寅さん ずっと以前も、大般若経(だいはんにゃきょう)転読(てんどく)について、ご隠居にお訊ねしたことがありますが、新しい年を迎えるにあたって、もう一度あらためて伺います。
なぜ、大般若経は「読誦・どくじゅ」でなくて、「転読」なんでしょうか?
ご隠居 ふつう、お経を最初から終わりまで一行も端折ることなく全文読むことを、「真読(しんどく)」または「看読」という。これがいわゆる読誦(どくじゅ)だが、転読はそうではない。
転読というのはお経の出だし、つまり冒頭の部分、中ごろの部分、そして、終わりの部分の数行を、読んで済ませることをいう。すなわち転読とは、お経の全文を読むのではなく、ばっさりと思い切って省略することだな。
だけど、これはなにも、横着やものぐさをしようとして、そうしているわけではない 比較的短いお経、たとえば「理趣分(巻五八七)」や「金剛般若経」などであれば、真読することも可能であるが、大般若経のように全部で六百巻もある大部(たいぶ)なお経だとそうはいかない。
時間がかかって、いつ終わるともしれないという関係で、諸願成就(じょうじゅ)の祈祷(きとう)の場合などはやむを得ず転読という方法を用いるわけだ。
蘇悉地羯羅経(そしつじがらきょう)は、転読について次のように説いている。
「なお、成らずんば、まさにこの法を作(な)すべし、決定(けつじょう)して成就せん。いわゆる乞食精勤(こつじき・しょうごん)念誦、大恭敬(くきょう)を発して八の聖跡を巡り、礼拝行道し、あるいはまた大般若経を転読すること七遍あるいは百遍せよ」と。
すなわち、これは、大般若経を転読すれば、まず、うたがいなく所願成就するぞ、という仏意でもあるわけだ。
また、転読も古来、各宗派によって行われ、少しづつ様式が異なるようで、ある宗旨では、お経の初め、中、終わりを読むことなく、「唐三蔵法師玄奘奉詔訳(とう・さんぞうほうし・げんじょう・ぶじょうやく)」と経題を唱えて、単に標題の一つ一つを読み上げたり、真言を唱えたり、また以下のごとき文句を唱えながら、経巻を転ずる形式もあるようだ。
南無一切三宝
寅さん つまりスローガンを唱えて済ませるわけですね。で、それはどういった内容のものですか?
ご隠居 それはこうだ。「諸法(しょほう)は皆これ因縁(いんねん)より生ず。因縁より生ずるが故に、自性(じしょう)無し。自性無きが故に去来(きょらい)無し。去来無きが故に所得(しょとく)無し。所得無きが故に畢竟(ひっきょう)空なり。
畢竟空なるが故に、是を、般若波羅蜜と名づく。南無一切三宝、無量広大なる阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を発せん」とな。
寅さん その言わんとしている意味をかいつまんで解釈すると、どういうことです?
ご隠居 つまりだな、いかにこの般若の経文が博大であるとしてもなかに説かれているお経の大意は以上の文言に余すところなく集約されているので、この文言を唱えることによって、大般若経の六百巻すべてを読み通したことになるというわけだ。意味は・・ あらゆる存在は、すべて因縁より生じる。
因縁より生じるのであるから、あらゆるものそれ自体には、いかなる本性も実体も持たない。実体がそもそも存在しないのであるから、どこかからそれを招きよせることも、また、どこかへ捨て去ることもできないし、むろん、そのものを所有することもない。
所有するものがいないのであるから、それはつまり空である。
つまり空であるがゆえに、これを般若波羅蜜(生死の観念を脱却して悟りをひらくこと)という。
南無一切三宝、—-ここに発願(ほつがん)して、仏・法・僧の三宝に帰依(きえ)いたします。広大にして量り知れない阿耨多羅三藐三菩提をかちとるまで・・・・、と、こういった意味合いだろうかな。
寅さん 最後の、アノクタラサンミャクサンボダイというのは?
ご隠居 これは、自らの煩悩(ぼんのう)を断じ、真実の智慧(ちえ)を獲得して開悟(かいご)することである、とされている。
寅さん 大般若経転読にそんな有り難いご利益(りやく)があるのでしたら、私や家族の諸願成就のため、毎月行なわれる観音院さんの大般若経転読法要に、ひとつ今年は万障繰り合わせて参拝参加するよう心掛けることにします。
閻魔王庁から迎えにきた鬼たちに
食を施して連行を免れた男の話
「日本霊異記」より
南無一切三宝
楢磐嶋(ならのいわしま)は、奈良、左京の六条五坊、南都(なんと)七大寺の一つ、大安寺の西辺の里に住んでいた。
聖武天皇の御代、磐嶋は、大安寺から修多羅分の銭(すたらぶん・大般若経を読誦したり論じたりする大安寺内の研究会のことで、その修多羅衆が積み立てた金銭を一般に貸し出して、その利息を修多羅講の費用に当てていた)三十貫を借り受けて、越前の敦賀(つるが)へ行き、海産物などをどっさり仕入れた。
購入した品々をようやくにして船に積み終え、磐嶋がこれから帰路に就こうとしていたところ、折悪しく病気になってしまった。
しかたなく、商品を満載した船は敦賀の港に止めたまま、磐嶋は馬を乗り継いで、単身奈良へ帰ることにした。
馬の背で病いの苦痛に耐えながら、やっと近江国志賀の唐崎あたりまでたどり着いたときのことである。ふと、振り返ってみると、磐嶋の遙かうしろのほうから、三人ばかりの異形(いぎょう)の者が、どうやら彼のあとを尾行しているような気配がある。
はて、俺のあとをつけて来るのは、いったい何者だろう、と考えながら、しばらくのあいだ、道を急いでいたが、山城国の宇治川に架かる橋のあたりで、その三人が追いついた。
彼らは磐嶋を取り囲むように、並んで歩を進めるのだが、ひとことも口を利こうとはしない。
薄気味悪さを我慢していた磐嶋が、とうとうたまらず異形の彼らに声をかけた。
「もし、あなた方は、どちらまで行かれますので?」
すると、その中の一人が、重々しい口調で言った。
「我らは閻魔王庁より派遣された使者である。ほかでもない。奈良の磐嶋を召し連れにやってきた」
おどろいて磐嶋が、「おたずねの、その奈良の磐嶋というのは、この私めでございますが、閻魔庁の方が、私にどのような御用がおありなのでしょう?」
「我々は過日、汝の家を尋ねて奈良に赴いたが、家人が出てきて、ただいま主人は越前の国のほうへ商用のため出かけ、あいにく不在にしております、という。
そこで、急ぎ敦賀へ向かい、汝を拉致(らち)しようと思っていたところ、突然、四天王(してんのう・東西南北、四方の仏法を守る四人の守護神。持国・じこく、広目・こうもく、増長・ぞうぢょう、多聞・たもん、天部のみほとけ)の使いという者が、我らの前に現れ出て、・・あんたたち、磐嶋を赦してやりなさい。彼は大安寺から借りた銭を元手に商いに励み、儲かった金で利息分を寺に奉納しようと考えているのです。
その功徳(くどく)をおもえば、なにも今、閻魔庁へ連れていくことはないでしょう-と、辞を低くして頼みこむので、もうしばらく、汝の拉致を猶予してやろうかとも思案しているところである。
それにしても、日数をかさねて汝(磐嶋)の行く先を尋ね歩いたおかげで、我らは腹が減って、もうへとへとである。何か食い物を持っていたら、食わせてくれ」と情けなげにいう。
意外と気の良い鬼
ひょっとして、何とかなりそうだと感じた磐嶋が、旅用に携帯していた干飯(ほしいい・飯を干したもの、水に浸して食べる)を与えると、鬼たちは、それをガツガツむさぼりながら、親切めかして言った。
「汝、我ら鬼の発する悪い毒気にあたって、病気にでもなるといけないから、あまり傍(そば)近くへ寄るな。
だが、なにも汝を取って食うわけではないから、神経質に恐れんでもよいぞ」
このようなやりとりをしながら一行は、やがて磐嶋の家に帰り着いた。
磐嶋は、さっそく家人に言いつけて食事の支度をさせ、鬼たちを客間に通して、手厚く饗応(きょうおう)する。
鬼たちはいかにも満足げに、ご馳走に舌鼓を打ちながらいう。
「我らは今、汝の心温まるもてなしに、ことのほか感謝している。しかし、あえて一つ贅沢を言わせてもらうならば、何か物足りない。というのも、我らは閻魔庁において牛を捕るのを仕事にしている関係から、ふだん牛肉の味に慣れ親しんでいる。そこでどうだろう、折角だから牛の肉を奮発してくれるわけにはゆくまいか」
「それでしたら、我が家に黒白まだらの牛を二頭飼っております。それを食膳に供することにいたしますので、そのかわりに、私を閻魔庁にお連れになるのだけは、ご勘弁していただくわけにはまいりませんか」と懇願する磐嶋に、鬼たちは互いに顔を見交わしながら、「我らは今、汝こころ尽くしの饗応を得て、腹一杯ご馳走になっておる。けれども、その食い物のせいで汝をこのまま放免すれば我らは重い罪に問われて、鉄の杖で百回打たれる罰を受ける」
はて、困ったわいと、しばらくのあいだ考えこんでいたが、三人の鬼のなかの一人が、ふと、何か思いついたように聞いた。
「ところで汝は何年生まれか?」
「私は戊寅(つちのえとら)です(この物語は聖武天皇の時代なので、天武六年{678年}生まれであるという磐嶋は四十六歳過ぎという計算になる)と答えると、「それは好都合だ。率川(いざがわ・奈良の春日山から佐保川に注ぐ小川)の畔の神社近くに、相八卦読(そうはっけよみ・人相や家相などを占い、八卦をたてて予言などをする易者)の男が、たしか汝と同じ戊寅の年だと聞く。この男なら、閻魔庁に召喚(しょうかん)する十分な条件をみたしているから、その者を汝の代わりに召し連れることにしよう。
だが、この不正が露顕したあげく、我らが鉄の杖で打たれるのはたまらないから、すり替え不正の免罪のために、我ら三人の名前を唱え、金剛般若経百巻を読誦することを約束してくれ。
ちなみに我らの名前は、高佐麻呂、次に中知麻呂、そして槌麻呂(これは鬼の身体の大きさを表したものらしい)である。約束を忘れるでないぞ。なお、折角だから、汝の家の牛一頭はもらっていく」
と言い置いて、夜のうちに磐嶋の家から去っていった。
翌日、家人が起きてみると、牛が一頭死んでいた。
鬼と約束したお経を読む
辛うじて鬼たちからの連行をまぬがれた磐嶋は、とるものもとりあえず、大安寺、南塔院の仁燿法師を訪ねることとした。
・・仁燿法師は大和の国・葛木上郡の人。延暦十五(796)年、七十五歳寂。したがって当時は十七、八歳で、まだ受戒前の修行中の沙弥(しゃみ)であった。
磐嶋が、すがりつかんばかりに法師に頼み込む。
「じつは私、思うところがありまして、これより金剛般若経百巻を読誦する誓願(せいがん)を立てましたので、なにとぞ、法師のお力添えを賜りたいと存じます」
彼の願いを快く受け入れた仁燿法師は、懇切丁寧につきっきりで指導してくれた。
あっちでつかえ、こっちでつかえして、磐嶋の読誦は、なかなか捗(はかど)らなかったが、それでも悪戦苦闘の末、二日目にようやく、金剛般若経百巻を読み終えたのであった。
すると、その三日目、例の鬼たちが磐嶋のもとへ再び現れた。
「汝が大乗経典を読誦してくれた功徳力により、おかげで我らは、鉄の杖で百回叩かれる罪をこうむらずに済んだ。そればかりか、飯の量もこれまでの倍も増して支給されることになった。たいへんありがたいことである。
そういったしだいであるから、汝はこれより以後、節(せち・仏戒を守り、悪をつつしみ、善を行なう日のことで、六斎日〔ろくさいにち、六施日〕、十斎日、八王日、三長斎など、それぞれに定まった日)ごとに、我らのために供養してくれ」と言い残して、忽然と消え失せたのである。
磐嶋は、それからもたいそう長生きして、称徳天皇の神護景雲(じんごけいうん)年代、九十余歳まで存命であったという。
大唐の徳玄は、般若経の功力(くりき)をこうむったおかげで、閻魔庁の使に連れてゆかれる危難をまぬがれ(徳玄は高宗皇帝の頃の人。のちに左大臣となる。金剛般若経の集験記上巻に記述されている)、日本の磐嶋は、商いの元手を寺から借り受けて、閻魔大王の使いの鬼の拉致(らち)を逃れることができた。
また、供花を売る女人(にょにん)は、花を供養した功徳によって、刀利天(とうりてん)として天上界に生まれかわり、毒を飯に盛って釈迦を殺害しようとした掬多(きくた)は、仏の神通力でかえって懺悔(さんげ)し、善心を起こしたということである。