お経典のあれこれ

先月は観音さまにちなむ「観音経」についてお話でしたが、この
観音経は、詳しくは「妙法蓮華経観世音菩薩 普門品(ふもんぼん)
第二十五」といい、さらに、その偈文(げもん)(観音院常用教典
まことの道・百三ページから)をいうことがほとんどです。

 妙法蓮華経の二十八品(ほん)のうち、妙法蓮華経観世音菩薩普
門品は、第二十五番目です。
 「妙法蓮華経」はサンスクリット(梵語・ぼんご)では「サッド・
ダルマ・プンダリーカ・スートラ」といわれます。
 「サッド・ダルマ」とは正しい法、真実の法という意味ですが、
それは不可思議微妙(みみょう)なものだということで、「妙法」
と訳されています。   
 「プンダリーカ」とはインドにある蓮の一種ですが、蓮の花は聖
なる花として古来、各国で好まれています。
 紅蓮華はパドマといわれます。経題のプンダリーカというのは、
白蓮華をいいます。

 この「蓮華」は浄水には育ちません。汚泥水から咲き出でて、
しかもその泥に染まらず、浄らかです。蓮華はみ仏さまや菩薩さま
にたとえられ、たとえ俗世間の汚濁(おじょく)の中に生きていて
も、私たちと共に俗世間にあり、共に悩み苦しみ、救いの聖行をさ
れる、仏道の実践、すなわち、菩薩行の成就(じょうじゅ)をしめ
したものとされます。 

 お経は「スートラ」といわれ、「たて糸」の意味で、基本の線、
教えの綱要を表しました。古代インドでは各宗教の説教をまとめた
短文をスートラとよんでいました。
 仏陀の教えをひとまとめにしたものを「経」と名づけています。
お経の多くに「仏説」「如是我聞(にょぜがもん・我、かくの如く
聞けり)」で始まるものがありますが、経典はお釈迦さまがご入滅
ののち、多くの弟子達が集まって教えが散逸したり異論を生じない
ように結集(けつじゅう)してまとめられたものです。

 ただ、お釈迦さまの説法は対機説法(たいきせっぽう)といわれ
ますが、相談を受けられるとき、相手の素質や能力、状態に応じて、
解り易く、たとえをまじえて答えられるもので融通無碍(むげ)な
ものでした。ですから、お釈迦さまは読経されたことは一度もない
わけです。

 お経を単にあげることができれば良いというものではなく、み仏
さまの教えに耳を傾けて、自らの日常の言動に気付かせて頂くこと
が大切です。その点、まことの道には「朝の言葉」「十善戒」など
教えを解りやすく「現代語訳」されていますから、日常的に教えに
ふれることができます。
 いたわり、慈しみ、思いやり、相手の立場で考える、ということ
が生活のなかで実践できるように、意を体することができるように
読誦(どくじゅ)したいものです。

 お寺にお参りし、皆さんと共にお経をお唱えする、背筋を伸ばし
て、腹式呼吸で端正に声を出す、姿勢良く大きな声を出すことは、
心身の健康に良いことで、医師からもよく勧められます。

 仏法や仏門ともいわれることがありますが、法門(ほうもん)は
真理の教えという意味です。
 仏の教え、真理へ至る門、悟りに至る門として、仏道への入り口
という意味でも使われていますが、よくいわれる「八万四千の法門」
は、お釈迦さまが人々により善く生きる道の説法、仏教への入り口
が無数にあることをいいます。

 簡単に言えば、お釈迦さまは、すべての人にお釈迦さまのように
成って、人生を安らかに送ってもらいたいと願われて、教えを説か
れたわけです。
 お釈迦さまの説法は「応病与薬=おうびょうよやく」、医王(み
仏)が病に応じて善い薬を与えることにたとえられ、「対機説法=
たいきせっぽう」といわれ、相手の人の状態を見極めて、その人に
最もふさわしい教えを説かれたといわれています。

 また議論に終始してしまう事柄や抽象的な質問に対するお釈さま
の対応は、不一向説、無記答(むきとう)を貫かれたようです。
いたずらに言葉を弄ばない、無益な議論を戦わせようとしない、
不答=無記を守られたようです。

 あるお経に、「如是我聞、一時(いちじ、あるとき)、・・・、
そのとき阿難(あなん)は、衆生のために仏に訊ねていわく、

「世尊、人はみな、同じ人間として生まれながら、あらためて人間
一人一人を個別にみると、それぞれ個人差があって、一様でないし、
平等でもない。なぜでしょう?—-
 阿難尊者は、だれもがもちやすい愚痴として、この世に生まれ、
不平等で、善意でしても裏切られたり、嫌われたり、苦しみ、悩み、
迷い、妬み、あれこれ他人を嫌悪し、乱れ、悪行を犯してしまう、
わたくしたち衆生の疑問とするところを、衆生になりかわって、お
釈迦さまにお訊ねになりました。

 言うまでもなく、お釈迦さまは三明六通ですから、なんでも知っ
ていらっしゃいます。三世(さんぜ)—-過去、未来、現在すべて
にいたることまで、それはあたかも掌中のくだものを見るように、
たやすいことですから、それらの疑問について、ただちにお答えに
なりました。

 —-仏、阿難に告げていわく、汝が問う所のごとく、人それぞれ
受報の同一でないのは、すべて前世のおこない、心のもち方の善し
悪しによって左右されるから、現世に受けるその報いは千差万別
である。
 したがって、現世において、正しくきちんと暮らしている者は、
前世において忍辱(にんにく)の気持ちを忘れず、はずかしめや
悩みを忍受して、恨まず堪えてきたおかげである。—-

 お釈迦さまは今、現前にある人のようすを察知されて、苦しみを
癒され、慈悲で救われました。
 相談する者が心から納得し、心癒されるように、過去を乗り越え
て、反省し、今日これからのこととして受けとめ、善き生活を心が
けるように導かれます。

 仏教の多くのお経に書かれている事柄の中には、お釈迦さまの
説法ではなくて、当時の差別の激しい時代を反映した経緯や、偽経
や疑経といわれるものもあり、こんにちの一般常識をもってしては、
とてもそのまま信じることができないものも含まれていますが、た
だ一つはっきりしているのは、私たち人間の正しい行き方を示し、
それを実践させようとして、もっぱら五戒十善を説示されたものだ
ということです。

 菩薩さまが、菩薩になるための学問、五明(ごみょう)という
五つの科目があるように、仏教は、私たち衆生のために、世法(人々
を導いて善にする教え、教育)をもって、そのまま仏法に習合させ
あまねく仏意を世にひろめ、仏の道を示されました。

「華厳経」にいわく、
「仏法は世間法に異ならず、世間法は仏法に異ならず、仏法、世間
法、雑乱有ること無く、また差別無し」と。

ある説話

ご隠居 このページでときどき紹介している「日本霊異記(りょう
いき)」にも、善悪因果にちなんだ説話がある。
 ずっと以前取り上げたことがあるから、寅さんも覚えているので
はないかな。

寅さん どんな話でしたっけ?

ご隠居 二番煎じの話になるが、その説話をかいつまんで言うと、
ざっと次のようなものだ。
 むかし、大和の国に、毎日のように経文を誦んで修行する感心な
若者がいた。丹治比の某(なにがし)といった。
 彼は生まれながらに賢く、まだ八歳にもならないうちに、法華経
を全部そらんじているほどであったが、どうしたわけだか、そのお
経の中にある、ただ一文字だけ、どうしても記憶することができな
かった。本人は、どうにかしてその一字を覚えようとして、懸命に
努力したが、二十歳すぎの年齢になってもだめだった。
 そこで、観音さまに祈ることにした。
 そんなある夜、彼は夢を見た。
 見知らぬ人が夢枕に立って、「おまえは前世、伊予の国の住人
日下部の某という者の子であったが、あるとき法華経を誦んでいた
ところ、手にしていた経文の一部分を、たまたま粗相して灯火で焼
いてしまった。だからそれ以後、その焼いた部分を誦むことができ
なくなったのだ。
 嘘だと思うなら、みずから伊予へ行って確かめてくるがよい」と
いった。
 夢から覚めた若者は、しばらく呆然としていたが、げんに経文の
事実があるだけに、まんざらでたらめとも思えない。

 で、四国にちょっと用事ができたからと、親にはうまく取り繕っ
て、はるばる伊予へ出かけることにした。
 めざす家を訊ねてゆくと、たしかに日下部というその家はあった。
 門を叩いて、案内を請うと、出てきた老女が、若者を見るなり、
はっと息を呑み、そのまま奥へ駆け込んだ。「おくさま大変です。
亡くなったご子息そっくりの人が門前に立っていらっしゃいます」
 主人夫婦が急いで表に出てみると、先年に亡くなった息子に相違
ない。いぶかしんだ主人が問う。
「あなたは、いったい誰だね?」
「私はこうこうこういう者ですが、先夜、不思議な夢を見たので、
こうして尋ねてまいりました」というので、ともかく若者を客間に
招じ入れた。
 あらためて主人夫婦がしげしげ見つめたが、どう見ても、死んだ
息子である。これはひよっとして死んだ我が子の霊魂かもしれぬと、
「あなたが、ほんとうに私たちの息子ならば、むかし息子が起居し
ていた部屋へ案内するから、そこで生前のことを思い出してくださ
い」といった。
 若者がその部屋にはいると、文机の上に法華経が置かれていた。
 手に取って開くと、そこが、ちょうど、いつもどうしても暗唱で
きない文字の箇所にあたっていて夢に見たとおり、その部分が火に
焼けて欠落していた。
 若者は、大切なお経の文字を、あやまって焼いた罪を、仏にむか
って一心に懺悔(さんげ)した。
 すると不思議なことに、これまで、どうしても一か所だけつっか
えて誦むことのできなかったお経が、全部すらすら誦み通すことが
できるようになったのであった。
 そしてこの説話は、次のように話が結ばれている。

 誠に知る。法華の威力、観音の験力なることを・・。
 善悪因果経にいわく、
「過去における原因を知ろうと思うなら、現在の結果をみるがよい。
 未来の報いを知ろうと思うなら現在の所業を見るがよい」と。

もう一つの実話

寅さん まったく、不思議な話があればあるもんですね。

ご隠居 ところが、驚いたことにこれに類した、もっと不可思議き
わまる話が、それも海の向こうのヨーロッパにあるんだな。

寅さん へえ、どんな話です?
ご隠居 寅さんは、ダンテ・ガブリエル・ロセッティという画家を
知っているか?

寅さん 知りません。

ご隠居 この人は十九世紀の英国の画家だけど、ロセッティはエリ
ザベス・シダルという少女をモデルにしたいくつかの絵で有名だ。
 現にそのうちの一枚が英国王立美術館に陳列されているそうだが、
このロセッティの描いたエリザベス・シダルの肖像画に不思議な
因縁話があるのだ。

寅さん ほほう・・。
ご隠居 ロセッティは、エリザベスをモデルに絵を描いているうち
に、やがてこの少女に恋をしてしまった。

寅さん よくある話だ。

ご隠居 二人は熱烈に愛し合った。
 そしてロセッティとエリザベスは結婚した。ロセッティは情熱に
まかせて何枚もエリザベスの絵を描いた。
 ところがあるとき、エリザベスが薬を誤って服用して死んでしま
った。最愛の妻、最良のモデルを失ったロセッティは、傷心を癒そ
うと思いイタリア旅行に出かけていった。
 で、彼がボローニャの美術館を訪れ、ある絵の前に立ったとき、
あっと叫んでしまった。

寅さん どうしました?

ご隠居 「セント・アグネス像」と題したその絵のモデルがなんと
死んだエリザベスと瓜ふたつだったのだ。

寅さん ははぁ、他人のそら似ですか?

ご隠居 しかも、その「セント・アグネス像」を描いたアンジオレ
リという十五世紀の画家の自画像も、その近くに展示されていたの
だが、このアンジオレリがまた、ロセッティと生き写しだったとい
うわけだ。

寅さん すると、十五世紀の画家であるアンジオレリが、ロセッテ
ィという十九世紀の画家に生まれ変わり、十五世紀のセント・アグ
ネスという娘が、十九世紀にエリザベス・シダルとなって復活した
ということですか?

ご隠居 そのとおりだ。しかも、十五世紀の画家とモデルは、十九
世紀には結ばれている。つまり、十五世紀の画家とモデルは、この
世にもう一度生まれ変わって愛を完成した、というわけだな。

 お釈迦さまがさまざまに説かれた因と果、縁のように、不可思議
な因縁がある、世の中には、現在の科学で謎ときができない、いろ
いろ不思議なことがあるということだな。

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