法主さんはしばしば、どこに居られるか分からなくなります。信徒さんの要望で、一寸(ちょっと)と言われて出掛けられます。一寸の筈が時間が長い、心配になって電話を掛けると、電源が切ってあるか、電波の届かない所に居られます。で、電話も通じない、その内に職員役員当てにメールが届きます。
出掛けられる際は必ずノートパソコンと携帯電話を所持しておられます。
私達の全く知らない交際範囲が有って、会いたいと言われると病院に見舞いに行かれたり、何かの相談に出かけられたりしていて、一寸と言われる言葉の意味は三十分から一週間くらい。
最近は元気でまた、車を運転されるようになりましたので、片道二時間くらい電車に乗ってレンタカーを借りられて、中山間部へ行っておられるようです。何時かは帰って来られますが、大変に口が堅く、何処へ何をしに行かれたか、一切話してくださいません。
しかし遊びに行かれることは絶対ないと思います。発作衝動的に慈悲の行為をなされていることは確実で、疑う余地は欠片も有りません。
最近は頭をご自分で剃られなくなりましたので、近所の行き着けの理髪店さんに、一寸と出かけられます。
観音院は相談・駆け込み寺としての機能を持っていますので、助けて欲しいと言う連絡があると、即座に出掛けられるようです。駆け込み寺は本来は待ちの姿勢です。どうも待ちでは無くて、出掛けられて具体的に助け出して連れて帰られるようです。
例えば、騙されてヒモがついて風俗で働かされている、このような場合に、話を付けて無事に連れて帰られ、安心安全なマンション等に保護されたり、知っている所も幾つかあります。どこがどうなっているか全体が掴めません。
自由に利用して下さいと無料でマンションを貸して下さっておられるらしく、どなたが何処に、どのようになっているのかデータが何もありませんので、問われても、所在すら誰も知りません。
でも、何時でも使用できるように掃除がなされ、電気に水道と、日用品類、飲み物など、冷凍庫には一人なら十日間くらい生活ができるようにして頂いておりまして、大変に感謝しています。
法主さんの言動には、傾向というものが全く無くて、次にされる事、将来に何を目的として生きておられるのか、予測が付きません。お世話する周囲の私達があれよ、あれよと言う間も無く違う方向に向けて行動されます。
お金を出して金銭で人を救済することは絶対にならない、と言われている当のご本人がご自分の手許金全部をつぎ込んでを、どなたかのサラ金を全部整理して上げたり、訳が分かりません。
だからと言って、この文章を読まれた方が、法主さんに同様のことをお願いされた場合に、同じ対応があるとは考えられない方が無難です。運が悪いと「あなたは厄病神だ、二度と顔を見せないで欲しい」と言われる可能性の方が高いと思います。
貰えば得、貰えなくても元々と考えれば話は別ですが、そのような意図では近づくことは無理と思います。
観音院には出入り禁止の場所は有りませんが、信心か法主さんに帰依していないと、とても近付くことは不可能だと思います。俗に「幻の鈴之僧正」と言われるように、寺中探しても見付からないことでしょう。
観音院の常勤の職員である私たちでも一度もお顔を見ぬ日が少なくありません。居られることに気付かぬ、でもどうしても御用がある時は居られます。
近いようで遠く、遠いようで身近に居られる不思議なお方です。お部屋には交換機から二本、直通が一本、携帯電話がありますが。同時に三本の電話を使用されていることがございます。
朝、お尋ねしますと、礼拝の際に使用された伽羅の香りが致します。何時に横になられるか、何時にお目覚めになられるか存じません。