聖徳太子について 大日本大聖伝(2)

 第三の「相貌の異」とは、聖徳太子の容姿についてのことである。
 聖徳太子は容貌端正にして威厳あり。身の丈七尺二寸、眉は弓月
のごとく、眼のふち白く、瞳の色は紫紺にして、四瞳五色の翠光を
おびて猫のひとみの如く、同時に数名が太子に相対しても、それら
の各人は、みな太子の瞳に直視されたと感じていた。

 このほかに、聖徳太子の指紋が円を描いて七十二重にめぐってい
たとか、身体に香気を発して物に触れればその香りが移薫したなど、
太子の相貌身体の尋常でなかったことを記している。

 四に「未然を知りたまうの異」とは、聖徳太子は未来に起こる出
来事を予知し、数年後のことを記された。

 五に「幼にして老智を具えたまうの異」とは、二、三例を挙げる
と太子が三歳のとき、父王(橘豊日皇子・たちばなのとよひのみこ。
のちの用明天皇)と庭を散策中、「おまえは桃花と松葉とどちらが
好きか」と聞かれて、太子は「桃花の盛りは一時ですが、松葉は永
遠に青いから松を愛します」と答えた。

 また四歳のとき、いたずらをしていると、父王が笞(むち)を持
って追いかけてきた。ほかの皇子たちはみな逃げたが、太子ひとり
は逃げなかった。なぜ逃げなかったのか、その理由を問うと、太子
は恭(うやうや)しく父王を拝して言った。「天に梯子をかけがた
く、地に穴をうがちがたく、隠れる所がありません。だから進んで
罰を受けます」と。

 五歳のとき、聖賢の道を知りたいと父王に書物をねだったので経
書(けいしょ・聖人の言行や儒教の教義を述べた書物)を与えると、
太子はことのほか論語を愛読した。その噂を聞いた敏達天皇が太子を
召して、「論語に何が書いてあるか」と問うと、太子は「ただ仁を
説いているだけです」と答えた。太子は五歳にしてすでに儒教の大
意を理解していたのである。天皇はますます太子を愛したという。

 また、太子六歳のとき、百済(くだら)が仏教の教典を入貢した。
 天皇がこころみにこれを太子に読ませて聞いた。
「仏は経で何を説いているか?」
 太子が答えた。
「諸悪莫作 衆善奉行・しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう
 悪いことはするな、善いことをしなさい、と書いてあります」と
言ったという。
 天皇はこれを異とし、群臣はこれを奇とした。このように聖徳太
子は三、四歳のころより常人をおどろかす言行が多々あったので、
父王はわが子ながらも敬い尊び、太子を上殿に移されたのである。
 古事記、日本書紀に「上宮王」と名のあるゆえんである。

 六に「十訴を並べ聴くの異」とは、十名の者が同時に口々に訴え
る事柄を、太子はそれらの内容を一言も洩らすことなく聴取し、各
々に即決で明断をくだされた。

 七に「三たび儲位(ちょい)を辞退された異」とは、いにしえよ
り儲位(皇太子の位)は諸皇子の憧れである。皇位継承に手のとど
く皇子たちは争ってでもそれを望んだ。
 推古元年(五九三)、天皇をはじめ群臣こぞって厩戸皇子を皇太
子にと要請したが、太子は固辞して受けず、三度目にしてようやく
承諾されたのである。

 八に「ついに即位されなかった異」とは、天皇位をめぐって古よ
り多くの争いごとがあった。けれども太子は二十八年間、皇太子の
ご身分のまま御年四十九歳まで、即位されることなく、ついに薨去
(こうきょ)されたのである。推古二九年二月五日(六六二年)。
 皇太子の位を三度まで固辞して他皇子に譲ろうとされた太子の謙
遜辞譲(けんそんじじょう)なお人柄がよくうかがえる話である。

 九に「行政の異」とは、朝廷のそれまでの政事(まつりごと)と
異なるものがおよそ二十四ある。
 この二十四の行政は、ことごとく聖徳太子が実行された施策であ
る。これを数え挙げて太子の功績とする。

一 推古二年二月、各国ごとに国社を置いて神道を弘めた。

二 同年、諸国に農部を置いて農業の振興につとめた。

三 同年、博士(はかせ)に命じて儒教の講座をひらき、諸臣を集
  めて儒学を学ばせた。

四 推古六年八月、太子みずから群臣をひきいて山野で薬草を採集
  した。これを契機に薬部を定めて毎年二月と八月、薬草採取が
  恒例行事となる。

五 同年同月、薬司(やくす)を置き、学医院を創立して、医道を
  学ばせる。医学の始めである。

六 推古七年夏、全国に訴部を設けて、政治の行き届かない部分を
 訴えさせた。これは誹謗木(ひぼうき・中国古代の聖天子舜が、
 橋の上に木札を立てて政治のあやまちをそしる言葉を書かせて、
 それを参考に反省したという故事)のひそみにならったもので、
 訴訟の法を定めた始めである。

七 同年秋、悲田院を設けて天下の貧民を救済する法を講じた。
 (四天王寺に悲田院、施薬院、療病院、敬田院の四ケ院が設置さ
  れたのはそれよりも前である)

八 同年九月、三輪山に行幸(ぎょうこう)された推古天皇と、
  随従した太子は神楽を奏(そう)される。これがわが国の神楽
  の始まりである。

九 同年 禁裏(きんり)造営の法を定める 東西を三百六十五歩
  とし、南北を三百九十間とし、十二門二十八殿とした。

十 同年冬、鞍作鳥(くらつくりのとり・仏師)に命じて家屋づく
  りの諸工法を定める。

十一 推古九年春三月、三と八の日に、三輪の里に市をたてる。
   これより毎月六度の市(いち)がひらき、これを六斎市(ろ
   くさいいち)とよんだ。わが国の商業の始めである。

十二 推古十年十月、百済(くだら)の僧観勒〔かんろく・六〇二
   年来日、初の僧正〕を召し、学生に天文暦術を学ばせる。
   暦は農時を農民に授け、船乗りや漁民に海事気象を教えるた
   めである。

十三 同年冬、施薬院を設けて貧しい病人の救済を始める。

十四 推古十一年十一月、軍紀をつくり、秦河勝(はたのかわかつ)
   に軍学を講じさせる。

十五 同年十二月、十二の冠を制定して、十二の位階を定める。
   (位は、徳、仁、礼、信、義、智をそれぞれ大小にわけて十二階
   とし、冠は絹でつくり、色を紫、青、赤、黄、白、黒の濃淡でわ
   けて、濃いほうを上位とした)

十六 推古十二年正月、徳のある人物を抜擢して、官に任ずる法を
   定める。人材登用の始めである。

十七 十七条憲法を制定する。

十八 聖徳太子みずから宇治に行き、菟道稚郎子皇子(うじのわき
   いらつこのみこ)を祀(まつ)る。
   (菟道稚郎子は応神天皇の皇子。父の応神帝に可愛がられて
    皇太子の位に就いたが、弟である自分が天皇になることは
    できないと、兄〔のちの仁徳天皇〕に皇位を譲るために
    自殺したとされる)
   聖徳太子はそういう菟道皇子の人柄を尊敬されていたのである。

十九 推古十五年七月、聖徳太子はみずから筆を取って国書をした
   ため、小野妹子を遣隋使として中国大陸へ渡海させた。

二十 同年秋、田村王に命じて、新田を開拓し、池を掘り、道路を
   通し、橋梁を架け、国ごとに屯倉(みやけ)を設けて、飢餓
   の年に備えた。

二十一 推古十八年春三月、太子は、高麗の僧曇徴(どんちょう・
    六一〇年に来朝、五経に精通)の協力を得て、四種の和紙
    をつくる。楮(こうぞ)の皮でもって紙にする方法である。
    このほかに墨をつくり、碾磑(てんがい・ひきうす)のた
    ぐいも作った。

二十二 推古十九年五月五日、薬猟(くすりがり)をおこなう。
    それ以前の薬猟は、王侯の単なる娯楽にすぎなかった。

二十三 昔にさかのぼり、用明天皇元年、太子は一万三千語にのぼる
    漢字に和訓を付し、日本人が漢文を読みくだせる方法を考案
    された。

二十四 諸礼の方式、楽部の法を定めるなど、未開であった日本の
    風俗を文明化することにおおいに意を用いた。

このほか聖徳太子の功績は多く、一々あげて数えることはできない。

 このように日本の諸制度や、ものづくりの取り決めなどにおいて
そのほとんどが聖徳太子によって始まったといっても過言ではない
であろう。

 江戸中期の儒学者の太宰春臺〔だざいしゅんたい・荻生徂徠(お
ぎうそらい)の高弟で、経学にすぐれ、天文、暦算、医学に通じ、
和歌や経済にまで、学問が及んだ。ことに赤穂義士の挙に対しては
士道の立場から鋭い非難をあびせた〕は、その著書「弁道書」で
聖徳太子を嘆称して、
「我朝未だ道といふことあらず、万事ういういしく候ところに、厩
戸(うまやど)と云える聡明の人生まれたまひ、推古天皇の時、摂
政の位に官職を定め、衣服を制し、礼楽を興し、国を治め民を導き、
文明の化を天下に施し給ひ候。
 我朝にて厩戸の功は実に制作の聖(ひじり)といふべし。されば
聖徳太子と諡(おくにな)し給ふも虚名にあらず」と書いている。

十に「追慕の異」とは、人間の死は一世の終わりである。したがっ
てその人の死後、世人がこぞって悪評すれば、その人の生前のおこ
ないは不善であったことになる。
 反対に、死に至り、世人あげて追慕哀惜すれば、その人の終身が
善行であったことの何よりの証拠である。
 聖徳太子の薨去(こうきょ)のさい、天下の人々は老若男女、老
いたる者は子を失うごとく、幼き者は父母を失うごとく追慕悲泣し
ない者はなかった。

 日本書紀に、「厩戸豊聡耳皇子命(うまやどのとよとみみのみこ
のみこと)斑鳩宮(いかるがのみや)ニ薨(こう)シタマフ。コノ
トキ諸王諸臣及ビ天下ノ百姓(ひゃくせい)コトゴトク年寄ハ愛児
ヲ失フガゴトク、幼少ノ者ハ慈父母ヲ失フガゴトク、哭泣(こっき
ゅう)ノ声行路ニ満チテ、スナハチ、耕夫ハ耕ヲ止メ、舂女(うす
づくめ)ハ杵(きね)音ヲヤメ、日月輝キヲ失ヒ、天地クツガヘル
ガゴトシ。今ヨリ以後、誰ヲカ恃(たの)マン」と記述する。

 以上のごとく、聖徳太子の死を天下万民あげて悲しんだと同じ例
は、古今にわたって、中国伝説の皇帝堯(ぎょう)と、印度の釈迦
牟尼仏をおいてほかにない。釈尊の死する日は、その悲哀が印度大
陸の鳥獣にいたるまで相及んだといわれる。

 また日本書紀は、高句麗の僧恵慈(えじ、五九五年~六一五年在
日)が、上宮太子が薨ずと聞き、大いに悲しんで次のようにいった
と伝える。
 日本国に聖人あり、上宮豊聡耳の皇子という。賢聖の徳をもって
日本国に生まれ、三統(天地人)を包貫し、黎元(れいげん・人民
の厄(わざわい)を救う。これ実に大聖なり、と。
 このように異国の僧までも聖徳太子が大聖人であることを認め、
生前の太子の徳を追慕しているのである。

明治のおもしろ人間

ご隠居 ここまで聖徳太子を褒めたたえた佐田介石師の文章を見て
    きたが、寅さんの印象はどうだ?

寅さん 旧事本紀(くじほんき)にそう書いてあるとしても、太子
    に対するこの人の肩入れの凄さには圧倒されますね。それ
    にしてもこの和尚さんはどんな人物だったんでしょうか?

ご隠居 一言でいうとガチガチの国粋主義に徹した明治初期のお坊
    さんといったところかな。

寅さん たとえばどんなふうに?

ご隠居 とにかく洋学をふくめて西洋文明というものに異常な敵愾
    心(てきがいしん)を燃やし、それらにことごとく反発し
    た。その好例が地動説だ。
 佐田師は、古代の佛教の教理である須弥山(しゅみせん)を中心
とする天体の運行の教えにのっとって、自前の天動等象儀(てんど
うとうしょうぎ)、天球儀のようなものだろうか、それを作って明
治十年に開催された内国勧業博覧会に出品している。あのコペルニ
クスの地動説を真っ向から批判しているわけだ。
 また、「ランプ亡国論」という本を書いて、石油など使わなくて
も灯火は種油で十分代用できると、当時西洋からぞくぞくと日本には
いってきていた舶来品を排斥し、国産品の愛用をさかんに力説する
んだな。
 おもしろい話がある。「ランプ亡国論」をPRする演説会を開き
客寄せのつもりで当時人気の落語家三遊亭円朝(牡丹灯籠で有名)
を前座に頼んだのだが、お客は、円朝の落語が終わると皆ぞろぞろ
帰っていく。かんじんの佐田師の話なんか聞いてくれない。それな
らばと、こんどは演者の順番を逆にした。するとお客は、円朝の高
座の時間を見計らって演説会場にやってきたそうだ。
 真偽のほどはさだかでないが、この人は勤皇佐幕でゆれた幕末、
新撰組につけ狙われたこともあったようで、幕末から維新にかけて、
勤皇(きんのう)の志士(しし)として活躍した佛教の僧としては、
西郷隆盛と一緒に錦江湾に入水(じゅすい)して死んだ僧月照(西
郷は蘇生)と佐田介石の二人のみ、ともち上げる向きもあるようだ。

 さて、次号は佐田師が「大日本大聖伝」を著述された最大のテー
マといえる崇峻(すしゅん)天皇の弑逆(しいぎゃく)にはどのよ
うな背景が隠されていたのか、それらのことについて見てゆくこと
にしようか。(次号につづく)

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