仏さまはお見通し

寅さん 仏教に帰依(きえ)している者が何かにつけ手を合わせて
ほとけさまを拝むのは、もちろん純粋な信仰心ですから、ほとけさ
まに対して特別の見返りなどは求めませんが——、

 それとは別に、ほとけさまに対する己れの厚い信心を担保にして、
これだけ自分は ほとけさまのことを崇(あが)め、大事に思って
いるんだから、わたしの願いを聞いてくださったり、ご利益(りや
く)を与えてくださってもよいだろう、ぐらいの気持ちは、誰でも
心の底に、多少は持っていると思うんです。
つまりギブアンドテイクですか—-。

 そこでご隠居にお訊(たず)ねしますが、私たちのいわゆる所願
成就(じょうじゅ)の切なる祈りに対し、ほとけさまは、どのてい
ど霊妙なおちからでお応えになるものなのでしょうか?

ご隠居 信徒の所願を成就するための祈り–、この祈りの実効性で
最もよく知られているのが、我々真言宗の加持祈祷だな。
 お願いが叶った、おかげを頂いたとよく聞くが、この加持祈祷は
絶対純霊的なものであり、また、玄妙ふしぎなものだ。だからわれ
われ衆生(しゅじょう)のなみの知恵や感覚では、とてものことに
その玄妙さを窺(うかが)い知ることができない。

寅さん ちょっと待ってください。
 加持祈祷の成否とか、結果を、われわれ衆生は知ることができな
いものだとすれば、祈祷の霊験があったのか、あるいは無かったの
か、それさえも判定できないことになりはしませんか?
 霊験があるから加持祈祷をするんでしょう? だとすると、加持
祈祷した結果、どれだけの効果があったか、分かって当然だと思い
ますが如何でしょうか?

ご隠居 たしかにその結果が判然とするものもあるし、そうでない
ものもある。
 加持祈祷の結果を知ることのできる場合もあるが、玄妙なる幽地
(ゆうち)は知ることができないものとされている。

寅さん 幽地というのは?
ご隠居 つまり神仏の境界(きょうがい)のことだ。神仏の境界が
幽地であり、その幽地は窺い知ることのできないものだとすれば、
それではどうしてわれわれが神仏の存在を知ることができるのか、
と寅さんは言いたいだろうな。

 実は、この神仏の境界は、物質的形而下(けいじか)の知識では
知ることのできないものだけど、形を超越した精神的形而上(けい
じじょう)の崇高な信仰を持つことによって理解が可能な世界だと
されている。
 もともと宗教というものは、心のよりどころ、心の癒し、そうい
う形而上の信仰によって成り立つものであるだけに、時間と空間中
にかたちを現している自然一般現象(形而下)の経験科学などに
よって知り得るものではない。
 その良い例が人の心だ。私たち人間の魂とか精神とかは頭脳の中
にあるというけれど、その精神の所在を探そうと、五官作用を駆使
(くし)して調べても、精神の在り処など見ることも、突き止める
こともできないものだ。

 ところでこの「加持」という言葉は古いインドのサンスクリット
語の漢訳語といわれている。それには「立場」「支配する力」など
の意味があり、み仏に感応して、守護されるので「加護」「護念」
などとも訳されている。
 お大師さまは、この「加持」の意味を「加」を仏からの働きかけ、
「持」をわれわれ凡夫が仏の働きを受けとめ、持(たも)つことで
あると言っておられる。

 弘法大師の書かれた『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』には

 加持とは、如来の大悲と衆生 の信心とを表す
 仏日の影、衆生の心水に現ずる を加と言い、
 衆生の心水、よく 仏日を感ずるを持と言う

 との比喩をもって加持の説明をされておられる。
 古来、太陽と月は信仰の対象、仏の象徴として表わされることが
多く、大日如来は太陽であるし、満月の明るく清浄の慈光はみ仏の
大慈悲があまねく平等に行き渡るようにたとえられる。
 すべての水面には、美しい満月を映し出すことができる、われわ
れの素直な心(水面)が、み仏の慈悲をそのままに映し、だれもが
平等に感じることを示されている。
 人は、祈願や供養を通じて、み仏の慈悲に会い、周囲の人の幸福
を願い、自ら向上の機会を得て反省することがある。そのようにし
て、いたわり、慈しみ、思いやり、相手の立場になって考えること
のできる、慈悲深い人柄へと導かれる。

ほとけさまはお見通し

寅さん 五官とは?
ご隠居 眼・耳・鼻・舌・身の五つの感覚器官のことだ。つまり、
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚だ。
 しかし、その五官によって見知できないからといって、魂の存在
を疑う人は居りはしない。
 神仏の境界もまたそれとよく似ていて、神仏は私たちの想像をは
るかに超えたところに厳然として存在していらっしゃるのだな。

 どんな宗教をとわず、宗教の本来の目的は、その無形にしてわれ
われの目では見ることのできない純霊にむかって礼拝(らいはい)
し、尊敬し、懺悔(さんげ)し、祈祷することにある。
 したがって私たちが信仰する仏教で、みほとけのお心に叶うのは
ただ、純真潔白な私たちの真心と信仰心だけしかない。いいかげん
な気持ちで拝んだり、自分勝手なことばかり祈っても、とてものこ
とに みほとけには通じない。
 神仏に祈るときは、心に一点の邪心がなく、純真潔白でなければ
決して、みほとけの感応(かんのう)を得ることはできない、とい
うことなのだ。

 昔から神仏の感応を得るような人は、人々から聖人と讃えられる
ような人物か、そうでなければ、邪心というものをかけらも持ち合
わさぬ正直一途な律儀者(りちぎもの)に多いようだ。なぜなら、
それ以外の人々は世間的な分別とか猜疑心(さいぎしん)などに妨
げられて、純真潔白な祈念に没入することがむつかしいからだ。

 祈祷の効験に対して、たとえわずかであっても懐疑し、世間的分
別をもったままみほとけを拝んでどうしてその霊応が得られよう。
 これがふつうの人間同士であれば、他人を籠絡(ろうらく)する
ため巧妙な術策を用い、おべんちゃらを並べ立ててうまく相手をた
ぶらかすこともできようが、祈る対象がみほとけでは、そうはゆか
ない。
 み仏は霊通無碍(れいつうむげ)であって、私たち人間の心の内
を照らしたまうこと、それは、掌の上にある物を見るようにすべて
お見通しなので、本心から発してない人間の巧言令色などでは、
その霊応にあずかることなど決してできないことを肝に銘じておく
べきだな。
 神仏の霊体は、たとえていえば一点のくもりなく磨き上げた明鏡
のようなものとされている。明鏡は美と醜、善と悪を余すところな
く映し出して毫髪(ごうはつ・毛すじ)ばかりも私心がない。同じ
ように神仏は、人間が内心に秘めている善悪邪正をすべて照らしだ
して、少しもそれらを見逃されることがない。

 また、人心を水にたとえれば、きよく純真な心は湛然寂静(たん
ぜんじゃくじょう)とした清水のごとく、猜疑分別の心は怒濤狂瀾
(どとうきょうらん)のごとく、はたまた、汚穢不浄(おえふじょ
う)の濁水のごときものとされる。
 神仏の霊体をさらに付言すると、天にかかる月のごときもの、と
もいう。静かな水面には天月が皎皎(こうこう)として月影を映し
だすが、けがれた濁水や、逆巻く怒濤(どとう)の上には月光を見る
ことができないからだ。

 華厳経の偈文(げもん)に、

 菩薩清涼の月、畢竟空に遊ぶ、衆生心水浄ければ、
 菩提の影中に現ず

 —- とある。
 清涼の月、菩提の影は、菩薩の心地を形容したものだとされる。
 つまり衆生の心水が浄よければ、仏菩薩の明月は求めずして、
おのずから己れの心に映じるというのだ。

 古歌に、

 心だにまことの道にかなひなば
         祈らずとても神や守らん

 歌意は、毎日欠かさず神仏に祈っていても、人間の習性としてつ
い欲望に押し流される。しかしそれを反省して、至心(ししん)に
懺悔(さんげ)し、仏を信じ、その所願を祈り求めれば、どうして
霊応のないことがあろう。

 古歌をもう一首、

 まことなきおのが心をあらためて
      祈ればまことあらわれぞする

理解より信仰が大切

ご隠居 昔から神仏が示した不思議な出来事として霊験記(れいげ
んき)というものがある。それらの中には、多少飛躍した作り話め
いたのもあるが、全部がぜんぶ事実無根とはいえない。つまり霊応
なるものは、容易に得られるものでないから、霊験記といったのが
書き残されているわけだ。そして、霊応が容易に得られないのは、
至心に懺悔(さんげ)する力が弱いからだ、とされる。

 古歌に、

 祈りても験(しるし)なきこそ しるしなれ、 
            おのが心のまことならねば

 このように誠をつくして祈りを求める人は世のなかに大勢いる。
 たとえば寒中に水垢離(みずごり)する人、断食(だんじき)す
る人、あるいは自分の好みの食物を断つ人(茶断ち等)、あるいは
遠い道を苦労して歩く人(四国八十八カ所めぐり等)、あるいは財
産を喜捨(きしゃ)して願をかける人々などがそうだな。
 こういった人たちは、たとえ市井のなかの一庶民であっても、心
が誠そのものであるがゆえに、神仏のご加護により所願成就もあな
がち至難でない、とされている。
 冬に水をかぶったり、断食したりする祈願の仕方について自虐的
信心とあざける向きもある。が、己れにあえて不自由を課してまで
神仏に祈るその姿勢こそが、いちばん大切なのではないだろうか。
時として、行とは苦痛ではなくて心身にとって健康的なこともある。
 なぜなら、そうした信心をあざける者は、世間的分別という常識
にさまたげられて、決定信(けつじょうしん・仏の教えを堅く心に
信じること)を得ることができないから、己れを無にして一心に祈
る人に比べて、人間的に一歩劣っているといわれても仕方あるまい。

 宗教というものの本質は、理解ではなく信仰であるとされている。
 したがって私たちは仏教の知識を広めるよりも、信仰をより深く
することのほうを心掛けるべきではないだろうか。
 学問は知識が基本だけど、宗教は信仰と実践がその基本だからだ。
 仏教はいうまでもなく、宗教であって、学問ではない。
 だから、よくいわれるように、仏教を知識からはいる者は、なる
ほど宗義については仏家顔負けの博識ぶりをしめす人もいるが、そ
れがひとたび信仰の面になると、口ほどでない、不信心者が意外と
多いようだ。
 その点、信仰からはいる者は、宗義のことなどはそれほど理解し
てないにしても、その信仰については純粋でゆるぎない。

 だから仏教の何であるかが、まだ十分理解できていない人であっ
ても、神仏を一途に信じることによって、おもいがけなく、神仏の
霊感にあずかることがある、といわれている。
 その反対に、自分では仏教をよく理解していると思っている慢心
者は、往々にしてみずから因果をくらまし、神仏をないがしろにし
て、しばしばその冥罰(めいばつ)をこうむることがある、という。

所願成就(しょがんじょうじゅ)

ご隠居 邪念のないひたむきな信心が、神仏もそれに感応されると
すれば、それをおこなう場合は、そこに持戒精進の信仰堅固な僧侶
の正しい作法のもとに一意専心加持祈祷をするとき、どうしてその
感応を得られないことがあろう。

 お釈迦さまはその教えのなかにおいて、しばしばその感応の有る
ことを証明されている。
 つまり、もろもろの菩薩、もろもろの善神、および天龍八部衆、
並びに三界(さんがい)の天神地祇(てんじんちぎ)が仏前(釈尊)
において誓願(せいがん)されている。それによると、こうある。
 我が名および我が真言を唱えて我れを信ずるもの、この経および
この仏菩薩を信ずるものあらば、我が本願力に乗じ、我が法眼(ほ
うげん)威神の力をもっての故に仏(ほとけ)の恩徳に謝せんが為
の故に、仏法を護持(ごじ)し、衆生を哀愍(あいみん)するが為
の故に、願として成就せしめずということなし。
 もし、この願を果たさず、この誓いを虚(むな)しゅうすること
あらば、我れ本覚(ほんがく)に還(かえ)らず、正覚を取らずし
て、無量劫中その悪道に堕して苦を受けん云々—-というのだ。

寅さん お釈迦さまは、諸菩薩や諸善神がたに、われわれのために
そんなありがたい約束をされたというわけですか。

ご隠居 だから、釈尊の前で誓願されたもろもろの菩薩、もろもろ
の神々のなかの何菩薩、何善神でもよい、誠を投じて祈祷すれば、
かならず釈尊との約束に違(たが)うことはなさらないはずである、
ということだな。
 つまりこれは、末世の衆生が煩悩を多くかかえこんで、みずから
それらの煩悩を処理し、救うことができないことを哀れみ、大悲の
願力に乗じて衆生を苦界から救いだす導師、その役目をはたされて
いるのが仏前において誓願されたもろもろの菩薩善神というわけだ。

 だから旱天(かんてん)に雨を祈れば八大龍王がその願力に乗じ
て雨を降らし、晴雨を祈れば晴天となることがある。

 また、病気の平癒を祈れば回復することがあり、経済的に恵まれ
ない者が祈れば福分を与えられることがあり、長命を祈れば長命を
得られることがあり、子宝に恵まれない者が、子授け、求子懐妊の
祈願をして、子どもを授かることがある。

 怒りにとらわれ、身を削られるような煩悩の苦しみからの救済を
み仏に願い、祈れば意のごとくなることがあり、前世・後世を知り
たいと祈れば、それを知ることさえできることがある。

 およそ私たちの心の中のすべからく、ひとつとして成就しないも
のはない。み仏の慈悲を知って、求め、敬虔に受けとめる。
 それもこれも神明仏陀菩薩善神が、多劫の修行によって感得され
た自在神通不可思議解脱の大威神力(だいいじんりき)というもの
のおかげ、とされている。

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