寺々を伽藍(がらん)と言うことがあると言いましたが、ガランドウは空っぽのお堂のことです。お寺の要件は、礼拝の対象である み佛さまがおられ、祭祀に当たる僧侶がいて、信徒さんがおられ、かつ教えが公序良俗に反しない事が宗教法人法の定めるところです。
正月は、お坊さんも沢山の方が出仕(しゅっし)され、法要がなされ、信徒さんも群集なされます。み佛さまも、ことのほか喜ばれることでしょう。
観音院は、十善戒という道徳を説くと同時に、皆さんが元気になられるよう祈願しているお寺です。
念ずれば花開くと言われますが、そんなのは無理です。花を念じて開かせる、比喩としてもオーバーですね。花は丹精し咲けば供養するもの。
間違ってもそのようには祈りません。自然の摂理を念力で曲げるなんて言うべきでは有りません。
法主さんも住職さんも、そのような無理は願われません。
花とは意思を通じ、会話することは、とても難しいからです。
人には意思が伝えられますから念じて元気にして上げることも出来ますが、花には念じても通じません。花が夢を見ると思いますか。
動物にもある程度の祈りは通じます。人間の言語が通じるからです。猪や熊になると、自信が持てません。飼ってる動物にも通じます。人間社会の環境で育ったからです。
機械にも人が使いつけた物には祈りが通じます。新しい機械を作った人は上手く動くよう祈ります。
祈りの無い家は壊れやすく、祈るような気持ちで立てられた建物は丈夫で長く壊れないものです。
観音院には、信徒さんの安全を願う祈りが込められています。
美味しい料理を作ってお客に喜ばれたいと願う調理師の料理は美味しい。偉大な発明も、考え方も、全部に祈りがあるのです。ノーベル賞も同じ事なのです。
祈りは、人の人々の幸せを作るためにあります。葬儀も亡くなられた人に喜んでもらうため、供養も同様です。
観音院にはその辺の大学の図書館以上の仏教書籍書物があります。これも観音院の大切なものです。
住職も法主さんも、教えの基本となる図書を求めて止みません。良い教えを、僧侶や皆さんに勉強してもらうために揃えておられます。
法主さんは人間ではありません。人としての個人的欲望が完全にありません。全部寺のため、信徒さんのため、佛さまのための行動で、完全無欠です。
このような僧侶を持つ寺は、不思議なもので、み佛さまが集まって来られます。観音院の中には沢山の御佛像が祭られています。
み佛さまの居心地が良いからだと、考えられますが、いかがでしょうか。
観音院に十年前にパソコンやワープロが沢山あると話題になった事があり、現在もそうですが、これは物好きな事をしたのではありません。
寺院を運営し維持する上で、整理された資料は必要不可欠です。
最近、法主さんは先祖代々の過去帳が入っている仏壇を作られました。
これは五ギガの固定ディスクを内蔵しているものです。文字だけで無く、ビデオがあれば音声画像を出すことも可能です。現代の人なら顔と声で子孫に語り掛けることが可能です。
観音院のしていることはみ佛さまと信徒さんと僧侶が三位一体です。
観音院で得度を受ける人たちは尋常ではありません。そして得度した人たちは口を揃えて、感動した、素晴らしい機会に会えました、と言われます。
その感動の多くは観音院の優しさが原因です。十一、二月は、正月を迎えるために、奉仕くださる方々と役員が献身的に働いておられました。法主さんは十二月も一月も東京に行かれます。
皆さん本当に献身的です。その理由は観音院にみ佛さまがおられるからです。み佛さまは、良く拝まないとただの木佛、金佛になってしまわれます。
店や仏壇屋、通信販売で求められた仏像はただの物です。拝む事により、み佛さまになられるのです。
み佛さまに、御力を持って、物からみ佛さまになって下さることを、俗に、お性根を入れるといいます。
お性根のある霊力を持たれた佛さまも、拝まないと、ただの物になられます。み佛さまはよく拝まれると霊験があらたかになられるのです。
観音院は三百六十五日、毎日三座以上、拝みに拝んで、立派なみ佛さまになっていただいています。