反省しつつ、より善く生きる

 仏教の経典は、お釈迦さま在世のあいだ、ご自身で書かれたものは無く、お側にお仕えした弟子たちが聴聞(ちょうもん)した内容を結集(けつじゅう)等で後世に伝えるためにまとめて書き留めたものが多く、「如是我聞(我、是の如く聞けり)」という書き出しが多くあります。
 また仏教の発達段階で説かれたもの、翻訳され、解釈されたもの、伝来の途中で創られたもの、などいろいろあります。
 仏説で無いと明らかなものは、疑経、あるいは偽経と認定されましたが、これらの多くの経典群が消え去ることは無く、人情的なもの、善事を誉めて仏道を勧め、悪事を抑止するものなどは、むしろ盛んに読誦され、解釈、解説されて、今日まで伝わる経典が数多く見られます。それらには、お盆の故事で有名な「盂蘭盆(うらぼん)経」や「父母恩重経」、「善悪因果経」など、があります。
 その当時の苦悩の多い封建的な世の中で道徳観や時機相応の説話が説かれてきたようです。
善悪因果経には・・・

 その時に阿難(あなん)、衆生のための故に、しかも仏に申して曰(もうさ)く、世尊、いま世間等同(とうどう・ひとしいこと)一種にして生まれて人中(にんちゅう・人間世界のなか)にあるを見るに、好あり醜あり、強あり弱あり、貧あり富あり、苦あり楽あり、声音同じからず。
 百歳にして死せざる有り、早く亡ずる有り、夭没(ようぼつ・若死に)し、胞胎(ほうたい・胎児)にして堕落する有り。
 端正にしても貧しくあり、醜陋(しゅうろう・心掛けが卑しく、みにくく、けがらわしい)にして富貴なる有り。大強にして下劣なる有り、軟弱にして高位に登る有り。苦にして長寿なる有り、楽にして命を殤(そこなう・早くに死ぬこと)有り。

 善をおこなって過(とが)をいたす有り、悪をなして福利なる有り。短小なりといえども意気の足る有り、長大なりといえども他の僕使(ぼくし・召使)となる有り。
 男女に豊饒(ほうじょう・異性に好かれること)なる有り、孤単独自(こたんどくじ・一人ぼっち)なる有り。幼きとき貧賤にして、老いて富貴(ふうき)なる有り、理実(すじみちの通った正しいおこない)にして、辜(つみ)無きに横ざまに獄事にかかる有り。
 立宅(自分の家)に安居して種々豊備なる有り、自らの舎屋なくして処々に浮寄する有り。聡明にして高爽(こうそう・気がさわやかなこと)なる有り、闇鈍無知なる有り。
 経営して始めて得る有り、求めざるにおのずから至る有り。富みて懈貪(けどん・おこたる)なる有り、貧窮にして施しを好む有り。
 語を発するに棘刺(きょくし・言葉のとげ)なる有り、他の為に「愛敬」(あいきょう・愛し敬う)せらるる有り、衆人に遠避せらるる有り —-。
 ただ願わくは、世尊、ひろく因果を説きたまえ。大衆知聞(だいしゅ・ちもん)して一心に、善に従わん。

 仏、阿難に告げたまわく、汝が所問のごとく、受報の同じからざることは、みな先世の用心等(ひと)しからざるに由(よ)る。これをもって受けるところ千差万別なり —–。
 今身(こんしん)に端正なる者は、忍辱(にんにく・はずかしめや悩みを堪えしのぶ)の中(うちより来(きた)る。
 人となり醜陋なる者は瞋恚(しんい・怒って他人をうらみ憎む)の中より来る。
 人となり貧窮なる者は慳貪(けんどん・欲深くおしみむさぼる)の中より来る。
 人となり高貴なるは礼拝(らいはい)の中より来る。
 人となり下賤なるは驕慢(きょうまん)の中より来る。人となり長大(すぐれていること)なるは恭敬(きょうけい・うやうやしく慎み深い)の中より来る。
(中略)・・・ 
 人となり子女に恵まれ饒(ゆた)かなるは、喜んで他の生き物の命を養う中より来る。
 人となり長命なるは「慈心」の中より来る。・・・・
 人となり大富なるは布施(ふせ)の中より来る。人となり聡明なるは、「学問誦経」の中より来る。
 人となり六根具足(人が迷いを生ずる六つの根源である目・耳・鼻・舌・身・意の悪弊から脱すること)する者は、「持戒」の中より来る。・・・・・

ご隠居 善悪因果経には「忍耐」「礼拝」「恭敬」「慈心」「布施」「学問誦経」
    「持戒」など、わたしたちが日常で行い易い徳の行いが説き示してある。

寅さん それにしても人間の幸不幸の価値基準というか、その優勝劣敗を、こうも
    あからさまに列挙されてみると、いまさらのようにその不平等、不公正さ
    に暗然とさせられますね。

ご隠居 それが仏教が一つの柱に据えて説く因果応報の理(ことわり)だ。
    だから、仏は、人によって幸不幸のばらつきがあるのは、過去において、
    その生き方にどれほどの配慮をしていたかによって決定する、と因果の理
    法をお説きになったという。
    しかも、一時期の不遇や不幸にめげずに清らかな言動を続けることで善き
    果報を得られることこそが尊いといえよう。
寅さん 理法?
ご隠居 すべてのものが従うべき道理、つまり法則だな。
    因というのは、結果を生ぜしめる内的、あるいは直接的原因のことであり
    そして、これらの原因によって生ずる結果、それがすなわち「果」である
    とされる。
   「もと我が造るところを、のちに我みずから受く。悪をなして自らつぐなう
    こと剛の珠を鑚(き)るがごとし(ダイヤモンドが他の珠を切るように、
    自らによって、自らを切るようなものである)」
    と法句経に説かれている。
    悪いことをしない、十善の行いをする。私たちの運気上に顕れる果報であ
    るとか、自分の心の内面に顕れる果報のすべては、どのように生きてきた
    かによって、歴然とその結果に顕れる。

    したがって私たちは、今、この人生をより大切にし、より良く正しく暮ら
    すことがどれほど大事なことかを、よくよく肝に銘じて生きなければなら
    ない。
    それを実行するには、止悪行善(しあくぎょうぜん)、つまり、十善戒を
    守り、放生(ほうじょう・捕らえられた生き物を放ち逃がす善行、慈悲の
    行いとされる)、布施(ふせ)、梵行(ぼんぎょう・きよらかな生活)な
    ど、積極的に善事につとめなさい、と 仏法は教えている。

僧の修行を妨げて猿にされた話
      「日本霊異記」より

 近江の国野州郡(やすごおり)三上山(みかみやま、近江富士として名高い)の西麓に社(やしろがあった。多賀の神社という。
 この社は、村落六戸分の田租の半分を給付され、それによって祭事を運営していた。多賀神社のそばに小さな仏堂があった。
 宝亀年間、光仁天皇(七七〇ー七八一年)の御世(みよ)、その仏堂に、奈良の大安寺に籍を置く一人の僧が、しばらくのあいだ止住し、修行三昧の日々を送っていた。
 そんなある夜のこと、くだんの僧が夢を見た。それはなんとも奇怪な夢であった。何者とも知れぬものが彼の枕元に立ち、「わが為に経を誦め、経を読んでくれ」としきりに囁きかけるといったものであった。
 目醒めて、その夢のことをあれこれ考えてみたが、どうにも訳が分からない。
 ところがその翌日、小さな一匹の猿が実際にやってきて、「師の僧よ、これからもこの寺に久しく止住し、どうか私の為に法華経を誦んで供養してもらえないだろうか」と僧に頼んだ。
「経を誦み、供養することにけっして やぶさかではないが、理由も分からず、いきなり そう言われても返答に困る。そもそも あんたはいったい何者なんだ?」と訊ねると、白い猿が言った。
「じつは、私は、もとをただせば東天竺(てんじく)国の大王であった。ところがわが領土内では、修行の僧のまわりに、無用の従者が大勢まつわりついていて、その数はゆうに千人を越えるほどであった。それらの者たちは、修行僧の世話を口実にして、畑仕事をないがしろにし、怠けてばかりいたので、みるみるうちに作物が不足した。王である私は、目に余るそのような事態を看過(かんか)することができなかった。
 そこでとりあえず、用もないのに日がな一日、修行僧に寄生してぶらぶらしている従者どもを強制的に追い払うことにした。もとより修行僧にたいする扱いは従前どおり、仏道を修することをなにひとつ妨げもしなかったし、禁止したりなどはしなかった。
 このように王の権限で、ただ単に僧の従者の数を規制したにすぎなかったが、この措置そのものが、僧の仏道修行を阻害したということで、はしなくも罪業を得ることになったのである。

 私はこうして、死後の世において猿の身をうけて生まれ、いまは多賀の社の大神として祠(まつ)られておるが、この猿の境界(きょうがい)を脱するには、なんとしても師の僧の助けが必要である。
 師僧よ、どうか私のために法華経を誦み、ねんごろな供養をしてはもらえぬか。頼む」

「分かりました。ただ、供養するには相応の供物が必要ですが、その用意があるのか」と僧が問うと、
「私は残念ながら、供養に供えるような物を何一つ持たない」
「では、こうしたらどうだろう。 この村の官倉に籾(もみ)がたくさん保管してあるから、それを供養の料に当てるとよろしい」

 すると猿が言う。
「あの籾は本来、朝廷から私に賜(たまわ)ったものだが、多賀社の宮司がしっかり管理して、まるで自分の所有物であるかのように決めてかかっているので、とてものことに出してはくれないだろう」

「供養の法会(ほうえ)に供物がなくては恰好がつかぬ。はて、どうしたものか —-」と、僧が思案していると、白い猿が、はたとひざを打った。
「良い考えがある。ここより北の浅井の郡に、たくさんの比丘が六巻抄(四分律)を講読していると聞く。その講衆のなかに私も加わって善知識を学んでこようとおもうが、それでどうだろうか」というので、僧はほかに方法を思いつかないまま、猿の言葉にしたがって、山城の国の山階寺(やましなでら・後の興福寺)に満預という檀越(だんおつ・檀那のこと。檀那の布施によって僧侶が貧窮の海を越えるというところからの由来)を訪ねて、猿の依頼した用件を取り次いだ。 

 六巻抄を読む講衆の世話役でもある檀越(だんおつ)は、僧の話を聞くなり、顔面を朱に染めて、「冗談じゃない」言下に吐き捨てるように言った。「多賀の大神か、どうか知らぬが、そのような猿のたわごとなどだれが聞くか! わしはそんな猿のたわけた話など絶対に信じないし、ましてそんなやつを講衆に受け入れることなど絶対にできん!」

 比丘たち講衆による六巻抄講読の会場準備が、多くの人々の手によって着々とすすめられていたときのことであった。
 あらかた会場の準備が整ったのをみとどけて、世話役の檀越が、やれやれと別室に移り、白湯をすすっているところへ、堂童子(どうどうじ・法会などのさい、いろいろな使い走りの役をさせるために随伴する少年)が、黄色い声を張り上げながら、あわただしく駆け込んできた。
「大ごとだ、大変だア。お堂の腰がぬけ、へたってしまいよった」
「これ小僧、なにを世迷いごとを言ってる。落ちついてちゃんと分かるように話してみなさい」と檀越が叱ると、童子が言う。
「嘘やない。お堂の柱がぜんぶ折れてしもうて、その上に大屋根があぐらをかいたようにペシャンコになっているのや」
 気管につまらせた白湯に噎せながら、急いで行ってみると、まさしく童子が言ったとおり、あたりは壊れた仏像が散乱し、僧坊までもすべて倒壊している。巨大な力が いちどきに加えられたように、まわりの建物が一様になぎ倒されていたのだ。
 その惨憺たる有り様を目の当たりにした檀越は、総身に冷水をあびせられでもしたかのように、ガタガタふるえだした。

 やや日をおいて、猿の話を持ち込んだ僧を前に、檀越はかたちをあらためて、次のように言った。
「かくなってみれば、御坊(ごぼう)のおことばに従うべきであったようだ。
 向後(きょうご・今からのち)は、その多賀の大神と名乗る猿の言葉を信じ、かの猿が 希望する六巻抄 講読の 善知識の仲間にも入れてやり、彼の願うところを成就(じょうじゅ)させてやることとしよう」と妥協し、さっそく壊れた堂宇(どうう)の再建に取
り組むことにしたのであった。

 それより以後、比丘(びく)たちが寄り集まって六巻抄を読む催しは、法会の終わるまで、つつがなく運営され、なんの支障も起こらなかったという。

 仏法に勤(いそ)しみ、善道を修するものにたいし、あえてこれを妨げる輩(ともがら)は、多賀の社の猿のごとく、悪報を得ることとなる。
 往昔(おうせき)、釈迦の子である羅候羅(らごら)が過去の世に国王であったとき、彼は、一人の独覚(どくかく・師匠につかず独りで修行する僧)に、国内での乞食(こつじき・修行僧が人家の門に立ち食をもとめる)を禁じ、また国外へ出ることも許さず、その独覚を七日間飢えさせたことがあった。
 この罪報によって、羅候羅は永きにわたって生まれ出ることがかなわず、延々六年間、母親の胎中にあったという。
 それも、つまりは、こういったことであろうか —- 。

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