聖徳太子について 大日本大聖伝より(4)

崇峻天皇弑逆事件の背景

 第四点は、蘇我馬子(~六二六)の人物についてである。
 人間には長所もあれば欠点もある。どれほど立派な人物でも立場
上、やむなく「悪」を選択することがある。
 馬子の場合もそうで、崇峻(すしゅん)天皇弑逆(しいぎゃく・
五九二年)の一事でもって、彼の人物像を総括するのは少々不公平
ではないだろうか。
 馬子は四代(敏達、用明、崇峻、推古)の天皇に仕え、大臣(おお
おみ)という重職にあった。したがってその歴朝四代を通じ、公私
にわたる彼の事績(じせき)を検証して、馬子の善悪得失を判断す
べきである。

 「日本書紀」が叙述する馬子の人となりを考えると、「善」とし
てあげられるものが、およそ六つある。

 一に、物部守屋は穴穂部皇子に加担して三輪君逆を殺害したが、
馬子は穴穂部皇子を諌(いさ)めてそれを思い止まらせようとした。
 穴穂部の怒りを煽(あお)ってそそのかした守屋の所業と、その
間違いを忠告して止めようとした馬子の措置と、どちらが正しいか
は言うまでもない。
 二に「日本書紀」に、馬子が病をえたとき、彼の病気平癒(へい
ゆ)と長寿を祈って、男女あわせて民衆一千人が出家したとある。
これはつまり多くの民衆が馬子の政治に期待を寄せ、信頼していた
裏付けではなかろうか。馬子がもし悪大臣であれば、民衆はむしろ
彼の死を望みこそすれ、だれが馬子のために出家して長寿など祈る
だろう。
 三に「日本書紀」に、「聖徳太子と島大臣(馬子)と共にこれを
議して〔天皇記及び国記 臣(おみ)連(むらじ)伴造(とものみ
やつこ・国や地方官庁の職務集団を代々統率する氏族)国造(くに
のみやつこ・一国または一郡の長百八十部並びに公民本記〕をつく
る」とある。
 このような国家の歴史を著す目的は、これまでの国事に関する良
いこと、悪いことすべての事柄を正確に記録して後世に伝えるため
のものである。
 したがって、日本があゆんできた、これまでの歴史の逐一、良い
ことはもちろん、できるなら隠しておきたいこともすべてあからさ
まに天下にさらけ出して記述するものであるだけに、馬子がかりそ
めにも悪人であり逆臣であるならば、推古天皇と聖徳太子が、善悪
を褒貶(ほうへん)する日本の大切な正史の編集作業に、大臣馬子
を関与させるはずがない。この点から考えても、馬子がそういう人
間でなかったことは明白である。

 四に「日本書紀」に「大臣(馬子)のことば、夜言えば夜を明か
さず、昼言えばまた日を晩(くらさず—-」とある。つまり馬子が
天皇に奏聞(そうもん)する意見は、ことごとく核心をついた政治
上急務の事柄であり、いっときたりとも捨ておくことができないの
で、天皇は時刻をえらばず馬子の奏上(そうじょう)をお取り上げ
になったというのである。
 かりにもし、馬子が権勢をかさに、天皇や聖徳太子に自説を通そ
うとせまり、そのためやむをえず馬子の意見を用いて、それが国家
に裨益(ひえき)しないものであれば、民衆は苦しみ国の乱れのも
ととなる。けれど、すくなくとも推古天皇の治世下において、そう
いうことはなかった。
 馬子が奏上する意見に間違ったところがなかったからである。

 推古三十二(六二四)年、馬子は「葛城縣(かつらぎのあがた)
は吾の本貫地(ほんかんち・令制での本籍地、出身地)である。だ
から葛城縣を吾の食封地(しょくほうち)にしてほしい」と推古女
帝に申し出て、拒否されている。
 女帝の言い分は、「私は蘇我氏より出ており、大臣馬子は伯父で
ある。与えたいのはやまやまだけど、いまの朕(ちん)は大王であ
る。愚かな婦人ゆえに、公私の別をわきまえなかったと、のちの世
の人に言われるのは耐えられない」といった内容である。

 これはなにも、所領を拡大しようという馬子の欲心から出たこと
ではない。葛城の縣は蘇我氏の原籍地であり、馬子にとっていわば
産土(うぶすな)なのである。このとき馬子はすでに老境にはいっ
ており、職を退いた後、老後を産土で送ろうとしたのであって、領
地を貪る気持ちはなかった。
 ことさらに馬子を貶(おとし)めようとする悪意が「日本書紀」
の記述にみえるのである。

 五に、馬子は推古朝に仕えること三十四年におよんだ。この事実
をよく考えてみなければならない。水と油が互いに反発して融和し
ないように、善人と悪人とは一処に並び立つことはない。この道理
からすると、もし馬子が伝えられるごとく悪人であるなら、どうし
て三十四年の長きにわたり大臣の重責をはたすことができただろう
か。
 天皇の賢明、聖徳太子の大聖に伍(ご)して、馬子がもし悪大臣
であれば、たとえうわべをかざり悪心を内に包んでうまく隠したと
しても、いつか本性が露呈して、長く保つはずがないのである。

 六に、推古天皇の御世(みよ)は制度が整い、国がよく治まって、
国民は平和に暮らしていた。もとより英明な天皇と、太子の聖徳が
あずかっていたからとはいえ、民衆の幸せを第一義とする馬子の善
政があったればこそである。
 このように手放しに馬子を称揚(しょうよう)すると、おそらく
反問もあるだろう。
 いわく、四代の天皇に仕えた馬子に、なにひとつ悪いところがな
かったというのは事実に反する。
 げんに馬子は、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて
崇峻天皇を弑(しい)しているではないか。あの大逆罪をどう説明
する? あれは悪の所業ではないのか? と—-。
 そういう質問にはこう答える。
 たしかに、崇峻天皇弑逆を使嗾(しそう)した事実と罪はぬぐい
がたいし、馬子の大きな汚点である。ただ、天皇弑逆事件を弁明す
るにあたって私(著者の佐田介石師)は、先に三人の人物(穴穂部
皇子、物部守屋、崇峻天皇)の人となりを論じた。
 その彼ら三人と馬子を比較した場合、いたずらに馬子ひとりのみ
悪人として指弾することがはたして妥当だろうか、そこのところを
考えてみる必要があるのではないかといいたいのである。

 ここで、馬子が駒をして天皇を弑する経緯にいたった原因を考え
ると三つの要点があるとおもう。
 まず、それからみることにする。
 一つめは、崇峻天皇はなぜ馬子を憎悪するにいたったのか。
 二つめは、崇峻天皇が弑逆された理由。そして、馬子が駒に命じ
て天皇を弑した複雑な人間関係、以上の三点である。

 一つめの、なぜ、崇峻天皇は馬子を憎んだか、という点である。
崇峻帝は、これまで述べたように峻烈暴戻(しゅんれつ・ぼうれい)
のご性格で、臣下の諫言(かんげん)はいっさいお聴きいれならな
かった。対する馬子は、世故(せこ)にたけているうえ、大臣とい
う役目柄、つねに天皇の言動を批判し、忠告する立場にある。
 それらのことが積もり積もって両者は対立し、いつしか馬子を憎
悪するようになった。これが主たる原因である。

 二つめに、馬子が崇峻帝を弑することとなった理由を糾明するの
はなかなか容易ではない。
 臣下として主君を弑するのは、よほどのことがないかぎり決断し
うることではないからだ。まして馬子は温厚篤実な大臣として、当
時の人々の目に映じていたのである。どうして私怨や私欲のために
みだりに天皇を弑するであろう。

 それらを考えると、天皇はご所業のうえにおいて、そのまま打ち
捨てておけない何らかの差し迫った非常事態があったのである。
 崇峻帝はご性格上においていろいろ問題があり、ほんらい天皇と
仰がれるようなお人柄でなかった。
 その証しとして、ご在位わずか五年たらずで国は疲弊し、人心は
離反した。それに加えて、崇峻五年、天皇は群臣の目を盗みおびた
だしい兵器を整えた。天皇みずから戦の準備をするなど尋常のこと
ではない。国乱の危機が目前にせまっていたのである。
 本来なら大臣である馬子が天皇を諫止する役回りであるはずだが
「猪の頭を斬るごとく、馬子の首を斬りたい」ぐらいに憎まれてい
る馬子にしてみれば、どうしようもない。帝の暴発をどう抑え、ど
のようにしてこの急場を切り抜けたらよいものかと頭を悩ませる日
日がつづいていた。

 そこに東漢直駒が登場する。
 おりから、駒は宮廷に仕(つか)える一人の官女と密通していた。
そのふしだらな行為が周囲の知るところとなり、やがて表沙汰にな
ろうとしていた。宮廷内の不義密通は重大な規則違反だから、この
ままではわが身が危ない。そこで駒は一計を案じる。
 帝の暴走をくいとめる対策に苦慮している大臣馬子に忠義顔に、
「社稷(しゃしょく・国家)の危難を未然にふせぐには、恐れ多い
ことながら帝を除きたてまつるより他に方法がございません。私め
がその役目をつかまつりますからどうかご許可をお与えください」
とおそるおそる申し出たのである。
 駒の腹づもりは、官女との密通が露顕すれば死刑を免れることは
できない。むろん天皇を弑することは死に倍する大罪であるが、万
が一にも、あるいは大臣の庇護によって、事件そのものが闇に葬り
去られることがあるかもしれない。
 おなじ無い命なら、むしろまだ一縷(いちる)の望みのある天皇
弑逆実行のほうに己れの運命を賭けてみようとしたのである。
 天皇の寝所に忍び込むには皇居の中に内通者がいなければならな
い。つごうの良いことに駒の密通相手は官女である。このようにし
て、天皇の側近でも従者でもない駒が、官女の手引きによって多く
の警護の目を盗み、天皇暗殺のことにおよんだのである。

 さて一方、馬子のほうである。
 かりそめにも大臣の職責にあるものが、天皇を弑するという駒の
奸策を取り上げ聴許した罪はまことに許しがたい。けれども国の乱
れの大本である崇峻帝を除き、社稷の危機を救った事実を見逃して
ならないと思うが、どうだろう。
 天皇がどれほどに重い存在とはいえ、国家全体を秤にかけてみた
ばあい、答えはおのずから出る。
 天皇は、国家があっての天皇だからである。君はこれ一代にして
一個人にすぎない。それにひきかえて、国家は万民のものであり、
子々孫々末代にいたるまでとこしえにおよぶものである。

 かつて菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)が、皇子ご
自身と国家の行く末とを引き比べ万民が望む国家の平穏のほうが自
分よりはるかに重いと、ついに自裁して果てられたのも、畢竟(ひ
っきょう)皇位より社稷の重さを認識されたがゆえである。

 それはともかく、そういうことを合わせて考えると、馬子が崇峻
天皇を弑したと記述する「日本書紀」の一文だけでもって、単純に
馬子を逆臣呼ばわりするのは公平を欠くことにならないか。

 さらに問題なのは、天皇弑逆の状況描写についての疑問である。
 もしかりに「日本書紀」の叙述のとおりであったとするなら、馬
子の命令をうけた駒が、白昼宮殿に押し入って天皇を弑したかのよ
うに書かれている。しかし、白昼部外者が宮中にはいって凶行にお
よぶ、そんなことがはたして可能であろうか。
 なぜなら、天皇は九重(ここのえ・皇居)の内にあって、侍従は
さておき、他の者はみだりに天皇のご座所近くに接近できないはず
である。どうして近侍(きんじ)でも廷臣でもない駒が刺客として
天皇のそばへ近づくことができたのか。
 かりに首尾よく宮殿に潜入することができたとしても、天皇の左
右にはおおぜいの廷臣が侍衛しているはずである。にもかかわらず
なんの油断があって昼日なか、やすやすと白刃をきらめかして暗殺
をおこなうことができよう。

 そういった障害を考慮すると、白昼天皇を弑したとする「日本書
紀」の記述を素直にそのまま信じることはできないのである。
 では、凶行が夜中におこなわれたとしたらどうだろう。たとえ夜
でも、駒一人での凶行は無理である。九重の門戸は夜になると固く
閉ざされ、宿直(とのい)はもとより、近侍の者といえども容易に
天皇の寝所には近づけない。なのに夜分、廷臣でもない駒がどうし
て天皇の寝所までゆくことができようか。古来より王侯将軍の暗殺
、闇討ち等はいずれも内応者の手引きによって決行されている。駒
の場合も例外ではなかった。彼の密通相手である官女の手助けがま
ちがいなくあったのである。

 旧事本紀はそこの部分をこう記述している。
「吾(馬子)は天皇のために身命(しんみょう)をなげうって尽く
してきたが、どういうわけか天皇は吾を憎み殺そうとされている。
吾がもし誅殺(ちゅうさつ)されたなら、誰がこの国を治め維持し
てゆくのか—-。
 時に、官女に密通することほぼその事洩(も)れんとするを憂慮
した駒が、大臣大いに天皇を恨むと聞いて、件(くだん)の官女を
口説(くど)きおとし、天皇を弑逆すれば、大臣の寵(ちょう)を
得て刑罰を逃れんと、ついに官女と謀(はか)って、ひそか大寝に
入る云々—-」と。

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