予約して安心

「私に万一の事がある時は・・・・」

ご隠居 寅さん、このさいだからこっそりうちあけるが、じつは、私は、観音院さんが今すすめられている「葬儀の予約」というのをお願いすることにした。

寅さん それはつまりあれですか。
 自分の葬式のリザーブを、生前に、ご隠居みずから早手回しに段取りしたというわけですか?

ご隠居 そうだ。私はこの試みはたいへん意義のあることと思う。
 べつに逝(い)き急ぎしているわけではないが、げんに、観音院さんに自分の葬式一切を依頼してからは、肩の荷がとれたように、妙にほっとした気分になって、あと私に残された時間がいくらあるか知らないが、これからの人生を、今まで以上により有意義に送らなければならないという意識が強くなったように感じているところだ。

寅さん へえ、そういうものですかねえ。

ご隠居 寅さんはまだ若いから、「死」というものはずっと先の縁遠い存在かも知れぬが、われわれの年齢になると、「死」はすぐ隣り合わせにあって、それほど疎遠な存在ではないことを理解してほしいな。
 葬式の予約の話はこれぐらいにして、きょうは「古墳」にまつわる物語を紹介することにしよう。

まぼろしの神武天皇 

寅さん 古墳? あの高松塚古墳(奈良県明日香村)などの大昔のお墓のことですか?

ご隠居 うん。でも、この物語は高松塚がつくられたとされる七世紀末の時代より推定約三百五十年も前にさかのぼるものだ。

寅さん すると、およそ西暦三百五十年ごろのことになりますね。

ご隠居 当時、日本の国を統治していた天皇は垂仁天皇であった。
 垂仁(すいにん)天皇といっても若い寅さんにはもうひとつピンとこないだろうが、第二次大戦中小学生だった私などは、歴代天皇を声をだして読み上げ、暗唱していたものだ。
 —– 神武、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化、崇神(すじん)、垂仁、景行、成務、仲哀(ちゅうあい)、応神、仁徳、履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)安康、雄略(ゆうりゃく)—- とまあ、ざっとこういった按配だ。

寅さん 垂仁天皇は、これだと、第十一代目の天皇ということですか?

ご隠居 それがどうもそういうわけにはゆかぬ事情があるらしい。
 というのは、現今の古代史学では欠史九代といって、初代の神武から第九代の開化までの天皇は創作された天皇であって、実在しない、というのが学会の定説となっているからだ。

寅さん 神武天皇が実在しなかったとすると、では、じっさいに日本を建国した人はどなたです?

ご隠居 日本建国の真の大立者ははたして誰か? 今いちばん有力な説は、応神・仁徳王朝の始祖王ではないかとされている。この王朝の創始者も、神武天皇のようにやはり九州から大勢の部下を率いて東征し、近畿地方一帯を制圧したといわれている。
 大阪河内(かわち)百舌鳥(もず)古墳群のなかでひときわ大きな前方後円墳・大山古墳(だいせんこふん・通称仁徳陵)、これと並行するように東の古市古墳群には誉田山(こんだやま)古墳の応神天皇陵があり、前者は世界最大規模の陵墓といわれ、全長487メートル、後者もまた430メートルの巨大さだから、この王朝が強大な力でもって難波(なにわ)から大和地方一円を平定したことは、考古学の面からも実証されている。

寅さん すると、これまで私たちが信じてきた神武天皇による大和平定の物語は絵空事ということになりますね。

ご隠居 神武東征説話は「古事記」によると、日向の宮を出て筑紫から船に乗り、豊国の宇佐に到り、また筑紫の岡田の宮に戻って一年滞在し、次に、安芸国の多祁理宮(たけりのみや)に七年滞在し、それから吉備の高島宮に八年滞在し、速吸門(はやすいのと・明石海峡)から難波に上陸するが、兵を興した登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)と戦い、神武の兄である五瀬命(いつせのみこと)は負傷する。
 「吾は日神の御子として、日に向かいて戦うこと良からず」として、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと・神武天皇)は紀伊半島沿いに南下し、そこから八咫烏(やたがらす)に案内されて大和にはいり、橿原(かしはら)に宮を定めて日本の始祖王となった、と記述してあるが、この神武東征説話は「継体紀・越前から大和に入って大王となる継体天皇の事跡を記したもの」、「壬申の乱・天智天皇の亡きあと、その実弟の大海人皇子と、天智の子の大友皇子が天皇位を争った戦」等の史実とあまりにも類似点が多いことが指摘されて、この神武東征説話はどうも後代になって創作された可能性が高いようだ。
 それで先ほども言ったように、神武から開化までの天皇は、やはり創作された可能性が非常に濃いと考えられているわけだ。

紀元は二千六百年 

寅さん それにしても、「古事記とか「日本書紀」は、そんな居もしない天皇をなぜ捏造(ねつぞう)したのでしょうか?

ご隠居 天皇家の万世一系による日本国統治の歴史にさらなるハクをつけたかったためではないだろうか。
「日本書紀」は、日本建国の年、つまり神武天皇が橿原に都を定められた年を、西暦の紀元前六百六十年としている。これは讖緯(しんい)という説によって、推古九年を千二百六十年さかのぼった年という設定のわけだ。
 この讖緯の説とは、干支(えとの一巡六十年を二十一回めぐった時、つまり六十×二十一、すなわち千二百六十年をもって一蔀(いちほう・歴史のひとめぐり)とするので、推古九年(西暦601)を一蔀さかのぼった辛酉(しんゆう)の年を、神武天皇による日本建国の年としたのであろう。

寅さん でも、なぜ推古九年といった中途半端な年をわざわざ選んで、建国年を定めるための起点にしたのでしょうか?

ご隠居 それはおそらく聖徳太子のお考えだろう。当時、推古天皇の皇太子であり、摂政でもあった聖徳太子の強い意志がはたらいていたのではないだろうか。
 太子は推古九年の辛酉の年(しんゆう・革命の年とされる)を新しい日本の出発点と考え、第一の日本をつくったのは神武天皇だとしても、これからの日本をつくるのは太子自身であるという強い自負がそこにはあったように思う。

寅さん 日本建国の日を推古九年から千二百六十年前にさかのぼって定めた事情はなんとなく分かりましたが —–。

ご隠居 しかし、このことは歴史を編纂(へんさん)する当事者にとってはたいへんな苦労を強いられることになった。なぜなら建国の時をはるか昔においたために、それまで語り伝えられてきた天皇だけの数ではその間の長い歴史を埋めることができなくなったというわけだ。

寅さん なので、苦肉の策として天皇の員数を水増しした?

ご隠居 そんな作業によって長い歳月の埋め合わせはなんとかしたものの、一つ困った問題が残った。 というのは、推古天皇(在位592-628)の時代はすでに、応神天皇はともかく、仁徳、履中天皇以下、各天皇の治世の年代がいつからいつごろまでだったか、当時の人々にもだいたい分かっていたから、安易にそれらの歴史をいじるわけにはいかない。
 それでやむをえず推古から数えて二十数代前に茫漠としてかすむ崇神王朝時代にさかのぼり、適当な漢風諡号と和風諡号(しごう)を付して神武以下開化までの天皇をあてはめた。しかし、そこまでしてもまだ問題があった。
 初代の神武天皇から第三十三代推古天皇まで、1260年間の長い歳月を歴代天皇に割り振ってゆくと、各天皇は平均四十年の在位期間ということになり、第十六代仁徳、第十七代履中天皇あたりから天皇の在位期間は、「宋書倭国伝」など中国側の史書によっても明らかだから、そのためやむをえず、それ以前の天皇の年齢をきわめて恣意的(しいてき)に割り振って、平仄(ひょうそく・つじつま)をあわせることにした。
 その結果として、なんと百歳を超える長命な天皇が続出する仕儀となった。
 こっちは、そんなことは知らないから、昭和十五年(1940)、国を挙げての祝日のさい「紀元は二千六百年・・・・」と声をはりあげて無邪気に歌った記憶がある。

古墳異譚(いたん)

ご隠居 たいへん前置きが長くなったが、本題にもどることにしよう。

寅さん なんの話でしたかね?

ご隠居 垂仁天皇と古墳にまつわる話だ。
 邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)たちの生きた弥生時代に引き続いて三世紀後半から七世紀いっぱいを古墳時代という。
 その古墳時代、垂仁天皇が殉死という慣習をやめさせて、その代わり<野見宿禰(のみのすくね)の案により「埴輪(はにわ)」を亡くなった皇后の墓に立てさせたといった物語がある。
 その伝承を紹介すると、垂仁天皇の二十八年冬に、天皇の叔父の倭彦命が死んだので、十一月、桃花鳥坂(つきさか)に葬った際、彼の近習の者を集めて陵(みささぎ・お墓)内に生きながら埋めた。その者たちは数日のあいだ、死なずに、昼夜となく泣きうめいて、ついに死んだが、そのあと腐って悪臭を放ち、犬や鳥が来て喰い荒らした。
 天皇は彼らのその泣き声を聞いて、はなはだ心を痛められ、「生前に可愛がったからといって、死者に殉(したが)わせるのは非常に気の毒だ。この習慣は古来からあるが、これかぎりやめよう」ということにされた。

寅さん ずいぶんむごい話ですね。

ご隠居 うん。でも、こういうむごたらしい風習は古くからユーラシアの内陸部一帯にかけてあったらしく、蒙古ではチンギス・ハーン(成吉思汗)の死後、その長官ならびに将軍の子女四十人を選びこれに美服をまとわせ珠玉を飾って他界へ送り、死者であるジンギスカンに仕えさせたという。
 また、マルコ・ポーロは蒙古の諸ハーン(大王)の葬儀について書いている。
 —-メンゲという大王が亡くなり、その遺骸が墓所に運ばれるさいに行き合わせた者を葬儀に随伴する兵士たちが理不尽にも、「お前たちは他界に行ってハーンに仕えよ」といって、ことごとく刺殺した。こうしてメンゲハーンの遺骸が墓所にたどり着いたときに殺害された者は二万人に達していたと、すこぶる大規模な強制殉死のことを伝えている。
 さて、垂仁天皇三十二年の秋に皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなる。そのとき天皇は群卿に「殉死は良くないということを先に知ったが、こんどの葬儀はどうしようか?」と相談されたので、野見宿禰が進み出て、「そもそも君王の陵墓に、生きた人間を埋め立てることは良くありません。そんなことを後世にどうして伝えられましょう。いま良い考えがあると思いますから、皆といっしょに相談して申しあげましょう」といい、使を遣(つか)わして、出雲国の土部(はじべ)を百人呼びだし、野見宿禰みずから土部たちと一緒に粘土で人、馬など形象埴輪、円筒埴輪をつくって天皇に献上して、「今後、この土物(はに)をもって生きている人にかえ、陵墓(りょうぼ)に立てて後世の法といたしましょう」と申しあげた。
 天皇は大いに喜んで、「お前の良い考えは朕の心にかなった」といって褒め、その土物をはじめて日葉酢媛の墓に立てた。そこでこの土物を名づけてハニワとも、また立物(たてもの)というようになった、という。
 こうして垂仁天皇は命令をくだし、「今後、陵墓にはかならずこの埴輪を立てて、人はけっして傷つけてはならない」としたのだが・・それから約三百年後の大化二年の「薄葬令」のなかに、次のような条文がある。
「およそ人死ぬる時に、或いは自らを経(わな)きて殉(したが)い・・みずから首を括って殉死し、或いは人を縊(くび)りて殉わしめ、あながちに亡人(しにたるひと)の馬を殉わしめ、或いは亡人の為に、宝を墓に蔵(おさ)め、或いは亡人の為に髪を切り、股を刺して、誄(しのびごと・死者を悼み、その棺(ひつぎ)の前でその人の生前の徳をたたえて述べることば。弔辞)す。
 かくのごとき旧俗一(もはら)にみな悉(ことごと)く断(や)めよ・・」とあるように、人命を尊重した垂仁天皇のやさしい心配りも効果なく、大化(西暦646年)ごろにいたるまで、依然として人馬の殉葬がおこなわれていたことをしめしており、さらにまた服喪者の自己傷害・・死者を悼んで自分の肉体を傷つける行為—-の風習が根強く存在したことを物語っているようだ。