観自在は十善戒を説く冊子であって欲しい

祝融(しゅくゆう)と言う言葉があって寺院が火災で失われるこ
とですが、本来は中国で火をつかさどる神のことです。また、夏の
神、南方の神などを指すこともあります。祝融の災(わざわ)い、
火事の災難。火災のことも指します。火事は無い方が良い、火事は
貰い火、原因不明の火事、原因はさておいて大変な災難です。
 私は、火事は文字通り、寺の将来にとって祝って融けたと受け止
めています。この災難に打ち勝ち、寺を再建するためには、住職は
大変な努力が必要で、寺を出奔するも可—-、檀信徒の協力を得ら
れて、初めて一人前の住職が誕生します。大きな苦労は人を育てま
す。苦難を乗り越えて一人前になるのです。(田川純照 筆記)

不況は人を育てる働きがある
      苦難を乗り越えた良い後継者が

 観音院を建築するにつけては、言わば戦後の復興という意味もあ
りましたが、大変な苦労でした。広島市内のお寺さんや、いろいろ
な会社なども全部戦後の復興は大変だったと思います。
 アフガニスタンの瓦解の山の首都カブールを東京か神戸くらいに
するにはどうしたら良いか。具体的に考えてみると、困難の予想は
おろか、何処から手を付けて良いかも分からないでしょう。 

 今般の不況は戦後比較的に順調に大きくなってきた日本にとって、
二十一世紀の担い手を育てる「祝融」だと考えれば日本再興の得が
たい機会かも知れないと私は考えます。

 現在の観音院の本堂客殿などは、今から二十三年前に総費用六億
六千万円で建築したのですが、集まった喜捨が六千万円、宗教法人
は借入が大変に困難で、必要な建築費だけでも五億五千万円、喜捨
が六千万円、個人保障で五億円を借入し、十年返済の予定を五年で
終了したのですが、このような性質の苦労は二度としたくありませ
ん。それに仏具が約一億円少々、ゼネコンと仏具屋の債鬼は尋常で
はありませんでした

 本当のところは、この苦労が今日の私にとっては大変な勉強にな
ったのですが、このようなことは、現在の社長さんたちにとっては
日常のことですね。
 債鬼に追われるくらい勉強になることはありません。現在の恐慌
的不況は又とない勉強、工夫、知恵を絞る最良の機会と受け止める
こともできます。
 建物の設計については、単純な構造で、基礎は深く、壁は厚く、
柱は太くと、それだけしか考えませんでした。
 仏具も護摩壇(ごまだん)などは格別な工夫がしてあります。
維持費が少なく、掃除が楽なように考えました。外部から見て寺院
らしい装飾は避け、内部の仏具は須弥壇(しゅみだん)などは上質
な黒御影石(みかげいし)を使うなど、随分と費用を掛けました。

 電算機やパソコンなどは既に導入済みで、当時で代替に五千万円
くらい必要で、ですが、お金が欲しいと思うようなことは一度もあ
りませんでした。
 良い機能をもった寺を作ることに、全精神を注入していました。
金銭について明確に言えば、必要な物品や必要な建物の購入などで、
幾らあっても十分では無かったと思います。そのころ、失神状態で
二週間、救急病院に入院した経験がありますので、心身共に疲労が
蓄積していたのでしょうか。

 経理と運営は公開していましたので役員さんは、はらはらとして
見ておられたのでしょう。止められなかったのは役員さんの信任が
あったのかもしれません。

 私は住職在任十年で引退し、礼拝に専念する予定でしたが、以来
十五年も何だか分からないけれど多忙です。
 一つの原因はインターネットの普及で、ホームページを開設した
ことです。
 全体が一・五ギガもあって、閲覧して下さる人が一日二十万人を
超すこともあり、大変です。内容は十善戒(じゅうぜんかい)の解
釈とでも言えましょうか。
 寺報「観自在」も約二十一年、私の性質は維持することに向いて
いるのかと思うこともあります。

 最近、優れた画像処理の専門家とソフトの専門家を顧問とするこ
とができて、いろいろな企画を実行に移せるようになりました。何
をするにしても人間関係はとても大切です。
 日本テレコムさんと計画していることは、携帯電話に「お守り」
をサービスすることです。
 これには沢山の「お札」の画像を準備し、サーバーに置き、携帯
電話からアクセスを受けて差し上げるようにソフトを製作すること
です。二月中には提供できるよう準備しています。

 インターネットの普及で、楽隠居ができなくなったようなことを
述べましたが、元々楽隠居という発想はありませんでした。礼拝と
瞑想で過ごそうと考えていた生活にキーボードが入って来ただけの
ことです。
 パソコンはIBMのウインドウズMeとソニーのバイオ・ウインド
ウズXP、パワーマックのG4、それに周辺機器を付けて使っています。
 なかなか全機能を使いこなせないのですが、それなりに使うこと
で良いと思っています。
 携帯電話もNTTドコモと日本テレコムのJスカイの二台を使っ
ていて、別に他意は無く、使い比べているだけなのです。
 新しく出てくる技術を使わない言い訳は幾らでもつけられますが、
使って見て評価したいものです。

■苦境は人を成長させると思っています。恐慌的不況も勉強の良い
 チャンスかも知れないと受け止めています。辛いこと、病気にな
 ること、何かの事情で家財を失うことなど全て勉強です。

■昔の話はあまりしたくありません。辛いことや嫌なことは忘れた
 方が楽ですね。人生のやり直しはできません。将来のことについ
ても、明日をも知れない身と思って、語りたくありません。

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2002-3月-2

私だって死ぬのは嫌なことです
    良く眠れて、どこも悪くはありません

 悟れば生死は怖くないかと聞かれるのは馬鹿げた質問です。
 食が進み、どこも痛く無く、夜良く眠れるのは有り難いことです。

 温度の極端な変化は敬遠します。夏冬、部屋の温度を摂氏二十七
度に調整しています。夜は大体、午後九時には横になり、照明など
は十時半に切れるようにセットしています。
 時たま軽い頭痛がありますが、痛み止のポンタール一カプセルで
回復します。右膝は老化でしょうか、早く歩くと、痛くなります。
ゆっくりなら幾らでも歩くことができます。

 咳が激しければ咳止め、軽いケガはシロチンで消毒、一番几帳面
にしていることは、外出から帰ると、手洗いと洗顔と嗽(うがい)
明治製薬のイソジンうがい薬は欠かせません。

 美味しく食べ、良く寝て、気持ちよい排泄、このような快適さが
続くと快適な毎日で申し分ありません。

 年齢なんか思い出すことは少なく、気分としては三十代ですね。
 深刻に死ぬなんて考える予兆は何もありません。誤解が無いよう
に素直に文面通り解釈して欲しいのですが、毎日桜が咲いて花見を
しているようなものなのです。

 私が死ぬ時はなんて、考えたくも無いことです。
 しかし、前述したように「死に掛けた」のか「死んでいたのか」
という意識の無い状態は、五十代早々で経験していて、これは俗に
言われる「臨死体験」と言うか、夢と言うか、まぁ救急病院の集中
治療室で過ごした十日ばかりは苦痛も無ければ、何とも無い、又、
あのような状態になっても平気です。

四苦の内、生死の苦を解脱(げだつ)したからといって、生きて
いれば楽しいことも有り難いことも沢山ある。
 死ぬことは悲しいことだし、家族には大変な苦痛があるでしょう。
私にとって死ぬことは、蓄電池が消耗するのとよく似ているけれど、
多くの信徒さんや職員さんに頼りにされているので、それを裏切る
ような結果は困ります。
 私の写真も彫刻も飾り立てた奥歯も既に用意してあるので、死後
はそれを頼りにしてください。魂魄は観音院に止めておきますので、
見守ってあげます。
 死んだような思いをしたことがあるとお話しましたが、この期間、
私は屋根を工事中の観音院にいまして、参詣される信徒さんを見て
いました。
 これは想い返しても、嫌で悪い経験ではなかったですね。自在に
移動できるし、暑くも寒くも無い、全然疲れないし、不自由が何も
無くて、費用が掛からない。だから、私は死ぬことは歓迎すべきこ
とであっても苦にすることではありません。
 涅槃寂滅の境地は暫く遠慮してこの世に縁をもっていたものです。

 幸いというか、私には沢山の弟子というか友達が沢山いて、死ん
だって孤独ではありません。同じ志をもつ有志をボランティアにし
て、現世の人々の悩みを解決したり、この世から旅立った人たちを
迎えに行ったり、皆さんと相談しながら、あの世の観音院を運営し
て行くつもりです。

 だから、私の息が絶えたとしても葬儀とか告別式なんかしないで
欲しいとお願いしているのです。
 その日は誰もに知らせる必要はありません。日常法要をもって、
この世とあの世の変わり目とし、荼毘(だび)に付したら、観音院
の霊廟(れいびょう)の内持仏(ないじぶつ)の中にお骨を置いて
おけばそれで良いです。くれぐれも騒動してはなりません。追善供
養や法事などはもっての外、生前から自分の礼拝は十分にしてある
ので、供養も法事も必要無し。
 命日では無くて祈願の日にされると良いでしょう。

 若し、皆さんがあの世で迷うようなことがあったら観音院に来な
さい。私があの世の事務所でお待ちしています。

 人が死んだら霊魂はどうなるか、先ずは霊魂が有るか無いかとい
うことが問題になりますが、霊魂は有ります。
 身体は生れたり死んだりしますが、霊魂は輪廻を繰り返してあの
世からこの世へ、この世からあの世へと行ったり来たりします。

 行ったままの場合も、この世に再度、来れないというか、来ない
霊魂もあると思います。
 私たちが愛国心を持つのは、私たちがこの世へ生まれ変わった時
に良い国であることを願うからです。
 子孫のために良い環境を残そうと願うのも同じ動機が底流にあり
ます。
 身体は多くの元素から成り立つ有機体で、死ぬと崩壊します。し
かし霊魂は不滅で、仮りの宿を失っただけです。
 霊魂は身体を制御するもので、身体が機能しなくなりますと去り
ます。

 十善戒は霊魂を浄化するもので、生死に関係無く、幸せを保証し
ます。霊魂の幸せとは輪廻(りんね)が速やかになされ、俗に言わ
れる中陰(ちゅういん)または中有(ちゅうう)の日数が短縮され
ることを意味します。

■四苦八苦は現実ですが、それに左右されることはありません。
 皆さんも少しの決断と十善戒を護持することで、私と同じような
 精神状態になれます。無欲に生きれれば自由が保障されます。

■多くの信徒さんと話して、臨終(りんじゅう)にも立ち会って、
 人が何を求めておられるか知りました。私は、皆さんが死に易い
 ように死後の世界と希望される輪廻(りんね)について保証して
 上げたいと念願します。

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2002-3月-3

 男女平等は選挙権と相続権くらい
       人は皆平等でなくてはならないが

 五障三従(ごしょうさんじゅう)の身とは、煩悩・業・生・法・
所知の五つの障礙(しょうげ)。
 三従とは女性が従うべき三つの道。すなわち、生家では父に従い、
嫁しては夫に従い、夫の死後は子に従うこと。
 法華経提婆達多品では女性の五障としては梵天王・帝釈天・魔王
・転輪聖王・仏身となり得ないと説いてありまして、、、、、、、

『私が説いているのではありません』
 何だか女性差別があるように思います。これらは戦前までの話、
戦後は憲法で男女平等が定められて今日にいたりました。

 しかし、現在でも結婚すれば男性の苗字に統一されるのが普通で、
女性首長とか女性社長などは特別な目で見られる現実があります。

 本当の意味で女性差別が無くなり、この世から一切の理由無き差
別が無くなり、一切の人が平等な社会ができることが私の願いです。

 そのような理由で、観音院は男女の差別がありません。評議員の
過半数は女性です。専従職員も女性が頑張っているように思います。
次の住職も衆望のある僧侶または尼僧から選ばれます。
 観音院に僧籍がある信徒は約百五十名、この中の人は誰でも住職
になられる可能性があります。

 むかし、むかし。女性は極楽浄土に往生することはできない、だ
から、み仏さまの慈悲で「変成男子(へんじょう・なんし)の法」
を経て往生すると、皆さん男性になっていると説かれた時代があり
ました。
 染色体的は、女性はXXで男性はXYと学校では習いましたが、
XYをXXにすることも、その又逆も困難なことと考えるのが良い
と思います。これは生存中の事情で、死後の話とは関係が無いこと
ですね。
 仏典の示す極楽浄土は現代人の知識では想像することも困難で、
地獄も又同様です。冥府も同様です。閻魔さんの存在は怪しいとも
言えます。

日本の女性の仕事のサイクル
        結婚・退職・妊娠出産・育児

 共稼ぎとか共働きは良いことだと思います。ですが、男性が働い
て、女性が家庭を守ると考えている人たちも多く、女性は慎み深く
謙虚であることが望ましいと考えている人たちも少なくありません。

 女性の育児の役割は、大変に負担が大きく、男性の理解と協力は
不可欠です。
 育児を終えた女性が仕事をしたいと願った時、能力相応の仕事を
得ることは難しいようです。このような場合の女性の忍耐や辛抱は
尋常ではありません。それに乗じて日本の企業は安い労力を得てい
るような構造があります。

 会社の教育関係の人の話によりますと、同年齢でも継続して会社
に勤めている人と、結婚・退職・妊娠出産・育児をしている人では
職務遂行能力の差があって同一待遇は難しいそうです。

 さりとて、男性は育児はともかく、妊娠と出産は不可能です。結
婚などによる退職が慣行になっている場合は、不合理に思えてなり
ません。
 相談で一番困るのは、会社の主人の地位を借りて奥さんが威張ら
れる、それが顰蹙を買っている。同様に中小企業などで、社長や専
務さんの奥さんが社内で猛威を振るわれていて周囲が迷惑する。こ
のような場合は社長と専務が話し合われて奥さん達を一緒に家庭に
戻されることが解決になるようです。

一組の夫婦が事業を起こす場合、多くは男性が代表者、奥さんが
会計の担当者という例が多いようです。
 販売に商品開発に、或いは求人などで主人が苦労しておられる、
奥さんが会計で内助の功を立てられる、ここまでは良いのですが、
この過程で奥さんが妊娠出産育児、ここで能力差や認識不足が生じ
ることがあるのです。

 中小企業で二代表性を取ることは無く、ご主人が代表として取引
や契約の当事者に自然となられる例が多いようです。
 このような場合、例えば、事業運営について、ご主人と奥さんの
意見が衝突した場合、論理的でなく、声高に言い募ることでご主人
を抑えられるような場面があります。その根拠に男女同権とか男女
平等を持ち出されるのは大変な筋違いで、企業の将来を過ちます。
 もちろん、逆の場合もあります。どちらが経営の実権を持つかは、
能力に基づいて自然と定まるものです。

 男女間に関わらず、会社の指揮命令系統で、能力や成果の差に基
づかず、待遇の差を平等とか権利と言い張られますと会社の運営は
難しくなります。
 結婚した時から本来は平等であり同権であるはずの当然のことが
夫婦喧嘩的に主張されるなら、その家庭は終わりに近いと考えるの
が適切でしょう。

 私は厳密に男女平等同権の立場ですが、集団や組織というものは
しだいに公共性が高まり、業務は役職に基づいて執行されることが
望ましく、だれもが家庭的な反社会的な同権平等を持ち込んだら、
業務執行は成立できなくなりましょう。


男女平等・同権は当然で、男女差別はあってはならないことです。
 しかし性別に関係無い能力差はあります。能力差に基づいて待遇
 などに差が生じた時に平等同権問題と混同できません。


普通の家庭にあって、夫婦間で男女平等・同権が主張される時に
 は、既にその夫婦間に情愛は失われています。或いは一方が頑迷
 で話合いができない状態にある場合が多いように思います。

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