推古天皇の時代〔在位五九二ー六二八〕に、聖徳太子と蘇我馬子
が作った「大王記・国記」は、大化の改新〔西暦六四五年、蘇我入
鹿(そがのいるか)を、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の
天智天皇)と中臣(なかとみ・藤原)釜足が誅殺(ちゅうさつ)し
たクーデター〕のさいに焼失してしまった。
その後、数十年を経て、古老の話や焼失をまぬがれた残余の古文
書(こもんじょ)を参考にして完成したのが「日本書紀」である。
それだけに「書紀」の記述には聞き違い、記憶違いなど、誤記が
ないとはいえない。
したがって「日本書紀」に書かれている前後の文意と、旧事本紀
(くじほんぎ)とを照らし合わせ、「書紀」において十分に意味が
通じにくいところを旧事本記によって補助することにする。
〔*旧事本紀は神代から推古朝までを記した史書で十巻。
聖徳太子と蘇我馬子らが勅を奉じて撰したとあるが、
平安初期の偽撰とされるが。。。先代旧事本紀〕
東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて崇峻天皇を弑逆
(しいぎゃく)した蘇我馬子を、聖徳太子はなぜ罰しなかったのか
という疑問であるが、それらのことを論ずるにあたって、まず初め
に心得ておかねばならないことが四点ある。
第一点は穴穂部皇子(あなほべのみこ)の人物像についてである。
穴穂部皇子には七悪ある。
一には炊屋皇女(かしきやのひめみこ・のちの推古天皇)を暴力
によって犯そうとした。炊屋皇女は先帝 敏達天皇の皇后である。
それも敏達帝が崩御(ほうぎょ)し、皇后が殯宮(もがりのみや・
天皇の棺を葬儀のときまで安置しておく仮の御殿)で喪に服してい
るときのことであった。
二に、炊屋皇女は先帝の皇后であり、しかも母が異なるとはいえ
穴穂部にとっては姉なのである。
三に、炊屋皇女が穴穂部皇子を避けて殯宮のなかに逃れようとす
ると、彼は執拗に皇后のあとを追い、大声を発して「門を開け」と
呼ばわった。
四に、そのような破廉恥な行為をしでかしたあとも、いっこうに
恥じ入る様子もなく、別の夜、皇后の寝所の門を叩いて強引に押し
入ろうとした。
五に、そのとき門を固く閉ざして皇后を守った人物がいる。三輪
君逆(みわのきみさかふ)である。ところが、穴穂部は己れの所業
を顧(かえり)みず、皇子の自分に楯をついたとして、三輪君逆を
殺した。
六に、穴穂部はみずから皇位に即くべく、さまざまな画策をした。
七に、穴穂部は物部守屋(もののべのもりや)の陰謀に加担し、
遊猟という名目で諸皇子を淡路島へ誘い出し、皇位をあらそう競争
相手の皇子たちを殺害しようとした。以上は正史に明らかである。
第二点は、物部守屋(もののべのもりや)のことである。
守屋には五つの悪がある。
一に守屋は穴穂部と結託し、皇位簒奪(さんだつ)をくわだてた。
二に皇后の宮殿にいる三輪君逆を攻め殺した。炊屋皇后にかしず
き、忠義顔の三輪逆がなにかと目障りなので除いたのである。
三に、主君に過ちがあれば、それを諌(いさ)めるのが臣の道で
ある。しかるに守屋は大連(おおむらじ)という朝廷を束ねる最高
位の重臣であるにもかかわらず、穴穂部をそそのかして大和朝廷の
平和を乱した。
四に、守屋は諸皇子の殺害をくわだてた。「日本書紀」に、守屋
は諸皇子を淡路の遊猟にことよせて誘い出し、狩りの最中に皇子た
ちの殺害を謀(はか)ったとある。
つまり、用明天皇が崩御されたさい、押坂彦人皇子(敏達天皇の
長子)が皇太子であったから、次の皇位はすでに決まっていた。
しかしそれでは穴穂部に皇位は回ってこない。
そこで邪魔な押坂彦人や竹田皇子(母は炊屋皇后)を除くための
陰謀だったのである。
五に守屋は、その押坂彦人皇子を殺害した、らしい。「日本書紀」
はそこのところをはっきり書いていない。が、「日本書紀」の微妙
な文章の言い回しをさぐり、その欠落した部分を、旧事本紀を引い
て補完する。
「日本書紀」に、「大連(守屋)人ヲ集メル、中臣勝海 マタ衆ヲ
集メ、大連ヲ助ケテ、ツイニ 太子彦人ト竹田皇子ノ像ヲ作リテ、
コレヲ 厭(マジナ)フ」とある。
「厭」とは、めざす相手に似せた像を弓で射(い)、剣で斬(き)る
ことで、いわゆる調伏(ちょうぶく)のたぐいである。
守屋の意中を察した佞臣(ねいしん)中臣勝海(なかとみのかつ
み)が、守屋にうまく取り入ろうとしてその調伏に同調した、とい
うのが、「日本書紀」の大意である。
さらにそれを裏付ける記述がある。
馬子が諸皇子らと、守屋を討伐するための会議を開いた。ところが
その席に当然出席していなければならないはずの彦人太子が、なぜ
か顔を見せていないのである。
他の皇子が欠席しようとも、最も中心であるべきはずの彦人太子
がその場にいないのは腑(ふ)に落ちない。
さらに奇怪しいことがある。
彦人皇子は用明天皇の皇太子、すなわち後嗣(こうし・あとつぎ)
なのだから、順序として用明帝亡きあとは、当然皇位に即(つ)か
れるのがあたりまえなのに、なぜか泊瀬部皇子(はつせべのみこ・
崇峻天皇)が即位された。
この二つの事柄は何を意味しているのか。考えられることは一つ、
押坂彦人皇子は、このときすでに殺害されていたから、守屋征討の
会議に姿が見えなかったし、天皇即位もできなかった、ということ
ではないだろうか。
その下手人は誰か—-守屋をおいてほかに誰があろう。
旧事本紀(くじほんき)にいわく、
「六月甲辰(きのえたつ)朔丁未(ついたち・ひのとみ)の夜、
物部の大連(おおむらじ)秘かに陰賊を遣(つか)わし、太子
彦人の尊(みこと)を弑し、事を盗賊に倚(よ)す」とある。
これによっても、守屋が彦人太子を弑(しい)したことは明白で
ある。
押坂彦人皇子は賢徳温和な太子であったと伝えられる。守屋はそ
のような善太子を弑し、七悪の穴穂部皇子を皇位に即けようとした。
この一事をもってしても物部守屋の大悪無道なることは推(お)
して知るべしである。
第三点は、崇峻天皇(在位・五八七ー五九二)についてである。
天皇の尊号は、その天皇一代の行政の得失を考課して諡(おくり
な)されるものだけに、その諡をみればほぼその天皇の業績や人柄
が後世の人々にも推察できる。
武烈帝は、たけだけしく、暴虐のおこないが多かったから武烈と
諡された。
崇神天皇は神祇(しんぎ)を厚く崇敬(すうけい)されたゆえに
崇神(すじん)と諡した。
この例にならってみると、崇峻天皇の政治は、その在位を通じて
峻烈暴戻(ぼうれい)をきわめたものであったようである。
旧事本紀の奉諡表(ほうしひょう・諡号を奉った趣意書)に、
「崇峻天皇は欽明天皇の第十五の皇子。性格が荒々しくおごりたか
ぶり、大臣の諌(いさ)めを聴かず、臣下の起用に節義なく、功績
をかえりみず、しばらくの間、寵愛(ちょうあい)するかとおもう
と、たちまち追いしりぞける。仁を忘れ、義を失い、目の前のこと
にのみとらわれて苛政(かせい)をなしたまう。ゆえに崇峻天皇と
諡したとある。」
そして旧事本紀は、崇峻天皇の所業の数々を記している。二、三
例をあげると、
崇峻天皇二年九月、政事はもっぱら厳にして、罪は一切ゆるさな
い。これより以後ひとえに苛政を好む、云々—-。
崇峻天皇三年、天皇万機(ばんき・帝王の政務)を修めず。日は
燕(さかもり)に暮れ、夜は淫に明かし、敏に高ぶりて(あたまの
回転の早さを自慢げにして)、真心をもって聞きたまわず、慢(勝
手気まま)を尚(たっと)んで、諌めを納れたまわず、云々—-。
崇峻帝は以上のごときお人柄であった。
そこで崇峻天皇と蘇我馬子の人間関係がどういう情況にあったのか、
「日本書紀」の記述を見ることにする。
崇峻天皇五年、天皇はひそかに兵器をつくる職人を雇い入れた。
大臣、群臣に知らさず、おびただしい武器を用意して戦を起こす
支度をされた、とある。禁中において、このように、天皇みずから
兵器を秘密裡(ひみつり)に作り、軍備をととのえるなど、穏やか
でない。国を乱すもととなるからである。
同じ崇峻天皇五年冬の記事に、膳夫(ぜんふ)が調理場で猪の首
を落とすところを天皇が見つめながら、
「コノ猪ノ頭ヲ断ツルガ如クニ、朕(ちん)ガ嫌フ人ノ頭ヲ断チキ
ラン」とつぶやいた、と書かれている。
天皇と大臣の不和
寅さん 崇峻天皇がつぶやいた、その嫌いな相手というのは誰のこ
とです。やはり蘇我馬子ですか?
ご隠居 もちろん馬子だ。馬子に対する天皇の憎しみがこれほどに
高じる以前にも、次のような話が「太子伝暦」に載っている。
あるとき、崇峻天皇はそばに人が居なく、厩戸皇子と対座中、
こういわれた。
「蘇我の大臣(おおおみ)は仏の篤信者として、いつも慈悲深げな
ことを言っているが、あれは見せかけだけで、朕に対しても忠誠心
などまったくない。朕はときどき我慢ならない気持ちになることが
ある」
厩戸皇子はそのときまだ少年だったが、馬子の人柄も、天皇の
気持ちもよく分かっている。声をひそめて、
「仰せの通りでありますが、大臣のさかんな権勢は急にはどうにも
できません。みかどとしては、今は隠忍自重、仏法の教えに従って
忍辱(にんにく)と慈悲の徳をお積み遊ばされますように」と諌め
たという。
そして猪の首の話だが、この話に尾ひれをつけて物語風にすると
次のようになる。
晩秋のある日、天皇は側近の者たちを連れて狩りに出掛けられた。
あいにくその日は不猟だったが、帰りぎわに一頭の大猪が現れた。
天皇は弓を射た。矢は命中したが急所をはずしていたのか、大猪
はそのまま駆け去った。臣下たちは必死で猪のあとを追ったが、
どこを探しても見つからない。
心をのこして帰路につき、天皇の宮殿倉梯(くらはし)の紫垣宮
(しがきのみや)近くに帰り着いたとき、里人たちが猪を担いで
追いかけてきた。
天皇が矢を射た猪がどこへ逃げたか分からなくなったと聞いて、
里人総出で捜したところ、一山越えた谷に倒れていたので、こうし
て持参したというのである。
天皇はおよろこびになった。
皇居には、厩戸皇子をはじめ他に数名の豪族が来あわせていた。
天皇はそれらの人たちに、今日の狩りの自慢話をし、自分が仕留
めた獲物を見せるために、みんなを調理場に案内された。
おりから調理場では猪を解体するところであった。
「さあ、はじめよ」
と天皇にうながされ、膳夫の長が、まず猪の首をおとした。
そのころがり落ちた首を見て、天皇がふとつぶやいた。
「このように、いつの日に、朕が憎いと思う者の首を斬りおとす
ことができるであろうか—-」
そこに居合わせていた人々は、おもわず、はっとした。
天皇のいう「朕が憎いと思う者」が誰のことなのか、みんなは
よく分かっていたのだな。
寅さん で、どうなりました。その場には厩戸皇子もいたわけで
しょう?
ご隠居 うん、皇子はそのとき、かれこれ十七、八歳ぐらいだった
だろうが、あたまの出来が、なみの人ではないから、天皇のこんな
不用意で危険きわまる発言は、なんとしてでももみ消しておかなけ
れば大変なことになるとお思いになって、天皇に言った。
「こんな大猪はめったに獲れるものではありません。これより、ご
祝宴を催されて、私どもここにいる者たちにも賞味させていただき
とうございます」
厩戸皇子としては、あとさきを考えない天皇の独り言が他に洩れ
ないように、酒宴を開き、天皇にすすめて人々に物を与えさせ、
席上、みかどの今日仰せられたことは決して他にもらさないよう
に、と口封じをした。
しかし、うまくゆかなかった。
時の権力におもねて、それに近づこうと考える者がいるのは昔も
今も変わらない。せっかく厩戸皇子の配慮のかいもなく、当の馬子
の知るところとなった。
寅さん 馬子は怒ったでしょうね。
ご隠居 そのはずだな。でも、そこは朝廷一実力者の大臣馬子だ。
「それはそれは。しかし、みかどがお憎しみになっているとされて
いる者が、このわしとは考えられない。
かりにもわしは、みかどの伯父であり、みかどが皇位に即(つ)
かれるにあたっては、ずいぶんとお力になってもいるつもりじゃ。
だから、その憎しみの相手は誰か余人であろうよ」
と微笑をうかべて聞き流したという、が胸中はどうだったろう。
ほどなくして東漢直駒による崇峻天皇の弑逆事件が起こるわけだ。
次号は、その弑逆事件についてみることにする。