真言宗伝持の八祖さま(三)

八月号、九月号と真言密教弘通(ぐつう)に貢献された「伝持の 八祖さま」のなかから、一祖龍猛(りゅうみょう)菩薩さま、二祖 龍智(りゅうち)菩薩さま、三祖金剛智(こんごうち)三蔵さま、 四祖不空(ふくう)三蔵さま、五祖善無畏(ぜむい)三蔵さま、六 祖一行(いちぎょう)禅師さま、七祖恵果(けいか)阿闍梨(あじ ゃり)さまについて書いてまいりましたが、今号では、八祖であら れます「お大師さま」、弘法大師空海さまについてお話したいと思います。

入唐求法(にゅうとうぐほう)

 お大師さまの著作された文章を集めた「性霊集(しょうりょうし ゅう)(全十巻)」の巻第七の「四恩の御為に二部の曼荼羅(ま んだら)を造る願文の中で、
「径路(けいろ)いまだ知らず、岐(ちまた)に臨(のぞ)んで幾 (いく)たびか泣く」と述べられております。仏道にはいくつもの 道があるが、どの道を進むべきか若き日のお大師さまの苦衷が告白 されております。
 苦悶の中、東大寺大仏殿に二十一日間参籠(さんろう:一定の期 間こもって祈願すること)して、ご祈願されました。

 弘法大師遊方記に 「吾、仏法に従って常に要を求め、尋ねるに三乗五乗十二部経、心 に疑いが残り、決をなさず。唯願わくば三世十法の諸仏、我に不二を示せ」と一心に祈られていると、「夢に人有り。告げて曰く。ここ に経有り。名字は大毘盧遮那経(大日経)これ即ち求む所、大和の国 久米寺の東塔の下に有り」と結願(けちがん)の日に、ありがたき 啓示がありました。そして、大和久米寺(奈良県橿原市)に「大日経」七巻を発見されました。お大師さま二十三歳、延暦十五年(七九六 年)初春のことといわれます。
 大日経、本題は大毘盧遮那成仏神変加持經(だいびるしゃなじょ うぶつしんぺんかじきょう)と言い、お大師さまにとりましてまさ に不二の法門でした。

 不二とは二つと無い仏教の真理を説く法門であり、仏と我が一体 となる即身成仏の境地を説く法門(経)であります。
 捜し求めていた大日経を手に取られたお大師さまの感激はいかばかりであったでしょうか。しかし、意味の通じない梵語が随所にある ので、梵語を学ぶ必要性、理論だけではなく、よき師に出会い直接 教えをうけ密教の修行する必要性を感じられ、唐の国にわたられる ご決心をされたものと思います。

 お大師さまは師僧である勤操大徳(ごんそうだいとく)を通じて 入唐留学の申請をし、延暦二十三年(八〇四年)勅許を得られ、五 月十二日、藤原葛野麿(ふじわらのかどのまろ)を遣唐大使とする 派遣船は、難波の港(大阪港)を出帆しました。
ところが海上、大暴風に遭い、着港予定の港からはるか南方に漂流し、八月十日福州(中国福建省都)の港に着きました。
 その上に福州の観察使(行政・軍の責任者)は日本の遣唐使一行 であることを理解できず、海賊扱いされるほどでありました。藤原大使は幾度か上書して、疑いを晴らそうとしましたが、いっこうに 解けませんでした。

 そこでお大師さまが大使に代わり書をしたためました。その能筆 と麗文のに観察使は一見して凡庸でないのに驚き、疑念たちまちに 晴れて歓待につとめられました。
こうした苦難の旅を経て、十二月二十三日唐の都長安(現在の陜西省都西安)に着かれました。

み教えの相承(そうしょう)

長安に着かれたお大師さまは、インドより来られていた般若三蔵 さまや牟尼室利(むにしり)三蔵さまより、インドの仏教原典を学 び、梵語を習得されました。
 そして一心に目指しておられた密教の師をお探しになられました。インドより陸路を経て善無畏三蔵さまにより伝えられた「大日経」 を拠り所とする密教、海路を経て金剛智三蔵さまにより伝えられた 「金剛頂経」を拠り所とする密教の二系統を兼ね備えられた密教の 第七祖として仰がれていた恵果阿闍梨さまが青龍寺におられることを知られたのでした。

 長安で止宿していた西明寺の僧侶とともに恵果阿闍梨さまの青龍寺を訪問されました。
 恵果さまはお大師さまのお顔を見られると、「われ先に汝の来ることを知り、待つこと久し、今日相見る、はなはだ好し、はなはだ 好し、報命まさに尽きんとす、人の法を附すべきなし、必ずすべか らく香華を弁じ、灌頂壇に入るべし」と仰られました。
 お大師さまは真言密教の神髄至実を伝える灌頂(かんじょう)の職位を受けられ、即身成仏の実相を体験感得され密教の正統を継ぐ第八祖となられたのでした。

 恵果阿闍梨さまお付の僧侶呉慇(ごいん)はこの模様を次のように記されています。
「今、大日本国の沙門あり、来りて聖教を求む ること、みな学ぶ所をして、写瓶(しゃびょう)のごとくなるべし。
この沙門はこれ凡徒に非ず三地の菩薩なり」。この書は阿闍梨さま が授ける密教の大法を、あたかも瓶の水を一滴残らず写し与えて、 お大師さまが全て受け取られたと讃嘆されたものであります。すべての法を伝授された恵果阿闍梨さまは八〇五年十二月十五日 寂然として入滅されました。
 お大師さまは阿闍梨さまの葬儀に当たって多くの弟子たちの代表として、大唐青竜寺故三朝国師碑と題する碑文を書かれております。
「ああ悲しいかな、天、歳星を返し、人、慧日を失う」とこの上無き惜別の情を表しておられます。

 師を失ったお大師さまは、その後も三ヶ月間長安に留まり、写経や曼荼羅の制作に専念されておりましたが、密教の大法を日本に広 めるため、在唐二十年の予定を切り上げ帰国されました。
 多くの人の支援を得られて種々の苦難を乗り越えられて、大同二年(八〇七年)、勅許により真言宗立教開宗をなされました。弘仁七年(八一六年)に嵯峨天皇より高野山開創の勅許を頂かれ、真言 密教の根本道場としてお開きになられました。
 お大師さまが日本にお伝えくださられたみ教えは、私共が生きる現在に至るまで脈々と受け継がれております。   合掌九拝 浄寛