■お釈迦さま十の異称■
ご隠居 お釈迦さまの本名は、寅さんも知っているように釈迦牟尼
(しゃかむに)だけど、ほかにもたくさん異名を持っておられるこ
とを知っているかな?。
寅さん 釈尊、世尊—-。
ご隠居 うん、それは異名というよりも、お釈迦さまの尊称とか、
敬称というべきだな。お釈迦さまの異名は、ふだん私たちが使う
あだ名とは少しばかりちがい、その異称はすべて、お釈迦さまの
智慧や徳相を表現しているとされている。
これを「仏陀十号の異称」という。
お釈迦さまの第一の異称を「如来(にょらい)」という。
釈尊の本覚(悟り)を「如」と名づけ、始覚(智慧)を「来」と
名づけ、この本覚、始覚は二つとなく尊いものであるということを
讃えて如来と申し上げる。
「如」というのは如常(にょじょう・これまでも、これからも、
まったくかわることのない、ありのままのすがた)といった意味で、
その不変不異であることを真如仏性(ぶっしょう)の妙理という。
そして「来」というのは、現れ来るという意味で、釈尊がまだ、
菩薩として修行されていたとき、衆生を教化(きょうけ)するため
にお立てになった永遠の誓いを果たそうと、南閻浮提(なんえんぶ
だい・人間の世界)の菩提樹(ぼだいじゅ)の下に座し、はじめて
無上の正覚(しょうがく)を成就(じょうじゅ)されたことをいう。
つまり一切衆生(しゅじょう)は本覚(本来の妙理を悟り知るこ
と)の種子は持ち合わせているものの始覚が欠如している。お釈迦
さまは本覚の理によって、始覚の智をあらわされた、というわけだ。
また、仏には法報応の三身があり、おなじ如来と申しながら法身
(ほっしん)の如来、報身(ほうじん)の如来、応身(おうじん)
の如来がおいでになる。
いわゆる法身の如来とは、金剛経にいわく「従来する(よって来
たる)所なく、また去る所なし。故に如来と名づく」とあるごとく、
これは本覚の理体に約したものだ。
報身の如来とは、転法輪(てんぽうりん)論にいわく「第一義諦
(ぎたい)を如と名づけ、正覚を来と名づく」とあり、これは始覚
の智慧に約したもの。
そして応身の如来とは、成実論(じょうじつろん)に「如実の道
に乗じ来たって正覚を成(じょう)ずるが故に、如来と名づく」と
あり、これはその徳相に約したものとされる。
この法・報・応の如来三身ははたして同じなのか別なのか、差別
(しゃべつ)すれば別々のようだけれど、つまりは三身一体である
ということで、お釈迦さまはこの三身を、おひとりで、同時に、
具(そな)えていらっしゃるというわけだ。
■不生不滅の法身大日如来■
寅さん 話の腰を折るようですが、すると、永遠の法身とされる大日
如来の立場はどうなりますんで?
ご隠居 心配しなさんな。大日如来はあくまでも、私たちにとって
永遠の法身であることにかわりはない。
たしかに、法身というのは永遠不滅な仏だけど、その永遠不滅の
仏が、時間的、空間的な相においてお顕れになるのが報身であり、
応身であるわけだ。
つまり不生不滅な法身は、なにもしないで、ただ不生不滅な法身
としてじいっととどまっているわけではない。時として応身となり、
報身となって、衆生の救済に意を用いることにより、はじめて法身
なのだな。
法身は現にいま、衆生のために尽力しておいでなのだ。そのこと
なくして法身は法身でありえない。
報身、応身として、時間的、空間的にあらわれることによって、
はじめて法身は法身なのだ。報身、応身を離れて法身を考えるのは
まちがいだし、また、法身を離れて報身、応身はありえない。
このように解釈すれば大日如来と釈尊の間に何の矛盾もないはず
だろう?
寅さん そういうことになりますかね。
ご隠居 お釈迦さまの第二の異称を、応供(おうぐ)という。
応供とは天地一切衆生の供養を受ける応(べ)き徳を具えておら
れるという意味だ。仏はなぜ供養されなければならぬのか。それは
仏が、人間界のみか天上界までも、大導師として法施(ほうせ)を
されているからだ。衆生は、その恩にお報いするためにも、財施を
供養すべき義務があるとされている。
そしてそれは、ただ単に義務を果たすためのみでなく、供養した
者には無量の喜びと福徳をさずかるとされている。
このように仏は無明(むみょう)の煩悩を滅尽(めつじん)して、
法身・般若・解脱(げだつ)の三徳を円満されているので、無上の
応供と申しあげるのだな。
第三の異称は正偏知(しょうへんち・羅什法師は正偏覚と翻訳)
( 偏は、正しくは、ぎょうにべん+扁 )
という。仏は、まさにあまねく一切の法を知り尽くしておいでだか
らだ。
即(すなわち)、仏の知見(ちけん)されるところの法は寸分の
まちがいが無いから「正」といい、仏智は三世(さんぜ)を通じて
広くゆきわたり、およばぬところが無いから「偏」といい、二種の
生死 —- 分段生死 と 変易生死(へんにゃく・しょうじ)の夢か
ら覚めるので「知」、または「覚」といったのだ。
寅さん そのなんとか生死というのは、なんのことですか?
ご隠居 分段生死とは、生き物の寿命に分限があり、身体にしても
形状が異なる。すなわち六道四生(ろくどう・ししょう)の生死の
ことだ。
おなじ人間でも長命もあれば、短命もあり、持って生まれた能力
も顔かたちも人それぞれで一様ではない。すべての生き物がそうだ。
これを分段生死という。
そして変易生死とは、これは声聞(しょうもん)、縁覚(えんが
く)、菩薩(ぼさつ)の位の人にかぎられていて、因移り果易(か)
わるから変易(へんにゃく)という。
これは、どういうことかというと、声聞・縁覚・菩薩の三乗は、
三界の内の分段生死は離れたけれど、いま一歩の所にとどまってい
る。
しかし声聞、縁覚、菩薩と位が上がるにつれて、煩悩もしだいに
薄れ、菩提の智慧がだんだん明るんでくる状態を因果変易の生死と
いう。
したがって分段生死を世間の因果(いんが)、変易生死を出世間
(しゅっせけん)の因果ともまたは界内の生死、界外の生死ともい
うそうで、この界内の生死を解脱したのが声聞の位であり、界外の
生死を解脱(げだつ)したのが、菩薩の位とされている。
ここでいう界というのは三界のことであり、貪瞋痴(とんじんち)
のことで、生死というのは煩悩のことでもあるようだな。
寅さん 話の意味がどうもよく飲み込めませんが、ま、いいでしょ
う。次をどうぞ。
■仏の手綱捌(たづなさば)き■
ご隠居 第四を明行足(みょうぎょうそく)という。
宿命(しゅくめい)、天眼(てんげん)、漏尽(ろじん)を三明
(さんみょう)といい、声聞と縁覚と菩薩の三乗も、この三明を得る
とされているが、その明(めい)は、まだまだ仏の明にはほど遠い。
また、凡夫のなかにも多少の三明を所持する者がいないでもないが、
それは、言ってみれば、蛍の光ほどのはなはだ貧弱な明であって、
仏の、あの太陽のごとき三明とはもとより比べるべくもない。
そして行足(ぎょうそく)とは力強い歩み、智慧の働きが非常に
活発な意味のことだとされる。
第五に善逝(ぜんせい)という。
菩薩地持経に「第一に上昇して永く復(ま)た還(かえ)らず、
故に、善逝と名づく」とあるように、下界より上界に進んで、永劫
(えいごう)、苦界(くがい)に沈淪(ちんりん)することが
ないので、このようにいうのだそうだ。
第六を世間解(げ)という。 大論にいわく「是れは世間を知
るに名づく」とある。
世間に二種ある。一つの世間は衆生の世間、もう一つは非衆生の
世間のことで、これをまた有情世間、器世間(きせけん)ともいう。
いわゆる有情世間とは、六道四生のことであり、器世間とは天地
宇宙のことだ。
有情世間に身を置く人間の知識は、すでにかなり高度のところま
で達しているが、まだ未知なる世界がいっぱいある。
そこへゆくと、仏は宿命、天眼(てんげん)、漏尽(ろじん)の
三明でもって、十界の仕組みとか実相を隅から隅まで熟知しておい
でになる、というわけだ。
菩薩地持経にも「世間の衆生界一切種の煩悩(ぼんのう)及び、
清浄(しょうじょう)を知るを、世間解と名づく」とある。なお、
ここでの清浄とは真如実相という意味に解釈するようだ。
第七を無上士という。
大論にいわく「諸法の中には涅槃無上なるが如く、衆生の中には
仏、亦(また)無上なり」と。
地持経に「唯一の丈夫を無上士と名づく」。また大経にいわく、
「有所断の者をば有上士(うじょうし)と名づけ、無所断の者をば
無上士と名づく」とある。
有所断というのは、等覚以下の菩薩・羅漢(らかん)のことで、
彼らはまだ、断ち切るべき無明煩悩が、あながち無いとはいえない
が、仏はそれらをすでに断じつくして、断ずるところがまったくな
い、というのだ。
第八を、調御丈夫(じょうご・じょうぶ)という。
調御(師)とは、いわゆる御者(ぎょしゃ)のことで、仏法を車
にたとえると、仏弟子をはじめ一切の衆生は車を引く馬、そして仏
は御者だ。御者は手綱(たづな)をさばいて、馬を御(ぎょ)する
ように、所化(しょけ・仏教に帰依した)の衆生を正道にお導きに
なるので調御丈夫と申し上げる。
第九を天人師(てんにんし)という。さらに詳しくいうと、天人
教師というそうだ。
大論にいわく「仏は是れはまさに作(な)すべし、是れは応(ま
さ)に作すべからず。是れは善なり、是れは不善なりと示し導きた
まへば、是の人教えに随(したがって行(ぎょう)ずなり」と。
つまり仏はわれわれに、それは善いことだから大いにやりなさい。
でも、それは悪いことだから、決してしてはいけません、と、こと
あるごとに、人を教え導かれ、三界六道の大導師として、人間界は
もとより、天上界にいたるまでも済度(さいど)されていらっしゃ
るので、天人師、また天人教師と仰がれているというわけだ。
第十を仏陀(ぶっだ)と申し上げる。
大論にいわく、「過去、未来、現在の衆生、非衆生の数、有常、
無常等の一切諸法を知り、菩提樹下にして了了と覚知するが故に
仏陀と名づく」と。
また、妙楽の記には、智者とも覚者ともいう。
迷に対しては知と名づけ、愚に対しては覚、と説く、とあり、
仏地論には「一切智、一切種智を具して、煩悩障及び所知障を離れ、
一切の法、一切種の相に於いて、能(よ)く自ら開覚し、また能く
一切の有情を開覚すること睡夢の覚むるが如く、蓮華の開くが如し。
故に名づけて仏と為すと。
仏陀については、このほかに、「生死(しょうじ)の長寝は能く
自ら覚むること莫(な)きを、自ら覚して彼を覚する者は其れただ
仏のみなり」と。
この意味は、なみの人間は長い無明の眠りをむさぼって、夢のな
かの出来事に一喜一憂しているから、みずから目覚めることがない
し、また目覚めようとはしない。
みずから悟り、ありもしない他愛のない夢にうつつをぬかして惰
眠をむさぼっている人々を揺り動かして、真実の世界へ引き戻して
くださるのは、ただ仏だけであるというのだ。
そして、ここでいう覚には三つの意味がある。
その一つは自覚で、これは仏性(ぶっしょう)の真正であること
を覚り、惑煩悩の虚妄であることを了(さと)ること。
その二つは覚他、これは無縁平等の大慈悲をおよぼして、有情界
を済度(さいど)すること。
〔無縁は本来は対象の区別が無いということ、ありとあらゆるもの
を平等と観じ、絶対の慈悲はすべてを対象とされること〕
その三つは覚行円満、これは因行(いんぎょう)が満ち、果徳の
円(まど)かであるからだ、とされる。
お釈迦さまのことを、冒頭に寅さんがいったように、仏世尊とも
申し上げるが、これは、これまで述べたように、お釈迦さまが十の
異称を具えて、一切衆生の救済に努められているから、それをうや
まい仰いでいる言葉だ。
そして、この十の異称を大略すると、こうなる。
虚妄のないことを「如来」と名づけ、良福田(りょうふくでん・
仏を供養すると田が作物を生み出すように福徳が生まれること)で
あるので「応供」と名づけ、法界を知っていらっしゃるので「正偏
知」と名づけ、三明を具えたまうので「明行足」と名づけ、上界に
昇って還って来られないので「善逝」と名づけ、衆生と天地宇宙の
ことまでご存じなので「世間解」と名づけ、十地等覚の位を突き抜
けているので「無上士」と名づけ、一切衆生を正道に御するから
「調御丈夫」と名づけ、人間界、天上界の教師なので「天人師」と
名づけ、三聚(さんじゅ・邪定聚、不定聚、正定聚の三種の衆生の
こと)をお知りになっているので「仏陀」と名づける。
以上の十徳をお具えになっていらっしゃるのが世間尊、すなわち
お釈迦さまというわけだな。
十二月八日はお釈迦さまが悟りを開かれた日、「成道会(じょう
どうえ)」といわれる厳かな法要がいとなまれる。