- ご隠居
- 寅さんは、こんなのを知っているか。
- 娑婆往来八千返 本誓願故現穢土
- 四十九年無説説 拈華微笑金頭陀
- 正法眼蔵親付属 跋提河邉入涅槃
- 紫磨金色示群生 利益人天佛舎利
- 常在霊山不滅度 五百大願皆円満
- というのだが……。
- 寅さん
- また、ずいぶんと難しい漢字を並べましたね。いったい何ですか、これは?
- ご隠居
- これは釈迦歎偈(たんげ)といって、つまりお釈迦様の徳をほめたたえた経文なのだな。
- 寅さん
- これで、お釈迦様をどのようにほめているんですか? 私には、何をいっているのだかまるっきり見当もつかない。
- ご隠居
- 実のところ、私にもよく分からないが、ま、あれだ。聞きかじりの当てずっぽうの解釈でよいなら話してあげようか?
- 寅さん
- お願いします。私もそのつもりでうかがいますから……で最初の娑婆往来八千返とは?
- ご隠居
- お釈迦様がまだ佛道修行をしておいでのときのことだ。宝蔵佛のみもとにおいて、末世五濁(ごじょく)の衆生を済度(さいど)しようという大誓願(だいせいがん)をおこされたな。
- 寅さん
- 五濁(ごじょく)?
- ご隠居
- この世に起こる五つの汚濁のことだ。つまり劫濁(こうじょく・時の汚れ)、煩悩濁(欲と悩みの汚れ)、衆生濁(悪人の汚れ)、見濁(けんじょく・種々の悪見による汚れ)、命濁(めいじょく・寿命がしだいにちじまることへの恐怖の汚れ)の五つがそれで、これらの五濁に浮き沈みして流される衆生に手をさしのべ、救おうとして、お釈迦様は、菩薩の四摂法(ししょうほう・布施、愛語、利行、同事)と、六度(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)を修せられた。
- そして、六道の衆生を佛法に帰依(きえ)させるため、お釈迦様は悟りをひらかれるまで、生まれかわり死にかわりして、この娑婆世界に八千返も往来された。そのことを賛嘆した言葉という。
- 梵網菩薩戒経にも、釈尊自ら、「吾レ今此ノ世界ニ来ルコト八千返ナリ」と仰せられたとある。
- 寅さん
- 四摂法というのは?
- ご隠居
- これは菩薩がすべての人々を救うために、人々の心をひきつける四つの方法のことだ。「布施」は、真理の教えを施したり、物を施したりすることあげること。「利行(りぎょう)」は、善き行為によって人々のために尽くすこと。「同事」とは相手と同じ姿でもって近づき、仕事を共にして働くことだ。
- ついでに「六度」は、菩薩の六つの修行の徳目、つまり六波羅蜜のことで、あたまの布施から順にくだいていうと「ほどこし、いましめ、たえしのび、はげみ、しずまり、さとり」となるな。
- ――花を見てにっこり――
- 寅さん
- 本誓願故現穢土とは?
- ご隠居
- 釈尊以前の十方の諸佛はみな穢土(えど)を見限られて、だれ一人としてこの濁世(じょくせ)の衆生を済度(さいど)しようとするものがおらなかった。そのことを非常に残念に思われたので、釈尊はこの世にお出ましになった、というのだな。 そもそも、お釈迦様の大誓願は五濁の穢土の衆生を済度することであったから、その約束をきっちり果たされたわけだ。
- 寅さん
- では四十九年無説説は?
- ご隠居
- 少年の頃の釈尊は悉多太子(しった・たいし)といい、浄飯王(じょうぼんおう)の王子であったが、十九歳の時出家して修行をかさねられ、そして三十歳のとき、摩訶陀(マカダ)国の菩提樹の下で悟りをひらかれた。
- それからご入滅(にゅうめつ)されるまでの四十九年間、縦横自在に法をお説きになった。けれども、そのご説法は必要にせまられ、やむを得ずお説きになったまでのもので、実際は、説くべき法があったというわけではない。
- なぜなら、法とは、言葉を換えていえば「道理」そのものだから、その道理をくだくだしく説く言葉は要らないはずだ。
- 道理はむきだしの丸裸だから、だれの目にもよく見えるものだが、それさえもそっぽを向いて見ようとせず、あれこれ迷い、苦しんでいる者がいるから、お釈迦様は仕方なく、ああだ、こうだと事をわけて懇切丁寧に法をお説きになった。そのことを無説の説として賛嘆した、とこういうわけだ。
- 寅さん
- では次の拈華微笑金頭陀(ねんげびしょうきんずだ)の意味を教えてください。
- ご隠居
- ある日のこと、お釈迦様が蓮華(はす)の花を手に取り、それをお弟子さんたちに示された。
- が、佛の意中をはかりかねて、みんなは呆気にとられて黙っていた。しかし、それを見て迦葉(かしょう)だけが、一人にっこり笑ったという。それを古来から世尊拈華破顔微笑といっている。この故事で伝えようとしているのは、佛法は、文字や言葉によらず、心から心に伝わるものであると、暗に教えているわけで、金頭陀とは迦葉の尊称のことだな。
- 寅さん
- 正法眼蔵親付属とは?
- ご隠居
- そこでお釈迦様は、私の正法を受け継ぐ者は、佛意を理解する迦葉をおいてほかにないと、佛の正法眼蔵涅槃妙心(しょうほうげんぞうねはんみょうしん)を彼に付託した、とこういうわけだ。
- そして、正法眼蔵の意味を解釈すると、釈尊が佛法の悟りをひらいた秘密の極意とでもいえばよいかな。
- 寅さん
- 跋提河邉入涅槃(ばつだいかへんにゅうねはん)とは?
- ご隠居
- お釈迦様は、かくして天竺(てんじく)の跋提河(ばだいが)のほとりにある八本の大きな沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で、天上界、人間界の大勢の人々にかこまれながら、かの遺教経(ゆいきょうぎょう)を懇々とお説きおえになると、しずかに涅槃(ねはん)にお入りになった。
- ――信じればご利益が――
- 寅さん
- 次の紫磨金色示群生ですが、紫磨とはいったい何です?
- ご隠居
- お釈迦様が涅槃に入られるとき、その御手(みて)でもって胸をなでられ、まわりで見守るお弟子たちに、「おまえたち、私の黄金の身をよく見ておきなさいといわれた。つまり、紫磨とは純金のことだ。だから佛像をはじめお佛壇、佛具には、いまもって金色がよく使われる。そのわけは、この故事に由来しているわけだ。
- 寅さん
- では、利益人天佛舎利の意味は?
- ご隠居
- それから弟子たちは、お釈迦様の棺(ひつぎ)に栴檀(せんだん)の薪をつんで、ご遺体を荼毘(だび)にふした。二十一日目にしてようやく火葬の火が消えて、お釈迦様は全身みな舎利(しゃり)と化せられた。
- その舎利の分配については、またいろいろエピソードがあるようだけど、結局はみんなでそれぞれわかちあい、各自が持ちかえった国々で佛舎利塔(ぶっしゃりとう)を建立(こんりゅう)して供養するようになった。以来、こんにちに至るまで、舎利のありがたい霊験にあずかった話は数知れぬな。
- ところで話が飛ぶが、寅さんは観音院におまつりされた「釈迦涅槃図」にお参りしたことはあるかい。ご本堂には螺鈿の釈迦涅槃図がおまつりしてあるが。
- 寅さん
- じっくりとはまだ……
- ご隠居
- 涅槃図というのは、釈尊入滅時の、ドラマ仕立てのように、今しも、お釈迦様は涅槃に入ろうとされている、そのお釈迦様をお弟子や、菩薩たちが取り囲んでいる。胸を打って叫び、天を仰いで泣く佛弟子たち、深い悲しみの色を表情にただよわせる菩薩たち、その中でお釈迦様はひとり、静かに、まったく静かに涅槃にお入りになる・・というふうに、たいへん劇的に構成されている。
- 寅さん
- 常在霊山不滅度とは?
- ご隠居
- これは「法華経寿量品」の趣意を言ったものだ。
- その意味は、滅度・・お釈迦様の入滅は、ほとけが衆生をみちびくため仮にもうけた方便であって実際は、お釈迦様はつねに霊鷲山(りょうじゅせん)に在り、決して滅してはいない。たとえこの世が消えて無くなろうとも、ほとけのおわす浄土はやすらかに、静寂に包まれてわざわい一つない、とおっしゃった。そしてまた、ほとけは肉体はなくなったけれども、法身(ほっしん)は常住不滅であるから、信ずる者は必ず利益のあることを信じて、佛弟子たるものはつねに頂戴恭敬(ちょうだいくきょう)の気持ちを忘れてはならない、と法華経寿量品(じゅりょうぼん)は説いている。
- そして最後の、五百大願皆円満だが、この五百大願というのは、お釈迦様が修行時代のときお誓いになった大願のことで、その大願をすべて成就されたので、私たち有縁(うえん)の衆生は、みなその御利益(ごりやく)にあずかることができたというわけだな。
- 寅さん
- 私もその有縁の端くれにつらなる人間と思っていますが、それはどんな御利益です?
- ご隠居
- それは、だ。もしかりに今から二千五百年前、お釈迦様がこの世に現れなかったら、この地球上のどこにも佛教は存在しなかったし、どういう佛様、どういう菩薩様がおいでなのか、お名前さえも知らなかったはずだ。
- それが今こうして私たちは、諸佛諸菩薩の御名(みな)を称(とな)えたり、拝んだりしながら、その御利益にあずかっている。そればかりか、佛教を信ずることによって、我々はゆたかな精神生活を送ることができる。それもこれもすべて、お釈迦様があったればこそではないかな。
釈迦の名号を称えて二人の漂流者が助かったという話 日本霊異記
紀万侶朝臣(きのまろのあそん)という男がいた。この男は、紀伊の国・日高の郡の河口に居住する漁師の親方である。
その親方のもとで、昼夜をわかたず怒鳴りちらされ、追い使われる二人の若者がいた。
年かさのほうが、紀伊の国有田郡から来た馬養(うまかい)、もう一人は、やはりおなじ国の海草郡下津生まれの、名を祖父麿(おじゃまろ)といった。
彼らは、雀の涙ほどの労賃をもらって、来る日も来る日も海に出て魚の網を引いていた。
光仁天皇のみ世、宝亀六年の夏六月十六日のことである。
突如として、天空いっぱいに黒雲が奔(はし)りだしたかとみるまに、あたり一面すさまじい暴風雨となった。盆をひっくり返したような豪雨が大地をたたき、やがて上流から山の木々をなぎ倒した濁流が海辺へ押し寄せ、河口から港は、たちまち大水で氾濫した。
その時である。欲深い親方は、こともあろうに馬養、祖父麿の二人に、流木を取ってこい、と命じたのだ。親方の言いつけだから仕方ない。二人はこわごわ濁流の中に入って仕事に取りかかった。
一本ずつ流木をたぐりよせて筏(いかだ)に組み、その筏に乗って、流れにさからって岸をめざす。が、さかまく濁流は、たちまちにして縄を切り、あっ、というまに筏はばらばらになってしまった。
二人は必死に、それぞれ一本ずつの木にしがみついて、なんとか溺(おぼ)れないで済んだが、彼らが命を預けた流木は、彼らのねがいとは逆に、沖へ沖へと流されてゆくばかりである。
二人はふるえて歯の根も合わず「お釈迦様、どうか、この危難をお救いください」と、ただただ釈迦の名号を称えるだけであった。
それから五日後の夕方、祖父麿は淡路の国田野の浦に住む塩を焼く人のところに無事漂着した。また馬養もその翌日の明け方、同じ処に流れ着いたのだ。
浦の人々は、二人が漂流した事情をこもごもと聞いて、大いに同情し、そのことを淡路の国司に申し出た。国司も二人を不憫(ふびん)に思い、衣料や食べ物などを与えて身体の養生につとめさせた。
そんな善意に包まれて身体を休めているうち、祖父麿の心境に変化が生じた。
「あの酷薄非道な親方のもとに帰れば、また情け容赦なくこき使われるだけだ。それではいつまでたっても金輪際(こんりんざい)うかばれない」
と、意を決して淡路の国分寺に駆け込み、佛道修行を志したのである。
一方、馬養はふた月あと、故郷の紀伊に帰ってきた。馬養は目だけがギョロギョロしてすっかりやつれている。妻が恐る恐る言う。
「あんたは、海で溺れ死んだというので、私は毎日佛前に御飯を供えて供養し、こないだ四十九日の法要も済ませたばかりだ。それがまあ、どうしたことか、それともあんた、ひょっとして亡霊か?」
と、なかなか信じようとしない。
そこで馬養は、これまでの顛末をつぶさに話して聞かせた。
亭主の無事を、若い妻が喜んだのは言うまでもない。
それからほどなく馬養は、感じるところがあって発心(ほっしん)し、山に入って佛法修行に励むことになったという。
世の中に漂流譚(たん)は数多くあるが釈迦如来の名号(みょうごう)を称えて、命を永らえたという話も珍しい。それもこれも、二人のふだんからの信心が篤かたおかげだろうか。信心によって得る利益(りやく)は、今生でさえこのように確かなものだ。まして来世の果報(かほう)は、おして知るべしである。