弥勒菩薩・お釈迦さま・空

■五億年経ったら帰って来る■

寅さん 話をむし返して申し訳ありませんが、前号の判じ物みたい
な「詩」、あれが気になってしようがない。あの詩はいったいどう
いった意味のことを言っているんですか?

ご隠居
 留守と言へ
 ここには誰も居らぬと言へ
 五億年経ったら帰って来る

 というあれか。白状すると、じつはわたしもよく分からない。
 この詩の作者、高橋新吉という人は、二十代後半から座禅を始め、
没年まで熱心に参禅して、ずっと自己を見つめつづけた宗教人でも
あったといわれている。
 で、彼にはこんな作品もある。

 私は死ぬことは絶対に無い
 一度死んだからである
 二度も三度も死ぬことは
 頭の悪い証拠だ
       (1952年「高橋新吉詩集」)

寅さん ——?

ご隠居 「一度死んだ」、とは、悟ったことを意味してる。悟りの
体験は「自己を忘れる」、つまり自我の死を体験したことにほかな
らない。
 禅の悟りを「大死一番、大活現成」という。自我の自分が無いこ
と、つまり「無我」を体験し、死ぬことのない仏性(ぶっしょう)
とまったく平等無差別である自己が、そこにあることを発見し、
それが真の自分だ、と悟った。だから私は絶対に死なない、と言って
いるわけだ。

寅さん なるほどね—-、それはそれとして、さっきの「留守と言
へ—-」のほうは、どういうことになりますんで?

ご隠居 よいか、この地球という惑星は、誕生してから四十億年と
されている。
 他方、仏教では、お釈迦さまが入滅(にゅうめつ)されて五十六
億七千万年後、弥勒菩薩(みろくぼさつ・慈氏、慈尊とも尊称され
る仏。釈迦牟尼仏に次いで仏になると約束された菩薩、釈尊の救い
に洩れた衆生をことごとく救われる)がこの世を救いにやって来ら
れると説いている。
 そこでこの作者は、地球の実年齢の四十億年を少々サバを読んで
五十億年ぐらいに勘定し、さらにお釈迦さまがお生まれになったの
も、地球のできた頃と、きわめて大雑把に計算してしまった。
 五十六億七千万年、引くことの五十億年だと、のこりは六億七千
万年ということになるが、そこの端数は区切りのよい数字に切捨て、
あともう五億年もしたら、ありがたい弥勒菩薩さまがこの世を救い
にやって来られるから、もうすこし辛抱しなさい、いま救いを求め
てきても、ここには誰も居りませんよ、と弥勒菩薩になりかわって
代弁した、というふうな解釈ではどうだろう?

寅さん へえ、「留守と言へ」というのは、弥勒菩薩さまの返事だ
ったわけですか。
ご隠居 断定はしないが、そうも考えられるといってるわけだ。
 ところで、この高橋新吉の計算式でゆけば、我々はなにも五十六
億七千万年待たなくても、あと五億年経てば、この世を救済に来ら
れる弥勒菩薩をお迎えすることができる。でも、ひとくちに五億年
というが、これは途方もなく長い時間だな。

 中学の時に教わった地質時代の勉強を思い出せばおよその見当が
つくだろう。六億年から二億年前にかけての古生代、それから中生
代(約二億五千万年前から六千五百万年前まで)になって、やっと
この地球上に恐竜が出現し、その恐竜も今から六千五百万年前の新
生代には絶滅してしまった。
 弥勒菩薩はこのように、気の遠くなるような宇宙的時間をついや
して、遠い未来、この世を救いにやって来られるというのだから、
話のスケールが大きい。

■菩薩(ぼさつ)の定義■

寅さん なぜ弥勒菩薩はそのように気の長い、しかも、腰の重たい
菩薩さまなのでしょうね。もっと早くいらっしゃればよいのに。

ご隠居 うん、それにはまず菩薩という性格の定義付けを、ここで
きちんとしておかなければなるまいな。
 菩薩とは何か? 辞書を引くと、菩薩とは、無上の悟りを求め、
衆生(しゅじょう)を教化(きょうけ)し、仏道を成就(じょうじ
ゅ)しようとする修行者。仏の次に位するものとある。梵語のボデ
イサトバの音訳語で「覚有情(かくうじょう)」とも訳される。
大乗仏教では「自利」「利他」を求める修行者をめざす。
 この菩薩という概念は、お釈迦さまが仏陀となられる前の修行時
代のことを想定してできたものであろう。
 つまり、お釈迦さまは幾度となく生まれ変わり死に変わり、ある
ときは国王や商人に、また、奴隷や、鳥や獣にまで身を変えて修行
された時代があった。その修行時代のお釈迦さまが、すなわち菩薩
なのだ。
 菩薩から仏陀になられるのは、お釈迦さまお一人にかぎったこと
ではない。未来に仏陀となるものは、現在においてもお釈迦さまの
ように修行に励んでおられるはずだ。過去にも未来にもたくさんの
仏陀がおいでになるのだから、いつの時代にもたくさんの菩薩がい
らっしゃるという考え方だな。
 つまり菩薩とはそういうものであるようだ。

 菩薩は「慈悲」と「犠牲的精神」の権化(ごんげ)だから、この世
のすべての人々を救いおわるまでは、自分だけ悟って、その境地に
安住してはならないと固く心に決めていらっしゃる。
 つまり、自分はもう悟ったのだから一般社会などとは関係ない、
自分は自分だけの絶対的寂静(じゃくじょう)の涅槃(ねはん)に
あそぶ、などといった心境には、けっしてならない。あくまでも人
々とともに歩んでゆく心がまえをくずさない。
 弥勒菩薩もそういった菩薩であり、そしてお釈迦さまがこの世に
派遣される一番最後の菩薩さまということになろうかな。

■六種の完全な徳■

ご隠居 「般若経」のなかに描かれる菩薩の多くは、従来私たちが
描いている菩薩のイメージとはすこし異なる。出家僧であるとはか
ぎらないし、超俗的でも孤独でもない。
 その反対に、にぎやかな町なかの立派な邸宅に、大勢の男女にか
しずかれて住むお金持ちなのだ。 高い教養があり、弁口(べんこ
う)がたち、人々に尊敬され、しかもハンサムときている。そして
なにか問題が起これば、町のため住民のために、誠意をつくして、
事態の処理にあたるという土地の有力者なのだな。
 要するにたいへん世俗的な活動家タイプの人物といえるだろう。

「八千頌(じゅ)般若経」に登場するある家長の話も、そういうタ
イプの菩薩を描いている。
 この主人公は、一家眷属(けんぞく)を伴って旅に出るが、ふと
したことで密林のなかに踏み迷ってしまう。女子どもをまじえた同
行者たちが恐れさわぐと、家長は「こわがることはない。私がお前
たちをうまく誘導して、まもなくこの密林から出してやる」と言っ
て励ます。そして、どんな困難や危険が迫っても、みんなを見捨て
て、一人逃げ出すようなことはしない。家長はそれぞれの事態に適
した方法をわきまえていて、一つ一つの危険からみんなを守り、つ
いに自分たちの住む町まで全員を引き連れて帰ってくる。

 このように「般若経」は「菩薩」というものを、ことさらに宗教
的な世界のなかに置いていない。
 宗教的な世界と世俗的な世界と区別していないのだな。したがっ
てそこには、世俗的な迷いがあって当然だし、また反対に、迷いか
ら脱して悟ることも当然できるとしている。
 悟りは、迷いと離れて超然とあるわけではない、といっているわ
けだ。

 そして「般若経」は、大乗の菩薩の宗教実践として六種の完全な
徳(六波羅蜜)をあげる。
 完全な慈悲、完全な持戒、完全な忍耐、完全な努力、完全な瞑想、
完全な智慧、この六つだ。
 この六つの徳の上に冠してある「完全な」は、ここでは特別な意
味をもっているようだ。
 たとえば慈善というものは、自分に余裕があるときに、他人に物
を与えるということではない。
 自分の所有しているものはなんでも、場合によっては生命にいた
るまでいっさい他人に与えてしまう。しかも、そのとき、与える側
の自分はもちろん、与える財物や相手を意識しているかぎり、完全
な慈善とはいえない、とされる。
 つまり、与えるという行為は、与える行為でないような性格で
おこなわれなければならない、とされている。
 慈善という自己犠牲に満足し、よい人助けをしたと、己が行為を
美化し、固するのが、ふつう慈善といわれるものの本体である。
 その固執、本体がすこしでもあれば、それは完全な慈善ではない。
 慈善は慈善の本体をもたないとき、すなわち空(くう)であると
き、はじめて完全となる。

 悟りというものも、それと同じで、これが悟りだと、それに固執
するようでは、それは迷いである。悟りが悟りでないときに、悟り
といえる。
 このように、すべてのものに本体はない、すなわち空であると
知ることが完全な智慧である、というのだが、この辺までくると
また話がややこしくなってきた。

■大乗の唯心論(ゆいしんろん)■

ご隠居 お釈迦さまがお説きになった原初仏教は、「縁起」観によ
る無我の思想を基本とするものであった。
 しかし時代が移って、小乗仏教のころになると、諸法は無でも空
でもなく、諸法(あらゆる存在)の「有」を主張する実在論という
ものが幅をきかすようになった。
 けれども、やがて、そういう実在論は仏教の本義に反するとし、
それに反駁(はんばく)して新しい仏教が興ってきた。それが大乗
仏教だ。
 般若経などに代表される大乗経、また、竜樹(りゅうじゅ)の
「中観論(ちゅうがんろん)」などの思想がそれである、とされる。

 では、小乗仏教は大乗仏教とどこがどう違うのかというと、小乗
の考え方が実在論的であるのに対して、大乗のほうは一元的であり、
唯心論的であるのをその特色としている。
〔小乗という言い方ははじめ劣った乗物という意味で、衆生の救済
をせずに自己のみの解脱を求めて利己的なと批判的に名付けられた
ものだが、現在では釈尊の当時のような托鉢乞食(たくはつこつじ
き)、戒律堅固な修道生活をするタイやミャンマーの小乗の僧侶た
ちは社会的な救済活動も行って、尊敬が寄せられている。〕

寅さん 待ってください。その小乗の実在論的というのは、どうい
うことですか?
ご隠居 客観的に「もの」の存在することを認め、実在と認識の一
致を説く理論とでもいえばよいか。
 くだいて言うと、われわれ人間がどう思おうとも「もの」はもの
として現に実際そこにあるではないか、というような考えのことで
はないかな。
寅さん では、大乗の一元的唯心論(ゆいしんろん)というのは何
ですか?

ご隠居 これは、一つの原理でもって、この宇宙のすべてのことを
説明しようとする考え方のことで、唯心論というのは、この世界の
本体(根本的存在)と現象の本質は、じつはわれわれ人間の精神の
はたらきのなかにあるという考え方だ。
 つまり、こういうことではないだろうか。私たちが有ると信じて
いるこの世界は、ほんとうは実在するものではなくて、認識主体、
つまり、私たちが勝手にそう思いこんでいるにすぎないのではない
か —- という考え方のようだ。

寅さん もう一つ「中観論」というのは?

ご隠居 われわれが日常見たり、感じたりしている存在は、すべて
相対的 —- 物事が、他との関係において存在するのであって、
真の実在ではない。存在の真の相(すがた)は、有と無の相対を
離れた「中道」、すなわち絶対の空の立場においてとらえられねば
ならないという。
 そして、すべてのものが空であるという実相は、それが縁起であ
るということの認識において成り立つとされる。
 この中観論は二十七章、四百五十の偈文(げもん)によって展開
されているが、冒頭の八不の偈が有名で、「不生、不滅、不常、
不断、不一、不異、不来、不出」を法の真相であるとして、これを
教えるお釈迦さまを「最上の師」と敬礼(きょうらい)している。

 それともう一つ、存在は空である、という今回の話にまだ出てき
ていないが、唯識(ゆいしき)をはずしては、片手落ちになるだろ
うな。
寅さん 唯識?
ご隠居 ひとことで言うと、すべての現象は心の発現であるとする
というのが、唯識の考え方で、奈良仏教の主流であった法相宗
〔ほっそうしゅう・中国・日本の仏教の一学派、南都六宗のひとつ。
興福寺、薬師寺。六五三年に僧道昭が入唐(にっとう)して玄奘
(げんじょう)三蔵から教えを受けた〕は、この唯識を宗義とした。

 たとえば、ここにリンゴがある。
 このリンゴはここに確かにある(存在している)から有るのか、
それとも寅さんがリンゴを見ているから有るのか、どちらだろう?
 我々がものを知る(見たり聞いたりする)のは、そこにものがあ
るからなのか、それとも知る働きを我々が持っているからなのか、
ということを出発点に、ものとは何か、知るとは何かを厳密に追及
してゆく。
 唯識は、宗教と哲学と論理学がないまぜになった総合的思弁体系
とでもいえば、いいだろうか。
 人々を救おうとしたお釈迦さまの心を知るためには、以上述べた
ように、いろいろ厄介な思想的手続きを必要としたようだな。

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