お大師さま(二)

■ 真魚(まお)さまご生誕■

 弘法大師・空海、お大師さまは光仁天皇の宝亀五年(七七四年) 青葉香る六月十五日にお生まれになりました。
  高野山では毎年、六月十五日は「青葉まつり」としてさまざまな行事でお祝いしています。
  ご誕生の地は、北には穏やかな瀬戸内海、東に飯野山(讃岐富士)、「稚児大師ご噂像」

西は五岳山と呼ばれる山々に囲まれた讃岐(さぬき)国、多度郡、屏風ヶ浦(びょうがうら)、現在の香川県の善通寺(ぜんつうじ)市にお生まれになられました。
  お父上は名門大伴一族の佐伯直田公善通(さえきあたいたぎみよしみち)卿、お母上は玉依御前(たまよりごぜん)。
  お大師さまのご幼名は真魚(まお)さまと付けられました。
  御誕生について種々の伝説が伝えられていますが、高野大師御広伝には「父母の夢に、聖人、天竺より飛来して懐に入って妊胎し、十二ヶ月を経て誕生す」と記され
ております。この聖人は真言密教の第六祖・不空三蔵さまと言われております。お大師さまが不空三蔵さまのご入滅の六月十五日にご誕生されたので生まれ変わりとも、再来ともいわれております。三蔵さまの入寂された年が誕生の宝亀五年にあたるからです。
  お大師さまの御遺告(ごゆいごう)の縁起第一には「五、六歳の頃、夢にいつも八葉(はちよう)の蓮華の中に居座して、諸仏とともに語り合う夢を見た。しかしこ
の事は父母に語らず、まして他人にも語らなかった。父母は愛しみ貴物(とうともの)と呼んだ」と書かれております。
  生来、宗教心が厚かった真魚さまは、誰に教えられるでもなく、泥土で仏像やお堂をを作り、礼拝したと伝えられております。
  四国八十八ヶ所の七十三番・出釈迦寺(しゅっしゅかじ)のには、我拝師山(がはいしざん)捨身が岳のご縁起があります。「捨身が岳禅定、弘法大師七歳の御時救世 の大誓願を立て、五岳の随一たる当山に登り三世の諸仏十方の菩薩に念じ、我仏法に入て一切の衆生を済度せんと欲す、わが願い成就するならば釈迦牟尼世尊影現して證明を与えたまへ、成就せざるものならば一命を捨ててこの身を諸仏に供養し奉ると唱え、断崖絶壁の頂きより白雲も迷う谷底に身を跳らし飛び給へる。紫雲の湧き起こらせる中に、釈迦牟尼仏百宝の蓮華に座しご出現せられ羽衣を身にまとうた天女天降り大師を抱き
とめ「一生成仏」と宣り玉ふ。」
  この文は捨身誓願(しゃしんせいがん)と言われ、衆生救済の志を七歳の真魚さまが、お釈迦さまの御跡を継ごうと「誓願」されたことを著しております。

■都に出て本格的に勉学 ■

  十二歳頃になると真魚さまは、讃岐の国府に置かれていた国学(地方官吏や豪族の師弟を教育する学校)で学びましたが、聡明で天才的であったために、讃岐での学問では水準を超えてしまわれたに違いありません。
  母方の伯父に阿刀大足(あとのおおたり)という学者がおりました。大足は、桓武天皇の皇子・伊予親王の持講(じこう 家庭教師)であり、真魚さまの才能を見抜いて更に高い学識教養をつけさせようとしました。
  当時、体制の一新を企図された桓武天皇により平城京(奈良)から長岡京に遷都の準備をされていた延暦七年(七八八年)のこと、十五才の折り、連れられて新京に上ることになりました。
いた延暦七年(七八八年)のこと、十五才の折り、連れられて新京に上ることになりました。都に入った真魚さまは大足につき、論語、孝経、歴史等を学びました。
  これらは朝廷の官吏養成機関である「大学」に入学するためのものでした。十八歳になられた真魚さまは大学に見事合格されました。
  名門大伴一族の佐伯氏とはいえ、地方出身者の合格は当時の快挙であったものと思います。当然両親をはじめとする一族の期待が一身に集まったものと想像できます。
  当時は藤原氏隆盛の時代であり、一族である大伴家持(万葉歌人従三位中納言)は延暦四年、父の従兄弟にあたる佐伯今毛人(さえきのいまえみし 正三位参議)は延暦九年に亡くなっており、一族の栄華を真魚さまに期待し託されたことでしょう。
  真魚さまが大学に入学されてから四、五年経ってから書かれたといわれる「三教指帰(さんごうしいき)」には、大学の授業や都の虚飾になじめず「朝市(都)の栄華、
念々に之を厭(いと)ひ、巌藪(がんそう)の煙霞(えんか)日夕(じっせき)に之を飢(ねが)ふ」と当時の心境を回想されております。
  御遺告には「我の習うところの上古の俗経は、眼前すべて理弼なきをや、真の福田を仰がんにしからず」と述べ仏教の教えに惹かれる心を書かれております。仏門に入られる直前のことでした。

■お大師さまと胡麻ぼたもち■

 遠い昔、弘法大師という徳の高いお坊さまが、荒川を渡り、現在の戸田市付近にやって来られ、村 はずれにある農家をお訪ねになり、お腹がすいたので何か食べ物を頂けないでしょうかと申されました。
  家にいたおばあさんは一目お坊さまをみて、貧しい衣を着されているが、徳の高いお坊さまに違い
ないと感じ、「ほだもち」を作って心づくしのおもてなししようと支度をはじめましたが、あいにくなことに、その年は作柄が不良で小豆がありませんでした。
  そこで、おばあさんは「胡麻」をすりおろし、「胡麻ぼたもち」を作って、お坊さまに差し上げました。お坊さまは美味しい、美味しいと何皿もお食べになられました。
  時は千年を経ましたが、今でも弘法大師さまがお好きな「胡麻ぼたもち」と戸田の人々に語り継が
れております。 

▼先日、東京道場に向かう途中のこと、地下鉄の階段で転倒しそうになった時、五十代の男性が私を
支えて下さって、危うく大怪我をするところを助けて頂きました。
名前も告げず去られたその方は、お大師さまのような笑みを残して雑踏に消えて行かれました。真に
有り難い事でございます。
南無大師遍照金剛
▼十二月二十、二十一日のご縁日「納めの大師」にもお参りください。
  お大師さまは皆さまに御加護下され、日々の生活の中に共にいまします。合掌九拝 浄寛 記

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