涅槃・少欲は涅槃

涅槃(ねはん)
寅さん  きょうは涅槃についてご隠居にお伺いします。
 涅槃(ねはん)という言葉の意味ですが、一般的にいって、この言葉をみんな分かっているようでいて、じつはよく分かっていないんじゃないかと思うんですが、ほんとうのところ、涅槃というのは何なのでしょう?
ご隠居  涅槃のほんとうの意味か。
 たしかに涅槃の安楽を得るとか得させるとか、涅槃はそんな使われ方をされることが多いようだな。
 仏教の修行には、三学(さんがく・戒定慧・かいじょうえ)、六度(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六)、三十七品(ほん)の行法、八万四千の法門がある、といわれるが、究極の目標はあくまでも、涅槃というところの境界(きょうがい)にゆきつくことである、とされている。
 つまり、生死(しょうじ)の因果を離れ、すべての煩悩を滅し、如来の法身に帰一(きいつ)するという、仏教の理想とする境地が、つまり「涅槃」だ。
 ところが一般に、涅槃というと、すぐ人の死を連想して、誰それさんがお亡くなりになったというように、早合点している人が大半のようだ。
 どうしてそんな解釈をするようになったかというと、お釈迦さまが入滅(にゅうめつ)された陰暦二月十五日におこなわれる法会を涅槃会(ねはんえ・真言宗では常楽会ともいわれる)といい、寅さんも、たびたび見たことのある「釈尊涅槃図」などから、なるほど涅槃というのは、死ぬことを意味するものなのかと、早呑み込みするむきが多いのではなかろうか。
 実は、かくいう私も恥ずかしながら、これまでそう思っていた。
寅さん  へえ、ご隠居も、あまり偉そうな口はきけませんね。
ご隠居  うん、そういう道理をこまかに説いて聴かせてくれる人が身近にいなかったし、またこちらから積極的に聞こうという気もなかったからだ。これまではそれでよかったけれど、これからは心をいれかえて、分かぬ点があれば進んで調べたり、人に聞くことにしようと思っている。
 いやしくも仏教を信奉(しんぽう)するほどの者なら、出家在家にかかわりなく、各自が安心立命(あんじん・りゅうめい)とするところの帰着も知らないようなことでは、ほとけさまに対してだいいち申し訳ないではないか。
 涅槃というのは、ことほど左様に、仏教徒が信仰によって、心を安らかに保つ境界(きょうがい)というわけだな。
 これを詳しくいうと大乗の涅槃、小乗の涅槃などの区別があって、なかなかひとくちに論じることができないので、簡単に説明する。
 涅槃というのは、もちろん梵語の音読みで、ニルバーナ、漢字に翻訳すると大滅度とも安楽とも寂静(じゃくじょう)とも、寂滅とも、不生不滅(ふしょうふめつ)とも、到彼岸(とうひがん)ともいわれる。
 大滅度(だいめつど)というのは、われわれの心の本体を真如というが、その真如が、無明の雲に覆われて、真っ暗闇になっている状態を垢(あか)の凡夫という。つまり貪瞋痴(とんじんち)などの三毒に本心をくらまされ、智慧の光りを失っているわけだ。
 われわれは、生より死に至るまで、身も心も、がんじがらめにこの三毒にまつわりつかれている。これを流転生死(るてん・しょうじ)という。
 そして生死の大患は、三毒煩悩であり、この三毒を退治するのが仏法の役割であり効用である。
 すなわち死をおそれ、生きることに執着する極度な生への煩悩、これ以上に大きな煩悩はないので、この厄介きわまる三毒を滅して、俗に言われる三途の川を渡り越す(度)という意味で大滅度である、というわけだ。
少欲は涅槃につながる
ご隠居  つぎに円寂というのは、円満寂静(えんまん・じゃくじょう)ということで、無明煩悩の雲が晴れて、真如(しんにょ)の明月が皓々(こうこう)と、あたかも十五夜の月のように端正で、円満なさまをいう。あるいは一天さやかに晴れわたり、風の音、水の音もすっかりうち絶えて、寂々寥々(じゃくじゃくりょうりょう)たる秋のような妙なる風情が、涅槃の境界も、またそのようであろうと想像されるので、円寂といったのではないだろうか。
 また安楽といった意味は、凡夫が三毒の煩悩に使役されることほど辛く苦しいことはない。その三毒を滅して心を平穏にたもてるならば、どれほど気持ちが救われることか。ゆえに安楽といったのだ。
 また寂静というのは、心の中にたち騒ぐ三毒がなくなれば、本有(ほんぬ)常住の月輪皓々とした清浄な気持ちになるので、それを寂静といった。
 つぎの寂滅もそうで、一切の煩悩、無明が滅して心地が湛念寂静、つまり心が深く澄んで露ほどの妄念妄慮がないということだ。
 また不生不滅というのは、真如実相常住不変の仏性は、有為転変生滅去来にわたらずして、三世不改なるものであるが故に、そのようにいったのだそうだ。
 そして到彼岸といったのは単なる比喩だな。生死を分かつこちらの岸より、煩悩の濁流を渡りきり向こう岸へ到着する状態を、そのように表現したのだ。
 こうしてみると、涅槃というものはいかにも遠くのほうにあるように感じられるけど、決してそうではない。涅槃はわれわれの方寸の間(すぐそば)にあるものであると仏法は説く。
 では、その涅槃がどのくらいの近さにあるのかといっても、仏教でいうところの衆生本具の妙心なるものは深遠微妙なものだけに、距離を計測して答えを出すようなわけにはいかない。
 仏教の説く涅槃の意味合いは、おおむねそのようなものであって、釈迦如来が大悟なさった本心本性は、この涅槃妙心であった、といわれている。
 そしてわれわれは、凡夫といえども皆この妙心を具えているわけだけれども、残念なことに貪欲と瞋恚、愚痴などのために折角の妙心が損傷して、いま一歩のところで涅槃を得ることができないでいる。
 ではどうすればよいか。それは己が欲望をできるだけ抑えて、その小欲を行(ぎょう)じ、小欲を学び修めるものは、ついにこの涅槃妙心を得るにいたる、という。「小欲有るものは即ち涅槃あり」という教えがそうだ。
 このように小欲の功徳(くどく)はじつに広大無辺なもののようだから、私も寅さんもともどもこの功徳にあやかって涅槃寂静の佳境(かきょう)に入り、お互いよい信心をしたいものだな。
三界について
ご隠居  「三界唯一心 心外無別法心仏及衆生 是三無差別」ということがいわれている。
寅さん  何です、それは?
ご隠居  三界はただ一心なり、心の外に別の法なし。そして心と仏と衆生、この三つは差別なし。
 つまり、この三界は、ただわれわれの心の中にあるにすぎない。しかし、未だ迷夢の醒めない者は、己と仏とその他の人々を別々のものと思い、三界は厳然として存在すると思っている、というのだな。
寅さん  この場合の三界の意味はどう考えたらいいんでしょう?
ご隠居  過去現在未来を含めた三千世界、この世と考えればよいだろう。
 「心光すでに失するもの、これを黒闇の衆生という。この衆生の住する所は処として黒闇ならざるはなし。此の黒闇を名づけて三界ともいう。衆生もし、心中の黒闇を除いて心地の光明をあらわすときは、三界は三界にあらざるなり云々・・・」
 寅さんは、これをどのように解釈する? この文章を読んでもまだ、それでも三界(この世)はあるではないかと思うのは、まったく迷夢が醒めていない証拠だな。
寅さん  へえ、私はまだ夢の中にいるというわけですか。
ご隠居  三界が見えるか見えないかは、修と不修、悟と不悟いかんによるとされる。そして今われわれがいかなる領域にいるかといえば、やはり三界のうちより抜け出していないし、むしろこの三界に束縛されるのを私たちは望んでいるようだ。
 もし仏陀の知見をもってすれば三界の中に居るといえども、三界衆生の如くに三界を見たまわず、といったことが、法華経寿量品に書かれている。
 また楞厳経には「三界は空華のごとし」と説かれている。そして円覚経には「空実に華なし。病者の妄(みだ)りに見るのみ」と。
 ほんらい空に花などあるはずがないが、高熱にうかされる病人の目には、瞼のうらに大輪の花のようなものが見えることがある。けれど健康な人であれば決してそんなものは見えはしない。
 仏陀は心に一点のかげりも病患もないから、空華のごとき三界をご覧になることはないが、われわれは心にいろんな病患をかかえているので、空華のごとき三界を実際に存在する世界と思っている。
 このように我々には、十方世界ことごとく三界であるが、仏陀からすれば尽十方(じんじっぽう)、尽虚空界(じこくうかい)にいたるすべてが荘厳浄土であるという。
 仏は衆生を愍(あわ)れんで、三界は、さながら火宅の如し、とお説きになった。
 火が四方から燃え広がっているごとき家に居るとも知らないで、無邪気にその中で遊びたわむれている。そんな私たちを愍れみ、汝ら、早くその家から逃れ出よ、と教え諭されている。
 その火とはすなわち三毒の煩悩のことで、三毒を滅すれば三界の観念から脱出できる、と教えておられるわけだ。
 では、我々のこの三界の執着をどのようにして断ち切るかというと、三界を空華(くうげ)と見、夢まぼろしのごときものと観ずればよいとする。夢幻空華のような三界のなかの、生死(しょうじ)というものがもつ意義は、はたして何なのであろうか・・・。
 その根本をつきつめて考えてみるとき、すべてはこれ唯心所現のものと知ることができる、といわれている。
三界唯心(さんがいゆいしん)
寅さん  その唯心所現(ゆいしんしょげん)というのは文字通り、ただ心の現すところと考えていいんですか?
ご隠居  それでよい。だいたいに心というものは、画家が自分の好きな絵を自由奔放に描くようなものであって、見るからにありがたい仏様を描くかとおもうと、一転して怖い鬼までも描きかねない、そんなあやふやな性質を内包しているのが心というものの本質だ。
 心は、三界のあらゆる有形無形の法(存在)を、何の懐疑も、ためらいもなく、無条件に受け入れてしまうが、しかし、その現前の三界は虚妄であり、夢幻空華でしかない。
 夢幻空華の三界は、その人にとってはどうみても有るように見えるけれど、実際は、ほんらい、無なるものであると説かれている。
 大乗起信論に、「三界は虚偽にして唯心の所作なり。心を離れてはすなわち六塵(ろくじん)の境界無し。乃至(ないし)、心生ずれば、すなわち種々の法(存在)生じ、心滅すればすなわち種々の法滅す」と。
寅さん  六塵というのは何です?
ご隠居  六塵(ろくじん)とは、色(しき)、声(しょう)、香、味、触(そく)、法、のことで、それに対応して、それらを感じ取る感覚器官が、眼、耳、鼻、舌、身、意(心)の六つで、つまり、六根(ろっこん)だな。
 この六根は元来清浄(しょうじょう)なものなのだが、人が迷いを生じる根源でもある。
 貪瞋痴の三毒に汚染感化された六根は、ことごとく塵垢(じんく・煩悩)にまみれている。そんな塵垢まみれの六根で、この三界を見るために、それは虚偽であり、心生(六根に欲望が生じること)ずれば、その欲望の対象が現実にそこに有るように感じるし、心滅すれば、すなわち無でしかない、というわけだ。

 昔、唐の時代に、朝鮮の新羅国の元暁法師(げんぎょう・がんぎょう 617-86、華厳宗の学僧、仏教学者 元暁大師)は、仏法を諸方の善知識に教えを請おうとして旅に出た。
 ある日のこと、荒涼とした原野を歩くうちに日が暮れたので、しかたなくそのまま曠野で野宿することにした。
 夜更けてふと目覚めると非常にのどが渇いているので、法師が水を求めてあたりをあちこち探すと土中の小さな穴に清らかな湧泉があった。手に掬って一口飲んでみると、たいへん美味しい。夢中になって腹一杯水を飲んで、法師はこころよく、また眠りに就いた。
 やがて夜がしらじらと明けて、目を覚ました法師が水を飲んだゆんべの穴を見ると、どうしたことか、それは髑髏(されこうべ)の中に溜まっていた雨水であった。
 元暁法師嘆じていわく、「心生ずれば即ち種々の法生じ、心滅すれば即ち髑髏不二(ふに)。仏の曰(いわ)く、三界唯心」と、、、このような逸話が言い伝えられているそうな。

 要するにこれは、心がすでに妄であるがゆえに、外界もまた、妄でしかない、ということを示した挿話であって、この妄心妄境を具えているからこそ、われわれはこの三界の観念からどうしても抜けきれないのであろう。
 けれども、その三界は、すべてただ心のうちから現じるものであって、唯心をのぞいてほかに三界というものは存在しない。だから三界唯一心、心外無別法であるぞと説かれている、とまあこういうわけだな。

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