- ご隠居
- 寅さんは「御伽草子」というものを読んだことがあるか?
- 寅さん
- 聞いたことはありますが読んだ記憶はありません。
- ご隠居
- そんなはずはない。浦島太郎の話は知っているだろう?
- 一寸法師や酒呑童子(しゅてんどうじ)、あれらはすべて「御伽草子・おとぎぞうし」の物語だ。
- 寅さん
- へえ、浦島太郎や一寸法師が「御伽草子」だったとは知りませんでした。
- それで、ご隠居としては何が言いたいんです?
- ご隠居
- 「御伽草子」といわれるものができたのは、今から約六百年から五百年前の室町時代だが、そのなかの一つに「付喪神絵巻・つくもがみえまき」というのがある。
- 寅さん
- つくも神とは、いったい何ですか?
- ご隠居
- 付喪とは九十九(つくも)の意味で、九十九は百に一つ足りない数ということで「白」をも表す。つまり「百」字から「一」をとれば「白」字となるから九十九、この九十九歳の長命の祝いを「白寿」というのもこれからきていて、それはひどく年をとったもののことをいっている。
- さて、この「付喪神絵巻」に古文先生(こもんせんせい)なるものが登場するな。
- 寅さん
- だれです? その古文先生というのは。
- ご隠居
- 古文先生は、じつは、年の暮れに、不用になった他の器物道具類といっしょに、道端に捨てられた古文書(こもんじょ)のことだったのだ。
- 年の暮れといっても、この物語は室町時代のころだから、むろん旧暦であって立春の前日、つまり節分の日のことだ。
- 人間というものはまったく自分勝手なもので、必要なときは重宝して使っていたのに、古くてボロボロになると「弊履(へいり)のごとく捨てる」という慣用語があるように、やぶれ草履や靴などをいかにも邪魔くさげにポイと捨ててしまう。
- そこで、捨てられた器物道具たちの人間に対する報復が始まる。
- これらの古い器物道具たちは、われわれは長いあいだ人間のために役立ってきたのに、古くなったからといって道端に捨てられるとは心外だ。
- その恨みを、妖怪化け物になって晴らしてやろう、とみんなで相談し、妖怪に化(ば)ける方法を、同じように人間に捨てられた古文書の「古文先生」に教えてもらい、節分の夜、古器物道具たちは種々様々な妖怪となった。
- 彼ら妖怪たちは京の船岡山の奥を根城に、夜な夜な京の町に出没しては公家、町人、男女を問わず六畜(牛、馬、羊、鶏、犬、豚)のたぐいもとって食った。京の町は大騒ぎになった。
- これが付喪神絵巻の上卷で、中は残念ながら現在残っていない。
- そして下巻は、この妖怪たちの改心の話となっている。
- ――古数珠と真言の教え――
- ご隠居
- 彼ら妖怪たちは、護法童子という者に諌(いさ)められ、自分たちの非を悟る。
- そしてもともと古器物の仲間であり、かつて彼らが妖怪になろうとしたとき、彼らを戒(いまし)め、いまは山中に隠棲している古数珠の一蓮上人(いちれんしょうにん)というのに、どうすればよいでしょうか、と教えを乞(こ)うた。
- 古数珠の一蓮上人がいう。「お前たちのようなものは、真言密教の即身成佛(そくしんじょうぶつ)の教えによらねば、ほとけになれない」と諭(さと)したので妖怪たちも一蓮上人にならい、真言の教えにしたがってほとけになった、という物語だな。
- なんとも奇妙な物語だが、佛教が日本にはいってきて、山川草木悉皆成佛(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)という思想が定着し、成佛するものは人間やその他の生き物だけにとどまらず、人の手によって作られた器物にいたるまで含まれている、ということを言っているのではないだろうか。
- このような思想は、今なお行事として残っている「人形供養」や「針供養」をみてもよく分かるような気がする。要は、日ごろ私たちが使っているどんな器物に対しても、つねに感謝の気持ちを忘れず、ものを大切に、大事に使うという心掛けが大切ということではないかな。
- 寅さん
- これからはゴミの日など大型ゴミを出すとき、よく心しておくことにいたします。
- ところで、一蓮上人の数珠(じゅず)ですが、佛前に出るとき数珠を持つのは、どういう理由があるんです?
- ――数珠の起源――
- ご隠居
- 「木患樹経」というお経に、こうある。
- お釈迦さまが、天竺マカダ国の霊鷲山(りょうじゅせん)に住まわれていたとき、ナンダ国の国王が勅使(ちょくし)を派遣して、お釈迦さまに申し上げた。
- 寅さん
- ひとくちに数珠といっても、いろいろありますが……
- ご隠居
- 数珠の最上品を一千八十珠とし、以下、百八珠、五十四珠二十七珠、十四珠というのもある。
- 数珠の材料としては鉄、赤銅、珊瑚、水晶、むくろじ、蓮子(はすの実)等で作るを良し、とあるが、鉄や銅の数珠だと重くてかなわんと思うがな。
- 寅さん
- 数珠の珠は百八つという数にこだわりがあるようですが、何かわけがあるんでしょうか?
- ご隠居
- 百八の理由か。よく人間の煩悩の数百八を滅するため、百八佛智などと、いわれている。
- 百八の数珠の輪っかを二等分すると片方に五十四個、もう片方の連にも五十四個となるな。この五十四は、じつは菩薩修行の「十信・十住・十行・十回向(えこう)・四善根(ぜんこん)・十地」の五十四位を表したもので、もう一方の五十四は、その目的であるところの「信住行向根地」を表したものとされている。
- したがって、一方は目的に向かって一心に努力することであり、もう片方は、目的そのもののことであると言ってよいだろう。
- ――数珠をつまぐる功徳(くどく)――
- ご隠居
- つまり、この両方の五十四位が合わさると百八つとなり、その一珠一珠がひとすじにつらなるときに、心の惑いを断ち、さとりをひらいて佛果菩提(ぶっかぼだい)に至るとされている。
- だから、この数珠を貫く線(いと)を、佛道修行をする人のようだともいわれている。そのわけは、こうだ。
- ひとりの行者が数珠の珠を一つ一つつまぐることによって、それがすなわち、菩薩修行五十四位、十信十住十行十回向四善根十地の段階をすべて実践し終えた、という意味だな。
- 数珠の珠には、母珠(もしゅ・おやだま)と子珠(ししゅ・こだま)とがある。
- そして、この母珠をお釈迦さまに見立てると、その両脇にある子珠は文殊、普賢菩薩であり、これを阿弥陀佛とするとき、両脇の子珠は慈悲の化身(けしん)である勢至、観音菩薩となる。
- したがってそれらの子珠を、修行する一つ一つの積み重ねと考えれば、それをつまぐることによって、一段ずつ修行の位を昇ってゆき、やがて佛果に至る、ということではないだろうか。
- また、それをつまぐるとき、母珠を越えることができないのは、ほとけの上には、それ以上の位が無いから、これを越えられるはずがない。だから子珠は、母珠の所まで繰っていって突き当たると、それからまた引き返して始めからつまぐる。これは、佛果を成就(じょうじゅ)したあかつきにおいて、身をまた下位に引き戻し、衆生(しゅじょう)を済度(さいど)するという意味があるとされている。
- 寅さん
- 数珠一つについても、いろんな意味が含まれているんですね。ほかに数珠の功徳といったものがありますか?
- ご隠居
- 「金剛頂瑜伽念珠経」に次のように書かれている。
- と、説かれている。
- ――身口意をきよめる数珠――
- 寅さん
- 私はこれまで、数珠というのは、ほとけさまの前に出るときのアクセサリーぐらいにしか思っていませんでしたが、ご隠居の話だと、数珠にはそれを持つことじたい、自分自身を清浄にしてくれる浄化作用があるわけですね。
- ご隠居
- そのとおり。数珠を身に帯びることによって、五逆十悪を寄せつけない。
- つまり、数珠を手にしたかたちが、すでに邪念悪心に立ち向かう姿なのであって、身口意のおこないが、おのずから清浄にならざるを得ない。
- まして読経、念佛、焼香、礼拝(らいはい)のとき数珠を手にしていれば、その功徳は倍加する。
- われわれは、人間の生まれついた性(さが)として、ついつい欲心を起こしたり、腹を立てたり、うぬぼれたり、おろかなことをしたり、と、いろいろ良くないことを平素しがちなものだ。
- けれども、数珠をつまぐり、ほとけさまに対するときは、そうではない。きれいさっぱり邪心が洗いぬぐわれて、善心が生じる。
- 先ほどの「金剛頂瑜伽念珠経」に、念珠結縁(けちえん)の功徳を説いてこういっている。
- 「もし、数珠を頭上にいただき、あるいは耳に、あるいは頸に、あるいは肘に掛けるならば、その人の言辞はすなわち念誦(ねんじゅ)と成って三業を浄める」
と。 - 寅さん
- 三業をきよめる?
- ご隠居
- 三業(さんごう)は、身口意の三つによってつくる善悪のおこないのことだ。
- したがって三業が穢(けが)れるとは十悪業(殺・盗・淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪・瞋・癡)のことであり、三業を浄めるとは不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪淫(ふじゃいん)・不妄語(ふもうご)・不悪口(ふあっく)・不両舌(ふりょうぜつ)・不貪欲(ふけんどん)・不瞋恚(ふしんに)・不邪見(ふじゃけん)の十善戒のことをいう。
- また、言辞がすなわち念誦になるとは、数珠は、さっきも言ったように、そういう功徳のあるものだから、すくなくとも普段から数珠を身に携帯しているほどの人は口にする言葉までやさしく、美しい。かりそめにも、他人の悪口を言ったり、二枚舌を使ったり、嘘をついたり、おべんちゃらなどは決して言わない。
- いや、そんなチャランポランなことを言おうとしても、数珠を手にしていると、数珠の手前、恥ずかしくて言えなくなるわけだな。
- だから、「数珠功徳経」というのに、こう説いている。
- 「もし、かりに佛名(ぶつみょう)、陀羅尼(だらに・善をたもち、悪を起こさせない秘密のことば)をよく念誦することができなかったとしても、念珠を手に持ち、あるいは身に所持しているならば、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、その人の口にする言葉にいたるまで、すべてほとけを念じ、陀羅尼(だらに)を誦(じゅ)する功徳とまったく同じであり、佛果を得ること無量である」
とある。 - さらにまた、身口意の三業が清浄(しょうじょう)であれば、たとえ念佛念誦(ねんじゅ)しなくとも、ふだんより発している言語じたいが、そのまま念佛であり、また念誦である、とも説いているな。
「我が国は小国のうえ、辺境にあるため、しきりに周辺の国々から侵略されて食糧不足をきたし、悪疫が流行して人民が大いに困窮しております。
そんな状態なので私は日夜心のやすまるときがありません。
如来がおひらきになった佛法というものの偉大さ、奥深さ、尊さのことを聞くたび、いつも佛教を渇仰(かつごう)し、どうかしてそれを修行しようと思いましたが、うまくゆきませんでした。
そこで、ねがわくば慈悲をもって、忙しい国政の合間においても修行できる良い方法があれば、その要点となるところをお教えねがえませんでしょうか」
お釈迦さまが仰せになった。
「もし、煩悩業苦(ごうく)を滅しようと思うなら、木患(むくろじ)の種子一百顆(個)に穴をうがってつらぬき、それに糸を通してつねに肌身につけて、心を乱すことなく精神を統一し、至心に佛法僧を唱えながら、ひとつひとつむくろじの珠を繰るがよい。
このようにして百遍、千遍と繰り返し、一万遍それをすると、百八の煩悩を断除するであろう」
と。
聞いた勅使がナンダ国へ帰り、そのことを国王に報告すると、王はたいへん喜んで、はるかにお釈迦さまを頂礼(ちょうらい)し、早速にむくろじの数珠を一千連つくり、王族一同に与えて善業を勧めた、というのが、どうも数珠の起源のようだ。
「煩悩を滅しようと願うなら、つねに数珠を身体から離すことなく所持し、専心に諸佛の名号(みょうごう)を念ずべし。
手に数珠を持ち、心の上に当てがって静かに考え、雑念を捨て去り、そして頭上にいただき、あるいは頸(くび)に掛け、あるいは肘(ひじ)に置く。
数珠を頭上に戴けば、無間(五逆の罪を犯した者が絶え間ない苦しみを受けるという八大地獄の一つ)をきよめ、頸に掛ければ四重(殺・盗・淫・妄)を浄める。
数珠をまた手に持ち、あるいは肘(ひじ)に掛ければ、人々の罪を除き、念ずる人自身の身口意(しんくい)をことごとく清浄にせずにはおかない」