江戸中期、伊勢の国の松阪に、松本駝堂(だどう)という医者がいた。この人は、永年にわたって仏教に親しみ、準提観音菩薩を信仰していた。
医術を生業(なりわい)とする駝堂には、つね日頃より脳裏から離れないひとつの思いがあった。
それはほかでもない、「薬用の人参」である。病人にとって万能薬ともいうべき人参であるが、入手が甚だ困難であった。
ほんらいこの植物は、本邦の風土に適さないのか、日本の土地のどこにも生育しなかった。
したがって、富者は金に飽かせて容易に人参を用いることができたが、貧しい病家の人にとっては、逆立ちしても手の届かぬ高嶺(たかね)の花であった。
やぶれ長屋で、その日暮らしの日傭取りをはじめ、土地を持たない水呑み百姓にいたっては、粗食を強いられ、過酷な労働に日々追われていたから、健康を損ねる者がきわめて多かった。そういった人たちこそが人参を最も必要としていたのである。
駝堂は現実のこのような不条理に、深く心を痛めていたのである。
金持ちと同等に、貧しい人たちも手軽に服用できるようにするには、人参が潤沢(じゅんたく)でなければならない。この国には、ほんとうに薬用人参が生育していないのだろうか。
もし、日本のどこかに、本物の朝鮮人参が自生、生育していたら、その自生種を栽培して、畑で採れる大根のようにたくさん作って、多くの人々に分かち与えることができるのだが・・と、日ごろ信仰する観音菩薩に懇願し、お祈りしていた。
享保年間のことである。ある時、観音菩薩が夢のごとくに駝堂に告げられた。「これこれの所にそれが有るから行きなさい・・」
駝堂は教えられたとおり松阪を出立して、遠く紀州熊野の山中深く分け入ったのである。
そして人参を発見した。朝鮮人参が辺り一面、まぼろしのごとく自生していたのであった。
おもいがけない大収穫に、雲を踏むような心地で松阪に帰ってきた駝堂は、さっそく人参をふんだんに用いて医業に専念する。
そして、採取した一部をさいて江戸幕府にも献上することとした。
すると、江戸から折り返し「その方、大儀ながら再度現地へ赴き人参を採取して献ぜよ」と、将軍の命令を伝えてきた。
こうして駝堂は紀州熊野に自生する大量の人参を幕府に献上し、莫大な褒賞と身に余る名誉を得たのであった。
このような経緯があって彼は、自分が発見したこの日本種の人参を、本朝(日本)にあまねく広めようと発意した。
もし、この試みが成功すれば、異国からわざわざ人参の一茎を求めずとも、人々は容易に薬を手に入れることができて病を治し、しかも人参が自生する熊野の人々の生活までうるおすことになる、と考えたのである。
そこで駝堂は、人参自生地の繁殖状況を詳しく調査し、栽培方法等を考察した一編の研究書を著わしたのであった。
本朝における人参の栽培は、観音菩薩に対する駝堂の厚い信仰心、加えて彼の熱意とが相まち、こうして緒についたのである。
命びろい 観音菩薩の救済
享保(きょうほう・一七二八)十二年、駝堂は所用で長崎まで旅をした。
船に乗って玄界灘を航行中、にわかに大風に見舞われたので、近くの呼子の湊(みなと)に船を、避難させようとしたが、どうにも波浪が烈しく、なかなか船を岸へ寄せることができない。
やむをえず、船に積んだありったけの碇(いかり)十三本おろし、流される船をなんとか止めようとしたが、風波が烈しく、十二本まで碇の綱が断ち切られてしまった。
大波に翻弄(ほんろう)され、打ちかかる波しぶきを頭からかぶりながら、船頭をはじめ乗り合わせた人々は、もはや助け船を頼む手だてもなく、みな放心したように、それぞれの場所で己れの身体を支え、各自のおもいのなかに沈んでいた。
駝堂とても例外ではない。皆と同様、船の隅で襲いかかる波しぶきを避けながら、しゃがんでいた。
ただ、この人は生来、信仰心に厚い人である。
突然身にふりかかった危難に、ふだんから首に懸けている円鏡を握りしめながら、一心不乱に準提観音の真言を唱えていた。
するとほどなくして、いずくからとも知れず、こちらの船に呼びかける声が聞こえてきた。
と、おもう間に、闇のなかから見知らぬ船が現れて、舷側(げんそく)にぴったり横付けした。
まさに地獄に仏とばかり、さきを争って助け船に乗り移った人々が、やれやれと胸を撫でおろしながら、今まで乗っていた船のほうを振り向いてみると、乗り捨てたその船は、またたくまに大波に呑まれて沈んでしまった。
九死に一生を得、無事に呼子の湊に上陸した一同は、だれかれかまわず肩をたたき、抱き合いながら互いの無事を喜んでいたが、ふと気がついて、自分たちの生命を救ってくれた助け船を眼で捜し求めたが、くだんの船はどこへ行ってしまったか、影も形も消え失せていた。
観音菩薩の大悲智力は人力の及ばぬところにある。仰いで信じなければならない。
異教神に迷って殺生し
のちに悔いて善悪の報いを得る話
(日本霊異記)より
摂津(せっつ)の国の東生郡(現在の大阪東成区付近)のある村に一人の男がいた。
男は一族の家長であり、分限者(ぶげんしゃ)でもあった。姓名は分からない。
聖武天皇の御世のことだ。
その男は、己れが信じる異教の神の教えにしたがって、毎年一頭ずつ牛を殺し、神のいけにえに供えていた。
そして七年経った。つまり男は七頭の牛を殺したわけだ。
こうしてその異教神を祀(まつ)る儀式は終了した。しかし、それと同時に男は重い病を得たのである。男は七年間病気に苦しみつづけ、その間、いろいろ手をつくして治療したが、いっこうに良くならなかった。
占いをし、巫(みこ)による祓(はらえ)などもしてみたが、病状は増すばかりである。
ここに至って、はたと男はおもい当たった。
このような重い病に、わしが冒(おか)されたのは、牛たちを殺したあの殺生(せっしょう)の罪障(ざいしょう)に起因するものだ。それにちがいない。
これはいかん。心を入れ替えねば大変なことになる・・と、それまでの心をすっかりあらためた男は、人が変わったように慈悲深い人間になった。
仏教において特に持戒して殺生を禁じられている六斎日(ろくさいにち)(毎月八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日)には、戒律を守って放生(ほうじょう)を心掛けた。
そればかりか、どこそこで生き物が殺されると聞けば、すぐに使いの人を走らせ、先方の言い値どおりに買い求めて、自然へ放してやった。
こうして七年が過ぎ、男は死を迎えた。臨終のまぎわ、枕元で見守る妻子に、「わしが死んだあとすぐ葬らないで、そのまま九日間置いといてくれ」と言い残して、亡くなった。当時、庶民の死後は一日も早く埋葬するのが原則だったのだ。
家長の言いつけどおり、妻子は遺骸(いがい)をそのまま埋葬することなく部屋に安置し、九日が過ぎた。
すると、どこでどうなったのか、末期(まつご)に男が言った九日目に、彼は息を吹き返したのである。
七人の牛頭(ごず)
奇跡的に蘇生(そせい)した男が、家人に話して聞かせた。
・・いずことも知れぬ場所で、ふと気がつくと、得体(えたい)の分からぬ者たちと歩いていた。
その者たちは身体は人間だが、牛の頭をもった怪物だった。
牛頭人身の奴らは、わしの髪に縄をかけ、まわりをしっかり取り囲んで道を急いでいた。
しばらく行くと、道の向こうに高層の御殿が見えてきた。
「あれは何の建物ですか?」と聞くと、引率する牛頭(ごず)が怖い目をして睨(にら)みつけ、「いらぬ詮索(せんさく)をしないで、とっとと歩け!」と、邪険に縄を引っ張った。
こうして宮殿の門前にたどり着くと、「召し連れてまいりました」と、そのうちの一人が門内に呼ばわった。
それで、わしも、ようやく合点(がてん)がいった。ここは、かねてより噂に聞く、死後の冥界(めいかい)を支配するという、あの閻魔大王(えんまだいおう)庁(ちょう)なのだ、と、身がすくみあがった。
そっこく、閻魔大王の前に引き据えられた。わしを連行してきた牛頭の七人に大王が聞いた。
「この者が汝たちをあやめたという仇(かたき)に相違ないか?」
「はい、こやつめでございます」
と、牛頭たちは肉切りの俎(まないた)を持ち出し、包丁をしごきながら、
「閻魔大王さま、どうぞこの者を私どもへ、お下げ渡しくださいませ。
我々は、この者が我らを殺したごとく、膾(なます)に切り刻んで、喰らってやろうと思います」
と、閻魔大王に訴えた。
するとそのとき、どこからか何者とも知れぬ者たちが大勢ゾロゾロ出てきた。
「しばらくお待ちください。それは、この人の罪ではありません。
この方は、異教の神の教えを妄信して鬼神(きじん)の祟(たた)りを恐れ、いけにえを鬼神に捧げ祀(まつ)っただけにすぎません。
したがってこの方に罪はありません」
と言いながら、いましめの縄をほどいてくれた。
わしを中にはさみ、七人の牛頭と、何者か判然としない者たちとのあいだで、
「こいつは、残忍きわまる殺戮者(さつりくしゃ)だ!」
「いいや、それは違う」
と侃々諤々(かんかんがくがく)の言い合いが果てしなくつづいた。
その間、閻魔大王は双方の言い分を静かに聞いていたが、どちらがどうといった判定はしなかった。
牛頭(ごず)たちは、なおも烈しく言い募る。
「もうこれ以上、議論する余地は無い。こいつめは、みずから指図して我々の四つ足を切り落として鬼神の廟(びょう)に祀(まつ)り、己れの利福を祈った。
そのうえ、そのあと、我々を膾(なます)にし、肴(さかな)にして喰らった。
こいつが、我々のようなか弱い何の罪咎(つみとが)もない生き物を殺したのだから、その仕返しに、こいつを殺して喰ってやる」
これに対して、大勢の者も閻魔大王に訴える。
「私たちは、この方がなされた行為はあくまでも鬼神が仕向けたものであって、この方の咎ではないことをよく承知しております。
大王さまにおかれては、なにとぞ、真理は証人の多いほうに有することをご高察(こうさつ)くださいますよう・・」
両者の意見が対立したまま、八日目の夕方、閻魔大王がいった。
「明日、もう一度ここへ参れ」と。
地獄に仏の正体
指示どおり九日目に参庁すると厳かに大王が判決を言い渡した。
「ことの子細を、当方において調べたところ、およその事情は相分かった。
さて、どちらの言い分が正しいか、つらつら検証した結果、大勢の者が申し立てる証言のほうが実際的で、より強い真実の重みがある。よって、この件は、そのほうを勝訴とする」
こうして閻魔大王による裁きは終了した。
裁決後、牛頭たちは、恨みのこもった眼でわしを睨みつけながら舌なめずりし、よだれを拭い、膾を切り、肉を食べるしぐさをしてこのわしを殺し、おもうさま喰べられなかったことを地団駄踏んでくやしがった。
「このたびは恨みを晴らすことができなかったが、いつかきっとこの怨(あだ)を報いてやるから、おぼえておれ!」
思いもかけぬ心強い味方を得て命拾いし、わしはその者たちに守られて閻魔の庁をあとにした。
王宮から出ると、皆はわしを竹で編んだ乗り物に乗せて担ぎ上げ、旗を押し立てて、道を先導してくれた。そして、なんと、わしの前に全員ひざまずいて、わしを礼拝(らいはい)した。
彼らはみな一様に、わしへの感謝の気持ちを表情いっぱいに表していた。
この者たちははたして何者なのだろう? とうとう我慢しきれなくなり、わしはこの九日間ずっと抱きつづけていた疑問を、彼らにぶっつけた。
「皆さんは、いったいどういった方々なのですか。もしよかったら教えてもらえませんか」
「私たちは、すんでのところを買い取っていただき、あなたのお慈悲でもって数多く放生されたあの生き物たちです。その節は本当にありがとうございました。生命を助けられたそのご恩にようやくお報いすることができました」
閻魔庁より生還(せいかん)した男は、それからひたすらに仏教に帰依(きえ)し、己れの決意を仏に誓い、信仰一途に生きた。
それまで住んでいた家屋敷に幢(はたほこ・寺のしるし)を掲げてお寺とし、仏を安置して仏法を修し、放生に熱心に取り組んだ。
よってこの寺を、人々は那天堂(あの天宮に遊んで建てた堂という意味)と呼んだ。
男はその後も元気に暮らし、春秋九十余歳まで生きたという。
金光明最勝王経に説くごとく、
「流水長者(水が乾いた池に水をはこび、そこに多数の魚を放って救ったところが、たくさんの珠となって、恩に報いたという話)、十千の魚を放ち、魚、天上に生まれ四十千の珠を以て、現に流水長者に報ず・・」というのは、すなわちこのことであろうか。