聖者の湧出が待たれるこのごろ

法主さんが聖者と言われるような僧侶を生み出したいと願っておられます。聖者とは聖人と同じで、宗教者として奉仕、救済、祈願をなして、世間の人々から尊崇され、渇仰(かつごう)されるような僧侶の出現を、現代に待ち焦がれておられます。
 聖者は十善戒を護持する僧侶のことで、易しく説明すれば、親切するに対価を求めず、良く世間法を遵守するのは当然、嘘を吐かず、約束を違えず、人々から愛され尊敬され、かつ、求めるものは一切無く、名誉や地位を求めず就任せず、絶対に他人を拘束せず、無理を言わずなさず、来るものを拒まず、去る人を追わず、過去を語らず、無謀な計画を立てず、他人を傷付けることも無い。
 そのような人を僧侶に育成したいと「僧侶養成講座」を開設なされました。
 聖者は世間の範となるもので、家族や近所を大切にし、その範囲をだんだんと広くする人です。
 聖者は、公約を掲げません。生産もしません。幾ら立派な会社の経営者であっても利益を求める人は聖者ではありません。
 信徒を増やしたい、支持者を増やしたい、そのような立場の人は聖者には向きません。
 僧侶で寺の興隆を願うような人は、煩悩のやっこです。寺は信徒さんのものです。それを大切にしたいと願われるのも煩悩です。
 公職に立候補して四年に一度選挙の禊(みそぎ)を受けるような不安定な立場の人も聖者には不向きです。
 大衆の中に何も求めず没入して静かに日常を過ごせるような人が聖者として望ましいことです。
 最近、観音院を多くの人が出家したいと門を叩かれます。とても望ましい傾向です。
「聖者が待たれる」
 僧侶は沢山おられます。聖者は本人が自覚と御仏さまの代理ができるという観念を確信して、大衆を救済する礼拝や祈願が執行できる僧侶です。御仏さまと仏法と僧侶を三宝と言いますが、三宝の一とされるような僧侶が求めらます。