自分について、深く考えてみることは、とても大切なことです。
責任がある人が自分の価値を知らないと摩擦が大きくなります。物
に値段があるように、人にも価値があります。自分の価値を知るこ
とは難しいことで、適正とか技術とか体力とか、中々分からないも
のです。自分の価値を知ることは、自分の能力を知り、欠陥も知り、
補えるものは補う、しかし世の中には努力しても手に入らぬものも
あって、どのあたりで折り合いを付けるかが生きる上で大切です。
(鈴之僧正さまのお話を要約。田川純照 筆記)
個人の貸借対照表を作成する
今年の損益計算書はどうなる
日本の赤字国債の合計が六百六十六兆円あることは割合によく知
られた数字ですが、赤字の反面のる資産が幾らあるかは実は国民の
殆どが詳しくは知りません。
年金の支払いが破綻するという予想がありますが、幾ら基金が貯
められていて、将来の支出見込みが幾ら、収入見込みが幾らという
数字が明確にされていないので国民は不安を感じているのです。
■勤めている会社の将来がどうなか、現状はどうか、心配になって
来た時に、会社の経理に日時決算書を見せてくださいと頼んで、こ
れらの数字が日常的的に公開されていれば不安をもつなり、希望を
もつなり対応も心構えもできて安心して勤めることができます。
観音院の場合、毎日午後五時になると日時貸借対照表と損益計算
書が出来ています。職員は誰でも見れますし、皆さんもご覧になれ
ます。財産状態を明確に把握できるように複式簿記になっています。
▼物事は隠そうとするほど見たくなるものです。また、非違が無け
れば個人秘に関わること以外は公表するのが説明義務を果たすこと
で理解が得やすいと私は考えます。
■観音院は日本で最初に経理と運営を公開した寺院です。また、決
算などを所轄官庁に届け出する速度も日本で一番早いと思います。
■決算の翌月第三月曜日にはお届けしています。真似ができる法人
はいまだありません。毎年四月の二十七日には皆さんのお手元に印
刷送付しています。インターネットのホームページには四月一日に
財務諸表を載せています。
■大切なことは自分自身についての内省、内省というよりは評価、
評価というより「幾らになるか」ということ、何ができるか、どの
程度の水準か、万一余所の職場に転職する時は何をして、幾らの所
得が得られるか。などです。
ところで、私(法主)は知識を修得することについては、息絶え
るまで「学生」のつもりで、立場についての責任を果たすことにつ
けては一生懸命です。が、美味しいものを飲みたい食いたい、ざっ
くばらんにいえば飲む打つ買うなどとことに些細な興味もありませ
ん。衣食住や車両や、パソコンなどの道具には、何の執着もありま
せん。生きて行く上で快楽とか苦痛を感じても、それに好き嫌いが
無くなりました。
お寺の管理室の寝室にはウイン98が、執務机にはマックG4が置い
てあって、筆記用具と、世の中との連絡やら、辞書代わりにして、
検索機能を便利に使用しています。
パソコン類とは三十年間くらい付き合っているので、それなりの
知識はあります。コマンドやタグ等不自由無く使えますが、若い人
に任せています。
■パソコンの接続は普通の電話回線からISDN、OCN、ケーブ
ル、今度はADSLに変るそうで次は光ケーブルになると想像して
います。費用は安くなり、速度は最初の数百倍以上になります。
■近年、ネットで能力によって年収を測定してくれるサイトがあっ
て、これは大分煽(あおっ)てるシステムになっていて、利用して
も、のぼせてはなりません。同様なものに、老後をまあまあに過ご
すためには幾ら資金が必要かというサイトもあります。
▼寺を運営する上で気負ってはいませんが、先見性という意味では
普通の寺の二十年先や半世紀先を見つめているかもしれません。
▼観音院の職員の給与を三十%一律、全員納得の上で辞退したのは
平成五年のことです。改革というほどの勇ましいことではなく、情
勢判断の上で世間の動きに沿って早目の決定をしてくれました。
■観音院の深層心理とでもいうべきものが有るとすれば「お釈迦さ
まの覚り」というようなものです。
一切のものに執着しない、ひとくちでいえばこれだけです。それ
がこの世に観音院として存在して行く上で、さまざまな機能をもっ
てくるのは仏陀の慈悲のようなもので、自然なことです。別に努力
したり、画期的なことをしようと考えたり、何か新しいことなんて
夢にも思わないことなんです。
私の思う私自身の考えや行動
皆さんが思われる私自身の相違
■観音院の法主という立場に置かれ、いろいろと自分自身のことや
観音院のことを考えていますが、皆さんの思われる観音院と私自身
のことは同じではありません。自画自賛しても正確とはいえないの
です。そこから苦しみ?が生まれて来るから不思議です。皆さんの
思われる私と私自身を近付けるのが私にとっては大きな課題です。
観音院についても百人百様の受け取り方があります。世間には沢
山の寺院があって百人百様の受け取り方がされるのですから、比較
することは無意味です。
家族のうちの一人ですらお互いに様々な観察をしています。相違
が少なくなるほど円満家族です。
家族間の距離を縮めるには各自が自分を良く観察し、相手を理解
することが大切になります。
古いことを言わないこと
相手を深く傷つけてプッツン
自分を含めて深く深く観察してみることは大切です。深層心理や
潜在意識に至るまで観察できれば将来について方針が立ちます。
或いは今まで理解できなかった自分や相手のことが理解できる可
能性もあのます。痛い目に会った経験は過ちを二度と繰り返さない
反省になりますし、他人に誉められたり、上手く行ったことに将来
を向けると一段と進歩できます。
ただし、他人に対しては絶対に古いことを指摘しないことです、
善意であっても深く傷つけて人間関係が壊れるのが普通です。
*多くの人は自分の隠れた才能を知らずに自分を生かしきれていま
せん。多くの組織も、人と同様に上手く機能せず破綻しています。
自分を生かし組織を生かすことを考えましょう。
*古きを語ると他人を傷つけ、自分も傷つくことが多いものです。
良い点を見つけて、それを賞賛して、世の中に出して、成功を共に
することができれば幸せだとは思いませんか。
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鈴の法話2001-06-2
自分を知ることから全ては始まる
心の内面の探検は慎重にすること
私の使う「潜在意識」という言葉は自覚しないで自分の心の中に
潜んでいる意識で、「深層心理」は人間の精神活動のうち意識され
ていない心的領域のことですが、心理学について勉強はしていない
ので、専門用語とは別に考えてください。
また佛教用語の末那識(まなしき)とか阿頼那識(あらやしき)
に近いことを説明したいのですが、学習では無くて、体験と自分の
思索から得たものですから、微妙な相違があるかもしれないことを
お断りしておきます。借り物の知識ではなく私自身の言葉で説明し
ています。
末那識も梵語 manas で意識のことです。唯識論に説く八識のうち
の第七識のことで、生きている限り常に持続する自己愛の根源とし
ての迷いの心と説明されています。
阿頼那識も梵語で「人間存在の根底をなす意識の流れ」とされ、
唯識派で説く八識の第八識、経験を蓄積して個性を形成し、心的活
動のよりどころとなるもの。何れも自分の心を深く見詰めると分か
ることもありますが、専門用語を使うのが苦手ですのでご勘弁を。
■ともあれ、私は受け売りは嫌いですし、哲学とか心理学なんてと
んでもないことで、アレルギーはありませんが、自分の言葉で話を
続けさせてもらいます。
■自分の心の探検、自分を見詰めることは慎重にして欲しいと思う
理由は、なにかの拍子に煩悩を解脱(げだつ)することがあります、
その時に一切の執着から解脱できて、前向きに勉強する心や、十善
戒までも埒外(らちがい)に置くようになれば、只の無法者になり
かねない危険性があります。
私が四苦八苦を解脱していることは公然自称していることです。
だからといって不規則な生活をしたり、医者は無用だと言ったこと
も思ったこともありません。
仮初にも観音院を私の寺だと考えたり、私の信徒さんなんて物騒
なことは考えていません。煩悩を解脱しても、目に見えるものは大
切にする、偉そうな覚りを開いたからといってトイレが臭くては嫌
なことです。 信徒さんは大切にする—-、心の底からそのように
覚っています。潜在意識も深層心理も末那識も阿頼那識もそのよう
に統一されています。
痛いのは嫌ですね、交通事故は起こさないよう細心の注意をして
います。怪我もしたくないので刃物や電気器具の蛸足配線などには
気を付けています。
それでも、加齢に伴って頚骨から出る神経の穴が小さくなって、
指が痛い、痛い時は痛いのが宜しいなんて思っていません。頚椎を
伸ばしたり、痛みを取る貼付薬を張ったりすると楽です。
生死(しょうじ)を解脱しても日々を大切に、なすべきことはな
し、快くて楽しくて、愉快な時間が流れるのが良いものです。
心臓は時と痛くなってニトログリセリン系の薬を噴霧をすると楽
になります。このようなことは佛教と関係ありません、医師の倫理
に関することで、私は医師の倫理を問うよりは助けられていて感謝
しています。
▼臓器移植について意見を求められることが再三ありますが、遺伝
子操作治療と同じで、これは私の問題ではなくて、医師と研究者の
情報開示とか倫理の問題です。詳細な情報を得ることができない立
場での意見は述べません。
最近は激しい運動や二時間を越える乗り物の利用は敬遠です。年
齢相応にあれこれありまして、丁寧な診断を受けると必ず何処かが
故障しているようです。三ヶ月に一度くらい診断を受けて指導に従
うようにして過ごしています。
■自分が生まれてから今日に至るまでを観察して、嫌がられたこと
はしないように、誉められたことは繰り返すようにしています。
▼大切なことは嫌なことは完全に忘れてしまうのが楽です。人は全
て叱られたり、躾られたり、一度や二度は体罰を受けていたり、昔
は疳の虫を切る灸があったりしまして親も周囲も大変だったと気の
毒でもあり、感謝もしています。
▼同じ傾向の失敗をしたことが再三あった場合は、そのようなこと
は諦(あきら)めて、違うことをしましょう。
自分の貸借対照表を作成する
将来計画も立ててみましょう
■経理がしっかりしていない組織は破綻します。家計も同じです。
家計簿を几帳面にしないで済む方法があります。借金しないこと、
ローンを組まないこと、収入以上の支出をしないことです。
▼観音院の専従職員は借金が無いことが絶対条件で、万一ローンを
組んだり、割賦で物を買ったり、金融機関で借入れをすると自発的
に職員の資格を失います。
職員はお寺にお参りしていた信徒さんが評議員となり専従された
もので、寺から頂く手当ては、元を辿れば皆さんが浄財として布施
されたものb、でB浄財を利息に充当すると評議員の資格を失い、失
職することになります。
借金取りは俗に債鬼といわれますが、債鬼に追われて、修行も皆
さんへの奉仕もできるはずがありません。同時に債鬼になることも
許されません。
債鬼にならないためには金銭を貸さないことが大切です。同様な
理由で保証もできません。商行為の多くは不安が大きく、現在が優
れた社会的位置を占めていても、将来、何時、いかななる時に、何
が降り掛かるかも知れない、例えば手形を発行する行為は不渡り手
形を出す可能性であり、とても平安不動無作為の安定した心では存
在できません。僧侶は商行為に準ずることはしてはなりません。
経済的な問題は人間を苦しめたり、成功して富みを得たり、世の
ため人のために必要なものですが僧侶には向いていません。
愛情も尊い心情ですが、一方的に執着すると、場合によっては、
ストーカーとして相手に苦痛を与え、自分も大変なことになります。
妻子に対する保護、親戚付き合いすらままならないもので、例えば
供養するにつけても親のために読経する行為は僧侶としての資質を
欠くもので、一切精霊のために読経すべきでありましょう。
■経済的な意味で個人の貸借対照表を作られることも将来を見詰め
られることに役立ちますが、人間関係についても、身辺をきれいに
整理することが大切です。
将来に思わぬ負担を齎(もたら)すような人間関係は誠意を尽く
して整理して置くことが大切になります。
人間関係に限らず、生きて行く上でほどほどという程度があり、
あまりに打ち込むと、物が人の生命より大切になったりすると周囲
の大変な迷惑になることがあります。
▼憎しみや恨みの心をもつことは、将来他人に害を与える恐れがあ
りますので、忘れてください。自らが砒素やダイオキシンを摂取し
ているようなもので、何の役にも立ちません。
嫉妬心や見栄も名誉欲も、人間の行動を誤らせる大きな原因にな
ります。
▼寺の運営で心すべきことは多数決の原理で運営しないことです。
一人の反対意見も押し潰してはなりません。全員一致で決められた
ことしか執行しません。同時に、このような慣例を持つと反対する
には十分の根拠が無くてはなりません。お寺の運営に商業的な提案
やさまざまな企画は不必要です。
確実に成功すると保証できる提案などは絶対に無いのです。
■物事は思うようにならない、全てのものは、移ろいやすく、形を
とどめているものはあり得ない。諸行は無常と受け止めて執着しな
いのがよろしいです。
*無欲になると何もする気が無くなるのではなくて慈悲深く、行い
が自然と戒律に収まることが望ましいことです。覚りの程度につい
てはいろいろあって良いと言っておられます。
*僧侶であることは絶えず修行しているという態度と、お釈迦さま
を代理しているくらいの自覚が必要です。謙虚であると同時に自己
の確立も必要です。衆望があれば理想的です。