聖徳太子について 大日本大聖伝より(5)

旧事本紀(くじほんぎ)には、「日本書紀(にほんしょき)」
が書いていない崇峻天皇〔すしゅん・在位五八七ー五九二〕の
弑逆(しいぎゃく)事件に関する裏事情と、その具体的な事柄を
はっきり明記している。それはこうだ。

 大臣や群臣に隠して、天皇がひそかに宮中に大量の兵器をあつめ
つつあったことと、猪の頭を擬して蘇我馬子を斬(き)りたいと周
囲の人にもらしていた事実が漏洩(ろうえい)したのはほかでもな
い、じつは崇峻天皇の妃嬪(ひひん)のひとり、大伴小手子(おお
とものおてこ)というのが、そのころ天皇の寵愛(ちょうあい)が
にわかに衰えたことを恨みに思い、内裏(だいり・宮中)のありさ
まを逐一、馬子に告げ口したから、すべてが、馬子の知るところと
なった、というのである。

 聞いた馬子はおどろいた。
 馬子にしてみれば、崇峻天皇のために、自分の姉、小姉君(おあ
ねぎみ)が生んだ穴穂部皇子を除き、自分の妻にとって実兄である
物部守屋を討伐して、これまでいろいろ紆余曲折があったあげく、
今の帝(みかど)を皇位に即けることができたのである。
 それもこれも、すべて崇峻天皇のために善かれと思ってしたこと
だ。
 そして、それらのことを自慢顔にことさら言い立てることもなく、
人の意見をよく聞き、公平な政治に心掛けてきたから朝廷内の信望
がおのずから天皇をしのぎ、人々は馬子の威の前にごく自然に屈伏
しているのである。

 ところが一方、崇峻天皇のほうはそうではない。朝廷内を覆いつ
くす馬子の権勢の大きさが癪(しゃく)のたねなのだ。馬子の力に
よって天皇にしてもらった、という負い目もあった。
 したがって、つねに馬子の顔色を窺っていなければならない立場
にたたされていたのである。
 以上のごとく、どういった経緯によって天皇と馬子のあいだに軋
轢(あつれき)が生じたのか、そこの部分を「日本書紀」は書いて
ないが、旧事本紀は、朝臣の信望が馬子に集まり、その権勢を崇峻
天皇が憎むところとなった、とはっきり書いているのである。

 また「日本書紀」は、白昼、東漢直駒(やまとのあやのあたいこ
ま)が崇峻天皇を弑したと記述しているが、それは困難だろう。
やはり凶行は夜中のことであったとする旧事本紀のほうが正しいの
ではなかろうか。
 さらに「日本書紀」には、駒が天皇の御所に、何びとの紹介も手
引きもなく、単身踏み込んだように書かれているが、これも不自然
である。駒が官女の内応によって首尾よく天皇の寝所に忍び入った
という旧事本紀の記述が理に適うと思う。

 駒と官女がしめしあわせ、死を覚悟して天皇暗殺の大罪をあえて
犯したのは、国の将来を憂いたためためでもなければ、むろん馬子
のためでもない。ただただ自分たち二人の密通の罪を逃れんがため
の悪あがきである、と旧事本紀は決めつけるのである。

 このように旧事本紀によって暗殺事件の真相を追及してゆくと、
天皇を弑した下手人が誰であり、その背後にどういった事情が伏在
していたか、おのずから浮き彫りされて、事件の全容がくっきりと
見えてくる。そうなれば馬子自身の身も安泰ではなかっただろうし、
暗殺に直接手をくだした駒は即刻刑殺されたはずである。けれども
史実によると実際は、そうはならなかった。

 天皇暗殺事件があったあと、数日して、駒が馬子の娘の河上郎女
(かわかみのいらつめ)を掠奪したことが露顕し、駒はそのことに
よって馬子に誅殺されているのである。

 つまり、これでみるかぎり天皇暗殺に、駒が何故、かかわったか
について、まったく触れていないのである。ということは結局のと
ころ、この弑逆事件の直接、間接的な犯人である馬子も、駒の名前
も、ついに表面に出ることなく、世上においてひそかに人々の口に
囁かれていたにすぎない、と考えてよいだろう。

 その点「日本書紀」の記述ははなはだ簡潔である。—-馬子が駒
に命じて天皇を弑した、とずばり断定する。旧事本紀が書いている
ように、はたしてそこに馬子に対して駒からの働きかけがなかった
だろうか——。
 このままだと、宮中における不義密通罪による刑殺が確実に待ち
かまえている。それならば、もっか大臣が頭をいためている問題の
御仁を自分の手で除けば、場合によっては生きのびる方途があるか
もしれない。
 天皇弑逆はもちろん万死にあたいする大罪だが、ことがうまく
運べば馬子の庇護(ひご)のもとに、あるいは生きる可能性がある。
どのみち死ぬなら、のるかそるか、ことば巧みに馬子に持ちかけて
その気にさせ、あとは成り行きにまかせよう、というのが駒の思惑
であったようだ。
 一方、馬子のほうはどうだったろうか。馬子の心情は複雑である。
 不穏な天皇の動静が宮中から漏れ伝わってきた以上、このままに
放っておくわけにはいかない。あれこれ善後策に悩んでいたとき、
血も凍りつくような計画を駒が持ちかけてきた。駒の底意は見えて
いる。己れがおかした密通の罪をあわよくば馬子の権力でもみ消し
てもらうために、大臣馬子を天皇暗殺の共犯関係にひきずりこもう
という心算なのだ。
 馬子は、この駒の奸計(かんけい)を百も承知で、それにうまう
まと乗せられたふりをして、駒の凶行を目をつむって許した。
 それより以上の打開策に考えがおよばなかったからである。しか
し、事がすべて終わったあと深く罪の意識に苛(さいな)まれてい
た。そこに時をおなじくして、駒が馬子の娘河上郎女を掠奪すると
いう椿事が起こったのである。
 馬子にとって願ってもない贖罪(しょくざい)の機会であった。
 娘をかどわかした罪を口実にして、また、天皇弑逆を黙認したみ
ずからの罪を謝す意味も含めて、自分の手で駒を誅殺したのである。

 「日本書紀」が記しているように、馬子が悪大臣であるならば、
聖徳太子や推古天皇がなぜ馬子をしりぞけなかったのか。
 まして馬子は推古女帝を補佐して三十四年ものあいだ、よく国を
治めている。
 天皇を理由もなくどうして弑する道理があろう。駒が持ちかけて
きた天皇暗殺計画を容認したのは ばんやむをえない窮余の策だった
のである。
 一人の君主を除くことによって百世の社稷(しゃしょく)を全う
する—-、国を憂える馬子の切実な赤心をおもうべきである。
 これまで馬子をながなが弁護してきたのは、ただ単に馬子の汚名
をそそぐためではない。

 太子の聖徳であることを明らかにすることが、その主たる目的で
あるからである。

西暦五九二年冬 飛鳥

ご隠居 ここで崇峻天皇暗殺の情況を順序を追って再現してみよう。
 おもな登場人物は、蘇我馬子と河上郎女(かわかみのいらつめ)
親娘、東漢直駒、そして崇峻天皇。
 河上郎女の姉の刀自古郎女(とじこのいらつめ)はすでに厩戸皇
子(後の聖徳太子)の妃として縁付いている。厩戸皇子は先帝用明
と皇后間人(はしひと)の長子で十九歳だった。

 用明帝は堅塩媛(きたしひめ・馬子の姉)の生んだ子、皇后間人
もおなじ馬子の姉 小姉君(あおねのきみ)の所生だから、厩戸皇子
は濃厚に蘇我氏の血をうけている。

 馬子は厩戸皇子が気に入っていた。若いのにあつく仏道を信じて
大陸の書物を読み、向こうの文章も書ける。ライバルの物部氏が
滅んで、大和朝廷は馬子がほとんどその実権を掌握している。あと
二、三年したら、なにかと問題の多い崇峻帝に退位してもらい、
代わって英明な厩戸皇子を皇位につけたいという腹づもりが馬子に
あったようだ。

 そんな矢先に、宮中から不穏な情報が洩れてきたのだ。(旧事本
紀は、これを宮中からの内部告発、つまり帝の嬪妾、大伴小手子に
よる告げ口としている)
 馬子としては、当然おもしろいはずがない。どう対処すべきか、
馬子は目を据えてじいっと思案していた。(旧事本紀は、そんな
タイミングを見計らったように駒が暗殺計画を忠義顔に言ってき
た、としている)
 駒はそのとき二十四、五歳くらいか、精気に満ちあふれる男だ。
 帝を除くことについて、馬子と駒の間にどんな話し合いがあった
かは分からない。暗殺を馬子が命じたか、それとも駒が持ちかけた
のか—-。
 ある夜、紫垣宮の警護詰所で数人、炉をかこんで暖をとりながら
雑談していると、ご苦労さまです、と駒が入ってきた。
 駒はいつも大臣馬子にべったりくっついているので、おたがい
面識があった。
「近くまで来たついでに、ご機嫌伺いに参上しました」などと、
酒や蒸した栗など差し出したあと、詰所から姿を消した。(旧事本
紀はこの部分を密通相手である官女の手引きとしている)
 そして翌朝—-皇居は大さわぎになった。帝(みかど)が寝所の
床の上で朱に染まって絶命されていたのだ。

 あわてふためいた廷臣たちは、何はさておき 大臣にと、馬子に
急報する。
 大勢の兵を連れて駆けつけてきた馬子の糾問(きゅうもん)が
始まった。「どうしてこんな不祥事が起こったのか、詳しく話して
みなさい」
 宿衛者たちは、昨夜、時ならぬ時分に顔を見せた駒が怪しいと
思っていたが、大臣と駒との密接な関係を知っているだけに、
うかつに駒を犯人呼ばわりできなかった。
「昨夜は駒殿がちょっと覗いたくらいで、ほかに怪しい人物も
見かけませんでした」と口をにごした。
 柔和な表情で事情聴取していた馬子の顔に怒りの色が浮かんだ。
「駒が来たことは分かったが、そなたたちは、その駒が帰って
行くところは確かめたのだろうな?」
「それが、つい—-」
「たしかめなかったのか?」
 宿衛の者たちはみんな下を俯いてしまった。
「そなたらは昨晩、詰所の炉にかじりついて、かんじんの見回り
を怠り、たまたま顔を見せた駒を犯人にして、おのれらの怠慢を
隠そうとしているのだろう。もちろん駒も疑わしいが、そなたら
とて 駒におとらず嫌疑がある」と言って、連れてきた兵たちに
捕縛させた。
「聖徳太子伝暦」に、「大臣、人をして、もろもろの驚悸する人
を捕えしむ。人、皆識りて言わず」とある。

 こうして崇峻天皇は、その日のうちにあわただしく、皇居にほど
近い倉梯岡の麓に葬られた。天皇崩御即日の葬送は違例中の違例で
あった。
 その二、三日後、獄につながれていた宿衛者たちは一人一人呼び
出されて馬子に尋問されたが、みな釈放された。もちろん駒も取り
調べを受けたが、これもすぐ釈放された。
 世間では、直接の犯人は駒、命じたのは馬子にちがいない、と]
思っていたが、公然とそれを口にする者はいなかった。最も親しい
者のあいだだけで囁かれているにすぎなかった。

 それからしばらくして、馬子の愛娘、河上郎女が行方不明になっ
た。
 おりから空位となった皇位に、敏達帝の皇后炊屋皇女を即けよう
と、馬子がいろいろ手を尽くしていたときのことである。
 八方に人を走らせて行方を捜索したが、まったく消息がつかめな
い。
「河上郎女はあんなに美しいので神に魅入られて連れ去られたのだ」
と世間ではうわさした。

 そういったさなか、その年の十二月八日、豊浦宮(とゆらのみや)
に日本最初の女帝推古天皇が即位された。
 厩戸皇子を天皇に、という声も多かったが、「私は先帝の長子と
は申せ、まだ若輩ゆえ、とうてい重責にたえません」と厩戸皇子は
辞退された。(翌五九三年、厩戸皇子は推古天皇の摂政、皇太子と
なる)
 とどこおりなく即位式が済んでほっとする間もなく、いそがしく
家臣を下知して娘の捜索に本腰を入れている馬子に、みみよりな
情報がはいった。
 南淵(みなぶち)から山ひとつ南に越えたあたりで、この世の
人とはおもえぬ美しい女を見た、という猟師の話である。
 南淵は馬子の邸宅「島のやかた(馬子の邸の庭には飛鳥川から
引いた大きな池があり、池の中に樹木の繁る島があった。ために
馬子のことを当時の人は”島のおとど”と呼んだ)」から飛鳥川
沿いの道をずっとさかのぼったところで、その奥に檜隈(ひのく
ま)という盆地がある。
 その部落の住民はぜんぶ帰化人である東漢氏であった。
 娘をかどわかしたのが、思いがけなく駒の仕業であることを
馬子は知った。
 内心はらわたが煮えるほどだったが、気振りにも表さず、
「済んだことを今更言っても仕方がない。こうなったからには娘を
そちに呉れてやろう」と、ものわかりのよいところをみせて二人を
邸に連れ戻し、上機嫌に駒に酒を勧め、みずからも飲んだ。
 そして深夜、泥酔して前後不覚に寝入っている駒は、兵たちに寄
ってたかって縛り上げられ、翌朝馬子によって誅殺された。

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