花とほとけさま

寅さん  私たちはご仏前や、ほとけさまに花を供えて拝みますが、これは、仏法の大慈悲は草木にまで及ぶ、という教えと矛盾(むじゅん)しているように思いますが、いかがでしょう?
 なぜなら、仏前に花をお供えするには、無心に咲く可憐な草花を摘んだり、鋏でちょん切らなければならない。そうすると大慈悲は草木に及んでないことになる。
ご隠居  仏陀の大慈悲が草木に及ぶ? だれもそんなことは言っていない。そんなのは、「人参、牛蒡(ごぼう)を喰うも殺生(せっしょう)なり」、といった愚論にすぎない。
 仏陀の慈悲は、あくまでも有情(うじょう)界 —- つまり生きとし生けるもの一切に及ぶものであって、山川木石草木(非情・ひじょう)は含まれていない。
 もしかりに、草木の花を切り取るのが殺生であるとすれば、ご在世時には当然、五穀(米、黍、粟、豆、麦、或いは稗・ひえ)や野菜を食されたお釈迦さまをはじめ、われわれ衆生(しゅじょう)もこの世に生きてゆくことはできない相談ではないか。
 思うに、それは、たとえ無情の草木といえども、みだりに摘んだり折ったりするのは慎むべき、ということであって、すべてのものを大切に思う気持ちが、すなわち不殺生に通じる仏法の根本である、という意味合いではなかろうか。
 さて、花を仏に供養するのは、どんな意味と理由からかというと飲食(おんじき)、衣服、華、香など仏前の供具のうち、花の供養は、忍(にん)波羅蜜(はらみつ)の法供養をするのと同じ意義があるとされている。
 なぜなら、美しい花を見れば、どんな人でも心がなごむ。花を前にして怒りだす者は まず、いないであろう。
 だから華厳経の廻向品(えこえぼん)に「華を供養する善根功徳力をもって相好端厳(そうごうたんごん・顔や姿が正しくおごそかなこと)の報を感ず」と説かれ、大品経の三慧品には、「もし善男子、善女人ありて、ただ一つの華をもって虚空に散らし、仏を念ずれば、身を畢(おえ)るまでその福尽きず」と説き、仏刹功徳荘厳経は、「菩薩行をなす者が、美妙なる花を執り持ちて如来のもとに詣り、あるいは卒塔婆(そとば)をもって供養を興す時、この願をなして言うべし。
 この妙花(みょうけ)の如き色香殊勝にして、見る者欣悦(きんえつ)す。
 我れ成仏の時、わが刹中(せっちゅう・寺じゅう)をして種々の妙花、その地に遍(あまね)く布(し)き、及びもろもろの宝樹をもって周(あまね)く布いて荘厳せしめん。
 乃至(ないし)、焼香、抹香、塗香(ずこう)、衣服、飲食(おんじき)、宝蓋(ほうがい)、幢幡(どうばん)、金銀瑠璃(るり)等の宝をもちて奉献する時、まさにかくの如く廻向(えこう)すべしと説いている。
散華(さんげ)の由来
ご隠居  また、採華授決経というお経には、次のような話が記載されている。
—- 仏在世の頃、羅閲国の王が毎日十数人の採花人に美花珍花を採取させていた。
 その日も、一同、おもいおもいに花を探していたが、そのなかの一人が、たまたま仏と行き会った。仏の相好端厳なお姿に接して、その者はたちまち発心(ほっしん)し、それまで採取したすべての花を仏にささげ、一心に帰命(きみょう)礼拝(らいはい)した。
 花を持って帰らなければ、仕事を怠けたと、王の怒りをかって、どのような罰を受けるかしれない。
 しかし、そんな我が身の心配よりも、今は仏に花を供養することのほうが大事なことだ、とその者は思ったのである。
 仏はその至誠(しせい)を慈愍(じみん)して、ねんごろに説法をされた。採花の仲間たちも仏の説法を聴いて菩提心(ぼだいしん)をおこし、摘み取った花を、我も我もと残らず仏に捧げた。
 仏は、その者たちのきよらかな心を嘉(よみ)されて、あなた方はまさに仏を得べし、と言われた。
 こうして採花人たちは各々家に帰ったが、帰るとすぐ両親に別れを告げる。
 おどろいて父母がわけを訊ねると、今日あった出来事をつぶさに話して、各人に割り当てられた花を王に献上(けんじょう)しなければ、きっと殺される。だから、お別れを言ったのです、と。
 ところが、仕事でいつも持ち歩いている花入れの箱を開けてみると、不思議なことに、馥郁(ふくいく)と香る花が一杯あふれていた。愁眉(しゅうび)をひらいた父母が、息子よ、嘆くにはおよばぬ、すみやかにこれを持って宮殿にあがり、王に捧げるべしと。
 一方、王は、時刻を過ぎても、誰一人採花人が帰って来ないのを怒り、彼らを捕縛し、王宮の庭前に引き据えた。だが、縄を打たれた人たちは顔色ひとつ変えず平然としている。
 王がいう。「汝ら、死罪を免れないのに、何故平気なのか?」
 それに答えていう。「今朝、仏にお会いした時、あまりの有り難さに感極まって花を供養した。王命に背(そむ)けば殺されることは知っている。人は生ずれば必ず死ぬ。善いことをして死ぬならば本望(ほんもう)だ」。
 得心がいかない王は仏のもとへ詣って訊ねると、仏が言われた。
「然り。その人々は至誠心をもって十方の衆生を済度(さいど)せんがため、身命(しんみょう)を惜しまず、花を散じて仏を供養した。されど、彼らの意中に善報を願う気持ちはなく、その功徳(くどく)により将来に成仏し、号して妙華如来と曰わん」と。
 王は大いに悔いて、彼らの縛を解き、仏に許しを請うた。仏いわく、「善哉(よいかな)、よく自ら改むる者は、過(とが)無きに同じ——云々」と。
 現在も、法会(ほうえ)などに花を散らして供養する散華荘厳(さんげしょうごん)のならわしはこれが嚆矢(こうし・物事のはじまり)とされている。
髑髏の目に生えた筍を抜き取り
その霊に感謝された話
「日本霊異記」より
 光仁天皇の御世、宝亀九(七七九)年十二月下旬のことである。
 備後(びんご・広島県の東部)国・芦田の郡〔広島県芦品(あしな)郡〕の大山という里に、品治牧人(ほむちのまきひと)という者が住んでいた。
 年の暮れが近づいたので、正月用品をいろいろ買い揃えようと、牧人はその辺りで一番賑わっている深津の市(深安郡)まで買い出しに出かけることにした。
 途中道を急いだが、芦田川左岸(現在の府中市)辺りまで来たところで短い冬の日が暮れ、やむなく牧人は一軒の民家に宿を借りることにした。その家は深い竹林のそばにひっそりと建っていた。
 その夜のことである。藁(わら)むしろにくるまって横になっていると、どこからかうめき声が聞こえてくる。
 はて、いったいどこで誰が苦しげに、あんな呻き声をあげているのだろうと、耳をそばだてていると、呻吟する合間に「目が痛い、目が痛い」と泣きながら、か細い声で訴えているようだ。
 気味が悪いことおびただしい。眠るどころでなくなった牧人は、耳に栓をし、有り合わせの持参していた布切れを頭からひっかぶって一晩を過ごし、やっとのおもいで、待ち遠しい朝をむかえたのである。
 昨夜うめき声がしたとおぼしい竹林へわけいって探してみると、落ち葉の窪(くぼ)みに髑髏(されこうべ・ひとかしら)が一個転がり、冬空を見上げていた。その眼窩(がんか)からは筍(たけのこ)がニョッキリ生えている。
 どのような事情があって、こんな場所に、浅ましい姿で打ち捨てられたかは知らないが、お気の毒にと、牧人は携帯していた干し飯(ほしいい)を髑髏に供えて供養し、ことのついでに少々欲張って、「どうぞ、私に幸いを与えてください」と十分にお願いする。
 こうして深津の市(いち)へやってきた牧人は、道端に品物を並べる物売りたちを相手に、さっそく値段の交渉を始めたのだが、なぜかその日にかぎって、これはと狙った品物が次々と安く手に入る。
 あまりにもとんとん拍子に調子良くいった買い物に、首をひねったが、もしかして、これは今朝、供養を施したあの髑髏が、その恩に報いるために万事をはかってくれたおかげではないだろうか、と牧人は気分良く、市をあとにしたのであった。
 帰途、買い込んだ荷物を背負った牧人は、ふたたび例の竹林の家で一泊することにした。
 するとその夜、あの髑髏が生前のちゃんとした姿で現れ、そして牧人に語った。
「吾は芦田の郡(こおり)屋穴国郷(やなくにのさと)の穴君乙公(あなのきみのおとぎみ)という者です。吾は秋丸という悪い叔父の手にかかって殺されました。
 それから一年、こうして屍(かばね)を野にさらしていると、風が吹くたびに目が痛くてしかたがなかった。
 そんなとき、貴方のご慈悲によって、その痛苦からやっとのがれることができました。
 苦しみから解放された今の幸せな気持ちを、ぜひとも貴方にお伝えしたいと思います。
 ついては、今も父母が住んでいる屋穴国の吾の家においでねがえませんか。ただし、日時は大晦日の夕方六時きっかり、その日時でなければ貴方のご恩に報いることができないのです」
 弟公はそう言って姿が没した。
 牧人は、面妖なことがあればあるものだと思ったが、そのことは誰にも話さなかった。
 そして大晦日の夕暮れ、髑髏の弟公との約束どおり、教えられた彼の家を訪ねていった。すると、牧人を待ちかまえていたように、弟公の霊が現れた。
 いそいそと牧人の手をとって、屋内に招じ入れ、弟公本人のために供えられたご馳走をみずからも頬張り、牧人にもしきりに勧めてくれる。
 そればかりか、食べきれずにあるご馳走や、穴君家の大事な財宝まで土産に包んでくれたり、心のこもったもてなしをしてくれたのち、ふいと霊が消えた。
 つまり、弟公は穴君家の魂祭り(大晦日から元日にかけて、飲食などを供えて祖先の霊を祭る行事)に牧人を招待したのである。
 一方、弟公の父母のほうである。
 大晦日のしきたり通り、祖霊の冥福(めいふく)をお祈りしようと、魂祭りで荘厳(しようごん)された仏間を開けると、そこに、これまで見たこともない男がいるではないか。
 びっくり仰天して老父母が、および腰で誰何する。
「あんたは誰だ? いったい何処から来た?」
 盗賊と勘違いされてはたまらないから、あわてて牧人はそれまでの一部始終を話したのである。
 事の真相をはじめて知った弟公の老父は、がっくり肩を落とし、わが子の悲惨な死にざまに、泣き崩れる老妻を、牧人は優しく慰めいたわった。
 そして、いまも何食わぬ顔で本家である兄の家に出入りしている実弟の秋丸を呼びつけ、語気を荒らげて糾明(きゅうめい)した。
「秋丸、おまえの一年前の話ではわしの息子の弟公と連れだって、深津の市に交易(その当時はほとんどが物々交換だった)に行く道の途中、折悪しく債権者にばったり行き合って、貸した銭をすぐ支払えと、きつく返済をせまられたので、悪いとは思ったが、弟公を置き去りにして、ひとり一目散に逃げた、ということであった。
 そのうえにだ。たしかその翌日であったか、おまえはこのわしに、弟公は帰ってきたかと、もっともらしげに息子の消息を聞いた。
 まだ帰ってこない、というと、おまえはいかにも心配そうに顔をくもらせた。
 それが、どうだ。今ここにおいでの品治牧人さんの話では、大嘘も大嘘、するに事欠いて甥を殺すとはどういう了見だ。よくもまあとんでもないことをしでかしたものだ。さあ、正直にのこらず白状してしまえ!」と、身体をぶるぶる震わせて怒った。
 目の前に証人がいては、もはや秋丸も言い逃れはできない。
「兄者、許してくれ、俺が悪かった。あれは去年の暮れのことだった。弟公が、これから深津の市へ交易をしに行こうとおもうので、叔父さん、手をかしてくれないか、というので、布や綿や塩など馬に積んで一緒に出かけることにした。
 途中、日が暮れたのをさいわいに、芦田川辺の竹林のなかで弟公を殺して彼の品物を馬ごと奪い、深津の市で、馬は讃岐の国の人に売り、その他の物もすべて処分してしまった——」
「ああ、なんということか—-。息子が殺害され、その憎き下手人が、よりもよって弟のおまえであったとは——」と、穴君は天を仰いで落涙した。
 だが、同じ血を分けた兄弟だけに、身内のこの忌まわしい不祥事は、世間をはばかって表沙汰にすることはなかった。
 穴君老父母は、秋丸との縁を切ったうえ、屋穴国の里から秋丸を追い出し、一方、野ざらしのまま一年間放置されていた息子を見つけて、供養してくれた牧人に、穴君老夫婦は手厚く礼物を贈って、感謝したのである。
 日に曝らされた髑髏(ひとかしら)でさえも、食を施せば、福を報い、恩を与えれば恩に報いる。
 いわんや、いま生きている人がどうして恩を忘れてすませることができようか——。

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