良く考えて確実に自分の意思を伝え、約束は誠実に守る

十善戒(じゅうぜん戒)の内で不妄語・不綺語・不悪口・不両舌の四つは口に関することで、私たちの日常生活で、この四つの戒を守って過ごせれば、最大の信頼を得ることが可能になります。

嘘を言わない、心にもないことを言わない、他人の短所を言ったり自分の長所を言わない、信用を失うようなことを言わない。それほど難しいことではありません。

にも関わらず何故か「物言えば唇寒し秋の風」(芭蕉の句) のように昔から考え定まらずに物を言えば禍を招くとされ、言葉遣いの肝要が説かれています。(鈴之僧正さまのお話を要約/田川純照 記)


用字用語と文脈に注意する。自分の希望を的確に述べる。

何を考えているか分からない、何をしたいのか分からない、目的意識の明確でない人は不幸です。「言語」を除いて、私たちの生活を営むことは不可能です。例えばテレビから音声を除くと、どのような結果になるでしょうか。

音声だけではありません、画像も言語の一部分であるデジタルで管理されていて、言語を除くとテレビ放送自体が無くなります。

私たちが日常使っているワープロから文字を除いたら機器として存在の意味があるでしょうか。

「言語」は人間の証明であり尊厳でもあります。人間が持つ最も重要なものです。

しかるに、人は何故に嘘を言うか、何故に心にも無いことを言うのか、他人の短所を言い、自分の長所をひけらかすのか、どうして信用を失うようなことを言うのか、不思議な生き物です。

それらは全て、実力以上に自分に能力があるように信じさせようとしたり、自分の欠点を誤魔化すことに動機があります。

詐偽(さぎ)は言葉によって相手を誤認させることから始まります。そこから世間が期待して金銭を提供して、最初の約束が守られないと、刑事事件に発展します。

私たちが日常使っている言葉も内容配達証明とか公正証書とか、判決文のようなものでないと即座には信用出来ない一面があるのは本当に悲しいことです。

その上に書いてある文章が本人の意思に基づくものであることを証明するために印鑑証明書を添付したり、連帯保証人をつけたり、録音録画したりして信憑性を高める必要があります。人間は嘘を突くのが当たり前なのでしょうか。

人は誕生して言葉を学習し、無意識に使用することが問題

人が誕生すると取り合えず名前を付けます。届出をする。就学通知書が来る。合格通知書を何枚かもらって、履歴書を書いて仕事に就く。観音院は職員に履歴書を求めませんが、世間一般では履歴書を求めるようです。

仕事は「言葉」を省いて成立しません。打合せ、指示、連絡、報告など全て言葉によります。

生老病死のなかでする契約とか通知などは膨大な量になります。その膨大な言葉の中に、真実もあれば、思い違いも誤解も、想像も嘘も創作も含まれます。

置かれた立場によっては、死刑の判決文も、単なる罵詈雑言も名誉棄損の文書も怪文書も書くことがあります。最悪は「嘘」を遺言として自殺する人すらあります。

欲も得も卒業したと言いながら「偽証」をする老人もいます。

深く考えて発言したり、文章を作成したりすることは普通の状態では出来ないことです。時には慎重に、時には何げなく意思を伝えながら、やがて何も表現しなくなると「死」に至ります。

人が慎重になったり、緊張して考えながら話したり書いたりするのは、多くは自分を売り込む場合であり、その際にも都合の悪いことや、相手に悪印象を与えることは出しません。最悪の場合は、このような重要な場合でも最初から履歴を詐称したり、時には騙す目的で、無い事を有るかの如く説明したりすることもあります。

話をすることは生命の火が灯っているあかしです。よく言われるように「死人に口無し」です。

非常に口巧者な人も筆達者な人もいます。それが他人に幸せをもたらすものであり、情報を適切に開示するものであれば問題はありませんが、人間関係を裂いたり、他人の財産を巻き上げたり、不必要な物を買わせる手段として使われるなら、その人は自覚していなくても悪人であり、自覚していれば極悪人です。

世間には「エスキモーに冷蔵庫を売りつける」ような能力をもつ人もいます。この人は冷蔵庫を売る会社の信用を傷つける人です。

妄語(もうご)・綺語(きご)・悪口(あっく)・両舌(りょうぜつ)は、慳貪(けんどん)・瞋恚(しんに)・邪見(じゃけん)の心から生じるもので、殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(じゃいん)な態度となり、相互に密接な関係があって不幸の再生産となります。

悪いことは三度ある、と世間で言われていますが、そのように甘いものでは無く、打ち寄せる波のように、次々と押し寄せて来るのが悪いことの本質で、二度や三度の悪いことは大した問題ではありません。

悪い履歴は記録され、その人が最善の努力をして、二度と悪いことを考えない、実行しないような立派な人になっても、昔に行って悪い履歴が持ち出され、現在の足を引っ張るのが社会の仕組みであり、現代の社会は人間を更生させないような意地悪な仕組みになっていることは認識しておきたいものです。

事業が失敗するのは、放漫経営であったり、誠実でなかったり、技術力が無かったり、事業そのものが時代に合わなくなったり、お人好しであったり、理由はいろいろあって、必ずしも経営者の資質性格、考え方が悪いとは言えないのですが、不渡りを出すと数年間は銀行取引は出来ません。

手形は割り引いたり、裏書きして現金同様に通用させることも可能です。不渡りとなると、裏書きした人は連帯保証人です。

手形という商業になくてはならない決済の仕組みと信用に傷を付けると、本人がどのように善人であっても商業上の悪人です。

悪事は記憶に止まらず記録されて残される。一度の失敗をなかなか許さない厳しい仕組み

人間の怖いところは記憶し記録する性質です。記録は権限ある人が消さない限り何時までも残ります。善い情報だけを残し、悪い情報を消すことは不可能です。インターネットなどでは検索すれば、瞬時に情報が探し出せる機能があり、個人の些細な忘れて欲しいような情報もなかなか抹消されない仕組みになっています。

人はどのよう人でも話したくない過去の失敗の一つや二つはもっているものです。怖いのは自分でも忘れているようなことを蒸し返す他人がいることで、それらを掘り起こすことを仕事とする興信所(こうしんしょ)という組織もあります。興信所は商事または人事について秘密に調査して、会員または依頼者に報ずる役割を果たすもので、一八三○年にイギリスで創設され、日本では一八九二年に大阪に初めて設立されています。

他人が秘していることを探り出すことは、悪口、両舌に類する行為ですが、商人が取引きを始めるにあたり、相手をよく知っておくことは大切なことかもしれません。

秘しておきたいことに家族の歴史がありますが、お寺に過去帳を見せて欲しいという依頼は案外に多いもので、観音院ではこのような調査は峻拒しています。

ところが悪質な興信所もあってお寺が見せないのだから変な事があるかもしれないと悪い報告文書を作成したものがいます。

過去帳に記載するデータは個人の特筆すべき善行、お寺に対する貢献、死亡年月日、享年、氏名、最近では生前の写真、戒名、施主の氏名と住所、施主との続柄などです。過去帳は施主かその家族しか見せません。だんだんと興信所に過去帳を見せないお寺さんが増えています。それに、昨今出自に関して記帳してあるような過去帳はありません。

観音院の場合は戒名は全て院号居士大姉で、長生きをした年齢に応じて禅定門とか禅定尼になります。得度を受けた人は二文字の僧名を戒名とします。

私どもは「過去帳」は個人のプライバシーに属するものとして祭祀を継承された方以外にお見せすることは絶対にありません。

過去帳には色々と分析出来る要素があります。長生きか短命か、寺を大切にしたか否か、経済力が維持されているか否かなどです。

最近、観音院で開発した過去帳には、故人の声や写真などが保存出来ます。ご本人が望まれれば画像も音声も自分史も子孫に伝えることが可能です。

望まれれば公開も可能ですし、パスワードを付して身内だけに見れるようにすることも可能です。

戒名は授戒して「私は佛教徒では□□と名乗ります」という意味で、生きている内にもらうのが大切なことで、死んで戒名を付けてもらうのは、没後作僧というしきたりで、葬儀の約束事みたいなものです。

没後作僧(ぼつごさそう)というのは、佛教徒なら授戒も受けて僧名も持っている筈なんですが、死ぬまで正式に寺とご縁を結んでおられないので、死人に口無し-、戒名を付けて、剃刀をあてて、一発で僧にしてしまう、乱暴かつ簡便な方法です。

考えてもみてください。生きてるうちは嘘も突き、約束も破り、時には不倫、一生懸命に努力はされたかもしれないが、寺にも寄りつかず、僧侶なんか友人にも知人にもいない。それで死んだら佛式で葬儀をして欲しい。そのようなしたい放題の人の葬儀は僧侶も寺も抜きで勝手にされたらよいのですが、家の宗旨がなんて、何時も申し上げることですが、家は宗教をもつことは出来ません。

で、お寺さんに葬儀を依頼すると、戒名料なんて変なことになってくるわけです。

一つのお寺を維持するには最低でも年間壱千万円は必要です。本堂や庫裏の営繕費、僧侶の生活費や次の住職の養成費などです。それは日常出入りされている檀信徒さんが負担されているのです。

檀信徒平均二百五十所帯として一軒当たり年平均四万円です。寺によっては護持会があって平常時は年間二万円、屋根の修理や子供さんが佛教大学に行かれる時は臨時負担とか、その寺々で仕組みは異なります。

そこへ突然に飛び込んで、にわか檀信徒で葬儀をして欲しい、読経料は幾らか、戒名料は幾らかと聞かれても住職さんは困られることだと思います。当寺は知らない人の葬儀は致したくありませんと断るのは如何なものでしょう。

葬儀は家族や知人の死に際して遺された人たちが哀悼の意を表して見送るのが本来の姿です。

僧侶の立場とすれば布施が幾らか、読経料が幾らかという次元の問題では絶対にありません。

師匠の弟子なり自分の弟子の死は極めて僧侶自身の問題であり、他人事ではありません。

それが何時のまにかサービス対価のようなものが生まれて来て、相場はなどと聞かれると、宗教活動というより一種の商業活動のような面が見られます。

これは何処かが奇怪しいので、一般大衆の嘘と僧侶の嘘が重なって虚々実々の関係が見えて来るように思えます。

大半の寺院の過去帳はパソコンに移行しつつある

多くの寺院でパソコンが導入され、回忌の案内などは自動的に文書が発送出来るシステムになりつつあります。

観音院のこの方向の技術は最先端で、かつ最高水準のものです。

換言すれば、公開すべき運営や財務に関するものと、絶対に公開しない守秘義務があるものが線引き作業が完全に終了しています。

現在3台のサーバがあって、1台は電話線との接続を禁止してあります。このサーバに7台の端末が付いていて、寺院の基幹となる業務をしますが、担当者以外は閲覧もコピーも出来ません。信徒さんの情報が外部に漏れることは構造上有り得ません。2台のサーバは1台は寺院の中にあってDIONで二十四時間接続されていて、インターネット寺子屋のウインドウーズ十台に接続されている他に受付、住職、法主さん場所ごとになど、画像処理にiMACやG3が2台、AカラーA3版などがあります。

残りの1台はプロバイダに預けています。観音院の職員は誰でもメールくらいは書けますが、ぼつぼつ専任者が必要です。

金融界の再編成、企業の吸収合併や離合集散、リストラや失業者の増加、史上最低の金利、史上最高の赤字国債と地方債の合計四七兆円、規制緩和の合唱の中で、愛社精神とか家族愛などが失われ、愛国精神と言う言葉も無くなっている。他人を愛する心が道徳の基盤であるが、物事は「愛」の外でなされる。

あまりにも急激な経済の動向は、従来の規範で考えることが出来ない。やがては国境のような概念も希薄になるのだろうが、宗教や文化の衝突は避けられないものだろうか。発展途上国の労働者と高度文明国家の賃金の差が無くなるまでに、水は低きに流れるように、しかも両者の間に深刻な苦痛が生まれそう。

宗教と経済の関わりについては、曲事が多い。運営と経理を公開すれば、かなりの部分がすっきりすると思われる。寺が存在すること、僧侶を必要とするならば、寺の営繕費、人件費などの総計から、檀信徒が受ける便益については簡単に原価の計算が出来て、虚々実々の駆け引きは不必要になり信頼も増す。

経済とは「経世済民」の略語で佛教語では無いが、世の中を治め、人民の苦しみを救うことで、それが次第に金銭が伴う活動の全てを差すようになった。宗教活動と経済は不可分のもので、関係が無いと規定すれば、寺にぺんぺん草が生え、住む僧侶もいなくなってしまう。宗教が必要なら必要経費分担が望ましい。


失ってみて大切さがわかる言語やイメージ。障害者や高齢者に深い思いやりの心を

法主さんのお話より要約

年齢はそれほど感じていなかったが、先ず目、続いて歯と、世間で言われる通りに加齢による不自由が生じて来ました。

昔、ガス風呂に点火した際、漏れて溜まっていたガスに引火爆発して、炉内のゴミと火が顔面に吹き付け、救急車も無いころで、顔に手を当てて、目医者まで一キロばかり手探りで歩いて治療を受けに行った経験がありますが、頭の中の地図を辿って…、本当に怖い思いをしました。

現在の乗物はGPSと言うナビゲーターを付ければ、電話番号を入力すれば迷うことなく行きたいところへ行けます。

見えないということは大変に怖いことで、海で夜間、それも霧が深い時など、潜水艦と同じ状態ですが、ソナーとナビゲータとレーダーの画面で運転します。

このような場合に電源部分が故障して、何も見えない立場に置かれたことがありますが、それは怖い体験です。実際には懐中電灯があって、修理して、困難は乗り越えたのですが、便利な生活をしていますと、画像を認識することの有り難さは感じないものです。

人の脳波を認識してデータに変換するマシンがあるとか

頭の中で考えたことをデータにしたり、音声にしたり、簡便な作業を行ってくれるマシンが開発されたという話を聞きました。

残念ですが、この話は嘘だと思います。人は頭の中で考えても、書いたり話したりする際には抑制しているものです。

感じたことや欲望が、データや動作になっては大変です。人はさまざまなことを考えながら選択して、口や手に移していて、そこに十善戒も必要になってきます。

それにしても、このようなマシンを付けていては滅多なことは考えられないし、夢も見られない、人間の脳は大変な働きをしていますから、それを言語や画像、動作に変換して取り出すことは絶対に不可能なことで、最近この手の話がよく聞かれますが、出来ないもものは出来ません。

かりに出来たとしても作ってはならないマシンで、クーロン技術を人間に応用してはならないのと同じように公序良俗に反します。

耳が聞こえない、話せない、眼が見えない、時には単独で、気の毒な場合は三重苦の場合もあります。この人たちにとっては十善戒以前に情報を受け取り、自分の考えを伝えることが大切です。

「不邪淫」という戒律と、いわゆる「アダルト」は相容れない概念ですが、性的知識は全ての人にとって重要なものであり、純粋培養的に人が成長し「性」について知識の無い人を作ってはならないと思います。

世間に有る情報の全てを入手することが可能であり、同一条件の基で、十善戒に照合して行為に及ばざるか、どうするか判断出来るような世の中にしたいものです。

殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・慳貪・瞋恚・邪見なることは知っていて、判断して、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見となることが望ましいことです。

点字図書館で見られる書籍はキリスト教関係など数少なく、佛教関係の点字資料はほとんどありません。これは視覚障害者に対して思いを致していないとしか判断のしようがありません。

観音院では、点字パソコン導入の計画がなされていて、今年中には少しは改善されるよう努力がなされています。

コンピュータやパソコンを宗教事務に導入することに、最初は抵抗がありました。これらは人の使う道具であり、武器のように他人を傷つける心配は無く、筆書きがキーボードに変わることに多少の違和感があったのでしょう。

これらを使う上での倫理は情報開示と守秘義務をわきまえることです。経理とか運営議事録などは公開する。個人情報は漏洩しないように万全の措置をとることが必要です。コンピュータはデータのコピーが短時間で且つMOなどの大容量の媒体に簡単に複写出来ますから、寺院にもセキュリティということが重要になります。

寺関係者が使うメールなどは、認証サーバを自前で設置し、ハッカーされないようにすることを計画しています。

コンピュータの次元では性善説が通用しません。不偸盗の概念を説く前に盗まれないようにガードを厳重にする知恵が必要です。

観音院の高レベルの業務で使用される端末は指紋で使用者を認証するように計画しています。

十善戒を犯せる理由のひとつに「誰がしたか個人を特定出来ないようにする技術や他人になりすます方法」がありますが、それを防ぐ方法を確立することは悪事を未然に防ぐことにもなります。

iモードのメールは大変便利なものです。大切なメールはパソコンに転送して、フォルダーに保存するなり、印刷をするように心掛けましょう。

メールは文書のソースで見る習慣を付けましょう、相手のブラウザやら、使用しておられるメールのソフトやら、多くの情報が添付されています。

シグネーチャーは三行あたりが適切です。飾り文字やら記号を並べる必要はありません。

インターネットは真剣に英語を日常用語として使える

観音院はパソコン通信の時代からインターネットの時代まで便利に使っていました。使っているドメインも一〇個もあります。

メールアドレスも発行出来るようになっています。

このような時代の変化の中で一番大切にしなければならないのがパスワードです。

パソコンの画面の横にパスワードを紙に書いて張って置くようなことは絶対にしてはいけません。

観音院には多様なインターネット掲示板やチャットなどを持っていて、信徒さんには無料で使用していただいています。

手配することがお仕事である場合は市場から淘汰される恐れがありますので、ご自分のお仕事を点検されて未来予測をされることが肝要だと思います。世の中は大変革を遂げつつあります。

携帯電話の普及と人間関係の変化を認める。インターネット時代の十善戒について考える

二〇〇〇年の成人式は散々なことになった例が多いようです。

主役は携帯電話で、三年も待たずして子供も大人も携帯電話を持つようになると推測します。

面談中に携帯電話が鳴って、長々と話をするなど、馬鹿者ではないかと思いたくなります。

葬儀の最中に携帯でぼそぼそとやるのも、法話中に携帯を掛けるのも正しくは犯罪で説教礼拝妨害罪で罰せられることもあります。

車の運転中に携帯で話をすると高い割合で交通事故につながるとかで禁止になりましたが、お寺や教会で携帯電話を使用するのも極めて危ない行為ですから気を付けられると良いでしょう。

インターネットも携帯電話も急速に普及していますが、倫理は勿論、マナーも出来つつあるところで、従来の人間関係とか倫理では想定出来ない問題が起きています。

就業時間中の私用電話は原則的に禁止されています。同様に就業中の私用メールの受発信も禁止されるでしょう。

私用メールに限らず添付文書を開くのは慎重にしないとウィルスに感染し固定ディスクのデータが消滅したり、パソコンを初期化し
なくてはならないような事態も起きることがあります。

或いは、あちこちとホームページを閲覧しているとダイヤルQ2へ自然とつながって、後日高額な電話料金を請求されます。

接続については最寄りのアクセスポイントにダイアルアップするのが常識ですが、東京の人が広島に来て、設定をそのままで使い続けて一ヵ月の電話料金が十二万円を超えた話もあります。これなどは転勤される方などは注意が必要なことです。

アンケートなどでメールアドレスを入れなくても良いもの、例えば「貴方の値打ちは?」というようなものを見ますと、アドレスは入れたのと同じだと考えておきましょう。

掲示板などでハンドルだけで書き込めるものがありますが、悪戯はしないようにしましょう。犯人を割り出せる技術があります。

掲示板などで、連続書き込みとか、他人の名誉を棄損する書き込み、罵詈雑言、果ては見に行っただけでアドレスが割り出される、書き込むと知らない人に「思いもそめないメール」が飛ぶ、マシンがフリーズするなど、さまざまな下らない技術があることも知っておきましょう。

インターネットの世界ではガード下の小便臭い匂いとか、街路灯が付いていないとか、ここは危ないという雰囲気がありません。

ホームページや掲示板、メールの遣り取りで一番困った問題は、身を飾り、能力を飾り、他人を中傷するようなもの、嘘、悪口などが沢山あることです。

ネット・サーフィンは余程慎重にされるべきだと思います。また、ご自分のホームページを作成されるについては、住所・氏名・電話番号・プロフィールなどは開示しない用心が大切です。

業務に関するものなら別として個人が個人情報を開示すると、買わない物を送りつけられたり、ストーカー紛いの被害を受けることも珍しく無く、慎重になさって欲しいものです。

インターネットの世界も実社会と同じで、公衆電話ボックスに怪しからぬメモ広告が沢山張りつけられているように、猥褻なものから、異常嗜好、爆弾の造り方など何でもありで、不倫も姦通も起きているようです。

パソコンもインターネットも恐れずに使いこなす気持ちに

パソコンは風呂にでも一緒に入り、石鹸を付けて洗うようなことをしない限り普通は壊れません。生半可の知識がある人がシステムを壊すことが多いようです。

観音院の職員ではマックを三台も壊された経験があります。常識では考えられないような基本的なソフトを削除していました。

これは例外で、滅多に壊れるようなものではありません。寺子屋のパソコンはNTサーバで管理していて、毎日でも初期化することが可能です。

危険な作業をしようとすると警告が出ますから、そのようなことは止めるべきですね。

最初の一台を購入される時は是非ともJISキーボードにしてください。五十音配列は何時までも目で見て確かめてキーを確認して打つことになります。

設定はローマ字入力が良いと思います。

パソコンはテレビと同じようなものです。最初は値段も相当高額でしたが、現在では十万円を割る製品も出ています。最終的には一台三万円から五万円くらいになるかもしれません。

テレビが見れるパソコンは既に商品化されています。次々と新製品が市場に出ますから、完成度の高いところで買うことは不可能のように思います。

声で入力出来るIBMの製品も出ています。使いやすく、価格が段々と安くなり、性能が良くなる傾向で、自動車と同じくらいの感覚で買えばよいでしょう。

観音院で一番古いパソコンは六年目になります。それでも使えないことはありませんが、取り合えず間に合っているので、新機種に買い換えないだけです。

新しい物は場所を取らず、電気代も安く、目に優しいのですが、どうしたものでしょうか。

インターネットを利用して便利なものは大百科事典を手元に置いているような性質があります、資料を調べるのがとても楽です。新聞のニュースも読めますし、最近では音楽作品も買えるようになりました。勿論、何でも買うことが出来ます。ホテルの予約も、航空券の手配も出来ます。証券会社も銀行もインターネットに続々と対応しています。

小学生くらいからメールアドレスを持つのは当たり前の時代になりそうです。現在の難点は電話代と接続プロバイダの料金がまだまだ高額なことですが、ケーブルテレビでアクセスすることは実用化されていますし、プロバイダ料金は競争激化の状況です。

インターネットの時代で一番怖いことは、流通の中間業種などですと急に注文が無くなるようなことも考えられます。

「善に執着することは悪事をなすよりなお悪し」とは法主さんの言葉ですが、言葉を大切にすることは情報を正確に伝えることであり、伝えられた情報の質が次の情報の需要を生みます。

まことしやかな情報で他人を混乱させないよう、情報は良くよく吟味して、自信のもてるものを送りたいものです。

インターネットで検索して得られる情報は、如何なる大辞典をも上回る量があります。但し、情報は選択または編集してありません。インターネットの世界は自己責任で成立しています。

どのように判断し、何をつかみ、どのような結論に至るか、次の行為も、結果も最初から最後まで自己責任になります。

ホームページでは、個人情報を掲載しない思慮が大切です。営業や広報的なものであっても、担当者の個人情報は掲載を控えるのが妥当だと思います。残念ですが、インターネットの世界は性悪説で構築されています。他人を信用する場合は極めて慎重に、メールの遣り取りや、面談をしてから、信用しましょう。

インターネットが自在に使いこなせないと、これからは事業をすることは不可能になります。好き嫌いの問題ではありません。欠陥を承知しながらも使いこなして行くことが大事です。

多くの欠陥は見つけられ次第に改善されます。全ての家庭がインターネットにつながれる日は二、三年内のことでしょう。

タイトルとURLをコピーしました