もう一つの三界(さんがい)
寅さん のっけから不祝儀の話で申し訳ありませんが、葬式のとき仏式では読経(どきょう)のほかに引導(いんどう)という儀式がありますが、あの引導にはどんな意義があり、またどれほどの仏果(ぶっか)が得られるものなんでしょうか?
ご隠居 引導というのは葬式などで、僧が死者のさとりをひらいてその霊を浄土に導くために唱える法語のことをいうが・・しかしなぜ、そんなことを聞く?
寅さん ほどほどに信仰心をそなえていた人ならべつでしょうが、かりに、生前その人が罪業(ざいごう)の因を多くつくって、十善戒はおろか、仏などあたまから信じない、といったたちの人間だったとすると、死んでしまったあと、いくら葬式とはいえ、生前その人とはまったく無縁だった読経を聞き、引導を渡されて、はたして当人は首尾よくあの世に旅立つことができるのでしょうか。それじゃまるで泥棒を捕まえて縄をなうようなもので、そこのところがよく分からない。
これが反対に、生前仏法を厚く信心し、日頃から十善に一生懸命努めようとしていた奇特な人なら話はまたべつですが、そしてまたそういった人であったとしたら、お経や死後の引導をあえて受けなくても、すんなりほとけさまのもとへ行けるんじゃないかという気がするんです。だから読経はともかく引導というのは、どうも遺族側の気休めではないかという気がしてならないわけです。
ご隠居 まず最初にはっきりことわっておくが、葬式のときの読経引導というのは、施主側の気休めとか、または決まりきった単なる儀式といった性質の浅薄なものではないということを言っておく。
なるほど今寅さんが言うように多くの人の引導に対する認識は、昨今のパターン化した葬式のなかでのちょっとしたセレモニーぐらいに軽く考えられていても仕方ないかもしれないな。というのも、私たちの日常のなかにおける仏教とか、信仰心といったものの占める比重や価値がだんだん尻すぼみに低下してきている。
これはふつうの寺院と檀家のつながりと交流の度合いからしてもそうであるように、両者の関係はそこにはいろんな要因があるにしても、現代は希薄になりつつあることはまちがいないだろう。
まず、よほどのことでもないかぎり、つまり墓参りや回忌法事、葬式でもないと寺に足をはこばない。つまりお寺と疎遠であったとしても、一般の人たちはふだんの生活に何の支障も痛痒も感じることが無いからだろう。
だからふつうの寺と檀家のこんにちの関係は、よんどころない事情で、僧侶に読経、引導を依頼する以外にほとんど没交渉で、親が死んでも檀那寺も墓地も、宗派も知らないということもあるらしく、冷めた関係といってもよいのではないだろうか。
話の途中ですがちょっと待ってください。たしかに法事とか、不祝儀以外には檀家とほとんど交渉をもたないお寺の多いのも事実でしょうが、広島の観音院さんは、そういったお寺とは全然ちがいますよ。
観音院さんは活気があり、ふつうのお寺とは、寺のあり方とか考え方においてずいぶん開きがあるように思いますが・・。
ご隠居 全く、そのとおりだな。 観音院さんの場合はご存じのように、一年中休むことなく法要を営みつづけているお寺だから、どちらかといえば、亡くなった人に対してというよりも、むしろいま生きている皆さんの幸せとか、慈悲や供養心の育成とか、安心立命(あんじん・りつめい)にほうにより一層力をそそいでおいでになるような印象が強いように感じられるな。
お参りの皆さんも家族の幸せを願われたり、自分の目標の願掛けなどお祈りされているようだ。
また、毎月のように参詣して、より善く生きるために、心安らかになり、善い人間関係をはぐくみ、過ち少ない人生を送りたいと願う人も多いようだ。
また観音院さんの僧侶養成講座には、全国各地から、志の高い、老若男女の皆さんが在家僧侶として家庭や仕事を大事にしてその上で修行に来られておられるな。頭の下がるような有り難い思いだ。
東京道場と広島観音院の本堂の法要が同時中継されて、ご祈念も篤いものがある。
「お寺はあの世を照らすこの世の光のみなもと」であると、お寺じたいの存在意義を、どなたか言われているように、観音院さんはまさしく、その寺院がつくすべき義務と役割を見事に実践しようとされているお寺、お参りの皆さんも生前から仏の教えにふれていると言っても決して過言ではないだろう。
父王を引導された仏
ご隠居 さて、読経、引導の法には二つの意義があるといわれる。
その一つは「報恩謝徳」のため、いま一つは、「追恩修福」のためであるという。
恩を知って、その恩に報いるのは、人の履みおこわねばならない道である。
だから涅槃経(ねはんぎょう)に「恩を知る者は大悲(だいひ)の本、恩を知らざる者は畜生より甚だし・・」とある。
釈迦如来の父、浄飯大王はその生前、如来の説法を聞いて阿羅漢果(あらかんか・煩悩を断ち切って悟りを得、功徳を得ることのできる資格者)を得られた人であったが、その死去のさい、父王の恩に報いようとお釈迦さまみずから王の柩(ひつぎ)を肩に担おうとされたとき、四天王(してんのう)がすかさず人間に姿を変え、釈尊に代わってその棺をかついだという。そこで釈尊は香炉を執って父王の亡骸(なきがら)を墓所へと引導された。
そしてそのとき、お釈迦さまは、亡き父・浄飯大王の葬儀に参列した大衆(だいしゅ)を前にして、無常の道理を懇々とお説きになったといわれている。
ただしこの場面で注目しなければならない点がある。それは釈尊が父王の柩に向かって読経されたということはどこにも書かれていないという事実だ。
そしてまた、お釈迦さまの姨母(おば・母の姉妹)にあたる大愛道比丘尼(びくに)の葬儀のさいにも、仏みずから香炉をささげて引導されたと「大智度論(だいちどろん)」に書かれている。
仏は三界、四生の大導師であるばかりか、いってみれば、きわめて私的な些事(さじ)にすぎない父や叔母の葬儀にも引導や焼香をされている。
つまり、その身はたとえ出家であっても、父母や親族の死に際して、その葬儀を執り行うのは何ら差し支えなく、出家の本分を逸脱したことにならない。
まして仏弟子、仏信徒たるものが、父母や恩師の深い恩を報じるために、その葬儀を立派に、かつ厳粛に営みあげることは仏の教えであり、もっとも意にかなうはずである。
そんなわけだから我々は父母の葬儀はもちろんのこと、親類縁者友人知己の喪(も)に対しても、丁重に、真心でもって礼をつくさなければならない。それが人間たるものの本分であって、その至誠
(しせい)は死者の不滅の魂に、そして、天に通じて虚しからず、といわれている。
寅さん
秘密の真言、加持力
ご隠居 また、追思修福のために読経、引導の法をおこなうことについては、「毘那耶律(びなやりつ)」のなかに次のように書かれている。
「葬送の必芻(ひしゅ・僧侶のこと。風の吹くままになびく柔らかなインドの草、それが転じて、ものにこだわらない出家の僧にたとえる)、能くする者(この場合はおそらく読経の上手なものをいう)をして、無常経ならびに伽陀(かた)・諷誦(ふじゅ)という詩のごときものを、妙音声を発して語尾ながく唱える)を誦し、それがために咒願(しゅがん・廻向のこと)せしむべし」と。
ちかごろの葬儀は、各宗派によって儀式の内容や進め方に多少異なったところがあるようだけど、そこで執り行う経文、陀羅尼、称名といったものは、毘那耶律などすべて律部よりその作法を採ったものだといわれている。
それらの作法と供養とによって死者の罪を滅し、福を得る等のことが、盂蘭盆経、大盆経、優婆塞戒(うばそくかい)経、正法念経、往生経、潅頂経、梵網経(ぼんもうきょう)などに詳しく示されている。
「七世の父母、七十二劫生死の罪を超過す」と、大盆経が説いているように、そうだとすれば、読経廻向の功徳によって、死者の中有(ちゅうう)の神識が天上界に生じたり、あるいはまた十方の浄土に生じたりもするのだろう。
寅さん その中有の神識というのは何のことです?
ご隠居 中有というのは、この世からあの世、つまり冥土へ行く途中の世界のことで、人の死後四十九日間(七日七日)は、死者の魂がその世界をさまよっているとされることをいう。
法力の不可思議さは、我々のような凡智をもって推しはかるべきものでないのはもとより、たとえ聖智といえども測ることのできないものがあるとされている。この不可思議さを「妙」といい、また秘密ともいう。
したがって秘密の真言秘密の加持力の効験はものすごくその玄妙な力によって、生きている者の悪業を転じたり、死者の重罪までも転じることが不可能ではないとされている。
読経、引導で転迷開悟
ご隠居 これまでの話を病気にたとえれば次のようになるだろう。
日頃から健康に留意して摂生に努めていれば病気も避けて通るだろうが、反対に、毎日やりたい放題の不養生の明け暮れを繰り返していると、やがては病気になってしまう。あげくに病院へ駆け込みなんとかしてください、とお医者さんの手を煩わし、厄介になることとなる。
ほとけさまは現世とあの世、そして三世(過去、現在、未来)にわたり、久遠のいのちを生きつづけ我々をおみちびきになる。そして顕幽(けんゆう)二界の迷える我々衆生のために、良医も及ばぬ神術妙手の治療を施しつづけておいでになっている。
その意味において葬儀を執行する僧侶もまた仏と同等であると。
なぜなら、僧侶はお釈迦さまから神術を伝授された仏の直弟子であるから、その読経、引導の仏力でもって、中有にさまよう死者の魂を救済する、遺族をも仏道に導くすぐれた妙訣と能力を兼ね備えているというわけだ。
その妙訣なるものは、過去、未来、現在をたなごころを見るように透視できるという大慧眼(だいえげん)、大法眼を具えておいでの釈迦牟尼佛の神力不思議の仏法であって、その仏の教えを忠実に実践し受け継いだ者たちが、これを行なうときはその効験(こうけん)があったとしても不思議ではあるまい。
また、その効験がなくして、どうして、仏法がこんにち存在する理由があろうか。
葬儀において誠を尽くして念ずる導師の読経、引導は一念十念の間に死者をして転迷(てんめい)開悟(かいご)せしめる妙果があるのであって、施主、遺族の見栄や気休めでもなければ、形式化されたセレモニーの中の一断片などといった薄っぺらなものでは断じてない、ということだな。
そして寅さんが最初に言ったように、生前から仏法を厚く信心しいつも十善を心掛けていたような人であったら、そんな人には読経も引導も不要なのではないか、という話だったけれど、生前に己が心性の活仏を拝していたような人は、たしかに死後の引導を受ける必要はないかもしれない。それでもなおその上に引導を受けるわけだから、そういう人はさぞかし素晴らしいところへ行くことになるんだろうな。
できることなら生前に得度受戒して十善戒を誓い、仏弟子としての慈悲深い生涯を送り、家庭や仕事を大切にしつつ、善き社会となす努力をして、共に浄土に向かわせて頂きたいものだ。
殺伐とした現代社会のなかで、今を生きるすべての人の心が、こういった善意の人間であってほしいと心底ねがわずにいられないが、そうはいっても朝に夕にほとけさまを拝んでお経を読み、十善戒の遵守に努めているような人間が、いまの日本にはたしてどれほど居るというのだろうか。観音院さんとのご縁で、そうした人が少しずつ増えてほしいものだ。
懺悔(さんげ)
ご隠居 それ世の人々の苦しみを見るに、自らなせる悪しき行いの報いにあらざるなし、あくことなき貪りの心、抑え難き怒り、まことの判断を忘れる愚痴、この誤れる欲望によって身と口と意とのうえに、量り難き大くの過ちを犯す。
われら懺悔す、財産を増さんとして手段を選ばず、多くの人に怨まれて、しかも施すに惜しみ多し。
あきらかに奪い、あるいは密かに盗る他人の財、富みたる人に寄り貧しきものを避ける。
善き人に従わずして痴かなるものを友とし、うわべよき人を慕いてその人の心を見ず。勝れたる人を嫉妬し、劣れる人を卑すんで満足する。
ことさらに殺し、誤って殺す有情の命。価値あるものを損いて、汗して創る努めをなさず。
自ら欲望のおもむくままに狂いあがりて行動し、人を誑(たぶら)かし、わが心いつわり、まことの道遠く 空しく日を過ごす。
心にまかせて 身を持ちくずし、善き種を蒔かず、怠りて励むことなく、遊び戯れて空しき言葉をつぶやき、みほとけの厭(いと)いたまうところを 慙(は)じず、いたずらに年を送る。
ああ、われ、いま古き昔より造り重ねし多くの悪しき営みを、尽く懺悔す、悪と知りつつ犯したる罪、悪と知らずに犯したる罪、そのすべてを包みかくすことなく、一切を照覧(しょうらん)したまうみほとけに皆懺悔(さんげ)す。
犯すところの是の如き多くの罪、願わくは、みほとけの慈悲をたれたまい尽く消え去らんことを。
われ、これよりのち、決して悪をなさず、ひたすら 善きつとめに励み、まことの道を歩むことを誓うものなり。
観音院常用教典「まことの道」(十五ページをご参照ください).