功徳とは

■功徳(くどく)とは■

 碧厳集(へきがんしゅう・碧厳録。仏書、禅宗で重視される)と
いう本の第一則に、こんなことが書かれている。

 – 達磨(だるま・禅宗の始祖、南インドのバラモンに生まれ、
中国に渡る。嵩山の少林寺に入る)はじめて、武帝(梁・りょう
の国の始祖、四六四年-五四九年)に見(まみ)ゆ。
 帝 問う、
「朕(ちん)、寺を建て、僧を度(ど)す、何の功徳がある?」

 達磨 曰く、無功徳と —-。

 中国南北朝時代、南天竺(てんじく・印度)の沙門(しゃもん・
修行僧)達磨大師は、伝道のため、波濤(はとう)十万里をのりこ
えて、大陸南部の広州へ上陸された。

 達磨大師は、南天竺の香至王の第三子であり、若くして般若多羅
尊者を師に出家得度(とくど)し、中国へ渡ったとき、すでに伝灯
相承(でんとう・そうしょう)の高僧にして、しかも、百有余歳の
ご高齢であったそうな。
 そして、容貌はとみると、髭はぼうぼう、眼光炯々(がんこう・
けいけい)として、人を射すくめる鋭さがあり、一見して容易なら
ざる人物であったから、この異国僧のことが、たちまち人づてに
天聴(てんちょう)にまで達し、勅使(ちょくし)が都から派遣
されて、達磨大師は丁重に宮殿へ迎え入れられた。
 禁裏(きんり)に入った達磨大師を帝が接見する。

 武帝が達磨大師に訊ねた。
「朕は、即位してこのかた、寺をつくり、経を写し、僧を度するこ
と数えきれぬほどこれまでおこなってきた。これにはどういう功徳
(くどく)があるだろうか?」

 達磨大師がいう。
「ともに、なんら功徳なし」

 おどろいて帝が問いただす。
「なぜ、どういう理由で功徳がないと言われるのか?」

 達磨大師がいう。
「それらはただ、人間界、天上界の取るに足りない微々たる小果で
あるにすぎず、有漏(うろ・悟りのさまたげとなる煩悩)の原因で
しかない。そんなものは形に寄り添う影のごときもので、有なりと
いえども、実にあらず」と。

 帝はますますおどろいて、
「では、真の功徳とは、どのようなものであるのか?」
と、かさねて問うと、

達磨大師は泰然(たいぜん)として言われた。
「浄智妙円の体(たい)おのずから空寂なり。しかしながら、かく
のごとき功徳は、この世において求めることはできない」と。

 寺を建て、僧を度することも、もとより功徳がないとはいえない
が、それは有限の功徳であって、真実無限の功徳とは言いがたいか
ら、それらはすべて功徳(くどく)がないと達磨大師はお答えになっ
た、というわけである。

 この達磨大師の話された大意をある高僧が注釈して、次のように
述べられている。
「世俗の布施は、往々にして他人の目を意識し、ご利益(りやく)
を期待したようなものが多い。それは天に向かって箭(や)を射る
ようなもので、箭が中空に力が尽きて落下すれば、来生(らいしょ
う)の不如意を招きかねない。
 どうして、無為(生滅変化しない)実相の門、一超直入如来地が
そこにあるのに、なぜその門をくぐろうとはしないのか。

 大本を得てさえいれば、なにも末を憂うることなどあるまいに—-」
と。
 大本とは、すなわち浄智妙円の体のことであり、これを無上菩提
(ぼだい)とも、真如仏性(しんにょぶっしょう)ともいう。

 そして、浄智妙円の体おのずから空寂なり、というのは、無功徳
という意味ではなく、煩悩がなに一つなく空寂だから、汚れのない
清らかな智体が顕れて、言い尽くしようもなく満ち足りて欠けると
ころがない、といった意味である。

 たとえば、風の静かな夜、雲が霽(は)れて、名月が中天に皓々
(こうこう)と照り映える、とでもいえばよいか。
 これをすなわち、ほとけの心印(しんいん)という。

 達磨大師が中国伝道を決意された主目的は、ただ一つ、ほとけの
心印を、中国の民衆に伝授して、多くの迷情を救おうとしたためで
あったとされる。

 功徳(くどく)– 善いおこないをすれば、善い結果をもたらす
力が、おのずからそなわる、というのは、もとより仏説に相違ない
が、それはあくまでも、ほとけの権意(ごんい・仮に設けた説)で
あって、ほとけの真意とはいえない。
 ほとけの真意は、衆生(しゅじょう)をして、ただただ無為実相
(むいじっそう)の門に導き入れること、だとされている。

 お釈迦さまの妙法は、天竺をはじめ近隣諸国の王や統治者のあい
だで深く敬崇された。

 わけても中国の梁の武帝などはその最たるものであった。
 武帝は初め道教(どうきょう・中国の漢民族の伝統的宗教、黄帝
・老子を教祖と仰ぐ)を信奉した人であったが、やがて道教の教え
にあきたりないものを感じるようになり、いつしか仏法に傾斜して
ゆき、仏力をたのむに至った。
 こうして武帝は、仏法を深く帰依(きえ)するあまりに、みずか
ら袈裟(けさ)をかけて、放光般若経および涅槃経を臣下に講じた
ともいわれている。
 また、天下に詔勅を発して寺寺を建て、多くの僧尼を得度させた。

 しかしながら当時の中国には、わずかに釈尊の遺教(いきょう)
があるきりで、仏心直授の僧など皆無の状態であったから、ほとん
どの人は、ほとけの真の心を知らなかったし、当然のことながら、
仏教にたいしても無知であった。

■洗 心 ( せんしん )■

ご隠居 心の時代、ということが言われて、すでに久しいが、この
言葉もいつのまにやら、二、三年前のお正月に書いた古日記を読み
返すように、すっかり色あせてしまった感じがするな。
 心の時代どころか、新聞、テレビ、週刊誌などは、毎日、貪欲、
瞋恚、愚痴、邪見、驕慢、嫉妬、妄語、悪口、両舌、邪淫、偸盗、
殺生など、目を覆うような不善悪行の数々を報じている。

 これでも私たちは、お金より物より、心をいちばん大事に思って
生活していると言えるだろうか。

寅さん そうはいっても、良い物は誰もが欲しいし、お金がたくさ
んあれば心づよいですからね。

ご隠居 だからといって、それを得るためなら手段を選ばず、隠れ
て欺き、どんなことをしてもよいというのでは倫理・道徳もなにも
あったものではない。
 いまの世の中は、すべての面にわたり減劫(げんこう)の時勢で
あって、詐欺など不善が、我が物顔に横行している。

寅さん 減劫?

ご隠居 減劫とは、人心が乱れて社会の気風が頽廃(たいはい)へ
向かうことで、貪欲(とんよく)や邪見のほうがむしろ正しくて、
それに流れて、従わなければ、世間に受け入れてもらえないような
風潮さえある。

寅さん 貪欲を具体的にいうと?

ご隠居 われわれ人間が持つ最も根本的な煩悩、つまり自分が好き
なもの、ほしいものに愛着してやまない所有欲のことだ。
 そして、邪見とは、因果の道理を無視して、間違っていようが、
いまいが、そんなことはおかまいなしに、とにかく自分の考えどお
り、がむしゃらに生きているたぐいの人間とでもいえばよいかな。

 このての人間が、今の世に大勢はびこっているから、無貪(むと
ん)、無瞋(むしん)にして、正見(しょうけん)に住し、善悪
因果(いんが)の理法を信じ、神仏の存在を是認して、それに帰依
(きえ)するような人はよほどの変わり者か、時代に即応できない
無能者視さえされかねない。

 そしていま、多くの現代人が目の色を変えて追い求めているのは
快適な暮らしや肉体の快楽など、現世の幸福のことだけで、他のこ
とはまったく眼中にない状態だ。
 そういう、今、に憂き身をやつしている人々は、その今の快楽、
幸福が、未来に受ける苦の原因になることを、はたして承知してい
るのだろうか。
 われわれ人間の生命は、永遠につづく宇宙の時の流れから比較す
ると、ほんの束(つか)の間の時間でしかない。それなのに私たち
は、その束の間の生命をたのみとして、名利(みょうり)の奴隷と
なり、いいように追い使われているのが現実のすがただ。

 現代、というこの時代が、私たちにいったい何をもたらし、何を
奪い去ったのか、このさい、とくと考える必要があるのではないだ
ろうか。

■<如来蔵(にょらいぞう)思想■ ご隠居 小乗仏教の縁覚(えんがく)は、十二因縁を観じて、正覚 成道(しょうがくじょうどう)し、師をもつことなく、独力で涅槃に 入ることができたという。 寅さん 十二因縁というのは、なんでしたっけね。ちょっと前まで 覚えていたんですが。 ご隠居 十二因縁とは、衆生が過去、未来、現在の、三世にわたり 生死流転(しょうじ るてん)する因果の関係を十二に分けて説いた もので、すなわち、無明(むみょう)、行、識(しき)、名色(みょ うしき)、六処、触(そく)、受、愛、取、有(う)、生(しょう)、 老死のことをいう。  また、縁覚のような修行者にかぎらず、壊劫(えごう)の時の 衆生は、たとえ、教える師など居なくても、人間が持つ本来の善心が 自然にめばえ、神仏への信仰心が生まれるといわれる。 寅さん その壊劫というのは? ご隠居 壊劫とは四劫、つまり成劫(成立)、住劫(安住)、壊劫 (壊滅)、空劫(空虚)のなかの一つで、この世である三千世界の 壊滅するときのことだ。 寅さん 世界が壊滅にむかうとき、なぜ人間は善心を取り戻すので しょうか? その反対にますます自棄自暴におちいり、手がつけら れない状態になると思いますが---- ご隠居 それがそうではないのだ。  この世が壊滅状態に向かいつつあるとき、人間は、はっと正気に 立ち返る。こんなことをしていてはいけない。これでは人類が滅亡 してしまう。今のうちに、なんとかしなければ、というみんなの気 持ちが一つになり、総和となり、社会全体の機運となって、各人が 競って善法をおこなうようになる、とされる。 寅さん へえ、そうなりますか。 それだと人間もまんざら捨てた ものではない。 ご隠居 それどころか、「人間の本性は仏である」、という考え方 があるくらいだ。  これは、インドの馬鳴(めみょう)という大乗仏教の思想家が、 その著書の「大乗起信論(だいじょうきしんろん)」のなかで述べて いる説であって、 人間の根源は「仏」であり、人間は無限に深い「仏心」を蔵している、 という思想だ。一般にこれを「如来蔵思想」とよんでいる。 寅さん その馬鳴さんというのは何時ごろの人ですか? ご隠居 竜樹(一五〇--二五〇年頃、南印度のバラモン出身の僧、 八宗の祖とされる。中論、大智度論、ナーガールジュナ)さんより も以前の人だそうだから、かなり昔の人だな。  二世紀頃のインドの仏教詩人で、カニシカ王の保護を受けて 「仏所行讃」なども著した。  「大乗起信論」とは、大乗の信、を起こす論、という意味合いだ。  ここでいう「信」という意味は、たとえば私たちがほとけさまや、 お大師さまを信じる、という意味の信ではない。  信じられるものが客体的にあり、それと別な主体が、その客体を 信じるという意味の信ではない、ということで、「信じるものと 信じられるものが一体である」という意味の「信」である、という のだな。  われわれ人間のなかに、法身仏がある。時間的に永遠、空間的に 偏在している永遠の法身仏が私たちの本体である。  その法身仏がめざめる。その法身仏がたちあがってくる。それが すなわち、信であるというのだ。  このように「大乗起信論」は、人間の本性は仏であり、その根底 には無限に深い仏心がかくれているから、そのまま仏になりきれば よい、という考え方で、自己の本性に仏を見るというこの如来蔵思 想は、われわれ人間に大きな勇気を与えてくれるが、それで問題が すべて解決、というわけにもゆかない。 寅さん 何か問題がありますか? ご隠居 うん、あるように見えた。  人間のなかに仏を見、仏と人間を一体化するこのような考え方だ と、これまで熱い信仰の対象であった神仏の存在じたい、ぼやけて くるのではないか、というような危惧だ。けど、それはどうも余計 な取り越し苦労であったらしい。  というのも、仏はわれわれ人間をはるかに超越した尊い存在だか らだ。それにひきかえて人間はあまりにも多くの不純物を身にまと いすぎている。  お大師さまならいざ知らず、ふつうの人間では、仏に到達するこ とはできないし、仏を知ることもできない。  人間は、仏を絶対に知ることができないということが、仏につい ての人間の唯一の認識だともいえるし、また、絶対に知ることがで きないということによって、仏が尊ばれるのではないだろうか。  このように、仏は人間をはるかに超越して異質だけれど、私たち からまったく掛け離れた存在ではない。  せっかく、われわれのなかに法身仏があると「大乗起信論」は 説いてくれているのだから、私たちはこの自分のなかの法身仏を、 おたがい、大切に慈しみ、ふて寝や朝寝坊などさせることなく、 みな早く目覚めさせたいものだな。

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