三宝を信敬し「現報」を得る縁し

「日本霊異記」より
大花位(だいけい・冠位十九階のうちの七番目にあたる。 冠位階は様々ある)大伴屋栖古の連の公(おおとものやすこの むらじのきみ)は、紀伊の国名草の郡宇治(和歌山市紀三井寺) の大伴の連等の先祖(とおつおや)である。
 
 大伴屋栖古はつねに三宝(仏・法・僧伽)を信敬し、生まれつき心が清らかな人柄であったという。彼のことについて記述された書物を調べると次のようにある。

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 敏達(びたつ)天皇の御世、和泉の国の海中から、奇妙な音が聞こえてきた。それは笛や琴で奏(かな)でる妙なる楽の音(ね)のようであり、はるか彼方の空から伝わる遠雷のようでもあって、明るい昼間は音が、夜になると海上一面光輝いて、東を指して流れてゆくようなあんばいであった。
 
 大伴屋栖古はその奇怪な現象を天皇に奏上(そうじょう)することにした。けれども天皇は、彼の話に耳をかすことなく、ただ黙したままであった。
 ならば皇后に、と屋栖古がその話をすると、皇后から「汝、行ってたしかめてみよ」とのお許しがあったので、人づてに聞きながら探して行くと、そこには、落雷に撃たれた大きな樟(くす)がころがっていた。

 「高脚浜(たかあしのはま・大阪堺市の浜寺海岸)に大樟が一本流れ着いておりました。屋栖古は、その樟を彫り削って仏像をつくり たく存じますが、如何でございましょうか」
 飛鳥に帰ってきた屋栖古が皇后に言上すると、「そなたの思うようにしたらよろしかろう」とのお言葉があった。
 
 さっそくそのことを大臣(おおおみ)の蘇我馬子に報告すると、馬子もまた共によろこび、池辺直氷田(いけのべのあたえひだ)に 仏像製作を差配させることにした。
 氷田の肝入りによって仕上がった仏像は阿弥陀三尊像であった。
 人々は、豊浦(とゆら)の堂に安置されたこの仏像を仰敬する ことかぎりがなかったという。

 ところが、大連(おおむらじ)物部守屋(もののべのもりや)がこれに異を唱え、皇后に苦言を呈したのである。
 「およそ異国の蕃神(ばんしん)にすぎぬホトケとかの像を、この都にかざるなどもってのほかのことであります。即刻どこか遠くへ打ち捨ててしまいましょう」
 
 そうはいっても、元をただせば皇后じきじきのお声がかりによって 作らせた仏像である。たとえ、大連守屋の膝詰め談判といえども 承服するわけにはいかない。
 ひそかに屋栖古を召して「守屋がうるさいことを申しているから とりあえず、あの仏の像をいずれかへ隠してしまいなさい」と知恵を授けた。  
 屋栖古は、皇后の言いつけどおり、氷田と二人で、稲を保管する倉庫の奥深く仏像を隠すことにした。しかし、守屋の追及は執拗であった。
大連守屋は、郎党たちに命じて豊浦の堂を焼き打ちし、屋栖古を呼び出してきびしく責めたてた。
 「正直に言え、あの像をどこへ隠した?いま国家(みかど)に 次々とわざわいが起こるのは、外国(とつくに)より移入してきた 客神(まれひとがみ・仏)の像をこの飛鳥に置き、それを敬う はねっかえりのたわけ者がいるからだ。
 
 国に凶事をもたらす、そのような禍々(まがまが)しいものは、韓国(からくに)のほうに流して捨ててしまうから、はやく客神の 像を差し出せ」と、きつく言いわたしたが、屋栖古は頑強に口を閉 ざしたままであった。
 新来の仏像を信奉してやまない者たちに対する守屋の憎悪は日増しにつのり、やがて、力づくでも忌まわしい崇仏(すうぶつ)派の 連中を根絶やしにしてやる、という強固な決心が彼のなかに芽生え たのである。
 
 こうして守屋がいろいろ策動し、あわせて戦の準備をしているその さなか、用明天皇の御世、天下の権力を馬子と二分した大連物部守屋は あえなく「崇仏派」によってほろぼされてしまったのである。 ほとけ排斥の中心人物・守屋の亡きあと、隠してあった仏像は晴れて 日の目をみることになった。
 今の世、吉野の比蘇寺に安置されて仏光を放つ阿弥陀の像がこれである。
 敏達帝の皇后炊屋姫(かしぎやひめ)が小墾田宮(おはりだのみや)に即位し、推古天皇となった。
 これよりのち推古天皇は三十六年間にわたり宇御(あめのしたおさめ)たまうことになった。
 
 推古即位の翌年(五九三)四月十日、厩戸皇子(うまやどのみこ・ 聖徳太子)を立てて皇太子とする。それと同時に屋栖古は皇太子 の側近くに仕える補佐官の一人に抜擢された。
 推古十三年夏五月、屋栖古は、「汝の功はとこしえに忘れじ」という詔勅(しょうちょく)とともに、大信位(位階十二階中の第七位にあたる)を賜る。
 推古十七年春二月、皇太子は、屋栖古を播磨の国揖保の郡(兵庫県姫路市の西郊)の二百七十三町五段余の水田の司(つかさ・取締官)に任命する。
 推古二十九年の春二月、皇太子斑鳩宮(いかるがのみや)において薨(みまか)りたまう。屋栖古その死を傷(いた)み出家を決意するが、天皇はお聴き入れならなかった。
 推古三十二年夏四月、ある日のこと、一人の僧が斧を手にして、その父親をつづけざまに打擲(ちょうちゃく)する光景を目撃した屋栖古は、その浅ましい仕打ちを見るにしのびがたく、ただちに奏上していわく、「すべてにわたり僧侶の起居は相当に乱れておりますので、そういう者たちの立ち居振る舞いに、目を光らす上座の人を決めて、悪を正し、是非を判定させることにしたらいかがでしょうか」
 「もっともである」と、天皇は大きくうなずかれた。
 
 即座に勅許を得、屋栖古がさっそく僧侶の総数を調べてみると、僧八百三十七人、尼五百七十九人であった。
 朝廷は、百済の僧で元興寺の学僧観勒(かんろく)を大僧正とし、大伴屋栖古と鞍部徳積(くらつくりのとこさか・司馬達等の子孫、鳥仏師の一族)の二人を僧都(そうず)とした。
 
 推古三十三年冬十二月、その当時難波に居を構えていた屋栖古はにわかに卒(みまか)った。けれどもその屍(しかばね)は、えもいえぬ佳い香りがたちのぼっていた。
 そのことを、帝はご存じであったか、ご存じなかったか、屋栖古の亡骸(なきがら)を七日間とどめおくよう指示され、彼の忠を偲すると、それから三日経た日のこと、死んだはずの屋栖古が生き< 返ったのである。  「五つの色の雲がたなびき、その雲が虹のごとく北へ向かってかかっていた。わしはその雲の道をずんずんわたって行った ---- 」と、蘇生した屋栖古が妻子に話はじめた。  「あたり一面名香とまがうばかりの、たいそうかぐわしい匂いが立ち込めていた。ふと気がつくと、道のほとりに黄金の山があり、燦然(さんぜん)としたその光りがわしの顔に照り映えた。    そこに聖徳太子がわしを待っておられた。太子と一緒に山を登ると、黄金の山の頂きに一人の比丘(びく)がいた。  比丘は太子に敬礼(きょうらい)したあと、わしに対して、『わたくしは東の宮の童(わらわ)です。これより八日の後、銛き鋒(ときほこのさき・剣難の意味)に遭うことになりますので、どうぞこの 仙薬(せんやく)を服用してください』と言って、比丘は、手首に巻いた飾り輪から玉を一つ解いて、わしに渡し、「南无妙徳菩薩」と三遍誦礼(ずらい)させてその玉をのませたのであった。    二人のやりとりを、かたわらで見守っていた聖徳太子が屋栖古にお声をかけられた。  『おまえは、これより速やかに家に帰り、仏をつくる場所を掃除しなさい。私も仏に悔過(けか)ししだい、宮に還って仏像を作ろうとおもっている ---- 』と。  こうしてもと来た道をあともどりしているうち、正気づいたというわけだ」と。    この不思議な出来事を、時の人人は「生き返った連の公」と言い、ほめそやしたという。  かくして屋栖古は孝徳天皇六年秋九月、こんどはほんとうに春秋九十有余歳にして卒(みまか)った。  賛にいわく、善きかな大伴連屋栖古、仏を貴び、法に親しんで、情けを澄まし、忠をいたし、寿命と幸福を共に保ち、肉親の愛情を子孫に伝えて生涯を全うした。  それもこれもすべて三宝の験徳と、仏道を護る善神の加護のおかげである。   いまあらためて推察すると、八日後に銛き鋒に遭うというのは 蘇我入鹿の乱のことで、八日とは八年後の意味であり、妙徳菩薩とは文殊師利菩薩のことである。  また、一つの玉を服せしむとは、剣難を免れる薬、黄金の山とは五台山である。  東の宮とは日本の国のことであり、宮へ還り仏を作るとは、勝宝応真聖武太上天皇が日本の国に生まれ、寺をつくり、仏を造ることである。そのとき、大仏造立に尽力した行基大徳は、実は文殊師利菩薩の生まれ変わりなのである。  以上ご覧いただいた「日本霊異記」の記述は、あくまでも僧景戒大伴屋栖古を顕彰するほうにウエイトがかかっているように感じられます。 *「日本霊異記」平安時代初期の仏教説話集、全三巻。奈良時代から弘仁年間(八一〇~八二四)に至る朝野の異聞、ことに因果応報の説話を漢文で記したもの。  仏教が日本へ入ってきたのは日本書紀によると、欽明天皇の十三年(五五二年)、法王帝記、また元興寺縁起、奈良大安寺沙門審祥の記によるとこれに先立って西暦五三八年とされています。  百済の聖明王が、金銅の釈迦仏一体に幡蓋(はたきぬがさ)若干、経論若干巻をそえ、仏教信奉の功徳(くどく)をたたえた表文とともに時の天皇に献上したといわれております。  ただしこれは、あくまでも日本書紀など公けの記述であって、庶人のあいだではずっと以前から仏教は我が国に伝来していたとも言われています。  つまり継体天皇の十六年(五二二)、唐人の司馬達等(しばたつと) が日本へ来て、大和に仏堂を建て、仏像を安置したところ、まだ当時の 人々はだれ一人として、ほとけに帰依(きえ)する者がいなかったということです。  さて、百済の聖明王からほとけの像をもらった欽明天皇はどんな反応をされたのでしょうか?  「百済より献じてきた仏というものの相貌は、まことに端厳で、これまで見たことのないほどのものであるが、このものを敬うべきか、否か?」と群臣に下問されました。  この時代、大和朝廷で最も権力威勢があったのは、蘇我氏と物部氏でした。前者は大臣(おおおみ)後者は大連(おおむらじ)としてならびたって朝政を執っておりました。  まず、蘇我稲目(そがのいなめ)が奉答します。  「西方の国々はみな仏を信奉しております。日本だけ、これを信奉しないというのは、いかがなものかと存じます」  ついで物部尾輿(もののべのおこし)が奉答しました。 「わが国の天皇は、古来より天神地祇百八十神(てんしんちぎ、ももあまりやそのかみ)を尊崇し、季節ごとにそれらの神々を祀られております。なのに蕃神などを信奉されましては、国神(くにつかみ) のお怒りにふれ、たたりがありましょう」    相反する両者の意見に、欽明天皇はお困りになりました。  「どうもよく分からないが、大臣が信奉したいというのだから、これは稲目につかわそう」と、仏像その他を与えました。  稲目は小墾田に小堂をこしらえて安置し、仏法に帰依しました。  ところが、その後、えたいのしれない瘡(かさ)が蔓延しはじめたのです。今でいう天然痘です。  死者が続出してパニックになりました。    それみたことかと、排仏派の物部尾輿が欽明天皇に、  「この前、私の意見をお聞き入れなく、異国の神を信奉させたりなさるので、こんなことになってしまいました。いそぎ、仏法を禁断なさるべきであります」と奏上しました。  帝も反論のしようがありません。  さっそく役人に命じて仏像を難波の堀江(淀川)に投げ捨てさせ、寺を焼かせました。  こうして崇仏、排仏の争いは、一旦は排仏派の勝利に帰しましたが、これですべて決着したのでないことは歴史にあきらかです。  時代が移り、蘇我氏では稲目の子の馬子の代になっており、物部氏は尾輿の子守屋の代となり、相ならんで朝政をとっていました。  一世代をへだて、両者の争いが再燃したのは敏達天皇の御世のことです。  敏達帝は、日本書紀に「天皇仏法を信ぜずして、文史(儒書や史籍)を愛す」とありますから、その性格は宗教的でなく、仏教にたいしてほとんど関心を示さなかったようです。    そういう時代にあっても馬子は己の節を曲げることなく仏法の興隆に つとめ、民衆のあいだに着々と仏教を根づかせていきました。  欽明天皇と蘇我稲目(馬子の父)の娘・堅塩媛との間に生まれた用明天皇 (聖徳太子の父)は、天皇として初めて三宝に帰依される。 (公に仏教を認めることとなる)  蘇我馬子は「武略有りて亦弁才有り。以て三宝を恭敬す」、敏達天皇のとき に大臣に就き、以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇(聖徳太子)の四代に仕え、五十四年にわたり権勢を振るい、寺塔を建立し、仏法を弘通させ仏教を奨励しました。そして天皇や貴族の庇護のもと仏教は隆盛しました。