■功徳(くどく)とは■
観音(かんのん)さまのお名前
「われら心から観世音菩薩の名号を受持して、苦海を
渡らんと欲す。願わくは 慈愛のみ手を垂れたまい
救い導きたまわんことを—-」
ご隠居 これは、広島観音院の常用教典「まことの道」に載せて
ある観音経の偈文(げもん・百三頁から)前文だが、ここに
「観世音菩薩」とあるように、観音さまの丁寧なお名前は、「観」
と「音」とのあいだに「世」を挿入して、観世音菩薩さまとお呼び
申し上げたり、光世音(こうぜおん)、施無畏(せむい)者と
申し上げることもある。
ちなみに、膨大な経典等をインドから持ち帰られ、大般若経など
を精緻に翻訳された三蔵法師・玄奘(げんじょう・六〇〇ー六六四)
さま以前の経典の漢訳は「旧訳(くやく)」といわれ、玄奘さまの
翻訳からを「新訳」といい、般若心経などにあるように「観自在
菩薩」と訳されている。
寅さん へえ、すると、ふつう私たちが口にする観音さまというの
は愛称ということですか。
ご隠居 ま、そういうことだな。 観音さまの「観」とは、煩悩と
いう邪魔なものが何ひとつなく、観察し、観じるところが自由自在
なことをいい、仏教では、これを「能観の智」という。
寅さん 能観とは?
ご隠居 能観の智というのは、正しくものごとを観察し、判断し、
対処することで、この場合はつまり、観察能力と、それらに対する
慈しみの処理能力にもすぐれている、ということだ。
このように観音さまは能観の智というすばらしい力を持っていら
っしゃる。妙観察智(みょうかんざっち)ともいわれる。
そして、この能観の智があるからには、それらを観察するその対
象が当然あるはずで、世音というのは、所観、つまり観察対象のこ
とだ。
寅さん 世音の意味がよく分かりませんが——。
ご隠居 世音は、ひらたくいって世間の声、人々の声とでも解釈す
ればよいのだろう。
仏教において、この「世間」の意味は「有情(うじょう・生きと
し生けるもの)の生活する境界」で、解釈すると、世間の「世」は、
移り流れている、という意味であり、世間の「間」のほうは、それ
らをへだて分ける、という意味ということだそうだ。
この国土と有情(うじょう)と五陰(ごおん)とを、三種の世間
というそうだ。
このうち五陰は、幽界または形而上(けいじじょう)的領域のこ
とだからこのさい置いておくとして、「有情」とは、われわれ、生
きとし生ける一切の衆生(しゅじょう)のことであり、国土は、そ
れらの有情がよりどころとしている天地を指したものだ。
このような世間に棲息(せいそく)する有情たちは、嬉しいにつ
け、悲しいにつけ、ことあるたびに何らかの意思表示を、だれかに
向かって、つねにおこなっている。それら種々雑多の声が、いわゆ
る「世音」である、というわけで、その世音なるものをよく聴いて
いると、自分だけの都合を考え、他人をかえりみない言い分や、人
の悪口、苦情など、怨嗟(えんさ)と不信の声で大半がしめられて
いる。
でも、なかには真実の声もある。 わたくしをこの辛苦、病気の苦
痛からお救いください—-。
煩悩(ぼんのう)の迷いを転じて、悟りを開くにはどうすればよ
ろしいでしょうか—-。 等々、切実にして、真実の声なき声に、
観世音菩薩さまは、静かにじっと耳をすましてお聴(き)きになっ
ていらっしゃるというわけだ。
般若心経のはじめ「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空
度一切苦厄——」、わたくしたちの一切の苦厄を救ってくださる、
とある。(まことの道・百ページ)
観音さまの使命
寅さん なるほどね。こうして伺ってみると、古くからある各地の
観音信仰に人気のあるわけがよく分かりますね。
ご隠居 もう一つ付け加えると、菩薩(ぼさつ)とは梵語で、邦訳
すると覚有情(かくうじょう)とも、大心衆生とも、大仁者(だい
じんしゃ)ともいうそうだ。
すなわち菩薩は、さとりを求めて修行する人、迷いの夢の覚めた
有情だから覚有情といい、また、菩薩は、広くて深い慈悲心でもっ
て、困苦する人々の救済に努められるために、大心衆生とも大仁者
ともいうのだそうだ。
そして観自在菩薩おひとりにかぎらず、いずれの菩薩とも、五明
(ごみょう)という自らが率先してなすべき五つの大きな使命を、
それぞれ背負っておいでになるとされている。
五明は、仏教の「瑜伽師地論(ゆがしちろん)」に見える学問
分類法で、医方明(医学)、因明(論理学)、声明(しょうみょう
・文法学)、工巧明(くぎょうみょう)、内明(仏教学)の五つの
科目をいった。
その五つの使命の一つは、医薬を研究して衆生を病気の苦しみか
ら救うことであり、二つは、正しいことと邪悪なことをはっきり分
別(ふんべつ)すること、三つは衆生をやさしく善導し、社会全体
を教化(きょうけ)すること、四つは、工芸技術等を振興して世の
中に役立てること、そして残る五つ目は、天地万法の真理をあきら
かにして、衆生を転迷開悟、離苦得楽の道すじを示すこと、——
以上五つの使命がありこれらもすべて世音の範疇(はんちゅう)に
含まれているとされている。
観世音菩薩の本質、本体は明徳・・ 天から受けた、くもりのな
い本性とされている。
われわれ人間にも、幾分かは、その明徳がそなわってはいないと
は言えないが、多くの場合、物欲や邪念のために、せっかくの明徳
が、それらの煩悩に蔽(おお)われ、どんより曇って輝きを発しな
い。このようにわれわれの心識をくもらせるものは貪瞋痴(とん・
じん・ち)などの惑業煩悩(わくごうぼんのう)のせいだ。
観世音菩薩は、透徹したお心でもって、よく世間の声に耳をお傾
けになり、その世間の中から聞こえてくる私たち衆生の声に、観達
自在に善処してくださる、たいへんありがたい菩薩さまであること
を忘れてはなるまいな。
瞋恚(しんい)・怒りの心
さて、ここで観世音菩薩普門品偈(ふもんぼんげ)をすこし抜粋
してみる。(百三頁より)
仮使興害意 推落大火坑
念彼観音力 火坑変成池
(まことの道を参照してください。 意味は以下のとおり)。
およそ衆生が、何者かに対して害を加えようとする悪い心をおこ
すのは、瞋恚(しんい・自分の心に逆らう者を怒り恨むこと、怒り、
しんに)の煩悩であり、しかもそれは最も甚だしい。
瞋恚は、火大に属するものだけに(六大という万物をかたちづく
る六種の根本実体、地・水・火・風・空・識大のうちの一つ)、ひ
とたび瞋恚逆上するときは、たちどころに険しい表情に現れ、声に
現れ、その動作に現れる。
この瞋恚は、自分の怒りの火炎が、万物を焼き尽くすがごとく、
一切の善法をもすべて灰塵(かいじん)に帰してしまう。
したがって心中に怒りの「ほむら」が、むらむらと生じて、それ
が身口意(しんくい)にまで及んでしまえば、もう、どうにも手の
ほどこしようもない大噴火坑となり、みずから制御することも、
かなわず、身口意ことごとく、みずからつくった火坑に突き落とさ
れる状態となる。
害心をおこし、大噴火坑に突き落とされ、無量無辺の大きな苦悩
を味わうのは、ほかの誰でもない。
おのれ自身であるはずである。みずから招いた苦悶(くもん)の
なかで、翻然(ほんぜん)と普段の平常心を取り戻し、こんなこと
で腹を立ててどれほどの益があるか、と頭を冷して、謙虚に、懺悔
(さんげ)し、すぐさま自己本具の観自在王に帰命(きみょう)す
る気持ちを起こすならば、その念力によって、たちまち心水清浄
(しょうじょう)の池となり、さしもの大噴火坑といえども、なん
なく鎮火することであろう。すなわちこれが、火坑変じて池と成る
と説かれている所以である。
無明(むみょう)
或在須弥峰 為人所推堕
念彼観音力 如日虚空住
(まことの道の百四頁)
われわれ衆生は、もとより本来本法性(ほんほっしょう)、天然
自性身(てんねんじしょうしん)であるところの真如実相の須弥山
王(しゅみせんおう)に安住している。けれども、いったん心に無
明の闇がおおいかぶさってくるとたちまちにして生死煩悩(しょう
じ・ぼんのう)の大海に投げ出され、暗く冷たい海をあてどもなく
漂うこととなる。
このようなとき、無明の怖さ・おそろしさを肝に銘じて、一心に
自己のなかに本来そなわっているところの観自在王(煩悩がなくて
観じるところが自由自在な心)に帰依(きえ)すれば、その念力に
よって、たちまちこの無明を払拭(ふっしょく)し、あの天に輝く
太陽が大虚空(こくう)に住(じゅう)するがごとく、われわれ衆
生も、この世の中を賢く正しく、かつ、楽しい生を享受(きょうじ
ゅ)することができる、ということをお示しになった仏意である。
争いごと
諍訟経官処 怖畏軍陣中
念彼観音力 衆怨悉退散
およそ、この世の中で争いごとや訴訟ごとが起こる原因は、物欲
か色欲か、はたまた金銭欲か名誉欲等に起因するものが、ほとんど
といってよいのではないか。
これらの争いごと、訴えごとには問題の大小まちまちであるが、
話し合いがこじれたり、あるいは問題がすこし大きくなると、訴訟
の当事者どうしの示談では解決がつかなくなるため、現代ではその
争いごとを、司法の場に持ち出して、法廷内の審理によって決着を
つけることになる。
このように裁判によって成否を決め、勝ち負けを争うなどという
ことは、極端にいえば、おたがいの生命のやりとりをするあの恐怖
の戦場のまっただ中に身をおいているようなものである。
危急存亡(ききゅう・そんぼう)のそのようなとき、一念懺悔
(さんげ)の心を起こし、こんなことで、勝った、負けたと、つま
らぬ個人的感情に引きずられて、訴訟の勝敗に一喜一憂するなどは、
小人匹夫(しょうじんひっぷ)の所業であって、賢明な人間の恥ず
べきおこないと覚り、自己本具(ほんぐ・本来具わっている)の
観自在王に帰命(きみょう)し、みずから瞋恚の悪念をしずめる
ならば、紛争の相手方もまた、その矛先をおさめて、そういうこと
なら示談にいたしましょうと、和解の方途がおのずからひらけて
くるのではないだろうか。
さすれば衆(もろもろ)の怨敵(おんてき)もことごとく退散し
て、争いは平和裡(り)に話し合いで解決するであろう、との仏意
である かりにこの仏意を、一個人ではなく、国と国との争いごと
にまで及ぼすとすると、世界はいつまでも平和であって、いまわし
い戦争など起こるはずがない。
世界じゅうの国々が、この仏意をよく聞き分けて、自国の国益や
国の威信のため、また、相手国が意に沿わず気に食わないからとい
って、相手国に戦争を仕掛ける気持ちを放擲(ほうてき)すれば、
これほど地球上に住む人類にとって幸せなことはない。
また、
普明照世間 悲体戒雷震
慈意妙大雲 樹甘露法雨 滅除煩悩焔
とあり(観世音菩薩普門品偈、諍訟経官処・・の前節、百六頁)
甘露(かんろ)の法雨がふりそそいで、煩悩のほのおを滅除する、
と説かれているように、人間がもし、辛い煩悩の焔を滅するときは、
内外の怨敵(おんてき)ことごとく退散させずにはおかない。
われわれはこの仏説によって、瞋恚(しんに)の大火坑を鎮滅し、
無明(むみょう)の悪人を追い払い、勝ち負けの妄念を覆滅(ふく
めつ)することができれば、われわれ人間にとって、どれほど有益
かはかりしれないのである。
旅僧の鉢をこわし、報いを受けた話
「日本霊異記」より
白髪部猪麿(しらがべのいまろ)は、備中の国小田の郡の人である
この男は生まれながらに、人となりがよこしまで、仏法などあたま
から受けつけぬ性質(たち)の男であった。
あるとき、猪麿の家の前に一人の僧が立って食べ物を乞うた。
家の中から出てきた猪麿は僧をじろりと睨(にら)みつけ、食べ
物を施すどころか、反対に、口汚くののしりはじめた。
「お前のような者が門前に居ては目障りだから、とっととどこかへ
消え失せてしまえっ」と、僧が差し出していた鉢を叩き割って追い
返してしまった。
そのあと猪麿は、余所の村に所用があって出かけた。
せかせかと道を急いでいると、にわかに、激しい風雨にあった。
彼は衣服のたもとで頭を押さえながら、あわてて近くの倉の軒下
に駆け込んだ。
チエッと舌打ちをくれ、うらめしげに天を仰いでいたそのときで
ある。
突然、雨宿りしたその倉がガラガラと音をたてて崩れ、猪麿を圧
しつぶしてしまったのである。
誠に知る。悪業(あくごう)はすぐに現世にあらわれる。どうし
て平生慎まないでよいということがあろうか。
大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)にあるが如く、
「一切の悪行は、邪見を因と成すというのはこのことである。」
大丈夫論施勝品にいわく、
「慈悲心をもって施せば、施す相手がたとえ一人であっても、その
恵みの効果は、地のように限りなく大きいが、自分の利益や打算の
ために施しをするのは、それがどれほど大勢の人に対するものであ
っても、その恵みの効果は、ケシ粒ほどに小さいものである。
一人の困っている人を救うのは他の一切の施しに勝る云々」と。