お寺と町名

ご隠居
新世紀のすべりだしはどうだ、順調か?
寅さん
まあまあです。あちこちぼつぼつ梅も咲き始めたし、これで広島市中区の紙屋町地下街の「シャレオ」でもオープンすれば、ぱっとにぎやかになるのではないでしょうか。
ご隠居
シャレオによって、広島の街が活気づくといいがな。
ところで寅さんは、この広島の街の成り立ちを知っているか?
寅さん
あれはたしか、吉田(広島県中央の吉田町)に居た毛利元就(もとなり)の孫の輝元が、広島城を築城してこちらへ移り、それ以来城下町として栄えた、というのではなかったですか?
ご隠居
毛利輝元が広島城へ入城したのは天正十九(1591)年のことだ。そして、その十年後、ここの観音院さんが、この現在地に創建(そうけん)されている。
寅さん
へえ、観音院さんはその頃にできたんですか。
ご隠居
うん。観音院の堂宇(どうう)ができたのは慶長六(1601)年、ちょうど今から四百年前だ。
豊臣秀吉が死んだのが慶長三年関が原の合戦が慶長五(1600)年、家康が徳川幕府を開いたのが慶長八年(1603)だから、この観音院はまさに激動の時代に創建されたことになる。もうひとつ言うと、「観音町」という町名の呼び名は、実はこの観音院の堂宇、観音堂からとられたものだ。
寅さん
お寺の名が、そのまま町名になるなんて大したものですね。
ご隠居
その頃、このあたり一帯はまだ海辺で、人もそれほど多く住んでいない淋しい村だった。
そこへ観音堂という恰好のランドマーク(めじるし)が建ったから、そのお堂の名をとって「観音村」にしたのだな。
寅さん
ははあ、この辺はその頃村だったわけですか?
ご隠居
広島城は、太田川の三角州の上につくられた城だ。だから町など、どこにもなかった。そこへ殿様がやって来て城下町をひらいて十年そこそこだから、そこいらじゅう村なのが当たり前ではないか。古くから人々が住み着いていた周辺の五日市、己斐(こい)、府中などと違って、川の土砂からできた広島の地は歴史がそれほど分厚くない、ということだな。
――六観音(ろくかんのん)――
寅さん
それにしても観音さまというのは、私たちにとって非常に身近な菩薩さまですね。
ご隠居
まったく慈悲のかたまりのようなほとけさまで名号(みょうごう)も観音(かんのん)のほかに、観世音(かんぜおん)、光世音(こうぜおん)、観自在(かんじざい)ともいう。
あの三蔵法師がインドへの旅の途中、繰り返し繰り返し「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多—-」と般若心経を唱えていたというが、玄弉(げんじょう)三蔵は、それによって何度も何度も観音さまの名前を呼んでいたことになる。
助けを求めてお願いすれば、それに応(こた)えてすぐにも救いの手を差し伸べてくださるのが観音さまで、それぐらいこの観音さまは大きな慈悲をお持ちになっておいでだな。
寅さん
ただ、ひとくちに観音さまといっても、いろんなお姿の観音さまがいらっしゃいますが……
ご隠居
観音菩薩は、さまざまな姿に変身して私たち衆生を救うという特技がある。だからこれまでいろんな変化(へんげ)観音が、そのつど必要に応じて我々の前にお姿をお見せになる。
では、ほんらいの正真正銘である観音菩薩はどなたなのか、というと、それは聖(しょう)観音だ。
聖観音さまは観音院さんの二階客殿(きゃくでん)と別殿(べつでん)におまつりされているので、お参りするとよいな。
聖観音は、一つのお顔と二本の腕、つまり人間そのままのお姿をしておいでになる。そして多くの場合、花がまだ開かない蓮華を左手に持ち、右手でその花弁を開く姿で表現されている。この蓮華の開花、によって象徴されるのが、つまり聖観音の本願(ほんがん)ということなのだろう。
そして、この聖観音が救済(きゅうさい)に努めておられるのが、ほかでもない地獄界だ。
寅さん
といいますと?
ご隠居
天台大師智覬(ちぎ)の書「摩訶止観・まかしかん」のなかに、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間界・天界)を輪廻(りんね)しながら苦しんでいる衆生たちを教化(きょうけ)し、そこから救い出してくださる六観音のことが書かれている。
それによると、こうなる。
地獄界を専門に教化するのが聖観音、餓鬼界は千手観音(せんじゅ)、畜生界は馬頭観音(ばとうかんのん)、修羅界は十一面観音人間界が准胝観音(じゅんてい)天界が如意輪観音(にょいりん)と、それぞれ教化する受け持ちが決まっている。
寅さん
そうすると、観音院さんにいらっしゃる子安観音さまなどはどうなります?その中に見当たりませんが。
ご隠居
さっきも言ったように、観音菩薩はいろいろ姿を変えて我々衆生を救うという性質がおありだから、どんなお姿になっているか分からないが、ふつう「三十三観音」という数え方がある。
で、子安観音はさま、准胝観音から派生したバリェーションではないかと考えられている。
寅さん
准胝というのは聞きなれない言葉ですが、これにはどういう意味があるんです?
ご隠居
准胝(じゅんてい)とは清浄(しょうじょう)とか、妙なる、という意味のほかに、准胝佛母(ぶつも・過去のあらゆる佛の母)つまり理想的な母性のイメージが含まれている。
したがって子宝祈願・求子懐妊や安産守護、子供の無事成長、また水子さんの供養をお願いするのには、准胝観音の分身である子安観音におすがりすると功徳(くどく)があるということだな。
寅さん
すると准胝観音は女性と考えていいわけですか?
ご隠居
観音さまが男性か女性か意見の分かれるところだが、少なくとも准胝観音にかぎっていえば密教では女性尊としている。
観音さまを、美しくやさしい女性として描かれた有名な絵画がある。「慈母観音」といって、狩野芳崖(かのうほうがい)という画家が描いた明治初期の作品だ。
――魚籃(ぎょらん)観音――
ご隠居
また、観音さまが女性尊として昔から信仰されたきたものに魚籃観音がある。
この魚籃観音に、どのようなご利益霊験(りやくれいけん)があったかは定かでないが、この観音さまはまさしく女性尊であった。
観音経にも、女性の姿で教化するほうが、より効果的な場合は、すなわち婦女に姿かたちを変えて人々を説法する、という趣旨のことが書かれている。
魚籃観音にまつわる古い物語があるから、その話を少ししてみようか。
寅さん
聞かせてください。
ご隠居
中国の唐の時代、元和という年号のころの、陜右(きょうゆう)という所でのことである。
そこに住む人々は不信心ものばかりで、佛法(ぶっぽう)のありがたさを少しも知らず、また、信じようともしなかった。
そこで、あるとき、観音菩薩がそれらの人々に佛法のありがたさを教え、そのご利益(りやく)を分かち与えようと、ひとりの美しい女に姿をかえ、籃(かご)に魚を入れて陜右の村里を売り歩くことにした。
観音さまが念入りに化粧して、若い女性に化身されたのだから、その容姿のすばらしさといったらたとえようがない。まるで天女が空から舞い降りたかと思えるほどのあでやかさだ。当然のことだがあたりがにわかに色めきたった。
その辺にいた若者たちは、魚売り行商人に化身された観音さまの美しいお姿を一目見るなり、売り物の魚などそっちのけで、鼻毛を延ばして美女のそばに群がり集まってきた。
「あんた、どこから来た?」
「年は幾つ?亭主はいるか?」
「こんな魚の行商をしているようでは、結婚はまだじゃろう?」
「どうしてその年で嫁にゆかないのか?」
「ひょっとして、何かわけがあって魚売り稼業をしているのか?」
と、口々に興味半分、美女の関心を惹こうという気持ち半分に、矢継ぎ早に質問をあびせかけた。
すると美女が、鈴を鳴らしたような美しい声で答えた。
「いま皆様がお訊ねになったことですが、格別ふかい子細があってのことではございません。私が、このように魚籃(ぎょらん)を担いで商いをしているわけは、実は一夜のあいだに普門品(ふもんぼん・観音経第二十五)を暗唱するようなお人があれば、その御方の妻になりたいという望みを抱いているからでございます」
美女の言葉を聞いた若者たちは互いに顔を見合せ、やがてライバル心をむきだしにしたかと思うとあわただしくその場から散っていった。
「ほかの奴らに負けてなるものかあの美女はきっとおれの妻にしてみせる」
と、若者たちはその晩、一生懸命、普門品の暗記に取り組んだのだ。
さて、その翌日、美女がやって来たとき、そこに待ち構えていた若者の数は、およそ十数人いた。
「あんたの言うとおり普門品を諳(そら)で覚えてきた。約束だ、さあ、おれの嫁になってくれ」
と連中がくちぐちに言い募る。
女はそれを手で制しながら、
「それはまことに結構なことですが、私ひとりで、これだけ大勢の皆さま方の妻になるなどとてもできない相談でございます。では、かようにいたしましょう。今夜のうちに金剛経を暗唱することのできた人があれば、その人の妻になることにしましょう」
といった。
翌日、美女の現れるのを、首を長くして待っていた若者の人数はまだ、ざっと数えて十人はくだらなかった。それで、美女は言う。
「これではやはり困りますので、きょうから二日三晩のあいだに、法華経全部を暗唱した人にかぎり妻になることにいたします」
それを聞いた若者たちはがっくり肩を落としてため息をついた。
法華経は序品(じょぼん)第一から嘱累品(しょくるいぼん)第二十二まで、比喩(ひゆ)や説話など、すぐれた世界観や人生観の詰め込まれた非常に大部な経典だからだ。
でも、それをクリアした努力家がいた。馬郎という若者である。
翌日、くだんの美女がやって来たとき、馬郎がただ一人、得意満面に立っていた。
魚籃を担いだ美女がにっこり笑った。
「あなたの妻になります」
さっそく美女を家に連れ帰った馬郎が、さあ、夫婦かための儀式を、と準備を始めると女が言う。
「きょうはなんだか疲れてしまったから、結婚式は明晩に・・」
とやんわり馬郎をおし宥(なだ)め、その夜は奥の一間で寝に就いた。
美女を争って馬郎に敗れた若者たちも、やっかみ気分がないではなかったが、そこは友だちのことだから、二人の婚礼の支度をみんなで手分けして待つことにした。
こうして翌朝を迎えた。若者たちはみな起きて馬郎の家に集まったが、花嫁になるはずの美女だけが、どうしたわけか、なかなか起きてこない。
「あの女性(にょしょう)は、たしかに美人ではあるが、たいそう朝寝をする女じゃな」
などと、冗談口をたたいているうち、すっかり太陽が高く昇り、やがて昼近くなった。
それでも起きる様子がないので朝寝にしてもほどがあると、みんなが不審に思い、美女の寝ている部屋を覗いてみよう、ということになった。
女は行儀良く寝ていた。
「もし、もうそろそろ起きたらどうじゃ」
と、静かに声をかけたが身じろぎひとつしないので、夜具の上から身体をゆさぶる。女はきれいな寝顔を見せて仰臥したまままったく動く気配がない。
これは少しばかりおかしい、と思って、よくよく見れば起きないはずだ。すでに死んでいる。
一同驚いたのなんの、ことに花婿になるはずであった馬郎の失望落胆は、傍目(はため)にも可哀相なほどであった。
しかし、いくら悲しみ悔やんでもどうしようもない。ねんごろに美女をとむらい埋葬を済ませた。
それから三日過ぎて、一人の老僧がふらりとやって来た。
そして、いかにもわけありげに美女が亡くなる前後のいきさつを訊ねるから、馬郎がつぶさに話して聞かせた。
ふむふむ、と話を聞いていた老僧が、では、その美女の墳墓に案内してくれと頼むので、そこへ連れていってやると、その老僧は、手にした錫杖(しゃくじょう)で墓の土をほじくり始めた。やがて美女の死骸を掘り出してみると、これはどうだ。出てきたのは四肢五躰(ししごたい)がさん然と輝く黄金だったのだ。老僧が言った。
「これは観音菩薩が、この陜右の地の人々に佛心(ぶっしん)をおこさせようとして、かりに女人に化して顕現(けんげん)されたのである」と言い終わるや、虚空(こくう)に消え去った。
ところで、その老僧ははたして何人(なんびと)であったか?
観音菩薩ご本人か、それとも羅漢(らかん)僧か……。
以後、陜右の地には、佛法に帰依(きえ)する人がたいそう多かったということである。