普通に拝めば、御佛様もそれにりに慈悲を示されるでしょう。
観音院は最大の努力で日々の礼拝に勤めています。信徒の皆さんから託された供養や祈願について最高の誠意で祈り続けています。
これ以上の礼拝や供養を執行しようとすると人間の体力や精神力の限界を超えます。これ以上のことは願われても無理です。
最高という意味は、これ以上にすれば僧侶も職員も倒れてしまうといった「命懸けの法要」を休むことなく執行しているという自信の表現で、傲慢でも謙遜でもなく事実を「ありのまま」に述べているだけです。命懸けの法要を永い年月にわたり続けられたのは信徒の皆さんの浄財と、奉仕で出仕して下さる多くの熱心な在家僧侶の篤い信心の力によるものです。
観音院の多くの僧侶は奉仕で出仕しておられ総数は百五十人を超えたでしょうか、仕事を持ち、家庭をもっていて、本当に僧侶として尽くすことに生き甲斐を見出している立派な人ばかりです。
広い世間には観音院と同じように良く拝む寺があるかもしれません。そのお寺には観音院と同じような「有り難いこと」が沢山あると想像します。一生懸命に拝むことの理由を説明するのが難しいのは、体験して理解出来ることで、理屈で説明出来ないからです。
職員の教育について
観音院の職員は日々向上を願って勉強しなくてはなりません。相当なやる気が無いと勤まらない、要求が際限も無く世間から要望されます。決して社会からの「逃避場所」ではありません。
自分に閉じこもること、孤高は当然認められません。他人と会話すること、交際出来ること、礼節を保つこと、共に歩む姿勢が大切です。笑顔は特に大切です。
他人にぶら下ることは到底考えられません。計画的に能率良く物事をこなして行く能力、出来栄えの良いこと、清潔で、危険なことはしないこと、自分から進んで仕事を見つけて積極的にやること、見た目が爽やかであることなどが求められます。責任を転嫁すること、言い訳をすることなどは絶対に認められません。
よくある相談ですが「寺の掃除や草抜きでもするから寺に置いて もらえないか」という申し出です。冗談ではありません、掃除は職員の一番大切な仕事であり、掃除でもと言う考え方がとんでもない間違いです。全ての職員が素手で便所掃除を丁寧に出来る現役です。
私生活は多くの信徒さんの目が有るので気を緩めることが出来ません。ジーパンにリュックなんて許容出来る範囲と私どもは考えますが、容認出来ない、もう少し躾をきちんとすべきだと言われる役員さんや信徒さんも少なくありません。習慣的に口を開けている職員がいたことがありますが、皆さんから「ぼやっと」して空から牡丹餅でも降ってくるのを待っているのではと非難されました。
法主さんがノートパソコンが重いので、リュックサックにしたいと言われたら、重いものを年寄りに持たせてはならないと信徒さんから激しく抗議されました。
観音院の役員は倫理規定の一つとして離婚すると失格します。職員は専従役員ですから、失職することになります。普通の企業や組織では結婚とか離婚は極めてプライバシーに属することとして、それで職を失うことは先ずありませんが、観音院の場合はそのように倫理規定で定められています。
観音院は如何なる意味でも「子捨て場所」でも「姥捨て山」でもありません。精一杯の努力で世間の皆さんにお仕えする立場にある人たちの研修場所であり、その心構えを鍛える場所でもあります。
お寺に対する広く世間で誤解されて認識されている考え方があります。寺は無条件であらゆる世間の悩みに対応する現実的な、かつ金銭的な面を含めての救済をすると思われていることです。寺は公益法人ですが、補助金などは一切ありません。この世に金銭を恵んで下さる御佛様はありません。むしろ、金銭を給付して生活苦から救ったり、事業資金を貸し付けることは戒律に反し、そのようなことを行った僧侶は僧籍を剥奪される処分にあいます。慈悲を標榜する僧侶が債鬼に変貌することを何としても防ぐ意味があります。
僧侶は拝み、祈り、供養することで救済をすることと活動が厳しく制限されています。寺の運営資金を役員会に付議せず独断で貸し付けたり、給付することは業務上横領の罪人になることを意味します。また、観音院の僧侶は割賦で物品を購入することは厳禁されています。債鬼に追われて菩提心を失うことを防ぐためです。サラ金を借ることは厳禁です。必要な物はお金がたまってから現金で購入する約束です。
観音院は執着の強い職員、しがみつくタイプは無理です。例えば去る信徒さんに必死でしがみついたり、好きな信徒さん宅に漬かりきりになると迷惑が掛かります。
パソコンでも、勉強することは良いこと、シガミツク場合は職員不適正と受け止められます。
祈願について
生きて行く上で人は様々な願望を持ちますが、神佛に頼らないで全てを独力で成し遂げることが出来る人は強い人です。目標到達を途中で投げ出さないで、神佛のご加護を祈るのも別の生き方です。
法主さんは祈願される際に依頼された人が目標に到達された喜びの顔を瞼(まぶた)に描いて祈願されるそうです。皆さんもご祈願を立てる時は目標に到達した喜びを瞼に描いて下さい。
法主さんは祈願を依頼された方の写真をアルバムにして常にご多幸を祈っておられます。ですから、祈願の際には写真を持って来て下さると拝み易くなるのです。
このように成功を期待して努力することは精神的にも非常に有効な方法です。願わぬものを手に入れることは難しいことです。人は挫折し易いもので、願望を持ち続けることは困難なことです。祈願は願望を維持する有効な手段です。
拝んで頭が良くなる訳が無いと言われる方もありますが、般若心経を毎日読誦していると本当に賢くなります。書籍は声に出して読み、手で書いて記憶するのが能率が良いようです。賢明でない僧侶がいるとしたら読経や写経をしない傾向が強いとも考えられます。
読書百回で意味は自然に理解出来るそうです。が、最近ではこのような努力はしないようですね。
勉強は納得して、本人の同意があって、辛抱強く努力して、段々と面白くなって行くものなのですが、同意が無いと、大変な苛めになりかねません。
観音院の年中無休の有り難い法要も、僧侶の同意とか参加についての積極性が無いと、無為なものに感じられたり、場合によっては苛め、苦行と受け止められかねない性質があります。積極的に参加することに依ってのみ法要の有り難さとか法悦が感じられ、ご守護やご霊験が体験出来ます。
法主さんも住職さんも苦行はする必要が無いと常々言われます。ですから、年中無休の法要も法悦が有れば決して大層なことではありません。法主さんは一日千巻の般若心経読誦を百日間もされたことが有るそうです。このような単純なことの繰り返しを辛抱や努力をせずに出来ることが僧侶の大切な資質だと言っておられました。
宗教は教義を良く理解することも大切ですが、理屈よりは、実践してみて初めて理解出来ることの多い体験の世界です。体験の無い有り難さなんて何にもなりません。
皆さんも出来るだけ法要に参加されて法悦を味会って下さい。
今年も後わずか
今年は経済的に難しい年でしてが、これから段々良くなると楽観的なことを言う人と、もっと厳しくなると悲観的な可能性を説く人と両方あります。経済の動きと人の生涯は別物です。経済の循環に巻き込まれると大変です。十分に注意して慎重に生きて下さい。
観音院も熱い祈りを捧げたいと考えています。年末に掛けて余裕のある資金繰りに今直ぐ取り掛かりましょう。備えあれば憂い無しと言う諺は何時の時代でも通用する大切な考え方です。