はたして佛教各宗は世尊の本意に

全号に引き続いて、今から約百年前に、宗教関係のある新聞に掲載された、投書子と回答者の、一問一答をご紹介いたします。
 

はたして佛教各宗は世尊(釈尊)の本意にかなっているか?

質問 天竺(インド)から中国、そして日本に伝来した仏教は、多くの宗派に分かれ、現在十二宗三十余派に分派して、それぞれ各宗派の信者がその宗派の教義を信奉(しんぽう)して、おのおの信仰箇条を異にしております。
  そこでお尋ねしたい。これらの宗派はいずれも世尊の本意にかなっているのか、またはそうではないのか——

 各宗にたいする小生のおもいは、
--分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を眺めん--

ですが、しかし、いま各宗各派の動向を冷静に観察すれば、おたがいに「わ
が宗こそが世尊の本意である」とがむしゃらに自宗に固執(こしつ)しているきらいがあるようです。
  かりに釈尊がこんにち、ご存生であれば、こういった状態をどのようにお思いになるか、憂慮に堪(た)えません。ねがわくは、この小生の妄をひらくためにご解答を切望する次第であります。
 
回答 禅語のなかに「答は問処に在り(答えは質問内容の中にすでに表出している)」という古語があります。
  貴方が提示された疑問も、またそのとおりです。
  したがって貴方の質問にお答えするより、むしろ、貴方の意見を引用して、これを証明したほうがよく分かるのではないでしょうか。
  なぜならば、各宗各派の信仰箇条は、はたして世尊の本意にかなうかどうか、というとき、貴方が引用した「分け登る麓の道は多けれど——」の歌意を考えれば、その解答はおのずと出ているのではないかと思います。
  ただ、ここで特に言っておきたいのは、貴方は各宗各派が自己の属する宗派に固執するのは良からぬことのように思われているふしがあるようですが、はたしてそうでしょうか?
  固執は、固結(堅く結び合うこと)であって、心を一つの境地にとどめるために、その目的に到達するのが早いばあいもあります。
  たとえば「浄土宗」のごとく、一心一向(いっしんいっこう)に阿弥陀仏を専念口称(くしょう)するをもって行(ぎょう)とし、「禅宗」のごとく念仏修懺看経焼香礼拝(ねんぶつ・しゅせん・かんきん・しょうこう・らいはい)を用いず、只(ただ)打坐(たざ)して、心身脱落せよと教え、「日蓮宗」のごとく、もっぱら行者をして題目を唱えしむ、そして「真言宗」においては、行者をしてもっぱら三密(さんみつ)相応(そうおう)の三摩耶(さんまや)に住(じゅう)せしむるがごとき、すべからく、その目的にできるだけ早く達するためです。
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 諸宗の祖師、開山が、ひろびろとして果てしない一大佛教のなか、
純粋かつ分かりやすい、それぞれ一宗をお開きになったゆえんは、すべての衆生(しゅじょう)にその依(よ)るべき所の方向を指示されるためでした。
  なぜならば、仏法というものは、大海のごとく、はなはだ茫漠(ぼうばく)としてとらえどころが無く、われわれ衆生は、いずれの宗派がより優っているか、その選択に迷い、いずれの方向に向かって修行すべきかを知らない。
  かくして迂回(うかい・まわり道)の小径に彷徨(ほうこう・さまよう)する衆生をあわれみ—-念仏(ねんぶつ)是れ正因なり、座禅是れ直入(じきにゅう)なり、信仏是れ正業(せいぎょう)なり、題目是れ直道(じきどう)なり、止観(しかん)是れ円入なり、法界(ほっか)是れ道場なり、
三密(さんみつ)是れ即証なり、と、おのおのいずれも仏法の正門一心の直路(じきろ)を指定し、しかして、なるべく早く真如法性(しんにょほっしょう)の名月を衆生に望ましめようとの、お祖師方の慈悲心であります。
  したがってわれわれは、単純自力の一路をめざすのも、あるいは単純他力の一路をめざすのも、もとより自由ですが、可及的速やかに「おのおのご縁のある宗旨」に帰入(きにゅう)して、ひたすらなる信仰に没入することが何よりも肝要なわけです。
  いたずらに法の深浅、宗の優劣を論じ、各宗各派の宗義は釈尊の本意にかなっていないのではないか、といった疑問をもつこと自体仏法修行の大きな障害(さわり)となります。
  かかる「さわり」は五蓋(ごがい)のうちの一つであり、最も戒めねばならぬものですから、そのような雑念は速やかに払拭し自己の宗旨を、あれこれ迷うことなく選択することが何よりも大切です。

 けだし往生(おうじょう)得道(とくどう)の成否は、文章表現の上手下手や言葉の多寡(たか)ではありません。
  在家信者の立場としては、宗派の優劣、法門の深浅などあげつらうことなく、ただ一筋に、自分に因縁のある宗旨を信仰して、誠実に修行することこそいちばん大事なことであります。
  いまだ一宗の奥義(おうぎ)にさえも通じていない未熟な身でありながら、安易に日本佛教各宗を教判(教相判釈・きようそうはんじゃく)するがごとき態度は、あたかも蚊子(ぶんし)の鉄牛を咬まんとする行為より、はるかに愚かなことです。厳に慎むべきです。
  昨今、世の中の人間が傲慢(ごうまん)になって、何ごとに限らず、ろくろく知りもしないのに知っているようなふりをよそおい、世界のことはすべて一呑みにしたような言辞を吐き散らかし、軽薄なる批評を加えたりする。
  仏法を習う人においても、とかくその傾きを拭えない。仏法においてはこれを増上慢(ぞうじょうまん)人という。
  この増上慢人は、とてものこと信解行入(しんげぎょうにゅう)するのは至難(しなん)であるが、貴方の場合、知らないことは知らないこととして、今回のように疑問を寄せられた。これはたいへん殊勝(しゅしょう)なお心掛けです。けれども、次のことだけは、よく弁(わきま)えてほしい。
  従来、人おのおの縁のある各宗各派の教義を心底信じてその教えを良く理解し、修行に忠実なる者はかならず往生得道し、しからざる者は、みな邪境、悪道に堕落したものであることを—-。
  このようなものは、たとえ釈尊の出世(仏が衆生を救うためにこの世に現れること)があるといえども、また、いかんともなしがたいと言わざるをえません。

経文拝読の功徳はいかに?

質問 誦経(ずきょう)はいかなる功徳(くどく)を有するのか。たとえば、お経に書かれている内容もよく分からないまま誦経したとして、それがはたして死者への功徳になるのでしょうか?
  また、木仏画像にたいして誦経すると、それでいかなる利益(りやく)を得ることができるのでしょう? これらの疑念(ぎねん)が胸中に鬱積(うっせき)しておりますので、ご回答を願います。
 
回答 読経することは、師僧について学び、貴方ご自身が御利益や御加護を実際に頂かれて、不可思議な宗教的な体験をなされることがなによりのことです。
  仏は精神的な治療にたけた医師のごとく、また、経は良薬のごときものですから、信頼厚い医師の処方箋によってこれを服用すれば、かならず効能(こうのう)があるように、「誦経の功徳」もそれと同じように、あるいは現世の利益(りやく)を得、あるいは未来の利益を得ることになります。ただし、それらの功徳は経文によってそれぞれ異なり、かならずしも、同一ではありません。
  このように仏の経文には不可思議な功徳があって、何気なく単にそれを読誦(どくじゅ)するだけでも、洞徹(とうてつ・はっきりと知り尽くすこと)なる神識(しんしき)を有する冥界(めいかい)の人々は、それらをよく聞き分けることができるのです。
  書かれている意味さえ心得ず、単に読誦するだけで利益があるという経文の功力(くりき)ですから、内容をよく理解し、これを信じて誦むときは、不可思議のうちに必ず功徳があるのは当然です。
  たとえば薬を服用するに似て、服用者は薬のことにはまったく無知であっても、医師から奨(すす)められた薬を、病が平癒(へいゆ)すると信じて服用すれば必ず効果があるように、ひたすらに仏を信じ、拝み、誦経三昧に入るときは、必ず仏意に通ずるものと、ご安心ねがいたい。
  また、お尋ねの、木仏、画像等にたいしての誦経のことですが、自らが仏と信じて、美しく尊いと観ずればすでに単なる木像・画像ではなく、尊信する礼拝の対象、仏の分霊であり、読経することは、それは、成仏への誦経三昧(ざんまい)を成就(じょうじゅ)するためのひとつの手段であって、これという善き対象を定めることによって、雑念を払い、精神を一点に集中させる一助ともなるからです。そんな側面もあるわけです。
  仏身は法界(ほっかい)に充満して、いずれの場所において念仏しても良いようなものですが、とかく凡夫の心はとりとめがなく、雑念が多いゆえに、それらをまとめて一処に集中するためにも、佛像の前に念仏すれば、より効果と利益があるというわけです。誦経もまた、かくのごとしです。
  ただし、お経にもそれぞれ向き不向きがあり、あるいは報恩のためにする誦経、あるいは追善(ついぜん)のための、あるいは所願成就(じょうじゅ)のためにする誦経と、いろいろあります。
  したがって、その利益は千差万別ですが、誦経者の「心得」ひとつで利益の厚薄があることも忘れてはなりません。

  鷲にさらわれた嬰児が
    遠い他国で父親に再会した話
                    「日本霊異記」より
 飛鳥川原の板蓋宮(いたぶきのみや)に宇御(あめのしたおさ)められた皇極天皇の御世、癸卯年(みずのとうのとし・六四三年)の春三月、但馬国七美郡(たじま
のくにしづみのこおり・兵庫県美方郡)の山里の、或る家に可愛い嬰児(みどりご)がいた。
  ある日のこと、その子が家人といっしょに中庭に降りて、草の上をハイハイしたり、よちよち歩きしたり、機嫌良く遊び戯れていたとき、家人がちょっと目を離した
ほんの一瞬のすきに、一羽の大鷲(おおわし)が幼女を爪にかけて空へまい上がり、東を指して羽ばたき去った。
  とつぜん鷲に愛児を奪われた両親は、八方手を尽くしてわが子の行方を捜し求めたが、杳(よう)としてその所在は分からずじまいにおわった。
  父母は悲嘆にくれながら、不仕合わせな児のために、ささやかな仏事をいとなみ、心から冥福を祈った。
  こうして八年が過ぎて、難波の長柄の豊前宮(ながらのとよさきのみや)に宇御(あめのしたおさ)められた孝徳天皇の御世、庚戌年(かのえいぬのとし・白雉元年、六五○)秋八月下旬、鷲に愛児をさらわれたあの父親が、たまたま所用のため丹後の国加佐郡(舞鶴湾を臨む土地)あたりまで旅をし、まだ日の高いうちに、とある一軒に宿をとった。
  長い道中でほこりまみれの足をすすごうと、水場は何処かとキョロキョロ見まわしているちょうどその折り、その家の娘とおぼしき童女が、水桶をかかえ出掛けていく姿があった。
  これさいわいと後についてゆくと、湧き水を囲んで数人の子どもがめいめい水を汲んでいた。童女もそのなかに入って水汲みの作業に取りかかると、なぜかそこにいる子どもたちは、素直に童女を迎い入れなかった。
  そればかりか、手荒く童女の小桶を奪い取ると、声をそろえてなにやら一斉に囃したてた。
「やーい、おまえは、鷲(わし)の食い残しの分際のくせに、どうして俺たちの水を汲もうとするのか」と口汚く罵り、水場から追いだしてしまった。
  みんなから寄ってたかっていじめられた童女が泣きながら帰ってくると、その家の主(あるじ)が訊ねた。
  「どうした? 何があった? またいじめられたか?」
  両肘( ひじ)をはって顔を覆(おお)い、ヒクヒクしゃくりあげている童女の傍(そば)から、これまでの光景を逐一見ていたくだんの父親が、その間の事情をつぶさ
に話し、そして、あらためて主に訊ねた。
「ところでこの娘さんは可哀相に村の子どもたちから、鷲の食い残しと口々にあざけられ、邪険にされていましたが、差し支えなかったら、そのわけを話してもらえま
せんか」
  家の主人は昔の記憶をたどりながら、とつとつと話しだした。
「あれはたしか、これこれの年の某月某日のことでした。わしは鳩を捕ろうとして大きな木に登っておりました。
  そのとき突然、嬰児をかい込んだ鷲が、西の空から飛んできたとおもうと、巣で待つ雛の餌として与えるつもりか、いきなり嬰児を巣の上にばさっと落としました。
  鷲の爪牙からやっと解き放たれて人心地がついたか、火がついたように泣きだした嬰児のいきおいに恐れをなしたのでしょう、雛はあとすざりして、親鳥の持ってきたせっかくの餌をついばむどころではありません。
  わしは全身をつっぱらかして泣く子をそっと抱き上げて、木から降ろしてやりました。その嬰児がすなわちこの子であります」
  忘れもしない、愛児を奪われたあの日のことと今の話はぴったり一致する。どう考えてもわが子にちがいない。
  父は嬉し涙に暮れながら、鷲に奪い去られた、その時の顛末(てんまつ)を縷々(るる)語って聞かせると、もちろん宿の主人も否やはない。こころよく童女を実の
親のもとへ返すことを承知したのであった。
  偶然に宿を借りた家に、わが子を見つけた父親のよろこびはいかばかりか ——。
  誠に知る。天の慈悲、父子の深い縁(えにし)の不思議を。これ奇異(めずら)しきことである。

大日如来の仮実如何

これからご紹介するのは、いまからざっと百年前、真言宗の宗徒 とおぼしき熱心な「信者」が、仏教関係の新聞に投書し、それに対して「学識者」がその質疑に答えた内容の文章です。
 
大日如来の仮実如何

質問 真言宗では「大日如来」という「ほとけさま」をたいへん尊崇(そんすう)いたしておりますが、その「仏」は実際に居られるものなのか、あるいは、ほんとうはいらっしゃらないのか、もし、ほんとうに居られるとすれば、いずれの国に生まれたまい、いずくにて成道(じょうどう)せられた
のでしょうか。

 また、もし大日如来が仮立(けりゅう)の存在であるならば、何故、あえて、大日如来という名称 を付して自性法界宮(じしょうほっかいぐう)に居所をお定めになったのでしょうか。
 如来の有無ならびに自性法界宮 の所在、いかが決定(けつじょう)すべきでありましょうか。
 
回答 よくこそ良い疑念を提示してくれました。われわれは貴方のごとき人が多くあらわれることを待っておりました。
 さて、仏法をほんとうに信ずるという人は、はなはだ少ないもので、たまにそれを研究してみたいという気があっても、良き師や朋友がなくてはできかねるもので、その師、同好の士を得るということはまことに難しいことです。

 かつて求法(ぐほう)に忠実であった「いにしえの人たち」は、まず「どうか善師、良友に逢わせ てください」と、神仏に祈られたそうですが、これは現在においても、古人のすぐれた事跡を慕い、そのことを神仏に祈る御仁もいる。
 かくいう私も、青年期における求法時代には、そのような立願をしたことがありました。が、信心 が足りなかったせいか、縁がなかったのか、この人こそは、と思うほどの善師、良友に逢うことがで きませんでした。
 たまに、この人ならばと思って、かねてより自分がつみたくわえてきた仏法上の疑問を問いただそうとすると、そこのところは私にも分かりかねます、などと遁辞(とんじ)をもうけて、いたずらに話題を逸(そ)らすとか、まれにこ ちらの質問にたいする解釈を得られた場合にも、あまり感服できな いことが多く、徹頭徹尾満足ゆく 回答を得たことはきわめて少ないのです。

 さて、真言宗のご本尊の大日如来は実有(じつう)であるか、仮立であるか、とのお訊ねでありますが、仮実(けじつ)の沙汰(さた)はしばらくおき、もともと真言宗 の 教理とは どのようなもので、大日如来とは どんなみ仏である か、ということをまず考えてみな くてはなりません。
 そこのところが分からないから、大日如来はいつ頃、何処でお生まれになり、どこにお住まいになっ て、いつごろ成道(じょうどう)されたかなどといった疑問が生ずるわけです。
 そこで、大日如来と釈迦如来とはどこが相違し、どれほどのちがいがあるかということから、まず調べることにしてみましょう。

 元来、「仏」には法・報・応の「三身」があります。
 法身(ほっしん)は大日毘盧遮那仏といい、その毘盧遮那(びるしゃな)を大日とも、あるいは遍 一切処(へんいっさいしょ)とも 訳して、これを常恒(じょうごう)不変の仏としています。
 顕教では真如法性(しんにょほっしょう)の妙体を法身と名づけ、密教では、地・水・火・風・空・識の「六大(ろくだい)」を法身とするので、この六大も、そして 真如も、ともに天外地外(宇宙間)に充満して寸隙(すんげき)だに れております。

 大日というのは文字どおり太陽のことで、太陽がくまなく万物を照らし慈しむがごとく、一切処に遍(あまね)きがゆえです。
 したがって、そういった何かが何処かにあるというわけのものではなく、この天界地界のすべてがそのまま大日如来の仏体なのであります。
 また、この天界地界のなかにおいて、おこなわれている諸活動の真理そのものも、大日如来の仏心にほかなりません。

 ゆえに一切衆生の心のなかにも一個の大日如来が厳然と存在する。
これを自性(じしょう)天真仏ということもある。否な、われわれのこの身体も六大法身であるから、龍樹祖師(りゅうじゅそし・八宗の祖師・龍猛)が申されたように、「もし人、菩提心を発(おこ)し、仏慧に通達すれば、父母所生の身に速やかに大覚位を証す」るのである。
 したがって、死してのち未来の成仏(じょうぶつ)を論ずるのではなく、「この身このまま」の成 仏を論ずるのであるから、真言宗を「即身成仏」の宗義というのであります。

 しかし、これは言うはたやすいけれども、真に加持顕得(かじけんとく)の地位に至りうることはきわめて至難であります。
 いわゆる報身(ほうじん)とは果報(かほう)の仏身ということであり、凡夫が修行の因縁によって成道作仏(さぶつ)の大覚位を証得したのです。その顕得した果仏を真の大日というのですから、十方諸仏が成道なされた場合は、すべて大日如来とおなりになるわけです。
 この大日如来が、その本地法身 の法界体性智(ほっかいたいしょうち)に住(じゅう)したまうを、自受用(じじゅよう)三昧(さんまい)自受用法身と申します。

 また、その大日如来が大円鏡智(だいえんきょうち)三昧(仏教的な瞑想、境地)に住せられれば 阿門如来(あしゅくにょらい)といい、平等性智(びょうどうしょうち) の三昧に住せられるのを宝生如来(ほうしょうにょらい)といい、 妙観察智(みょうかんざっち)に 住せられれば阿弥陀如来といい、 成所作智(じょうしょさち)の三昧に住せられるのを不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)というので、これを、他受用報身と申します。
 ゆえに十方の諸仏如来は、すべて大日毘盧遮那の分身化生(けしょう)というわけです。

■観自在註 〔四智〕眼・耳・鼻 ・舌・身の前五識、意識、末那識(まなしき)、阿羅耶識(あらやしき)という有漏(うろ)の心を転じて取得する仏果位、すなわち成所作智、妙観察智、平等性智、大円鏡智のこと。
 阿羅耶識(あらやしき)を転じ て得られる智は、「大円鏡にもろ もろの色像を現ずるがごとく、 如来の鏡智の中によく衆生(しゅ じょう)の善悪業を現ず」ること により、大円鏡智と呼ばれ、この 智は諸智一切の因であるところか ら大蔵ともいわれる。

▼〔智慧〕なお智慧(ちえ)とは、甚深、広大にして無量、無辺であり、有とか無とかいうような、分別(ふんべつ)をもってしてはとらえ難きものであり、無礙(むげ)清浄(しょうじょう)にして不壊(ふえ)不動であるから、無上の 境界(きょうがい)を意味し、またそれを荘厳(しょうごん)する ものでもある。
 智慧は佛菩薩を生み出すもとであり、仏の所依(しょえ・拠りどころ)であって、功徳(くどく)をそなえ、有情(うじょう)にあまねく利益(りやく)を与え、自らを護(まも)り、彼岸(覚悟)へ導くものである。  智慧は仏法の要、真実をとらえるものであるから、煩悩(ぼんのう)を断じ、無明(むみょう)を対治(たいじ)する力を有する。

 そういったようなわけで大日如来は理仏、阿弥陀如来であるとか薬師如来などは智仏とされている。
 この理仏と智仏とを包摂(ほうせつ)して、世間に応現化生(おうげんけしょう)したのが応身の 釈迦如来なのであります。
 したがって、釈尊を本位にして考えるならば、十方諸仏もすべて釈尊の分身であり、化生といってもよいでしょう。
 なんとなれば、我が家は真言宗 だ、浄土真宗だ、天台宗だなどとかれこれ言ってみたとて、仏法は 釈尊以後の仏法であり、釈尊以前においては一仏の名字だに聞くことができなかったのだから、なんとも仕方がない。

 このように法・報・応の三身もせんじ詰めれば、実は一身というわけで、釈迦如来が自受用三昧に住して、さとりのままにお説きになったのがすなわち陀羅尼真言であり、また、他受用三昧に住して大乗根のためにお説きになったのが大乗の妙典です。そして二乗凡 夫のために種々の方便言辞をもっ てお説きなされたのが、すなわち小乗の経典です。
 それゆえに釈尊や大日如来、阿弥陀如来といった如来は、それぞれが異なる如来さまといえばそうであり、そうではなく、同じほとけさまだといえば、そのようでもあり、仮立とみれば仮立、実仏とみれば実仏でもあるわけです。
 大日如来や阿弥陀如来は、応身(おうじん)如来のようにこの世に顕われる仏ではありませんから、したがって、生国も成道の年月日 などはありません。

 また、自性法界宮にしても演繹(えんえき・意味を推し広めて説くこと)してこれを論ずれば、尽十方(じんじっぽう)世界、尽十方虚空がことごとく自性法界宮であり、これを帰納(きのう・個々 の具体的な事実から一般的な命題 を導きだすこと)して論ずるとき は、釈尊そのもの自体が自性法界 宮であり、これを「密厳浄土(み つごんじょうど)」といいます。

 しかして、実は「われわれ各自」も一個の自性法界宮である「密厳浄土」の真ん中において行住坐臥 (ぎょうじゅうざが)しているわけです。
 さりながら、われら凡夫の法界宮にまします大日如来は、理具の大日のみであって、釈尊のごとき加持(かじ)顕得の大日法身ではありません。
 したがって、われわれみんな、すべての人間が大日如来の六大法身を具有しているからといって、であるならば釈尊も己れも本質的 に同じではないか、己れと釈尊と どれほどの差異があるのか、まして真言宗は即身成仏、証大覚の宗 門であって、他宗の及ぶところではない、などと自惚れて、ゆめゆ め夜郎自大(やろうじだい・世間 知らずで、せまい仲間うちで威張 ること)にならないことです。

 さて、質問者が何の宗派に属しておられるか知りませんが、質問の趣意が真言宗の教義に関するところから、仮に貴方を真言宗の信者としておくことにします。
 たとえ何宗の信者であろうとも、「仏法」は「実践修行」ということが一番の肝要ですから、ただ教義を見たり聞いたりするばかりでなく、できるだけ加持顕得の方向に心を転ずるのが、仏法信者の本分というものです。

 なかんずく真言宗の教理は深遠高尚ですから、なかなか一朝夕(いっちょうせき)に語り尽くせるものではありませんので、まずはこんなことで回答とさせていただきます。

 観音菩薩みずから
    菩薩身の不滅を示された話
                    「日本霊異記」より
 聖武天皇の御世、和泉の国珍努(ちぬ)の上の山寺に、聖観自在菩薩の木像があって、近在の村人があがめ尊んで供養していた。
 あるとき失火によって、その仏殿が焼失してしまった。
 けれどもどうしたわけか、菩薩 の木像は、誰の手を借りたわけでもなく、難を避けて、焼け落ちた仏殿から二丈(約六メートル)ばかり離れた場所で、うつぶせとなって、すこしの損傷がなかったという。
 誠に知る、三宝の非色非心、目に見えずといえども威力なきあらぬことを。
 「実ニコレヲ思フニ、菩薩ハ色ニモ現ゼズ、心ニモ離レ、目ニモ見エズ、香ニモ聞コヘタマ ハズトイヘドモ、衆生ニ信ヲ発セシムガ為ニ霊験ヲ施シタマフコト、カクノ如クゾイマシケル」

 三宝に帰信し
   衆僧を欽仰して現報を得る縁
                    「日本霊異記」より
 神亀四年九月、聖武天皇が群臣をしたがえて、大和の国添上(そうのがみ)のとある山村一帯において狩猟を催されたときのことである。
 一頭の鹿が勢子(せこ)の囲みから逃れて、納見(ほそみ)の里にある一軒の農家に走り込んだ。
 家の人たちは、天皇の御猟のことなど少しも知らなかったから、良き獲物ござんなれとばかりに、その鹿を殺してみんなで食べた。
 さっそくにそのことがお上に達し、ただちに役人が派せられて、鹿に舌鼓を打った全員捕縛される仕儀となった。
 思いもかけないこの災難に遭った男女は併せて十余人、頼みすがりつくところも、あてもなく、身体をふるわせ、身の不運を嘆くばかりであった。
 このうえは、ほとけさまのお力以外に、だれがこの大きなわざわいから救うことができようと、ひたすらに思ったのが大安寺の仏像であった。

 大安寺の丈六(じょうろく)の仏像は、人の願いをよくお聞き入れになるとの評判であり、また大安寺は、これから皆が向かう役所の途中、奈良右京六条三坊にあった。
 そこで彼らは、役人に連行される直前に、使いを大安寺へやって「私たちはこれより縄を打たれて役所へ引っ立てられることになりますので、お寺の南の門を開けて佛像を拝めるようにしておいてください。そして私どもが役所へ到着する頃合いに、鐘を撞いてくださいますように」と頼んだ。
 大安寺はその願いを聞き入れた。

 衆僧は門を開いて経を転じ、彼らが授刀寮(じゅとうりょう・宮中護衛の詰め所)へ収監される頃 合いを見計らって鐘を鳴らした。
 それから幾日も経ぬある日、めでたく皇室において皇子がご誕生され、朝廷ではそれを寿(ことほ)ぎ、天下に大赦(たいしゃ)がおこなわれた。
 獄舎に繋がれていた人々も刑罰をまぬかれたばかりか、かえって官から賞与を賜り、歓喜もひとしおであったという。
 誠に知る、丈六仏の威光、誦経 (ずきょう)の功徳(くどく)なることを。 

三宝を信敬し「現報」を得る縁し

「日本霊異記」より
大花位(だいけい・冠位十九階のうちの七番目にあたる。 冠位階は様々ある)大伴屋栖古の連の公(おおとものやすこの むらじのきみ)は、紀伊の国名草の郡宇治(和歌山市紀三井寺) の大伴の連等の先祖(とおつおや)である。
 
 大伴屋栖古はつねに三宝(仏・法・僧伽)を信敬し、生まれつき心が清らかな人柄であったという。彼のことについて記述された書物を調べると次のようにある。

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 敏達(びたつ)天皇の御世、和泉の国の海中から、奇妙な音が聞こえてきた。それは笛や琴で奏(かな)でる妙なる楽の音(ね)のようであり、はるか彼方の空から伝わる遠雷のようでもあって、明るい昼間は音が、夜になると海上一面光輝いて、東を指して流れてゆくようなあんばいであった。
 
 大伴屋栖古はその奇怪な現象を天皇に奏上(そうじょう)することにした。けれども天皇は、彼の話に耳をかすことなく、ただ黙したままであった。
 ならば皇后に、と屋栖古がその話をすると、皇后から「汝、行ってたしかめてみよ」とのお許しがあったので、人づてに聞きながら探して行くと、そこには、落雷に撃たれた大きな樟(くす)がころがっていた。

 「高脚浜(たかあしのはま・大阪堺市の浜寺海岸)に大樟が一本流れ着いておりました。屋栖古は、その樟を彫り削って仏像をつくり たく存じますが、如何でございましょうか」
 飛鳥に帰ってきた屋栖古が皇后に言上すると、「そなたの思うようにしたらよろしかろう」とのお言葉があった。
 
 さっそくそのことを大臣(おおおみ)の蘇我馬子に報告すると、馬子もまた共によろこび、池辺直氷田(いけのべのあたえひだ)に 仏像製作を差配させることにした。
 氷田の肝入りによって仕上がった仏像は阿弥陀三尊像であった。
 人々は、豊浦(とゆら)の堂に安置されたこの仏像を仰敬する ことかぎりがなかったという。

 ところが、大連(おおむらじ)物部守屋(もののべのもりや)がこれに異を唱え、皇后に苦言を呈したのである。
 「およそ異国の蕃神(ばんしん)にすぎぬホトケとかの像を、この都にかざるなどもってのほかのことであります。即刻どこか遠くへ打ち捨ててしまいましょう」
 
 そうはいっても、元をただせば皇后じきじきのお声がかりによって 作らせた仏像である。たとえ、大連守屋の膝詰め談判といえども 承服するわけにはいかない。
 ひそかに屋栖古を召して「守屋がうるさいことを申しているから とりあえず、あの仏の像をいずれかへ隠してしまいなさい」と知恵を授けた。  
 屋栖古は、皇后の言いつけどおり、氷田と二人で、稲を保管する倉庫の奥深く仏像を隠すことにした。しかし、守屋の追及は執拗であった。
大連守屋は、郎党たちに命じて豊浦の堂を焼き打ちし、屋栖古を呼び出してきびしく責めたてた。
 「正直に言え、あの像をどこへ隠した?いま国家(みかど)に 次々とわざわいが起こるのは、外国(とつくに)より移入してきた 客神(まれひとがみ・仏)の像をこの飛鳥に置き、それを敬う はねっかえりのたわけ者がいるからだ。
 
 国に凶事をもたらす、そのような禍々(まがまが)しいものは、韓国(からくに)のほうに流して捨ててしまうから、はやく客神の 像を差し出せ」と、きつく言いわたしたが、屋栖古は頑強に口を閉 ざしたままであった。
 新来の仏像を信奉してやまない者たちに対する守屋の憎悪は日増しにつのり、やがて、力づくでも忌まわしい崇仏(すうぶつ)派の 連中を根絶やしにしてやる、という強固な決心が彼のなかに芽生え たのである。
 
 こうして守屋がいろいろ策動し、あわせて戦の準備をしているその さなか、用明天皇の御世、天下の権力を馬子と二分した大連物部守屋は あえなく「崇仏派」によってほろぼされてしまったのである。 ほとけ排斥の中心人物・守屋の亡きあと、隠してあった仏像は晴れて 日の目をみることになった。
 今の世、吉野の比蘇寺に安置されて仏光を放つ阿弥陀の像がこれである。
 敏達帝の皇后炊屋姫(かしぎやひめ)が小墾田宮(おはりだのみや)に即位し、推古天皇となった。
 これよりのち推古天皇は三十六年間にわたり宇御(あめのしたおさめ)たまうことになった。
 
 推古即位の翌年(五九三)四月十日、厩戸皇子(うまやどのみこ・ 聖徳太子)を立てて皇太子とする。それと同時に屋栖古は皇太子 の側近くに仕える補佐官の一人に抜擢された。
 推古十三年夏五月、屋栖古は、「汝の功はとこしえに忘れじ」という詔勅(しょうちょく)とともに、大信位(位階十二階中の第七位にあたる)を賜る。
 推古十七年春二月、皇太子は、屋栖古を播磨の国揖保の郡(兵庫県姫路市の西郊)の二百七十三町五段余の水田の司(つかさ・取締官)に任命する。
 推古二十九年の春二月、皇太子斑鳩宮(いかるがのみや)において薨(みまか)りたまう。屋栖古その死を傷(いた)み出家を決意するが、天皇はお聴き入れならなかった。
 推古三十二年夏四月、ある日のこと、一人の僧が斧を手にして、その父親をつづけざまに打擲(ちょうちゃく)する光景を目撃した屋栖古は、その浅ましい仕打ちを見るにしのびがたく、ただちに奏上していわく、「すべてにわたり僧侶の起居は相当に乱れておりますので、そういう者たちの立ち居振る舞いに、目を光らす上座の人を決めて、悪を正し、是非を判定させることにしたらいかがでしょうか」
 「もっともである」と、天皇は大きくうなずかれた。
 
 即座に勅許を得、屋栖古がさっそく僧侶の総数を調べてみると、僧八百三十七人、尼五百七十九人であった。
 朝廷は、百済の僧で元興寺の学僧観勒(かんろく)を大僧正とし、大伴屋栖古と鞍部徳積(くらつくりのとこさか・司馬達等の子孫、鳥仏師の一族)の二人を僧都(そうず)とした。
 
 推古三十三年冬十二月、その当時難波に居を構えていた屋栖古はにわかに卒(みまか)った。けれどもその屍(しかばね)は、えもいえぬ佳い香りがたちのぼっていた。
 そのことを、帝はご存じであったか、ご存じなかったか、屋栖古の亡骸(なきがら)を七日間とどめおくよう指示され、彼の忠を偲すると、それから三日経た日のこと、死んだはずの屋栖古が生き< 返ったのである。  「五つの色の雲がたなびき、その雲が虹のごとく北へ向かってかかっていた。わしはその雲の道をずんずんわたって行った ---- 」と、蘇生した屋栖古が妻子に話はじめた。  「あたり一面名香とまがうばかりの、たいそうかぐわしい匂いが立ち込めていた。ふと気がつくと、道のほとりに黄金の山があり、燦然(さんぜん)としたその光りがわしの顔に照り映えた。    そこに聖徳太子がわしを待っておられた。太子と一緒に山を登ると、黄金の山の頂きに一人の比丘(びく)がいた。  比丘は太子に敬礼(きょうらい)したあと、わしに対して、『わたくしは東の宮の童(わらわ)です。これより八日の後、銛き鋒(ときほこのさき・剣難の意味)に遭うことになりますので、どうぞこの 仙薬(せんやく)を服用してください』と言って、比丘は、手首に巻いた飾り輪から玉を一つ解いて、わしに渡し、「南无妙徳菩薩」と三遍誦礼(ずらい)させてその玉をのませたのであった。    二人のやりとりを、かたわらで見守っていた聖徳太子が屋栖古にお声をかけられた。  『おまえは、これより速やかに家に帰り、仏をつくる場所を掃除しなさい。私も仏に悔過(けか)ししだい、宮に還って仏像を作ろうとおもっている ---- 』と。  こうしてもと来た道をあともどりしているうち、正気づいたというわけだ」と。    この不思議な出来事を、時の人人は「生き返った連の公」と言い、ほめそやしたという。  かくして屋栖古は孝徳天皇六年秋九月、こんどはほんとうに春秋九十有余歳にして卒(みまか)った。  賛にいわく、善きかな大伴連屋栖古、仏を貴び、法に親しんで、情けを澄まし、忠をいたし、寿命と幸福を共に保ち、肉親の愛情を子孫に伝えて生涯を全うした。  それもこれもすべて三宝の験徳と、仏道を護る善神の加護のおかげである。   いまあらためて推察すると、八日後に銛き鋒に遭うというのは 蘇我入鹿の乱のことで、八日とは八年後の意味であり、妙徳菩薩とは文殊師利菩薩のことである。  また、一つの玉を服せしむとは、剣難を免れる薬、黄金の山とは五台山である。  東の宮とは日本の国のことであり、宮へ還り仏を作るとは、勝宝応真聖武太上天皇が日本の国に生まれ、寺をつくり、仏を造ることである。そのとき、大仏造立に尽力した行基大徳は、実は文殊師利菩薩の生まれ変わりなのである。  以上ご覧いただいた「日本霊異記」の記述は、あくまでも僧景戒大伴屋栖古を顕彰するほうにウエイトがかかっているように感じられます。 *「日本霊異記」平安時代初期の仏教説話集、全三巻。奈良時代から弘仁年間(八一〇~八二四)に至る朝野の異聞、ことに因果応報の説話を漢文で記したもの。  仏教が日本へ入ってきたのは日本書紀によると、欽明天皇の十三年(五五二年)、法王帝記、また元興寺縁起、奈良大安寺沙門審祥の記によるとこれに先立って西暦五三八年とされています。  百済の聖明王が、金銅の釈迦仏一体に幡蓋(はたきぬがさ)若干、経論若干巻をそえ、仏教信奉の功徳(くどく)をたたえた表文とともに時の天皇に献上したといわれております。  ただしこれは、あくまでも日本書紀など公けの記述であって、庶人のあいだではずっと以前から仏教は我が国に伝来していたとも言われています。  つまり継体天皇の十六年(五二二)、唐人の司馬達等(しばたつと) が日本へ来て、大和に仏堂を建て、仏像を安置したところ、まだ当時の 人々はだれ一人として、ほとけに帰依(きえ)する者がいなかったということです。  さて、百済の聖明王からほとけの像をもらった欽明天皇はどんな反応をされたのでしょうか?  「百済より献じてきた仏というものの相貌は、まことに端厳で、これまで見たことのないほどのものであるが、このものを敬うべきか、否か?」と群臣に下問されました。  この時代、大和朝廷で最も権力威勢があったのは、蘇我氏と物部氏でした。前者は大臣(おおおみ)後者は大連(おおむらじ)としてならびたって朝政を執っておりました。  まず、蘇我稲目(そがのいなめ)が奉答します。  「西方の国々はみな仏を信奉しております。日本だけ、これを信奉しないというのは、いかがなものかと存じます」  ついで物部尾輿(もののべのおこし)が奉答しました。 「わが国の天皇は、古来より天神地祇百八十神(てんしんちぎ、ももあまりやそのかみ)を尊崇し、季節ごとにそれらの神々を祀られております。なのに蕃神などを信奉されましては、国神(くにつかみ) のお怒りにふれ、たたりがありましょう」    相反する両者の意見に、欽明天皇はお困りになりました。  「どうもよく分からないが、大臣が信奉したいというのだから、これは稲目につかわそう」と、仏像その他を与えました。  稲目は小墾田に小堂をこしらえて安置し、仏法に帰依しました。  ところが、その後、えたいのしれない瘡(かさ)が蔓延しはじめたのです。今でいう天然痘です。  死者が続出してパニックになりました。    それみたことかと、排仏派の物部尾輿が欽明天皇に、  「この前、私の意見をお聞き入れなく、異国の神を信奉させたりなさるので、こんなことになってしまいました。いそぎ、仏法を禁断なさるべきであります」と奏上しました。  帝も反論のしようがありません。  さっそく役人に命じて仏像を難波の堀江(淀川)に投げ捨てさせ、寺を焼かせました。  こうして崇仏、排仏の争いは、一旦は排仏派の勝利に帰しましたが、これですべて決着したのでないことは歴史にあきらかです。  時代が移り、蘇我氏では稲目の子の馬子の代になっており、物部氏は尾輿の子守屋の代となり、相ならんで朝政をとっていました。  一世代をへだて、両者の争いが再燃したのは敏達天皇の御世のことです。  敏達帝は、日本書紀に「天皇仏法を信ぜずして、文史(儒書や史籍)を愛す」とありますから、その性格は宗教的でなく、仏教にたいしてほとんど関心を示さなかったようです。    そういう時代にあっても馬子は己の節を曲げることなく仏法の興隆に つとめ、民衆のあいだに着々と仏教を根づかせていきました。  欽明天皇と蘇我稲目(馬子の父)の娘・堅塩媛との間に生まれた用明天皇 (聖徳太子の父)は、天皇として初めて三宝に帰依される。 (公に仏教を認めることとなる)  蘇我馬子は「武略有りて亦弁才有り。以て三宝を恭敬す」、敏達天皇のとき に大臣に就き、以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇(聖徳太子)の四代に仕え、五十四年にわたり権勢を振るい、寺塔を建立し、仏法を弘通させ仏教を奨励しました。そして天皇や貴族の庇護のもと仏教は隆盛しました。

忠臣、欲少なく、足るを知りて諸天に感じられ、報を得て、奇事を示す縁

故中納言従三位(ちゅうなごんじゅさんみ)・大神高市萬侶(お
おみわのたけちまろ)は大后(おおきさき・持統天皇)の忠臣であ
った。日本書紀にこうある。
  「朱鳥(あかみとり)七年—- 持統六(六九二)年壬辰の二月、
諸司に詔(みことのり)して、三月三日にあたりて、伊勢に幸行
(いでま)さむとす。この内意を知って諸準備をせよ」と。
  そのとき、大神高市萬侶卿(きょう)は文書をもって奏上(そう
じょう)し、天皇をお諌(いさ)めした。

 「三月初旬はあたかも播種(はしゅ・種まき)の季節にあたり、
そのような時期に、天皇行幸はなにかと農民をわずらわせ、農事の
妨げとなりますので、思い止まられたらいかがでありましょうか」
  けれども天皇は、その諌止(かんし)をお聞き入れにならず支度
(したく)を急がせた。
  高市萬侶は、中納言の職を返上する覚悟で、再三にわたり、持統
天皇の翻意(ほんい)をうながしたが、天皇の聞くところとならず、
伊勢行幸を強行されたのである。
    *  *  *
  高市萬侶卿は単なる忠臣のみならず、きわめて清廉(せいれん)
な人柄でもあった。
  ある年のこと、旱(ひでり)がつづき、大和平野一帯の田畑が
すっかり干上がったことがあった。
すると卿は、己が田の取水口をみずから閉ざして、わずかに流れる
小川の水を、他の百姓たちの田に施(ほどこ)したのであった。そ
うこうするうち、やがて灌漑(かんがい)用の小川も涸れはてて他
田に施す水も尽きてしまった。
  この高市萬侶の善行に、天上界に住む諸神が感応(かんのう)し
てか、竜神(りゅうじん)が雨を降らしたのである。それも、雨は
高市萬侶の田のみに降りそそぎ、その余の土地には一滴の雨も降ら
ない。まるで卿の持ち田の上空だけを区切るように低く雲がたれこ
めて、恵みの雨が降りしきり止むことがなかったという。
  これはすなわち、高市萬侶卿の徳義の大きさ、まごころのいたす
ところである。
  賛にいわく、「修修たり(すぐれたり)神の氏、幼き年より学を
好み、忠にして仁有り。潔くして濁ることなし。民に臨み恵をつた
う。水を施し、田を塞ぐ」と。
    *  *  *
  上に紹介した今回の日本霊異記の説話は、一見なんでもないよう
な話のようですが、これは、ただ単に、中納言の大神高市萬侶が、
持統天皇の伊勢旅行を止めるようにお諌めしたという単純な話では
ないようです。
  また、「日本霊異記」の彼の名前は、大神高市萬侶としてありま
すが、通常の呼称は「三輪高市麻呂」といい、彼は三輪山のふもと
一帯を支配する豪族、三輪氏の氏長です。したがって、大物主大神
(おおものぬしのおおかみ)のまつられている三輪神社の代表者と
いう立場でもあるわけです。

 その大物主大神の代弁者ともいうべき高市麻呂が、「その冠位
(かがふり)を脱ぎて朝(みかど)に檠上(ささ・敬の下は手)げ、
重ねて諌めて曰く、農作(なりわい)の前に、車駕(きみ)未だ
以ちて動くべからず」と必死に止めたにもかかわらず、「天皇は
諌(こと)に従はず、遂に伊勢に幸す —–」とあります。
     *  *
  では、持統天皇は何のために伊勢へ行ったのでしょうか。それは
大王家(天皇家)の新しい宮づくりのためであったようです。
  その当時の伊勢神宮は、海の神と太陽の神を祭る地方の一神社に
すぎませんでしたが、大王家では、伊勢は日の昇る神聖な土地である
として、この片田舎の神社に目をつけ、そこに内宮(ないぐう)を
新たにつくり、大王家の氏神を祭ることにしました。その神が、す
なわち天照大神というわけです。
  こういう新しい神に、古い神を守護する三輪氏が反対するのは、
当然です。
  天照大神(あまてらすおおみかみ)が伊勢神宮に祭られることに
なったのは、そもそもいつ頃からでしょうか。通説では、だいたい
天武、持統時代であろうと言われております。

 それも、壬申(じんしん)の乱当時、天照大神はまだ伊勢神宮に
は祀られておらず、アマテラスを伊勢神宮の内宮に祀ったのは、
壬申の乱の勝者・天武天皇の可能性が高いとされています。そして
アマテラスが皇祖神になったのは、八世紀になってからであるとい
うのが定説のようです。

壬申の乱

   天智十(六七一)年十二月
   天智天皇崩御(ほうぎょ)
   大友皇子が即位(弘文天皇)
   翌、六七二年六月
   壬申の乱が起こる
   七月 近江朝軍が敗北し
   大友皇子が自害する
   六七三年二月大海人皇子が即位
   天武天皇となる 

 壬申の乱はどのようにして起こったか、「日本書紀」は次のよう
に記述しています。
  死の病床にあった天智天皇が、弟の皇太子・大海人皇子(おおあ
まのみこ)を枕元に呼んで、後を頼む、といいます。しかし大海人
皇子は体調不良を理由に、天皇の申し出を断ります。
  そして、
「鬢髪(ひげかみ)を剃除(そ)りたまひて、沙門(ほうし・法師)
となりたまふ。東宮(もうけのきみ・大海人皇子)天皇にまみえて、
吉野にまかりて、修行仏道(おこなひ)せむと請(もう)したまふ。
  天皇許す。東宮即ち吉野に入りたまふ—-」とあります。
 
 大海人皇子は、「後事をおまえに一任するから、よろしく頼む」
という天智(てんぢ)天皇の言葉が、自分に仕掛けられた罠である
ことを、すでに見抜かれていたのです。そのため皇子は皇太子位を
みずから退き、出家されたのです。

天皇の胸のうちは、皇太弟を廃して、わが子大友皇子に譲位する
ことにありました。しかしながら自分の亡きあと天皇位は、おそら
く大海人皇子の掌中に帰するところとなるであろう。多くの人々の
信望の厚い大海人皇子と若年の大友皇子とでは、まるで比較になら
ないからです。
  それならいっそのこと、自分の目の黒いうちに大海人を抹殺して
しまうことだと、天智天皇は考えたのではないでしょうか。

大海人皇子は、そんな天皇の心をいち早く察知し、沙門の姿に、
妃の讃良皇女(さららのひめみこ・のちの持統天皇)をともない、
近江大津の都から逃げるようにして吉野宮滝へ向かったのでした。
  近江朝側の機先を制し、機敏に進退を処した大海人皇子の行動を
近江の群臣たちは、「虎に翼をつけて放てり」とくやしがりました
が、それでも、手を拱(こまね)いて見送るしかなかったといわれ
ております。
  このような経緯を経て、「壬申の乱」は起こったのでした。

天武天皇の御代 (みよ)
 
天智天皇は、大海人皇子が吉野へ脱出した後、しばらくして崩御
されました。それ以後、吉野宮滝に隠遁(いんとん)する皇子のも
とへ、大津京の不穏な情報が刻々ともたらされてきます。
  このまま座視していては、やがて近江朝から差し向けられる兵に
よって抹殺されるだけである。
  ならばやるだけである、と決断し、大海人皇子はついに挙兵され
たのでした。といっても、それは貧弱な武具で武装した総勢二十余
人の舎人(とねり・天皇や皇族の近侍)、それに、讃良妃と御子の
草壁皇子、ほかに女人たち数名の集団にすぎませんでした。
  吉野を出発した大海人皇子の主従一行は東国をめざします。兵を
募って伊賀、伊勢国、尾張国へ、そして、美濃国に到るころには、
すでに近江朝軍と十分対等に戦えるだけの兵力に膨れあがっており
ました。
  それは大海人皇子が、近江朝側と対決せざるをえなくなった事情
を説き、行く先々で「であるからお味方つかまつれ」と檄(げき)
を飛ばした結果です。伊勢、尾張、美濃の国宰頭(くにのみこともち
・長官)の全面的な支持を得、軍事的協力の約束を取りつけること
ができたからでした。
  こうして両軍決戦の火蓋が切られました。六七二年六月、晩夏の
まだ暑い盛りです。大海人軍は不破関を出ると、琵琶湖の北東(米
原のあたり)より湖岸に沿って南下し、兵を大津京へと進めました。
  なお、冒頭に紹介した三輪高市麻呂が忠臣と称されるゆえんは、
ほんらい彼は近江朝の重臣であったにもかかわらず、この戦のさい
大海人側に与(くみ)して、倭古京(やまとこきょう・飛鳥地方)
に攻めてきた近江朝軍と応戦し、これを撃退したからです。そして
上述したごとく持統天皇への直言などあって、のちに、白鳳の大夫
(ますらお)として讃えられた硬骨漢でもありました。
  かくして、戦は大海人皇子側の勝利におわりました。
  翌六七三年二月、大海人皇子は即位して、天武天皇となられまし
た。 

持統天皇のこと

淡海(おうみ)の海
   夕波千鳥汝(な)が鳴けば
   情(こころ)もしのに
   古(いにしへ)思ほふ
 
これは持統朝の初年、柿本人麿が女帝のお伴をして近江を訪れた
さい、荒廃した大津京址(し)を見て詠んだという名歌です。
  歳月がながれて、壬申の乱の勝者天武天皇が崩御され、かわって
皇后{櫨鳥-木}野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が即位され
ました。
  持統天皇です。彼女について日本書紀は「深沈(しめやか)にし
て大度(おおきなるのり)まします」と記しています。

 業績として持統天皇は天武天皇の遺業を受け継ぎ、飛鳥浄御原令
を施行、庚寅年籍(こうごねんじゃく=戸籍)を作るとともに、藤原
宮を造営されました。この時代に大化改新以来の古代律令国家建設
はほぼ完成したとされています。

 天武天皇は六八〇年に皇后(後の持統天皇)が重病になったので
病気平癒を願って「薬師寺」の造営を発願されました。天皇の祈念
が叶えられ皇后の病は奇蹟的に快復されました。
  ところが今度は天武天皇が発病され皇后が病気平癒を祈願し天皇
は快癒されました。その後、薬師寺は六九八年に七堂伽藍を完成、
落慶します。
  お二人のみ仏さまへのご祈念は、ひろく国民全体にお薬師さまの
ご利益(しやく)をひろめせれる大きなご慈愛でありました。

 持統天皇は仏教を保護し、遺命によって天皇としては初めて仏式
に荼毘(だび)に付されました。「政務は常のごとくにして喪葬の
ことはつとめて倹約に従え」とされ、薄葬をすすめ、民衆の苦役や
財政疲弊を減らされました。
  古代には殯(もがり)という風習があり、遺体をすぐ葬らずに殯宮
(ひんきゅう)に安置して白骨化するまで近親が弔い仕えるもので
二-三年に及ぶこともあり、更に大きな陵墓の建設があり、大きな
負担でした。持統天皇は火葬され、遺骨は骨壷に奉安され、夫帝の陵
に合葬されたました。

 では、持統天皇はどのような女性だったのか、その生い立ちから
みていくことにします。
  彼女の父は天智天皇、母は右大臣蘇我倉山田石川麻呂の娘で遠智
娘(おちのいらつめ)ですから、これ以上望めない最上層の出自と
いえます。しかし祖父の石川麻呂は謀叛(むほん)の罪をでっちあ
げられて、天皇より死を賜(たまわ)ります。
  最愛の父を、自分の夫によって謀殺(ぼうさつ)された遠智娘は
大きなショックをうけ、傷心のうちに亡くなりましたが、彼女は、
天智天皇とのあいだに二人の娘をもうけておりました。大田皇女と
讃良皇女です。
  そして二人のこの姉妹は、天智帝の弟大海人皇子へ気前よく与え
られます。つまり叔父と姪の婚姻です。いくら古代のこととはいえ
同じ男を夫にした姉妹の気持ちはどうだったでしょう。
  幼くして母遠智娘を失い、たった一人の姉大田皇女と、夫の愛情
を奪い合うかたちで暮らさなければならなかったわけですから。
  やがて、讃良(さらら)は草壁皇子を産み、すこし遅れて、大田
皇女が大津皇子を産みました。しかし二皇子が少年期に達したころ、
大田皇女が病死します。母を失った大津皇子でしたが、彼は聡明で
たくましい青年に成長しました。
  ところが一方、讃良が産んだ草壁皇子のほうは身体が弱く、性格
もいたって平凡でした。誰の目にも明らかな二皇子の差異に、讃良
の心が穏やかであるはずがありません。
  まして彼女はこれまで大海人皇子と共に苦しい戦いを勝ち抜き、
夫を天皇位につけたいちばんの功労者という強い自負もあります。
  そういった皇后をおもんばかってか、天武帝は大津皇子ではなく
草壁皇子を皇太子としました。

天照大神と持統女帝
 
朱鳥元年、天武帝が亡くなると、讃良皇后は素早く行動を起こし
ました。大津皇子の謀殺です。
  帝が亡くなったのは九月九日、大津皇子の謀叛が顕れたのが十月
二日です。そして翌日大津皇子は死にました。天武帝が亡くなって
から一ヵ月を経ず、謀叛が発覚してから、たった一日で大津皇子は
皇后によって死んだのです。

 どう考えても、彼女は目障りな大津皇子を抹殺する日を待ってい
たとしかおもえません。しかし、彼女のそういう必死の努力もむな
しく、持統三(六八九)年、草壁皇子は皇位に就くことなく病死し
ます。忘れ形見である軽皇子(かるのみこ・のちの文武天皇)を
のこして。

 唐突ですが、ここで日本書紀を引用します。
  天孫降臨(てんそんこうりん)の際、天照大神が天孫の邇邇芸命
(ににぎのみこと)に敕をさずけます。
  「葦原(あしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)
の国は、是、吾が子孫(うみのこ)の王たるべき地なり。爾(いま
し・汝)子孫(すめみま)、就(い)でまして治(しら)せ—-」

 アマテラスは、息子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあか
つかちはやひあめのおしほみみのみこと)を瑞穂の国に行かすはず
でしたが、実際に瑞穂の国へ降臨するのは、アメノオシオミミでは
なく、その子のニニギでした。
  この長い名前をもつアマテラスの嫡子は影が薄く、アマテラスか
らニニギへ、つまり、祖母から孫へ皇統を渡すというかたちです。
アメノオシオミミはいったいどこへ消えたのでしょう。もしかする
と彼は若くして死んだのかも。夫が死に、子が若死にしたとすれば、
祖母は孫にその国を委ねようとするのは当然のことです。

  持統天皇の謚号は高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)です。
  このアマテラスのニニギにたいする感情は、持統帝の文武天皇に
たいする感情にあまりに酷似しているにおもわれませんか。

お釈迦さまの八相成道

 仏教といえば、仏さま、日常で「仏さまのようなお人柄」と言れる
と慈悲心の厚い人を表わすめ言葉に使われます。
 日本では、ご先祖さまや亡者、霊などをも仏さまと言うことも  
多く、人が亡くなった時などには、人を「仏」といい、「仏さまに
お参りさせて下さい」と言うことらあります。

 日本人は古来、万物に霊魂、神秘畏敬を感じ、先祖を大切にお守  
りし自然の中で生きてきました。仏教が伝来し神仏習合してからは  
さらに仏道の精進の行が、各々の仕事で「道」を極めるような求道  
(ぐどう)的な生活態度や、勤勉で創造的な民性をつちかって  
きたようです。

 仏教の開祖はお釈迦さま、覚者あり、完成された理想的な人格、 
仏陀(ぶっだ)と尊称され、成仏(じょうぶ)とは釈尊の如く、 
この世で完成された人格を目指し努力すること、慈悲を行い生涯  
精進(しょうじん)することです。

 お盆の月に釈尊の成道をしのび、今月の仏教談義を始めます。

釈尊の八相成道(じょうどう)

 釈尊は無量劫(むりょうこう・はかりしれぬほどの長い時間)の
以前より正覚(しょうがく)を成就(じょうじゅ)され、十方世界
において多くの衆生を利益(りやく)しておられます。  

 釈尊の大悲の願力(がんりき)とその功力(くりき)は十方世界 
はもとより 南閻浮提(なんえんぶだい・われわれの現実世界)にま 
でおよんで、釈尊はしばしば出現されております。  

 お釈迦さまは王子として生まれ、社会的物質的にも恵まれた一青年 
が、老・病・死という私たち人間の現実の有り様に深く悩み、道を  
求めて出家成道なされ、私たちはそのことに思いめぐらす、生涯の  
試練苦難にお導きを頂きます。  

 その釈尊が一生のうちに、八つの段階を経て、かくかくしかじか  
で私たちの世界へ出現されることになったいきさつを、八つの重大  
事相、釈尊の八相成道(はっそうじょうどう)といいます。即ち、  

 降兜率(ごう とそつ)の相
 託胎(たくたい)の相、
 降生(こうしょう)の相、
 出家の相、
 降魔(ごうま)の相、
 成道(じょうどう)の相、
 説法(せっぽう)の相、
 涅槃(ねはん)の相

の八相といわれるものです。 
〔一説に、住胎、嬰孩(えいがい・あかご)、愛欲、楽苦行、降魔、 
 成道、転法輪、入滅ともいう〕 では、この八相とは一体どんな 
ものなのか、ざっとみていくことにしましょう。

一、降兜率の相
 これは、兜率天(とそつてん・欲界六天のうちの第四天で欲界の 
浄土とされ、弥勒菩薩が住するところ)から釈尊の下生(げしょう) 
を意味して、下天の相ともいわれ また兜率天は「この欲界の境に  
おいて足ることを知る」ということなので知足(ちそく)と翻訳され 
ることがあります。
「因果経」に、功徳行願を満たして位十地、さらに等覚位に在って 
兜率天に生まれて諸天の主となった聖善菩薩は、十方世界に種々の 
身を現じて、一切衆生(生きとし生けるもの)のために説法された。 
そして作仏の時、まさに到らんとして、五つのことを 観念された。 
その一は、もろもろの衆生の機根(きこん)が どれくらい熟してい  
るかを観じ、その二は、下天(げてん)の最良の時を 推(お)しはか 
り、その三にもろもろの国土のうち、いずれの国が 最適の地である 
かを観じ、その四に、その国の いかなる種族が善良であるかを観じ、 
その五に、過去の因縁(いんねん)等を閲(けみ)して、誰が父母と  
して最もふさわしいかを観じ、而(しか)して下生のことを決定さ  
れた、とあります。 

 この聖善菩薩の「五観」は、これくらい周到に準備しておかないと、 
たとえ、菩薩が下生し、この世に出現されたとしても、ひろく衆生  
を済度することができないからではないでしょうか。 

 そのとき聖善菩薩は、最初に大光明を放ってあまねく三千大千世 
界(さんぜんだいせんせかい)をお照らしになると諸天が鳴動し、 
大地もそれに呼応し 須弥山(しゅみせん)も大海もことごとく震動 
しました。
 おどろいた諸天衆が菩薩のもとへ馳せつけて、これはいったいど 
うしたことか、とたずねますと、聖善菩薩が次のようにお答えにな 
りました。
「諸天のみなさん、よくお聞きください。いわゆる 諸行は 無常  
(常では無い)です。
 五趣(ごしゅ・地獄、餓鬼、畜生、人、天)のうち、天界にある 
あなた方は、有情(うじょう)としては最上の存在であることにち 
がいありませんが、仏教では、その天衆といえども輪廻転生(りん 
ねてんしょう)の一環から 免れることはできません。 

 長寿をたのしむことができたとしても、その寿命が尽きれば、  
死んでまた苦しみの世界を行きつ戻りつする運命にあるわけです。 
だからこそ、これからもぜひ解脱(げだつ)を心掛けて努力を惜し 
まないようにねがいます。
 わたしはこれよりこの天界から閻浮提へ下生し、出家して仏道を 
行じ、正しい法を説いて 悪趣の門を閉じ、浄く八正の道を開いても 
ろもろの者を利益(りやく)しようと思います」

 これを聞いて諸天衆は、涙を流して名残を惜しみ、深くその無常 
を嘆き悲しんだということです。

〔八正・はっしょう。八聖道ともいい、八種の正しい賢聖たちのふ 
みおこなうべき修行徳目という意味で、初期佛教以来の、仏教にお 
けるもっとも基本的な生活や仏道修行のあり方をいう〕

 八つの徳目とは、正しい見解(正見)、正しい思考(正思)、 
正しい言葉づかい(正語)、正しいおこない(正業)、正しい生活 
(正命)、正しい努力(正精進)、正しい注意憶念(正念)、正しい 
禅定(ぜんじょう・正定)。

二、託胎(たくたい)の相
 釈迦如来はその昔、五十一位等覚の菩薩として兜率天にお住まい 
になりましたが、やがて南閻浮提に下生され、菩提樹下に坐して、 
妙覚果満の仏身を成就されました。 
 なお、釈尊がまだ兜率天に在ったときのお名前が、さきの「因果 
経」では聖善菩薩でしたが、「仏本行経」では、これが護明菩薩と 
なっています。 
 その釈尊の前身である護明菩薩は下生にあたって、次のようなこ 
とを規定し条件とされました。 
 まず最初に、仏のご誓願は五濁の悪世に出現するとありますので 
釈尊はみずからの出世のタイミングをはかり、この機をおいてほか 
にないという時に下天されました。 
 そして下生の地としては清浄の気にみちみちた天竺国をえらび、 
種族として天竺国の王族をお選びになりました。そして最後に、そ 
の王族のうちのどなたを生母とするかを考えにかんがえて、浄飯王 
の后である摩耶夫人の胎内に入ることにし、兜率天から白象に乗っ 
て降天されて、摩耶夫人の右脇にお入りになった、ということです。 

〔五濁(ごじょく・この世に起こる五つの汚れのこと)〕 
 劫濁(時の汚れ)、煩悩濁(欲と悩みの汚れ)、衆生濁(悪人の 
汚れ)、見濁(種々の悪見)、命濁(人の寿命がしだいに縮まる) 

三、降誕の相
 その母となる浄飯王の后(きさき)摩耶夫人が、四月八日の朝、 
大勢の童女を伴って、藍毘尼園でそぞろ歩きをたのしみ、無憂樹の 
美しい花の一枝を右の手でまさに摘もうとしたその時でした。 
 胎中にあった護明菩薩が、人間のすがたに現じて夫人の右脇より 
徐々に出胎された、とあります。 

「菩薩処胎経」にそのさいの模様が次のように記述してあります。 
 —- 釈尊が 弥勒菩薩にいわれました。 
 「言い伝えられてきたごとく、弥勒よ、あなたは こののち五十六 
億七千万年を経て、この菩提樹下において 無上正覚を成ぜられるで 
あろう。
 わたしは右脇より生まれたけれども、あなたは頂上(物のいちば 
ん上部)から生まれてきて、わたしの寿命は百歳(釈尊はそれを二 
十年短縮して末世の者たちにお恵みになったので、七十九歳で入滅 
された)であるが、弥勒菩薩の寿命は八万四千歳(釈尊出世の頃は 
人間の寿命は百歳そこそこであったが、弥勒菩薩が出世成道の頃の 
世界の寿命は八万四千歳となる)である。そして、わたしの国土は 
衆生の苦しみが充満しているけれども、あなたの生まれる世界は  
平安そのものである」と。
 こうして、この世に誕生された釈尊は、蓮のうてなの上で、難陀 
龍王、優婆難陀龍王が、虚空から一温一涼の清浄水をそのお身体に 
そそぎかけるなか、ただちに四方を七歩ばかり歩まれ、「天上天下 
唯我独尊」とお唱えになりました。 
 それにつれて天龍八部が中天より妙なる音楽を奏で、大空一面に 
天花を降らしました。 

四、出家の相
 釈尊十九歳、まだ悉多太子(しったたいし)であった頃、世間の 
見聞をひろめて、老病死の苦相を観じ、沙門の姿に接して 出家学道 
の志を発して、父王に出家を申し出られましたが、お許しがありま 
せんでした。
 そこである夜半、ひそかに城門を抜けだして、林中において苦行 
する跋迦仙人の許(もと)をおたずねになりました。これが すなわち 
出家の相です。

五、降魔の相
 降魔(ごうま)とは悪魔を降伏(ごうぶく)させることです。魔は 
梵語では 魔羅、漢語に翻訳すると能奪命というそうです。 

 この魔は四種に分類され、生死魔、煩悩魔、五蘊魔の三種を内魔 
といい、のこる一つの天魔を外魔(げま)といいます。仏の降魔は 
むろんこれら四魔の覆滅にありますが、諸経論においては、降魔は 
主として天魔の降伏に重点をおいているようです。

〔五蘊・ごうん。この現象世界、とくに、有情の身体と心を五つの 
要素に分類したもので、色受想行識蘊からなる。色は有情の肉体を、 
受は感覚や感情を、想はそれらを知覚する働きを、行は一切の心の 
働きを、識は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚など、感覚器官より生 
ずる認識のこと〕

 以下は釈尊成道以前の話です。 
—-第六天の魔王が思いました。もしも釈迦に成道されては、我が 
所領が狭くなる。なんとかしてその事態を回避しなければと、群臣 
を招集して軍議を開きました。席上、たくさんの発言が相次ぐなか 
つぎのような提案がありました。 
 幻術に長じた欲妃、悦妃、快観、見従という四人の女がおります。 
 おまけに四人ともたぐい稀なる美女ぞろいですので、その者たち 
を活用することにしては いかがでしょうか。 
 魔王はさっそく四人の女を派遣して、悉多太子の浄行(じょうぎ 
ょう)を乱すことにしました。
 魔女どもは腕によりをかけて念入りに化粧をほどこし、色っぽい 
薄絹を身にまとうと、修行中の太子を取り囲んで、「なにとぞ私ど 
もを召使としてお側においてくださいませ」と、しなだれかからん 
ばかりの風情で頼みました。が、太子はすでに、この女たちが魔女 
であることをご存じでしたので、いとも慇懃に諭(さと)して申さ 
れました。 
「汝らは かつて福業を植え、ゆくりなくも天女としての身を授かっ 
たのに、いまは その美しい容姿とはうらはらに、心根は邪悪そのも 
のである。そんな汝たちがどうしてわたしに仕えることができよう、 
すみやかに天に還りなさい」 

 悉多太子に一蹴され、太子の神通力によって 醜い老女と化した 
彼女らが すごすご天へ引き返しますと、魔王は大いに怒りました。 
 ただちに六天八部の軍隊に号令をかけ、八十億の魔兵を動員して 
太子のところへ進軍せしめ、熱鉄丸と弓箭(きゅうせん)を雨あら 
れと放ちましたが、それらはすべて空中にとどまって蓮華となり、 
いっかな悉多太子を攻略すること あたわず、とうとう魔軍の総退却 
ということになりました。これを降魔の相といいます。

六、成道の相
 太子はなんなく魔軍をやっつけ、かつ、内魔をもことごとく覆滅し 
尽くしてのち、禅定に入り、その翌早朝、東天に明星のいずる頃、 
菩提樹下に坐して豁然(かつぜん)大悟し、にわかに無上道、最正覚 
を成就されました。 
 釈尊このとき三十歳。出家されたのが十九歳ですので、一般的に 
これを「十九出家三十成道」という成句によって伝えられています。 

七、説法の相
 かくして成道ののち、釈尊は思惟(しゆい・考えおもう)なさい 
ました。
—- わたくしが悟りえたこの法を、はたしてどの程度、人々の理解 
するところとなるであろうか。この法が人々の理外のものであるなら 
ば、あえて法を説くことなく、このままむしろ涅槃(ねはん)に入る 
べきか —- とつおいつご思案になっているとき、たくさんの人々が  
釈尊のもとへ やってきて 説法をお願いしましたので、鹿野園(ろ  
くやおん)において 四諦の法輪をお説きになりました。 

 それ以後 四十九年間、釈尊は、横説縦説頓漸半満五時八教の法門 
を開かれました。 

〔四諦・したい。苦(現在の苦悩)集(肉体や財産への執着)滅(苦 
をなくした安楽の境地) 道(道を思って修行する)の、迷いと悟り 
の因果を 説明する 四つの真理〕 

八、涅槃の相

 涅槃(ねはん)とは「滅度」のことです。滅とは一切の煩悩の滅し 
たこと、そして「度」とは「生死(しょうじ)の此岸(しがん)より 
煩悩の氾濫する中流を渡りきり、涅槃の彼岸に到るという意味です。 
 釈尊といえども 成道する以前、渡らねばならない煩悩の障壁が、 
まったく無かったわけではないでしょうが、それらを 打ち砕く鉄の 
意志と深遠な思惟でもって 成道を果たした末、一期の仏寿を終えら 
れ 無余涅槃(むよねはん・煩悩の残余のない涅槃)の世界に住せら 
れることになりました。 
 釈尊の入涅槃は仏寿七十九歳、天竺波羅奈国の拘尸奈城(くしな 
じょう)の近く、跋提河(ばつだいが)のほとりにある沙羅双樹の 
林間で、八十億の大衆(だいしゅ)に前後を取り巻かれ、涅槃経と 
遺教経を説きおわり、寂然(じゃくぜん)として、眠るがごとく  
お隠れになりました。