神官と六地蔵

 前号で紹介した元亨釈書(げんこうしゃくしょ※)の巻十七に、次のような話が載っている。
 ※仏教伝来以来、元亨二年(一
  三二二年)までの四百余人の
  僧伝や仏教史を漢文体で記す。
 周防国(すおうのくに)の玉祖(たまおや)神社の宮司(ぐうじ)惟高(これたか)の先祖も、代々神官であった。
 ところが惟高は、どうしたわけか、神官の身でありながら仏法に帰依(きえ)し、心にいつも地蔵菩薩を念じているような人物であった。
 そんな惟高が、長徳四年の四月、病の床について六日過ぎ、にわかに亡くなってしまった。
 ・・気がつくと、惟高は、渺茫(びょうぼう)たる荒れ野をさまよっていた。彼には、そこがいったい何処なのか、また自分が何処へ行こうとしているのか、まったく分からなかった。
 途方に暮れて、ぼんやり佇(たたず)んでいると、前方から威儀(いぎ)をただした六人の沙門(しゃもん・出家して仏門に入り道を修める人)が厳かに歩み寄ってきた。
 一番前の一人は手に香炉を持ち、次の一人は胸の前で合掌し、次の一人は宝珠(ほうしゅ)を持ち、次の一人は錫杖(しゃくじょう)をつき、いま一人は華筥(はなばこ)を持ち、そして最後の一人は念珠を手にしていた。
 六人のうち香炉をささげている沙門が惟高に話しかけた。
「汝、我らを存じているか?」
「いいえ、いっこうに存じあげませぬ」と、答えると沙門が言った。
「我らは六地蔵である。 六趣(ろくしゅ=地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の衆生(しゅじょう)を救わんがために、六種の身に現じてきたのである。
 汝は神職の身であるにもかかわらず、久しく我に帰依(きえ)するところあり。それゆえに、汝をして、いま一度、現世へ差し戻してつかわす。
 ついては娑婆(しゃば・現世)へ帰りしだい、汝、我らが像を造って恭敬(くぎょう)いたすべし。
 ・・たしかにそのような声がしていた、とおもっているうちに、惟高はあたかも夢から覚めたように蘇生(そせい)したのである。
 それより惟高は、小さなお堂を構えて、その中に籠(こ)もり、六地蔵の像を刻んで瞻礼(せんれい・尊び仰ぐ)供養したので、その噂を聞いた人々はみな随喜(ずいき)したという。
 惟高は、それよりはるかのち、七十余歳にして地蔵の名号(みょうごう)を唱えながら命終したそうである。
 六趣は六道(ろくどう)ともいわれ、衆生(しゅじょう・生きとし生けるもの)が自らの善悪の業(ごう・行い)によっておもむき住む六つの迷界とされる。地蔵菩薩さまは六道能化(のうげ)といい、迷いの世界に在られて六道の衆生を教化される。

観 音 懺 法(せんぽう)

 た后妃(きさき)を救ったという話が書かれている。
 梁の武帝の后妃はたいそう嫉妬深い女性であったが、はたせるかな、死んだのちに巨蟒と化してしまった。
 ある夜、武帝の夢枕に現れて、
「仏法の功徳(くどく)によりて、どうか、わが苦しみを救いたまえ」
と乞うた。
 このため帝は大蔵経をつぶさに調べて慈悲懺法を製し、僧を請じて、仏を礼し、妃の罪を懺悔(ざ
んげ)せしめると、不思議なことに、たちまちその霊感があらわれ、うわばみであった妃が天人になったと、宙空から感謝する言葉が帝に聞こえた。
 それ以後、武帝は生涯、妃を入れなかったということで、懺法の功徳によって天に生まれ変わる楽を得たという、これが観音懺法の始まりである、とされている。

人 面 瘡 奇 聞

「神僧伝」に、唐朝末、懿宗皇帝(いそう)から悟達国師の称号をもらった僧知玄のことが書かれている。
 あるとき、知玄は長安でたまたま知り合った一人の僧に、こんなことを言われた。
 「貴僧は、この先いつの日にか難病に罹(か)かることがあります。そのときは、蜀の西、彭州の荼龍山に行き、二本の松を目印に尋ねてお行きなさい」
 そのようなことがあったなど、すっかり忘れて、知玄が安国寺という寺に住(じゅう)していたとき、懿宗皇帝が深く知玄に帰依して、感通四年(八六三年)、悟達国師号を賜り、中国の仏教界を総括することとなった。
 そして、同じ感通十二年五月、皇帝は親しく安国寺に行幸(ぎょうこう)して、高さ二丈余におよぶ沈香(じんこう)装飾の宝座を、知玄に下賜されるなど、はなはだ厚い寵幸(ちょうこう)を得るにおよんで、次第に、知玄に慢心が生じ、人を人ともおもわぬような尊大な人間になった。
 そして、それにあたかも符節を合わせたごとく、彼の左の膝に、奇怪きわまる人面瘡(じんめん・そう)が生じたのである。
 見るからにおぞましい、その瘡(かさ・できもの)は、どう眺めても人の顔としか見えず、眉毛も目も、口も歯もあって、そのうえ食べ物を与えれば、あんぐり口を開いて、ムシャムシャ咀嚼(そしゃく)をするのである。
 それよりもさらに我慢ならないのは、できものによって与えられる尋常でない痛みであった。
 あちこち良医を捜し求めて治療してみたが、いずれも効果はなかった。
 そんな折り、ふと知玄が思い出したのが、以前都の長安で一僧が言っていた話である。
 このまま座して、小憎たらしい人面瘡の横暴を看過するよりも、万が一ということもある。騙されてもともと、と知玄は意を決して遠く蜀へと旅立った。
 めざす荼龍山に分け入り、尋ね歩くうち、はたして、雲煙の間に大きな二本の松がそびえていた。あれは、口から出まかせの法螺話ではなかった、と意を強くして、さらに歩を進めると、そこには、森厳として仏寺が建っていた。
 長安で遇ったあの僧もいた。二人は久闊(きゅうかつ)を叙(じょ)し、歓談に時を過ごすうち、日も暮れてきたので、知玄はその寺に泊めてもらうことにした
 よもやま話が一段落して、知玄が、やおら本来の目的である人面瘡の苦患(くげん)を持ち出して愬(うった)えると、そんなことはなんでもなげな顔で僧は言った。
「心配いりません。この山中に泉があります。その清水で瘡を洗えばたちどころに治癒いたします」
 —- 黎明、一人の童子が現れ、知玄を案内して泉のほとりへ行った。衣をたくしあげる間ももどかしく、清水を手に掬い取ってできものを洗おうとしたそのとき、だしぬけに、人面瘡が口をきいた。人語をしゃべりだしたのである。
 「ちょっと待ってくれないか。そんなに気安く洗ってもらっては困る。あんた、西漢書を読んだことがあるかい?」
 かつて読んだ、とうなずくと、人面瘡がいう。
 「それなら話が早い。どうして袁央(えんおう)が晁錯(ちょうそ)を殺したか、あんた知っているだろう? つまり、あんたは袁央で、おれは、すなわち晁錯なのだ。長安の東市(ひがしのいち)で腰斬された晁錯の冤(あだ・うらみ)を、どのようにして晴らしたら怒りがおさまるだろう —- 。
 おれは累世、いつか、あんたに恨みを報いてやろうと、機会をうかがっていた。ところがあんたは十世の長きにわたって僧となり、しかも戒律厳しく身を律していたからその機会を得なかった。
 それがどうだ。いま汝は皇帝の寵をよいことに、奢(おご)り高ぶり、名利に明け暮れている。いよいよ好機到来とばかり、汝にとりついて、これからじっくり痛めつけてやろうとしていたやさき、迦諾迦(かだぎゃ)尊者の横やりがはいった。
 尊者のいらぬお節介で、三昧の法水をもって瘡を洗うことを、汝に教えたため、おれの目論みはついえた。もはやこれまでである。これより以降、二度とふたたび汝に冤をすることもあるまい云々」
 人面瘡の捨てぜりふに、しばらく呆然としていた知玄は、やがて我に返ると、泉水を掬って、できものを洗った。
 全身に激痛が駆け抜け、そのあたりを転げ回っているうち、ひょっと気がつくと、あの忌ま忌ましい膝の人面瘡は、跡形もなく消え失せていたのである。
 知玄がこの霊異を僧に伝えようと、急いで寺にとって返してみると、僧も童子も、そしてあたりの景色に溶け込むように建っていた寺までも、茫としてかき消えていたのである。
 霊異の不思議と、積世の怨念(おんねん)という厄介なものがあることを、あらためて思い知った知玄は、やがてその場所に大寺を建立し、観音懺法三巻を述作したという。
 迦諾迦尊者が観音大士であるかどうかはさておき、もし、このような尊者に遇わなければ、知玄はいかなる方法によって宿因を知り、かつ、冤業を洗却することが出来たであろうか。

袁央と晁錯

 あの人面瘡が、口にした袁央と晁錯とは、いったいどのような人物なのであろう。
 —-中国全土を統一した始皇帝の秦にかわり、漢王朝が成立してまだ間もない紀元前一五○年ごろ、袁央と晁錯はその時代に活躍した人である。
 かつて袁央は晁錯の讒言(ざんげん)によって要職を解かれ、漢王朝から追放されていた。
 一方、晁錯は景帝の側近にあって政治の実権を握り、各地の諸侯をこまごまとした法令によって厳しく取り締まり、すこしの過誤を犯しただけで処罰し、その領土を削り取ったりした。
 この晁錯の圧政に耐えられず、各地の諸侯が呼応して、漢王朝に背いた。これを「呉楚七国の乱」という。
 反乱軍は、「晁錯を殺し、ただちに抑圧政策を廃止せよ」と要求して都の長安に迫った。
 事態を憂慮した景帝は、いそぎ袁央を宮廷に召喚して彼の意見を徴することとした。
 そこに犬猿の間柄の晁錯も同席していたのだ。
「汝ならば現状をどう打開するか」
と景帝が尋ねると袁央が言った。
「どうか、お人払いを・・」
 景帝のそばに控えていた者はみな退出したが、晁錯だけは、俺は別格だ、といった顔で残っていた。
 袁央がいう。「これから臣の申しますことは、たとえ大臣であろうと、お聞かせすることはできません」
「そうか、では晁錯も席を外せ」
と帝がいうと、晁錯は憎悪の眼を袁央になげつけて退出していった。
 帝と二人きりになった袁央が声を押しころすようにして囁く。
「反乱の原因はすべて晁錯の過酷な政治にあります。したがって最善の策は、元凶である晁錯を粛清し、諸侯の領地を元通りに復してやることです。そうすれば反乱はほどなく終息するでありましょう」
「ふーむ。晁錯ひとり斬り捨てるだけで、この騒ぎは収まるか—-」
 こうして晁錯の運命は決した。
 長安の都、東の市場を視察していたとき、数人の者たちによって車から引きずり下ろされ、斬り殺されたのである。袁央の目的は、呉楚の反乱を収束することではなく、あくまでも宿敵晁錯を除くことにあったのである。
 そして袁央もまた、景帝の弟、梁王の刺客によって非業の死をとげた。

むさぼり、物惜しみして
大蛇(おろち)となった話
「日本霊異記」より

 聖武天皇の御世(七二四~七四九年)、平城京の東北隅の山寺に、一人の年老いた僧が住していた。
 その僧がいよいよ没するまぎわ「わしが死んだあと、三年のあいだはこの部屋の戸をけっして開けてはならぬぞ」と、固く弟子に言い残して亡くなった。
 こうして老僧の四十九日が過ぎたある日を境に、固く閉ざされた部屋の戸の前に、何処から現れたか大きな蛇(くちなわ)がトグロを巻くようになったのである。
 弟子は、その光景を身の毛もよだつ思いでながめた。弟子は大蛇を見て、その大蛇が、なぜそこへ来ているのか、そのわけをすべて了解したからだ。
 生前、異常に金銭をむさぼり、何かにつけて物惜しみの烈しかった師の僧であっただけに、輪廻転生して畜生道に堕ちて大蛇となり、現世に迷い戻って、せっせと蓄えた銭の見張り番をしているに相違ない、と弟子は思ったのである。
 弟子はとりあえず蛇を教化(きょうけ・教え導く)して慰撫し、部屋の戸を開いてみると、そこに銭三十貫が隠すようにしておさめられていた。
 弟子は、その銭を持って、よく拝んで功力(くりき)があるという評判の寺で、衆僧の誦経を請い、師の罪障消滅と冥福を祈ったのである。
 須弥山(しゅみせん)の頂きを仰ぐことはできても、欲望の山の頂上を見ることはできない(欲望には限りがない)。
 強欲な僧が三十貫の銭に執着して、死後大蛇になり、往生できずにいたのを、弟子の教化によって救われる話である。

 人の煩悩には「三毒」いわれる貪瞋痴(とん・じん・ち)がある。貪りの心、瞋恚(しんに・怒り)、痴愚(おろかさ)の三つで、自らの善根を毒するといわれる。
 小欲知足で心安らかに暮らし、直ぐキレないように怒りを抑え、物事を正しく見るように努力してお盆を過ごしたいものだ。

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