法主さんは熱い食べもの冷たい食べものは全て敬遠しておられます。常温が一番宜しいと言われます。
中でも寿司屋さんの大きな湯飲みは苦手らしく、日常使われている上等のバカラのコップもオロナミンCが半分くらいしか入らぬ沖縄ガラスの色付きのものに変えられました。焼酎でも嗜まれるつもりかと思ったりもしました。
食事の際に両手の肘を食卓につかれるようになりました。お行儀を少し崩されたように思います。何でも召し上がられますが、先日の懇親会か何かで、クサヤを食べさせたいが大丈夫だろうかと、面白いですね。法主さんの好奇心は臭かろうが、見栄えが悪かろうが、全然問題なんて起きません。
クサヤを七輪で焼いて、千切りながら一杯飲みたいと、禁酒されている方とも思えないようなことを言われます。
接する人と同じ視線で交際されています。変幻自在融通無碍、まぼろしの鈴之僧正と謂われる所以です。
情を同じくされて相手の運命の転換をなされる。そのために相手の方の色を選ばれない。不思議なお方です。
どのような色に染められても、自分を失われることはありません。いいえ若しかしたら、相手以上に美しく染め上がっておられるかも知れません。
不思議な危険危機予知能力をお持ちで、周囲があれこれ口出しする必要はありません。物事が善い方向に向かって動くようです。
人の希望や願望に極めて敏感で、その成就を強く願われます。人の苦痛や悲哀にも情を同じくされて、自分の苦痛や悲哀と同様に、解脱を願われます。
法主さんが拝むと言われた時は世間のお坊さんが拝むと言われた場合と相当異なります。捨身誓願と言えば良いでしょうか。内持仏で一心不乱に連続して午後四時から翌朝の七時くらいまで、一睡もせず読経を続けられます。
更に翌日も同じようにされます、朝八時頃に朝食、昼食、入浴剃髪、それから始められます。健康には留意しておられ、誓願中も毎日医師の診察は受けておられます。これはご自分で納得されるまでなされることで、私どもがあれこれ関与したり、理由を伺うことは不可能です。
法主さんは守秘義務に忠実な方で、何もお聞きすることはできません。
修法中もメールや手紙を見られたり、短文の返事を書かれます。面談もされます。読書もされます。日中短時間の熟睡をされることもございます。
法主さんの日常は環境として伝わっているようです。住職さんも同じ傾向が見られます。僧籍にある人たちにも受け継がれて行きつつあるように思われます。善き行いは伝承されます。
「分かりました」とか「供養します」「お受けします」と言う短文は非常に大きな意味を持っている場合があります。捨身誓願的礼拝を納得行くまでなす意思が含まれているからです。
法主さんにできない祈願があります。それは憎悪や呪詛を伴うものです。
危険危機を予測し回避し、対策を立てることは大切ですが、妄想的な危険危機対策は取られません。
法主さんと住職さんは同行されません。万一災害があった場合に、どちらかが残れるよう常に考えられています。責任感の強いお寺の基本です。
僧侶の役目は人を幸せにする、現世をみ仏さまで荘厳する。生きとし生けるものの働きを助けることです。
存在するものは、ひと時も同じ形をとどめていません。人には生老病死と言う単純な変化が有ります。これを楽にするのは容易では有りません。
その法主さんも月に四度は新幹線を利用されます。便利で快適な乗り物ですが、その都度、万一の場合は死を覚悟して利用しておられます。日本は地震国です、軌道直下にマグニチュード八くらいの突き上げ型地震が起きた時に、それがトンネル入り口で有ったらと、いえ、突き詰めれば、夜寝る時には明朝起きれないかも知れない、部屋を一歩出れば何時どんな事故が有っても不思議では無いと考えておられます。
毎日何度か車に乗られますが、交通事故は起きないのが尋常では無いくらいで、道路は戦時下と言えます。
人はいずれ死ぬもので、自分の死について、何時も見詰め、考え方を整理して生きておられます。
法主さんは「付け」で買い物をされません。住職さんも職員も同様です。死後に請求書が届くようなことが無いように、借りを作らぬ日常を心掛けておられます。
将来の収入を計算して消費をされません。明日も分からぬ浮世で将来を零と予測されるとローンや分割支払いの計算が成立しないのです。
このような考え方は決して一般的なものでは無く、皆さんには押し付けられませんが王道です。