仏教の初門、人の依報は家庭

寅さん なんでも仏教には人天教(にんでんきょう)というのがあると聞きましたが、それはどういった内容のものなんです?
ご隠居 仏教のいちばんの特徴は過去、現在、未来につらなる三世の因果(いんが)、善悪の業報を説いていることで、これが他の宗教と最も異なるところだ。
 人天教というのは、華厳「五教」の判釈(はんじゃく)によると、小乗中の分教として論じられたものだといわれる。
 五教とは、お釈迦さまが生涯に説かれた教えを、その深い浅いの順によって五種類に分類し、判別されたものである。華厳宗では、小乗教、大乗始教、大乗終教、頓教(とんきょう)、円教(えんきょう)にわけられた。
 小乗教は、四諦・十二因縁、ひとり教えを聞き悟りを求める声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)。
 大乗始教、すべては実体がなく空(くう)であると説く『般若経』や縁起によって成立するものの本体と現象とを区別する『解深密経(げじんみつきょう)』など。
 大乗終教は、すべてはもともと不変の絶対真理であるが、それが条件によって、汚(けが)されたり清らかなものとして現れるとする『大乗起信論(だいじょうきしんろん)』などの教え。
 大乗頓教は、頓、速疾(そくしつ)にさとりに入ることを説く『維摩経(ゆいまぎょう)』などの教え。
 一乗円教は、一大円教つまり一乗を説く、完全な教えということで諸教を超えた、無尽の仏法を説く『華厳経』などの教え。
 つまり人天教は、五戒(不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒・ふおんじゅかい)をたもてば人に生まれ、十善(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見)を行えば、天に生まれる、と分かり易く方便的に説かれたものだ。
 六道(ろくどう)の輪廻(りんね)を説く。いわゆる十善をおこなえば天に生じ、十悪をおこなう者は地獄に堕ちると教える。だから、善行をなした者は三善道に、悪業(あくごう)をなす者は三悪道に生じるというわけだ。
 ではなぜ、同じ善道に三つ、悪道に地獄、餓鬼、畜生の三段階があるのかというと、善と悪にも、それぞれ中ぐらいの善とか、極端な悪というように、上中下の三つに色分けされるからだ。
 このように六道は、衆生(しゅじょう)の善悪によって、みな、境遇とその行く世界を異にすると説いている。
 この六道をまた三界ともいう。六道と三界は、すべて衆生の心のうちより生起(しょうき)するものであるが、だからといって、私たち人間に、悪を戒め、善行をすすめるための方便(ほうべん)に過ぎぬと、その存在を疑ってはならないと教える。
 仏教は依正(えしょう)の二報といって、この六道のなかに生ずる衆生を正報(しょうほう)の有情(うじょう)とし、その有情の住して依止(えし)する所を依報(えほう)と説いている。
 したがって六道は、人間を含め有情の依報する世界ということであり、その六道を輪廻する有情は正報であるというわけだ。
 仏教が説くこの依正の二報を、単なる方便の産物といって済ましてよいものだろうか。
 げんに同じ有情(うじょう・生きとし生けるもの)とはいえ、私たちのように人間に生まれてこられた者、犬に生まれるもの、また人に嫌われるハエや蚊として涌くものもある。このように人間、動物、魚、虫と、生まれながらに厳然たる区別があるのもみな依正の二報のせいだとする。
人の依報は家庭
寅さん その依正の二報というのを、もう少し詳しく話してくれませんか。
ご隠居 ずっと以前にも話したことがあるが、依(え)とは依止の意味、報とは果報のことで、つまり一切の有情が依止(えし・よりすがる)する世界・境界のことだ。
 そして、正報とは、正しい因によって受けるところの報いとでも言えばよかろうか。
 下は地獄より、上の仏界に至る十界にはみな報身報土がある。人間界に生まれた人間もまた、人間界に生まれてきたそれ相応の正因があるというわけだ。
 ただ、同じ人間界に生まれてきたとしても個人差があって、人それぞれ恵まれている者と、そうでない者と、いずれも、それ相応の正因の報いによって、幸福の度合いが異なるので、それを正報(しょうほう)という。
 そして、この正報をうけた有情が生活する場を依報の土(ど)という。したがって、この六道十界はことごとく正因正果の依報正報であるとされた。
 具体的にいうと、私たちの住む家は人間が依止する場所だから依報であり、また我々人間というのは正報ということになる。
 そして鳥の巣は、鳥という正報有情の棲みついた依報であり、水は魚のための依報、土は昆虫のための依報であり、また、私たちの身体は、私たち人間の精神のための依報でもあるから、その身体の好不調のいかんによって、そこに宿る正報であるところの精神のありようを内省し、知ることができる、とされる。
 人の心にはかたちがないから、他から容易にうかがい知ることのできないものだけど、心はその人の挙措動作に正直に表れやすい。
 だから相手の一連の動作を見ていれば、おのずからその人の心のありどころを知ることができる。
 つまり人の心は、文字を書けば文字に表れ、話をすれば言葉に表れ、表情に表れ、眼をひらけば、その眼に表れて隠しようがない。故に心身一如とも、身土不二とも、依正同体ともいわれている。
仏祖の慧眼(えげん)
ご隠居 ここまで話しても、寅さんは六道三界の存在にまだ懐疑的な顔をしているな?
寅さん 釈然としません。なぜなら私たちはその六道の世界を実際この目で見ることができませんし、いま私たちが生きているこの世のほかに、もう一つの世界があり、つぎに生まれてくるとき、ばあいによっては三悪道に堕ちていたなんてことなど想像もしたくありませんから、なるべくなら三世因果六道の存在じたい、あまり認めたくありませんね。
ご隠居 人情としてはたしかにそうだろうけど、しかしこれは実際に存在する、と説かれている。
 六道の世界を見るには凡眼をもってしては無理だけど、慧眼法眼(えげんほうげん・仏道をさとりこの世の真理を見分けるまなこ)をもってすれば、それを見ることが可能である、とされている。
 したがって、仏祖がご覧になっているという六道三界は、肉眼ではなく、あくまでも慧眼法眼による所見というわけだから、仏教に帰依(きえ)する我々としては、それを信ずるほかはないだろう。
 仏世尊が五戒十善の教えを説かれ、その行為の善悪と密接な関係を有する六道三界の世界をお説きになった真意は、有りもしないものを有るとして、ことさら教訓的に説かれたわけではなく、仏世尊の慧眼でもって目に映る光景をありのままにお説きになったわけだ。
 残念ながら我々には、そういった眼を持ち合わせていないので、何はともかく仏祖のお言葉どおり五戒十善をモットーに毎日を過ごすのが、いちばん良い生きかたではなかろうか。
人天教と世間教
寅さん そういうことなら、とりあえず、ほとけさまの五戒十善を信じることにします。
ご隠居 そうなのだ。寅さんのように、まず信じなければなかなか仏教は理解できない。またたとえ仏教を理解できたとしても、信じなければ何の益もないとされる。
 これまで述べた人天教は仏教の初門であって、未だ出世間(しゅつせけん・世俗を超越した境界)の領域にまで至っていないが、それでも世間一般の道徳維持の面では十分寄与しているように思う。
 なぜなら三世の因果をテーマに五戒十善を人々に説いているからだ。そして、この人天教のことを、「世間教」と言い換えても良いとする。このように、仏世尊が世間教をお説きになったのは、それを手がかりに、さらに上の出世間教である小乗、大乗の深奥な教えを説き示すための「方便」だったのではないかといわれている。
 けれどもこの世間教が、単に、衆生を善導するための方便だからといって軽視すべきではない。
 なるほど世間教はたしかに方便の教えにすぎないかもしれないが、仏は心の灯火となり、人々をこの世の苦しみや悩みから救い、世の中の秩序を保つのに、五戒十善、勧善懲悪を説く世間教の教えがたいへん役立っているからだ。
 仏世尊が六道輪廻の仕組みを明かされた真意は、それを殊更に思想的に演繹(えんえき・意味をおし広めて述べる)されたのではなくて、人間が実践すべき道徳規範をあきらかにするために説かれたのだ、といわれている。
 だから、人天教、世間教で飽き足らぬ人はべつにそれにこだわる必要はない。
 この初門を一足飛びに飛び越えて、ほかの小乗教に入るもよし、小乗教になお飽き足らねば、そこを去って、権(ごん)大乗教に入るも、またよし、権大乗教でもまだ不足ならば、すぐ実大乗に入ればよい。もし、それでも不満足であるならば、大乗の極致であるところの円頓教(えんとんきょう)に、それでもなお不足なら、四教五教を超えて、一超直入如来地に頓入(とんにゅう)し、ただちに頓悟成仏の世界に逍遙(しょうよう)するも、もとより妨げることはしない、としている。
五陰(ごおん)と四大(しだい)
ご隠居 「十界」とは、六道と声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩、仏界をひとまとめに総称したもので、一切衆生の落ち着く先は、おのおの心のあり方しだいで、その境界(きょうがい)が定まるとされる。
寅さん 我々の過去世、現在世のおこないによって因果応報があり輪廻転生(てんしょう)する、というわけですね。
ご隠居 キリスト教はこの地球を含む全宇宙すべては、造物主である神から賜ったものとするが、仏教はそういった絶対的な神がいて世界を創造したとは説かない。
 では、この世界はどのようにしてできているのか、という問いに対しては、この世はすなわち唯心(ゆいしん・一切の諸法は内なる心にあるとする考え方)の所産であるとする。
 したがって三界(さんがい)は唯心の所産、諸法(宇宙間に存在する有形無形の、すべての事物と現象は唯識(外界の現象はすべて心の現れであるとし、心が最終の実在であるとする考え方)の所変であるという。
 華厳経にいわく、
「心は巧みなる画師の如し。種々の五陰を造る。
 世間一切の法、法として造らずということなし」と。
 五陰(ごおん)とは色受想行識のことで、色とは四大(地水火風)あとの受想行識とは唯心のことだ。
 これを分かりやすく言えば、色とは身体のこと、受想行識とは心のことで、つまり人間には人間の心身(五陰)があり、動物(畜生には動物の、天上には天上界の、そして声聞、縁覚、菩薩、仏界に至るまで、みな五陰があって千差万別だという。
 そして十界のこの様々な五陰はすべて唯心によるものであり、また、この世の一切の法、すなわち天地万物の有情、非情、有形無形の善法悪法はすべて唯心の所産にして、唯識の変現であるとされる。
三世の諸仏、十方の如来
ご隠居 釈尊の「遺教経」に「自今以後わが諸々の弟子輾転(てんてん)して、しかも之を行へば、即ち、これ如来の法身(ほっしん)常に在(いま)して滅せざるなり」とあり、行わなければ法身も不在であると説かれている。
 釈尊はその昔、肉体を有する生身の人間としてこの世を生きてこられたが、今はただその法身のみをとどめられ、われわれの信仰と崇拝を一身にあつめておられる。
 したがって仏の弟子と自認する者、仏の法身を永く相続せしめようとするならば、努めて、釈尊の遺教を護持しなければならない、という。
 元来、仏というのは、お釈迦さまのみに限定されたものではなく三世の諸仏、十方の如来がおいでになるという。
 けれども、このように多くの仏如来を、われわれ仏教徒がすべて信仰崇拝しなければならない、というわけではない。ただ、これを信仰すれば利益(りやく)をこうむるだろう、ということにある。
 たとえば私たち真言宗の檀信徒なら法身仏である大日如来、そして大宇宙と一体化した大日如来の教えを具現されたお大師さまを一心に拝めば必ずご利益がある。
 この娑婆三千大千世界(しゃば・さんぜんだいせんせかい)のなかにおいて、過去の千仏、現在の千仏、未来の千仏と、三千の諸仏が出現されると言われているが、いま私たちが最も信仰する対象の仏といえば、自分に縁のあるみ仏ではないだろうか。
 そもそも、仏には、理仏と智仏と事仏がいらっしゃる。
寅さん それはどんな仏さまですか?
ご隠居 理仏は法身仏、智仏は報身仏、事仏は応身佛のことだ。
 その事仏として、この世にお生まれになったのは釈尊ただお一人で、そのほかの仏は、そういったお名前の仏さまがおいでになるということを、私たちはただ耳にするだけにすぎない。では何処においでなのか、というと、いわゆる理・智の二仏は法界に遍満していて、どこそこにいらっしゃるということではない。
 ただ、衆生が願い望み、衆生が感応(かんのう)するところに、ときとして影現(ようげん)される。つまりこの地上を土や水や空気が覆っているように、因縁相応すれば、すなわち仏はそこにその形を現すという。
 「諸仏の正遍智海は衆生心想のうちより現ず」とは、そういう意味なのだろうか。
 このようにわれわれの肉眼では見ることのできない境界のその向こうに、霊妙不可思議な仏菩薩のまします世界があることを信じてそのみ名を聞き、これを信念するときは、かならずその霊応があるといわれている。