常業、煩悩即菩提

■ほとけさまでも出来ないこと、
 その一つ、定業(じょうごう)免(まぬか)るるあたわず■

 華厳経(けごんぎょう)に ——–

「一切の業障(ごっしょう)海は皆、妄想(もうそう)より生ず。
もし、人、懺悔(さんげ)せんと欲っせば、端座(たんざ)して
実相(じっそう)を観ぜよ、
 衆罪(しゅざい・衆生の犯すもろもろの罪)は、霜露の如く、
慧日(えにち)能(よ)く、消除すと、
仏は自ら、こう明言されたまう」
 とあるけれども、その仏さまをもってしても、どうにもならない
ことが三つある、とされる。

 その一つが定業(じょうごう・前世より定まっているという報い)
を免れることができないという。

(注:業は、羯磨・かつま、梵語 のカルマンの訳語で、
   ほんらい はただ単に、行為、行動の意味。人には
   身口意(しん・く・い)の三つの業があり、三業という)

 仏教には、真俗二諦(しんぞく・にたい)の法門がある。
 真諦門(しんたいもん・真実で、うそ偽りの無い道)を般若皆空と
いい、俗諦門(ぞくたいもん)を三世因果(さんぜいんが)という。

 またこの三世因果は有門(うもん)であり、般若皆空(はんにゃ
かいくう)は空門とされている。

 そして、有門より空門にはいることを「悟り」といい、空門より
有門に出ることを「教化(きょうけ)」という。

 また、有門にとどまり、右往左往している者を「凡夫」とよび、
反対に、空門のほうだけに安住するのを「二乗(声聞=しょうもん
・縁覚=えんがく)」という。
 さらに、有門から空門に入りはしたものの、その空門にのみ止住
せず、ふたたび有門にあそぶ者、これが「菩薩」とされる。

 したがって、いちがいに、空といっても、単なる空とはいえない
し、有(う)といえども、それは全くの実有ではないということに
なる。そこで、実有にあらざるが故に「色即是空」といい、単なる
空ではないから「空即是色」という、とされる。

 また華厳経にいわく、
「衆生、妄(みだ)リニ分別(ふんべつ)スルヲモッテ、仏有リ、
世界有リ。モシ真ノ法性ヲ了スレバ、仏モ無ク、世界モ無シ」

 このように、すでに真の法性を了しおえた人であるならば、仏も
世界も無であるのみならず、そもそもその当人も空であり、無であ
らねばならぬはずである。

 けれども、妙有(みょうう)の真空、その「真空の妙有」である
がゆえに、木々は緑にして、花は咲き、海や山々は変わらず厳然と
そこに存在する。
 これを眼前にして、はたして空と説くことができるであろうか。
 どうみても、そこに、それらが有るのだから、それが、空でない
証拠であり、空にあらざるが故に、定業有(じょうごうう)なので
ある、とされる。
 定業有ではあっても、業障(ごっしょう)は本来、空であると、
了達するがゆえに、仏陀(ブッダ)の境界(きょうがい)にあって
は、それらの業(ごう)のために束縛されることがない。

 仏は、業に束縛されないから、たとえ、どのような報いをお受け
になろうとも、それをもって、苦痛であるとはお感じにならない、
とされる。

白刃春風を斬るに似たり

 定業の免れがたく、剣難に遭われたある尊者の話がある。
 —— 後秦(こうしん・三八四年~四一七年・五胡十六国の一)
の僧、肇(じょう)法師は、
鳩摩羅什三蔵(くまらじゅう・さんぞう・三四四~四一三年、西域
の亀茲国の僧。法華経をはじめ多くの経論を翻訳、三論宗の開祖)
を師とし、仏法ひとすじ、心身をささげていたが、たまたま、ある
時、秦王の怒りにふれ、処刑されることになってしまった。
 肇法師は七日間の猶予を乞い、許されて、その間、
「宝蔵論」を書き上げた。

 かくして肇法師は斬刑(ざんけい)の場に臨み、次のような遺偈
(いげ)をのこした。

 四大元無主 五蘊本来空

 將頭臨白剣 猶似斬春風

 四大(地・水・火・風の元素で成り立つ人間の身体)にもとより
主は無し。したがって人間の五感もほんらい空である。まさに首を
差しのべて白刃に臨めば、さながら春風を斬るに似たり。

 肇法師のこの遺偈は、仏の「衆罪は霜露の如く、慧日、能く消除
す」と言われた言葉と、同義語である。
 そして、肇法師ほどの善知識でさえも、斬首される運命にあった
のは、それも畢竟(ひっきょう)定業(じょうごう)であると言わ
ねばならない。

 定業ではあるけれど、その場に臨んで、白刃があたかも春風を斬
るようなものだと、泰然としていられたのは、肇法師が業障のほん
らい空であることを了達しておられたからにちがいない。

 そして、その境地にまだ到達してない者は、宿業(前世でしたこ
との報い)のために苦痛を味わわなければならないのである。

 いま一つ。
 宋の祖元禅師は、村落に敵兵が押し寄せてきた時、村人すべて
逃げ去ったあと、一人寺内に残って端座していた。乱入してきた
兵士たちによって首を斬られようとしたさい、祖元禅師はすこし
も騒がず、一偈(いちげ)をのべた。

 乾坤無地卓孤筑
 喜得人空法亦空
 珍重太元三尺剣
 電光影裏斬春風

 独り杖をついて立ち天地を超越すれば人も空、また法も空なり。
 太元三尺の剣は、いなびかりの如く閃いて春風を断つ・・と。

 その偈を聞いた兵士たちは感じ入り、祖元禅師に無礼を詫びて、
引き揚げて行ったという。

 かくのごとく、因果の理(ことわり)によって人間が背負う境遇
というものは、現業(げんごう・この世のおこないによって受ける
善悪の報い)であれ、宿業であれ、もはや、どうすることもできない
もののようである。そしてそれは、ほとけさまといえども、なすすべ
が無いとされる。

 仏は一切の実相(じっそう)を空じ、一切の苦を解脱(げだつ)
しておられるが、だからといって、ご自分の悟りの境地を基準に当て
はめて、一切の実相を破壊されたりはなさらない。

 したがって、たとえ仏身といえども、それらの定業の免れること
はできないとされているのである。
 けだし不定業(ふじょうごう・まだ確定してない定業)は転化し、
しりぞけることはできるが、決定業(けつじょうごう)は転却する
ことあたわず、とされている。

無縁を度するあたわず

 仏は、よく一切衆生をみちびき徳化したまうが、無縁(むえん)
の衆生まで度(ど)したまうことあたわず、とされる。

 しからば、無縁の衆生であるがゆえに、そのまま捨ておかれるの
であろうか。ご利益(りやく)にあずかることができないのであろ
うか。
 遺教経にいわく、
「すでに度する者はすでに度し、いまだ度せざる者は、得度の因縁
を為(な)す・・」と。

 はたして、そうであるならば、たとえ、仏の無縁平等の大慈悲を
もってしても、度せられる者と、度せられざる者との差が生ずるの
は当たり前である。

 仏の慈悲光はさながら日月のごとき光りでもって、大地のことご
とくを照らすけれども、盆の底まで照らすことはできないのである

衆生界を度し尽くすこと能わず

 もし、かりに一人の衆生が成仏すれば、一人の迷者が減じる。
 この衆生界を、このようにして一人ひとり根気よく度していけば、
無量劫の末において、やがてすべての衆生をも度し尽くすことがで
きるはずだけれども、前段で述べたごとく、一仏の度したまう衆生
の数にはおよそ限度がある。したがって無縁の衆生をすべて度する
ことは不可能なのである。

(度する。「度」は「渡す」という意味、仏の教えをもって、
 苦である無常の此の岸から、悟りの彼岸に渡すこと。度脱。
 仏の世界に導き入れて救済すること、済度し解脱させること。)

 けだし衆生界は、虚空にひとしく際限のないものである。際限が
なく果てしないから、たとえ幾千万の諸仏が出世度生(しゅっせ・
どしょう)されたとしても、この衆生界に迷者が減ることがないの
である、という。

 「大乗起信論(だいじょうきしんろん)」の玄談に、この問題に
関する論議がある。
「ある人がこのことを難(憂慮する)じて、もし、もろもろの衆生
ひとしく仏性(ぶっしょう)ありて、必ずまさに仏を得べきものな
らば、衆生多しといえども、必ずまさに尽くることあるべし。

 またもし、衆生にことごとく仏性あらば、最後の菩薩をして利他
(りた)の行(ぎょう)を闕(か)かしめん。
 所化(しょけ・仏教に帰依したもの)のもろもろの衆生無きを
もっての故に、行を闕きて成仏せんこと、道理に応ぜず。

 また、諸仏、利他の功徳(くどく)をして、亦(また)すなわち
断絶せしめん。所化の機縁(きえん)を感ずる無きをもっての故に、
かくのごときの難(心配)が生ずるのであろうか?

 答う。
 その設けるところの難、並びに、妄(みだ)りに衆生界を見るに
よるが故に、妄りにこの難を起こす。
 ゆえに「不増不減経」にいわく、「大邪見の者、衆生界増すと見、
衆生界減ずと見る。実のごとく一法界を知らざるをもっての故に、
衆生界において増減の見を起こす」と。

 問う。
 もろもろの衆生ことごとく仏性(ぶっしょう)あらば、並びにま
さに解脱(げだつ)し、すなわち衆生界減ずることあらん。無仏性
の衆生、まさに世間にあるが故に増減が無いのではないか?

 答う。
 もししからば、汝は有性においてすでに減見を起こす。すなわち
仏界において必ず増見を起こさん。この増減の見は汝が執を離れず、
まさに知るべし。経の意は、一切衆生、一時に成仏するとも、仏界
増さず、衆生界減ぜざることを明かすが故なり。

 かの経(不増不減経)にいわく、衆生即ち法身(ほっしん)、法身
即ち衆生、衆生法身、同義なり。解釈して曰く、衆生界を況(きょ
う・たとえる)するに、虚空(こくう)、海のごとし。

煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)

 たとえば、一羽の鳥が空に舞い上がり、西から東をめざして飛翔
したと仮定する。
 けれども、鳥のめざす東は、百年たっても千年たって相変わらず
はるか彼方にある。
 いつまで経っても東が近くなり西が遠くなったと説くことなどで
きはしない。なぜかなら、天空に東西を分ける境界線などというも
のはないからである・・。

 玄談のこの問答はたいへん難解で、まだこのあと続いてあるが、
要するに衆生界が減じて、仏界が増すとみる見方、それは誤った
考え方だとしている。
 なんとなれば煩悩即菩提(ぼんのう・そく・ぼだい)、生死涅槃
(しょうじねはん)であるがゆえに、だという。

 煩悩が菩提(ぼだい・仏教の真髄をきわめること)となり、生死
(しょうじ)が涅槃(生死の因果を離れ、すべての煩悩を滅して、
如来の法身に帰一すること)となりえた者は、ふたたび煩悩や生死
のことで苦しむことがない、という教化(きょうけ)があるにして
も、そのことを、もう一歩すすめて、その裏面を考えてみると、
かならずしも、そうとは言えないのではないだろうか。

 もとから迷わない者ならば、いついかなる場合においても、迷い
など生ずるはずはないだろうし、あらたまって悟るということも
ないはずである。
 また、もとから悟りの境界にあるものならば、迷いを生ずるはず
がない。
 言葉を換えれば、無始(むし・限りなく遠い過去)よりの衆生で
あるならば、いつまでたっても、衆生のままであり、もし、衆生が
悟って仏になることがあるとするならば、それは有始の衆生と言わ
ねばならない。
 また有始の衆生ならば、その衆生でない以前は、仏でなければな
らない。また、衆生が変じて仏となったものならば、仏もまた常住
不変のものとはいえない。
 このようにみると、衆生も、仏も、相対的なものであり、絶対的
であるとはいえない。絶対でなく、相対的、かつ、不増不減なるを
もって、仏徳の価値をあれこれ云々すべきではない。

 仏といえども、どうしようもない不可能事があり、その不可能事
こそが、まさしく「諸法の実相」なのである、とされている。

 諸法の実相を悟ること、これを仏の知覚という。そして、諸法の
実相を知らないものを衆生という。

 仏は、定業(じょうごう)なるものを定業であると、よく承知さ
れているから、それをあえて苦とはされない。

 衆生は、定業をもって定業と知らないから、なぜこのような苦楽
があるのかと疑問を感じる。苦楽は、まさに、定業のしからしむる
ところであると知れば、疑問など起こるはずはない。

 また仏は、無縁の衆生だけは、度す(救済する)ことができない
ことをご存じであるから、みだりに法をお説きにならない。

 そしてまた、ある者に対しては、この者はまさに度すべき因縁が
あるものと、その宿因(しゅくいん)を知って度されるので、一つ
として失敗されることがない、といわれている。
 諺に、「人を見て法を説け」、とは、そのことを言ったものだ、
そうである。