中有の五蘊

ご隠居  きょうは「神識」のことについて少し話してみようか。
寅さん  神識(じんしき)?
ご隠居  仏教では、人間存在の根底をなす意識の流れ、魂のことを神識(じんしき・生きとし生けるものに具わっている心識、霊妙で不可思議な心のはたらき、意識、魂のこと)、または、阿頼耶識(あらやしき)などという言葉を用いている。
寅さん  阿頼耶識?
ご隠居  阿頼耶識とは、蔵識ともいわれ、我々の、最も心の奥深いところにある基底的、「潜在意識」とでも考えればよいか。唯識説(ゆいしきせつ)で最も根源的な識のはたらきとされる。これをまた、中有の五蘊(ちゅううのごうん)ともいうそうだ。
寅さん  中有の五蘊?
ご隠居  五蘊というのは「色(しき)・受・想・行・識(しき)」のことで、この蘊というのはつみたくわえるといった意味で、以上の五つが積み蓄えられて私たちの心身を構成する。
 つまり最初の色(しき)とは、地・水・火・風・・、肉体のことであり、受・想・行・識(じゅ、そう、ぎょう・しき)は心の働きを分析したものなのだという。
 そしてこの五蘊は、過去世より今生、今生(こんじょう)より、未来世へと断絶することなく連綿としてつづく、というのが仏教の物質面と精神の分類、霊魂説とでも言えばよいだろうか。
 したがって今生の縁が尽きてしまったら、五蘊の実体ともいうべき阿頼耶識が、父母の生んでくれた肉体から去って中有に移動すると説かれていた。
寅さん  その中有というのは?
ご隠居  人の身体から阿頼耶識が立ち退いたあとというのは、まあ蝉の脱け殻みたいなものだ。そこで中有というのは四有(有情が生まれて死に、また生まれ変わる四つの過程)のうちの一つで、四有の一番目が生有(どこかに生まれる一刹那)、次が本有(ほんぬ・生まれてから死ぬまでの存在)、その次が死有(死ぬ時の最後の一刹那)、その次を中有という。
 このように中有は、死有と生有のあいだにあるから中有というわけで、これを中陰(ちゅういん)ともいう。
 人が亡くなって、七日ごとの七回目の、四十九日の忌明け法要を満中陰ということもある。
 陰というのは、蘊とおなじ意味があって、色・受・想・行・識のことを五陰と表現することもある。
大切な追善供養
寅さん  それはそれとして、その四有の「有」というのはいったい何のことなんですか?
ご隠居  無宗教の人たちは、人間は死んでしまえばそれっきりで、あとはなにひとつ残らない、つまり、空無のように思っているのが大半ではないだろうか。しかしそれがそうでない。
 たしかにそれは、目で見ることはもちろん、耳で聞くことも、手で触ることもできぬけれど、心身の五蘊は、それでもなおかすかに活動しつづけて、善悪の果報を有する、つまり「有」というのが仏法の教え、というわけだな。
寅さん  あれは何という怪談話でしたっけ、「魂魄(こんぱく)この世にとどまりて、怨みはらさでおくべきか」 うらめしやぁ……と幽霊が出てくるのがありましたが、そうすると、あの魂魄というのは、五蘊の阿頼耶識のことですか?
ご隠居  「魂魄」という文字は、むかし儒教においてもっぱら用いられた用語であって、仏教ではあまり使わないようだ。 魂魄は辞書を引くと、霊魂のことと書かれている。「魂」は人が天から受ける陽のたましい、「魄は地から受ける陰のたましい。そして魂は精神の働きをし、魄は肉体の生命をつかさどるとしている。
 儒教ではこのように、魂は天に帰し、魄は地に帰すものであってこの魂と魄の二気が合わさって人間が生じるのだから、人が死んで魂魄が天と地に帰ってしまえば、あとに残るものは何もない、としているわけだ。
 つまり魂魄は、天と地の上下にひらひらと飛び散ってしまって、前身(この世に生まれる前の身)、後身(来世に生まれ変わった身)などの関係は少しもなし、と仏教の三世因果(さんぜいんが)、六道輪廻(ろくどうのんね)の説を一蹴する。けれどそれでいて、魂魄の存在とか影響をどことなく感じているかのように、「積善の家には余慶あり」、積不善の家には余殃(よおう・神仏のとがめ)あり、などと言っている。
寅さん  たしかに、死んでしまえばあとには何も残らない、と突き放されては、あまりにもさびしすぎますね。
ご隠居  まったくだ。われわれ仏教徒の大半は、程度の差はあるにせよ、この中有の阿頼耶識という仏説を信じ、極楽浄土に往生を願い、そういうものが幽冥界のどこかに必ず存在していると信じているのではないだろうか。
 浄土には、西方極楽浄土、東方浄瑠璃浄土、安楽国、華蔵世界、密厳浄土(みつごんじょうど)、など、われわれが求めてやまない理想郷が説かれてきた。
 密厳浄土は密厳国土ともいわれこのわれわれが住んでいる国土そのままが密厳仏国であるよう努力することが説かれた。
 もし、そんなものは何処にもありはしないとするなら、この世で善き生き方に努めること、法事や追善供養など無用のこととなるばかりか、三世因果の理(ことわり)も、六道輪廻や未来後生(ごしょう)の説も、すべてでたらめな作り話になってしまうからだ。
寅さん  やはり霊魂は不滅なんだ。
 だいいち、そう思っているほうが気が休まります。
ご隠居  仏教では、厳密にいえば霊魂不滅などという言い方はないようだが、このばあいはそのほうが分かりやすいかもしれないな。
責任は自分自身
寅さん  それはそれとして、気にかかるのは霊魂のゆくえですが、その宙ぶらりん状態にあるという中有の阿頼耶識のその後は、いったいどうなるんでしょうか。
 やはり、手続きとして、各人がその前世の業因(ごういん・善悪の報いを受けるもととなるおこない)を、ほとけさまに審査、査定されたうえ、六道のうちのいずれかへ輪廻転生し、つぎの生をうけることになる、といった順序でしょうかね?
ご隠居  いや、仏はそのような審査などといったことは決してなさらない。
 神の命によって、天国や地獄に行くと教えているのは、一神教のキリスト教などであって、自業自得を説く仏教においては、仏が、この者は六道のうちの何処何処へと指示されたりはなさらない。
 それは寅さん、閻魔の庁へやってきた亡者(もうじゃ)の、生前の所業(しょぎょう)を取り調べて、行く先を命令するという閻魔大王の役柄と混同して考えているからだろう。
 われわれ衆生の六道の落ち着き先を、ほとけさま自らお決めになるという話はいまだかつて聞いたことがない。
 仏はただ、善因善果、悪因悪果の空しからざる天地固有の実理を開示して、「諸悪莫作、衆善奉行(しょあくまくさ・しゅぜんぶきょう。悪いことをなすなかれ、善いことをしなさい)」とお教えになっているだけであって、汝ら衆生(しゅじょう)がその教えを守るか守らぬかは、我のあずかり知らぬことである、とおっしゃっておいでだそうだ。
寅さん  つまり輪廻転生(りんねてんしょう)して、つぎにどな生をうけるかは、結局のところ、分自身が責任を負わなければならないんだよ、というわけですか……。
 しかし私たちは、家族や親しい人が亡くなったばあい、人情としてできるだけ良いところへ故人が往って行けるように、死後の幸福を願って冥福を祈りますが、今の話がほんとだとすると、すでに次の生が確定している中有の阿頼耶識にとっては、そんな祈りは何の効力もないことになりますね?
ご隠居  待て待て、そう寅さんのように、あっさりとあきらめてしまってはよくないな。 死者の魂が中有にさまよう期間が四十九日とされているので、私たちはこれを一般的に服喪期間とする習慣があるが、霊魂が中有にさまよう日数はかならずしも四十九日と限られているわけではないようで、早ければ一七日(いちしちにち、七日)か二七日、あるいは三七日か五七(三十五日)日のあいだに、六道のうちのいずれかへ生まれ変わる者があるという。
 そしてこの四十九日(七七日)は、再生するのが最も遅い日限であるとされている。
 けれども、そのような中有にある者は、たいていの場合、小善小悪・・、ほんのちょっぴり過ちを犯したことがなくはないが、ほどほどに善いおこないもしてきた人で、すなわち、ふたたび人間に生まれることを約束されたような者であって、極善極悪の者に対して、中有というものはないとされている。
 なぜなら、極善の者であれば命数が尽きるやいなや、たちどころに天上界に駆け昇ってしまうであろうし、反対に極悪であれば即刻地獄・餓鬼・畜生の三悪道に生じるからだ。
魂の解脱(げだつ)
ご隠居  また一方において、次に生まれるところの縁が未だ定まっていなければ、たとえ四十九日が過ぎてしまった後であっても、十年先かあるいは百年、千年先になってもとにかくその間中有にさまよいつづける者がないとも限らないとされている。
 そしてまた、三悪道に堕(お)ちてしまった者は、百劫(こう)、千劫もの永い間、その悪道のなかから這い上がることができないとされている。
 したがって我々は、その苦痛に満ちた世界から彼らを救い出すために、心からなる冥福を祈らずにはいられぬし、また人間として当然そうする義務があると思う。
 「七世の父母ないし、無量世の父母、および法界(ほっかい)の含識(がんしき・霊魂を持つ有情)までも救済せよ」とお経が説いてるように、追善(ついぜん)というものは、われわれが生きているかぎり、善き心をたもちつつ長い期間にわたって営まねばならないものであるようだな。
 もっとも、すでに天上界(てんじょうかい)に生じた者に対しては、あの天上の世界というのは、得も言えぬ、たいへん美味しい食べ物が満ちあふれているそうだから、考えられるかぎりのごちそうで、下界(げかい)の人間の食べ物など供えられても、それほどありがたくもないし、魅力も感じないという。
 ただし、天上界に生じた彼らの喜ぶことが一つだけある。それは天上に昇って、かち得た天眼(てんげん)というものでもって、彼らはつねに遺してきた家族たちのことを見守っているから、その人たちが善いことをしたり、自分のために法事などを営んでくれたりすると、それを遙か天上から見下ろして、大いに欣喜(きんき)してやまないという。
 そしてまた、中有の期間にある者は、自分のために、妻子などの営む供養については勿論よく理解しているそうだけれど、それが、一旦つぎの何かに再生してしまったあとは、完全に生が隔たったために、前世(ぜんせ)のことはきれいさっぱり記憶の外に消え去ってしまうという。
 ところが、三悪道に堕(お)ちていった者は、おのれ自身の魂の解脱(げだつ)を一生懸命、求めつづけなければならないせいか、自分が犯した前世の所業(しょぎょう)はもちろんのこと、家族や親しかった人々の近況にいたるまで、すべて知り尽くしている、と諸経は説いている。
 けだし追善の営みは、三悪道に堕したる者のためには、このうえない救済であり、さいわいにして善道に生じた者にとっては、より良い追恩、追孝、追慕、追悼である、とされている。
 そんなわけだから、私たちが、あの世に往った亡き人を偲び、心をつくして供養して、はたして、それがあちらに届くかどうか、などというつまらぬ心配をしたり、詮索をしてもしかたがない。
 それより何より、供養する心のあり方が、いちばん大切なのではなかろうか。
 一点の疑いのない真実の廻向(えこう)というのは、大げさにいえば天地もそれに感動するし、また、法界(ほっかい)をも揺り動かす力があるといわれている。
 往生経に、「亡後に福を作(な)せば、死者は七分にしてその一を得、その余はみな現に作福の者の身に帰す……」と説かれているように、生きているわれわれが善行をすれば、死者は七分の一を取得し、その残りの七分の六は、ぜんぶ善いおこないをした本人に還元されると教えている。
合掌礼拝(がっしょう・らいはい) まことの道より
ご隠居  われら、いま、受け難き人として生まれ、有り難きみ教えにあうことを得たり。
 恭しくみ仏を礼拝(らいはい)したてまつる。
 願わくは世の人々と共に、まことの道をふみしめて、幸多き世の中を創(つく)り、幸いなる人とならん。
 み法(のり)は深く妙にして、広く明るく輝けり。われ願わくは世の人々と共に持ちえて、大いなる海の如き悟りを得ん。
 われ 浄(きよ)き人々と交わり、共にまことのみ法(のり)を伝え、み教えのままに世の中を浄めて、楽しみ多く、富みさかえん。

*観音院常用教典「まことの道」の十三ページからをご参照下さい。