶の受け持ちです。葬儀告別式はすべて僧侶の指示によるものが正式、他は全部邪道です。これ以外の葬儀は、ビジネスのシステムでなされるトコロンテンの突き出し方式で、正式で真心込めた誠実な葬儀は執行できない。

 私は、誠実に亡き人に引導を渡し、三界を精霊が迷わぬよう逝ける道を示す導師(どうし)としての重大な責任と義務があります。
 これを妨害する人は、魔道の魑魅魍魎として排除するのは当然のことで、今後も観音院の僧侶は、誠実な僧侶でありたいと願います。
今年一月、観音院では
篤信徒さまの厳粛なご葬儀が執行されました

 ご家族が亡くなられた時に、一番に始めに連絡するのはお寺の僧侶です。
 亡くなられた人の霊魂は真っ直ぐに寺に来られることを願われています。
それを手伝うのが「枕経(まくらぎょう)」です。文字通り、亡くなった人の枕もとで読経することです。
 世の末だからでしょうか、人間の情味は軽薄となり、死者に誠実に奉仕し、生前のご恩に感謝し、仏縁を大事にし、真情を発露をする人が
入堂される住職さま、法主さま
少なくなったような気がいたしますが。
 お寺は、家族が亡くなられたと通知がありますと、直ぐに僧侶を派遣して、死者の枕頭にて終夜読経する。

 昨今は、単に一度読経するを、枕経と言うのは略作法に過ぎません。
 この時に死者の部屋を「霊堂」となします。
 この厳粛な時に、雑談をなし会葬者の数などを予測し、相応の会館などに棺を移すなど悪しき風習です。
 僧侶がお棺を先導し、会館を「霊堂」になさねば、良き家族と言われず、良き僧侶でも無い。
 会館を祭壇にするに当たり、演出の必要性は有りません。

 式場の荘厳は、僧侶の指揮に従って本堂 須弥壇(しゅみだん)の如くし、観音院では、み仏さまの御前の直前にお棺を安置します。

ご葬儀は僧侶の主導にて厳粛に
 合掌し黙祷(もくとう)、礼拝焼香

 観音院では、法主用にご寄付頂いた寺の最も大切な最高の袈裟(けさ)をお棺に掛けて死者を包んで、哀悼(あいとう)の意を表します。業者常用の金襴棺掛け布を覆うのを嫌います。
 況(いわん)や、昨今流行の「花段」はいかように美しく飾ろうと「須弥壇」にはなり得ません。
 この間も、僧侶の読経が絶えること無きよう読経を続けるが良い。
 読経は葬儀開始まで絶えること無くするのが
導師の弔辞
良く、BGM音楽などを流すは悪しき流行です。
 葬儀は、故人の遺志を尊重し、身内親族知人友人など親しい人々が集いてするのが良く、取引先などに多く知らせ賑々しくするは死者の迷惑以外の何ものでも有りません。
 葬儀に際し「黙祷(もくとう)」して亡き人と自らの縁(えん)を想起し、心を冥福(めいふく)を祈るよう統一し、やがて、読経始まれば順次焼香をなして、亡き人とみ仏さまに礼拝(らいはい)し、供養すると良い。

 僧侶は、即身にみ仏を現じて死者を導く、出棺に際して、葬列に常に僧侶読経して離れず、火葬場に同行し読経と共に火葬し、終わって読経し、お骨上げも又読経と共に行う。

 終わって、お骨壷は堂内に置いて、日々読経するのが丁重である。
 従来の風習のように、いったん家に持ち帰り、自宅の仏壇の前に安置する
は故人の冥福を祈ることに反する。
 お骨は速やかに墓に葬られるのが良く、精霊は位牌に宿るのが理由です。

 僧侶は位牌に読経すること怠らず、朝晩に三座の読経をなすのが当然。
 当然を阻むは、仏徒と言えません。不明の事あれば、僧侶に聞くが良く、
聞かずして思い入れ、親族の年長者などのとっさの慌てた意見などに従い、それで、葬送をなそうとするは、単なる思いつきに過ぎません。
 お棺に故人の好物であった酒煙草類を大量に入れるは、悪しき思いつきです。

 お香は最低でも沈香(じんこう)、出来れば伽羅(きゃら)を用いる。
 先ず、故人の自宅へ「枕経」に派遣する僧侶には伽羅の香を持参させることを常の事とし、お香は伽羅で終わる。粗悪な五種香は僧侶ならびに参列せる人々の喉を痛めるのでこれを用いない。

 ご親族が臨終に近くなれば、速やかに観音院に通知されれば、安らかなる臨終を願いて読経を始める。
 人生において、弁護士と医師、会計士を友人に持てば幸せと言われるが、本来は日常に良き僧侶を友人に加えれば、善い来世がある。

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