ほとけさまのお話

■文殊菩薩、普賢菩薩の二脇侍(わきじ)

寅さん 観音院さんのご本尊は大日如来、そして脇侍(わきじ)が
利剣不動明王には矜謁羅(こんがら)童子と、制咤迦(せいたか)
童子、子安観音菩薩には日光菩薩さまと月光菩薩さまというように、
ほとけさまは、その左右にたいていの場合、脇侍というのを従えて
いらっしゃいますよね。

ご隠居 そうだな。阿弥陀如来は観音菩薩と勢至菩薩、薬師如来は
ふつう日光、月光両菩薩、そして釈迦如来には文殊菩薩と普賢菩薩
が、いつも脇侍として安置されているようだな。脇侍(わきじ)は
脇士とも書いて、「きょうじ」「わきだち」とも読ますようだ。

寅さん お釈迦さまの脇侍の文殊菩薩、普賢菩薩には、どんな故事
来歴や意味があるんです?

ご隠居 元来、文殊菩薩も普賢菩薩も、釈尊の直弟子というわけで
はない。
 文殊菩薩、普賢菩薩ともに久遠のはるか昔に、正覚(しょうがく)
を成就(じょうじゅ)された古い仏であるが、釈迦如来 出世度生
(しゅっせ・どしょう)のさい、その補佐として化現(けげん)さ
れてきた菩薩といわれる。
 だから両菩薩は、釈尊に片時も離れず付き従う従者という関係で
はなく、折りにふれ釈尊の説法の会座に化現して、仏教のことをい
ろいろ大衆のために説れていたわけで、この二菩薩を釈尊とセット
に脇侍にしたのは、大衆に仏教を分かりやすく教化(きょうけ)す
るのにたいへん都合がよいと考えて、後の世の人々が文殊、普賢両
菩薩を釈迦如来の脇侍として、その役目を振りあてたのではないか
と考えられているようだ。

寅さん なぜ文殊菩薩と普賢菩薩がお釈迦さまの脇侍として都合が
よいのでしょう?

ご隠居 それは文殊は根本智を象徴する菩薩であり、普賢は後得智
を象徴する菩薩だからだとされる。
 例外的に仏師によっては、迦葉(かしょう)、阿難(あなん)の
両尊者(そんじゃ)を釈尊の脇侍にしたのもあるようだが、
たいていの場合は文殊、普賢菩薩が多い。
 つまり、文殊菩薩は智性、普賢菩薩は理性を具現していて、この
理知をあわせてお持ちなのが釈迦如来だからだ。かりにこの理知を
福智という言葉に置き換えれば、文殊は智慧、普賢は福徳というこ
とになり、その智徳の最も円満しているのが、ほかならぬ釈迦如来
というわけだ。
 これを社会の一般通念からいうと、知性と倫理道徳ともいえる。
満ち足りて欠けるところのない知性と道徳を具備して、人々を救済
し、癒し、無上の尊敬を一身にあつめておられるのが釈尊であり、
その釈尊が無量劫来、難行苦行、積功累徳し、人間として生を受け
て、成道(じょうどう)作仏(さぶつ)されたのは、人々もまた自
分(釈尊)のごとくあらねばならないという一つのお手本をお示し
になったもので、そのお手本を、さらに分かりやすく我々に示すた
めに、理と智の象徴である文殊、普賢両菩薩を脇侍に、その理想的
かたちを私たちの前に呈示されている、というわけだ。

獅子と剣、象と蓮華

寅さん 文殊菩薩は獅子に乗られて、宝剣を手にしておられますが、
あれにはどういう意味があるんでしょう?
(文殊菩薩で利剣と経巻を持って おられるご尊像も多い)

ご隠居 文殊菩薩が宝剣を持っておられるのは、鋭利な智慧を表し
たもので、獅子に乗られているのも同じ意味だ。
 百獣の王である「獅子」がひとたび獅子吼(ししく)するときは、
すべての動物たちが鳴りを潜めるという。
 その獅子の凄さを、文殊菩薩の根本智にたとえたもので、仏には
獅子奮迅三昧(ししふんじんざんまい)という座法があり、これを
王三昧とも言うそうだ。
 この獅子奮迅三昧における結跏趺坐(けっかふざ・如来座、また
蓮華座)の姿には、それがたとえ、絵に描かれたものであったとし
ても、仏道修行や善事の妨げをする悪鬼も畏怖(いふ)するそうで
あるから、生身の人間の結跏趺坐ならば、どんな厄難も、ことごとく
退散してしまうという。
 学人(仏道を修行する人)が、もし、煩悩(ぼんのう)魔、
五陰魔(ごおんま)、生死魔、天魔の降伏(ごうぶく)を図るならば、
まず獅子奮迅三昧(ざんまい)に入って、文殊菩薩の智剣にあやか
るべきである、と。
 そして、この文殊の根本智でもって、その根本無明(むみょう)
を截断(さいだん)する。
 根本無明の截断をせずに、瑣末(さまつ)な他の無明をいくら
断ちえたとしても、その害の及ぼすところが大きいことを学人は
知るべきである、としている。

寅さん では、普賢菩薩が蓮華を持って(普賢菩薩は合掌されてい
る尊像も多い)、白象に乗っていらっしゃるのは?

ご隠居 普賢菩薩が手に蓮華をお持ちになっているのは、慈悲と忍
辱(にんにく=忍耐)の象徴とされている。
 蓮の花は、汚泥(おでい)のなかに生育しながら、その泥と対蹠
(たいしょてき)的に非常に美しい。
 仏菩薩が慈悲を行じて、五濁悪世(ごじょくあくせ)の衆生を
済度(さいど)される方便(ほうべん)が、さながら、
汚泥に汚染されることのない清楚な蓮の花の「観」があるからだと
される。
 黄金無垢の釈尊が五濁の衆生を憐れんで、浄飯王の太子となり、
出家苦行、成道作仏、説法涅槃(ねはん)されたのは、これぞ
まさしく柁泥滞水(だでいたいすい)慈悲落草の様子であると昔から
いわれている。

*柁泥滞水(だでいたいすい、柁の字は「手偏」です。)
 水におぼれる人(私たち衆生)を救うために、自ら水中に
 身を 投じ、泥を侘(ひ)き、水を帯びる行為をいう。
 自らが水中の泥(現実の世)をかぶり、助けること。
 仏法を 体得した人が、相手の水準まで降りてきて、親切に
 指導教示すること。

 それはさておき、普賢菩薩と白象の関係だが、象という生き物は
強くて大きくて小さなことに動じない。それに、どこか温かで柔和
なイメージがある。
 仏の慈悲は、なにびとに対しても平等であって、ただ単に情愛に
惹(ひ)かれての片寄った凡夫の慈悲と同一ではない。
 仏がひとたび大慈悲を行じられるや、六道(ろくどう)の衆生は
ひとしくその利益にあずからないものはない。
 普賢菩薩の白象と蓮華は、仏のそういった慈悲と忍辱(にんにく)
の表相であるとされているようだ。

 釈迦三尊にかぎらず、三尊像は文字通り三体によって構成されて
いるが別々のものではなく、三体同体だとされる。
 けだし、仏教においてセットで三尊を安置して礼拝するのは、
それをお手本に、釈尊に近づきなさい、という意味だから、
私たちもそれをよく見習って、知性と道徳を兼ね備えて、慈悲深い
倫理観の高い人になろうと努めることが大事だな。その努力を怠る
者は、あまり褒められた信者とは言えないのではないだろうか。

 心弱った時、悩みある時に、仏に向き会い、反省・懺悔(さんげ)
し、自分をみつめなおす機会をもちつつ、導かれて、過ち少なき道
を歩みたいものだな。

雷の祝福を得て生まれた人の話     「日本霊異記」より

 昔、敏達天皇(びだつ・在位572年~585年)の御世、
尾張の国に一人の農夫が住んでいた。
 その日も、農作業に精を出して、田に水を引いていたところ、
雨がにわかに降ってきた。木陰に駆け込んだ農夫が鋤(すき)に
もたれかけ、天を仰いで雨宿りしているとそのとき、突然、頭の
真上で地を轟(とどろ)かすような物凄い雷鳴がした。
 肝を潰した農夫はおもわず地面にしゃがみこんでしまった。

 こわごわ顔を上げてみると、農夫の目の前に、「雷」が落ちて
いた。そして落ちた雷は、子供の姿に化して、その場に、行儀良く
かしこまっている。
 農夫は傍の鋤を拾いあげて、その子どもを追い払おうと身構えて
いると、雷の子が口をきいた。
「私を叩かないでください。そのかわりに貴方のご恩にお報いしま
すから・・」
「ふーん、お前はこの俺に一体何を、どういうふうに報いるという
のか?」と農夫が訊ねると、雷が「貴方がいま心の中でひそかにお
望みの子どもを授けて、恩返しいたしましょう。その準備として、
貴方は、まず、楠の木を材料に水槽を作って中に水を張り、そこに
竹の葉を浮かべてください」
 農夫が、雷の言ったとおりのものを作って与えると、
「あまり傍に近寄らないで」と、農夫を遠くへ ひきさがらせた。
 すると、たちまち雲や霧が湧きおこったかとおもうと、雷の子は
竹の葉に乗って、見る見るうちに昇天していった。

 こうして農夫は一人の子を得た。
 しかしその子の頭部には、蛇が二巻きし、その頭と尻尾を鉢巻き
のように後ろに垂れていた。

 雷から授かった子はすくすくと成長し、十余年が過ぎた。
 その頃、王族の一人にたいへんな力持ちがいると噂を聞いて、
子は都へ向かった。
 その噂の王(おおきみ)は大宮の東北の別邸に住んでいた。
別邸の裏手に方八尺の大きな石があったが、王はその巨石を抱えて
は投げ、抱えては投げしながら、邸の門の前まで持ってきて、
人が出入りしないように門口を閉じた。
 逐一その有様を見ていた少年は感心した。「まさに噂どおりだ」
 そこで少年は、夜ひそかに、その巨石を取って投げてみると、
王より一尺よけい遠くにとんだ。
 それを見た王は、十分に柔軟運動してから巨石を投げたが、
少年以上に投げることができない。
 続いてまた少年が石を投げると、王よりさらに二尺ばかり前方
へ落ちた。悔しがった王はふたたび石を投じたが、少年が投げる
距離にどうしても届かなかった。
 とうとう腹を立てた王は、こうなれば、少年を捕らえて、ひとつ
懲(こ)らしめてやろうと、両手をひろげて掴みかかったが、少年
はすばしこく逃がれる。
 王は、少年が邸の垣根の間をかいくぐって逃げていくのを、大男
の王は垣根をまたいで追いかけるが、機敏で小柄な少年の逃げ足が
速く、どうしても捕まえることができない。
 そこで、世にも稀な少年の力量のほどに、つくづく感じ入った王
は少年を追うのをやめて邸の奥へ消えていったのであった。

 そんなことがあった後、少年は法興寺(飛鳥寺ともいう。崇峻天
皇元年{588年}蘇我馬子の開基)で雑用をする童子となった。
 その頃、その寺の鐘堂の童子たちが何者かによって夜毎に死ぬこ
とがあった。

 それを聞いた少年は、
「私は、その魔物を捕らえて殺し、いまわしい災難を断ちたいと
思いますが、いかがでしょう」と、衆僧に申し出て、それを許され
た。
 そこで少年は、鐘堂の四隅にそれぞれ灯火を置いて、あらかじめ
待伏せする四人の者に「私が魔物に飛びかかるのを合図に、皆さん
は灯火の覆いを一斉に取っ払ってください」と言い含め、堂の入口
にしゃがんで魔物を待った。
 真夜中、大きな鬼が現れ、しばらくして立ち去った。
 なお待っていると、明け方近くなってまた鬼が現れた。
 行く手を阻み、少年が鬼の頭髪をつかんで引っ張ると、首を振っ
て鬼が逃れようとする。
 待機していた四人は、その争いにすっかり動転し、灯火の覆いを
取り除く事前の打ち合わせを忘れて、ただ おろおろするばかり。
仕方なく、鬼を引きずって少年が、四隅の灯火の覆いを順々に
みずからの手で取っ払っていった。

 こうして夜明けを迎えて、鬼は頭髪をすべて引きはがされ、ほう
ほうの態で逃げていった。
 朝となり、逃げた鬼の血の跡をたどってゆくと、そこは、罪を
犯して死んだその寺の奴婢を埋めてある街のはずれであった。
 つまり、恐ろしい鬼の正体は、雑用ながら仏に仕える身であり
ながら十悪を犯した、そういう悪しき人たちの霊鬼だったのである。
 ちなみに、その鬼の頭髪は今も法興寺に収められているという。

 さて、少年はそのあとも優婆塞(うばそく・在家の男が三宝に
帰依して半僧半俗になること)となり、なおも法興寺に住んだ。

 寺は寺田を有して、田んぼに水を引いて稲をつくっていたが、
仏教にとかく反感を抱いている諸王豪族たちは、何かにつけて耕作
を妨げ、寺への嫌がらせに、田に水を引くのを妨害したので、寺の
田んぼが干上がってしまった。
 そこで少年は衆僧に申し出た。「私が田に水を引きましょう」
 少年は、十数人がかりでやっと担えるような長大な鋤(すき)を
こしらえ、それを一人で肩にかついで水門まで歩いて行って、その
鋤を高々と水口に突き立てて、法興寺の寺田(じでん)に水を引き
入れた。
 それを見た諸王たちは、すぐさま、人数を繰りだして、その鋤を
引き抜き、またもや水門を塞いでしまった。
 すると少年は、今度は百人がかりで引くのに骨が折れるような
大きな石を一人で運んできて、塞いである水門をこわして水を引いた。
 それを見た諸王豪族たちは、少年の底知れぬ強力(ごうりき)に
恐れをなして、それ以後、一切手出ししなくなった。

 それからは寺の田んぼは干上がることもなく、秋の収穫が上がっ
たので、寺の衆僧は、少年を得度(とくど)させ、彼を道場法師と
呼ぶようになった。
 後の世の人の伝えていわく、法興寺の道場法師、強き力 あまた
有り、というのはこのことである。

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