- アリス
- テレス、年末のテストに合格したよ。ほんと命拾いしたよ。
- テレス
- そうか。よかったのう。わしも安心したぞ。
- アリス
- 新春のお寺参りをして、住職さんのお祓いも受けたし、自分の部屋には萬倍だるまもお祀りしたし、もう完璧だよね。
- テレス
- あとは学業に専念するだけじゃのう。
- アリス
- そうなんだよ。でもそれが一番難しいんだよね。
- テレス
- まあよかろう。ソクラテスの話の続きにするかのう。
- アリス
- ねえ、「無知の知」っていったいどういう意味なの。
- テレス
- ソクラテスの哲学では、「無知の知」はとても重要な概念なんじゃよ。なぜかというと、ソクラテスが「無知の知」を悟ったのち、自分の使命に気づき、哲学者として残りの人生を捧げることになったんじゃからのう。
- アリス
- そうなんだ。
- テレス
- それは、ソクラテスが四十歳の頃の出来事じゃ。彼の友人のカイレポンがアポロン神に「ソクラテスにまさる知者はいるか」と訊ねた。すると「ソクラテスにまさる知者はいない」というお告げを受けた。この出来事はデルポイの神託と呼ばれる。これを聞いたカイレポンは、早速ソクラテスに伝えた。
- アリス
- ソクラテスはアポロン神に認められたのでよろこんだの。
- テレス
- ソクラテスはそんなことで満足する世俗の人々とは違っておった。むしろ否定的じゃた。
- アリス
- さすが大哲学者だね。
- テレス
- ソクラテスは自分がアポロン神に認められるほどの知者とはまったく思っていなかった。当然、その神託に疑問を抱いた。どうして私なのか、何かの間違いではないか、と真剣に考えたんじゃ。
- アリス
- 謙虚な人だね。でも、古代ギリシャ時代で神からのお告げに疑問を挟むとは驚きだよ。
- テレス
- ソクラテスは自分が知恵のある者でないこと知っているから、神託で示された言葉の本当の意味を考え続けたんじゃ。
- アリス
- ソクラテスの理解不足か、神託が誤っているかのどちらかだものね。アポロン神が示したことを盲目的に信じていれば深く考える必要がなかったのにね。
- テレス
- そこが凡人と哲人の違いじゃよ。
- アリス
- じゃあ、いったいどうやってデルポイの神託が誤っていることを証明しようとしたの。
- テレス
- 証明の方法はこうじゃ。神託は「ソクラテスにまさる知者はいない」とある。つまり、ソクラテスが一番の知者というこじゃな。これが誤りであるということを示すにはどうすればいいかのう。
- アリス
- ソクラテスより知恵のある者を一人以上探し出すならば、神託は偽ということになるね。
- テレス
- そのとおりじゃ。世間で評判の高い知者とみなされている人を訪ね、そこで問答を交わし、ソクラテスより優れていることがわかれば、神託は反駁されたことになる。
- アリス
- 世間で知者といわれる人達との問答はどうだったの。
- テレス
- 結論からいえば、デルポイの神託は正しかったことになる。具体的に誰と問答をしたかは述べられていないが、一人目は有名な政治家だったらしい。
- アリス
- どのようにソクラテスは思ったの。
- テレス
- 率直にソクラテスはこの政治家より自分の方が知恵があると思ったようじゃ。
- アリス
- 相手は有名な政治家なのに。多分、博学だったはずだよ。
- テレス
- 権力や肩書きと知恵のある人間かどうかは全く別のことじゃ。社会的に地位が高い人が常に優れた智慧に基づいて正しいことをするとは限らんじゃろうが。最近の政界や官僚のスキャンダルをみれば明らかじゃ。社会的に地位の高い人は高い倫理性を求められるが、必ずしも地位に見合うだけの倫理性があるとはいえん。政治家としての能力や知識量の評価ではなく、知者として、賢者として妥当かどうかの問題じゃ。ごちゃまぜにして考えてはいかんぞ。
- アリス
- うん、わかった。それで。
- テレス
- その政治家は、世間一般に知恵のある人物と思われている。そして、自分自身でもそう思い込んでいる。
- アリス
- しかし、ソクラテスはそうは思わなかったんだよね。
- テレス
- そのとおりじゃ。ソクラテスは、その政治家と別れて帰る途中に考えた。そして、ソクラテスの方がこの政治家よりも知恵があると結論づけた。
- アリス
- どうしてなの。
- テレス
- おそらくこの政治家は政治に関する知識は豊富なはずじゃ。そして、いかに自分が教養ある人物であるかを披露したのじゃろう。
- アリス
- だったら、この政治家は知者とはいえないの。少なくともソクラテスより政治についての知識はあるはずだよ。
- テレス
- それは専門知識の量についてのことじゃろうが。ここでの知恵とは、人間に普遍的な知のことじゃ。つまり、人生の意味とか、善さとか正しさ、美しさについての倫理的な知恵のことじゃよ。
- アリス
- じゃあ、この政治家は真善美について何も知らなくて、ソクラテスのみが本当のことを知っているということになるの。
- テレス
- そういう意味ではない。ソクラテス自身もこの政治家と同様何も知らないと考えている。ただ、両者の一番の違いは、自分が知らないということに気がついているかどうかなんじゃ。この政治家は知らないのに何かを知っているように思っている。一方、ソクラテスは、知らないから当然知らないと思っている。この認識の違いがデルポイの神託が意味することじゃよ。このあと、別の著名人達にも会いに行ったが、結果は同じことじゃった。つまり、膨大な専門的技能的知識をもっている人が知者ではなく、自分は知恵に対して何の値打ちもないということを知っている人が本当に知恵のある人間ということなんじゃよ。
- アリス
- どの点が重要なのか、よくわからないなあ。
- テレス
- 人間の判断は自己中心的で、狭い視野でなされやすいものじゃ。欲望や煩悩によって認識や判断が歪められる恐れがつねにある。「無知の知」は、人間が持っている知恵は取るに足らないもので、いわば無知であることを認めて、謙虚に本当の知恵を求めて生きていかなければならないことをわしらに教えてくれている、と理解すればいいじゃろう。
- アリス
- じゃあ「無知の知」の認識はどうすれば得られるの。
- テレス
- そもそも暗記できるものではないし、他人から与えられるものでもない。自らが自覚して求めることによってのみ得られる。
- アリス
- まさに悟りへの道だね。僕にはそのための修行は到底無理だよ。既に不勉強でテストを受けて「無知の恥」を嫌というほど悟ったからもう十分だよね。
- テレス
- そんな悟りとは。とほほ……